3月18日、土曜日の午後、シネマヴェーラのサッシャ・ギトリ特集で見た3本目。上映後に濱口竜介監督のトークつきの。 邦題は『デジレ』。これ、手元の記録によると2016年の6月に日仏学院で見ているらしいのだが、はて… (最近こんなのばっかしで震えている)
ギトリ作の同名戯曲作品を映画化したもの。「デジレ」はギトリが演じる主人公の名前であり、フランス語で「欲望」(の過去分詞形)であり、五線譜に音符で「デ・ジ・レ」って(?)。
物静かなスクリューボール・コメディのようでいて、スクリューする手前ですごいブレーキがかかる、そのクラッシュの予感と余韻に陶然としつつも少し考えてしまう、変てこなrom-com。
女優のOdette Cléry (Jacqueline Delubac)は大臣のFélix Montignac (Jacques Baumer)の愛人で、家には女中のMadeleine (Arletty)と料理人のAdèle Vazavoir (Pauline Carton)と運転手が常駐しているのだが、ここに新しい使用人となるべくぱりっとしたDésiré (Sacha Guitry)がやってくる。当然紹介状もあるので、それをもとに前の雇用主に彼がどんなだったか聞いてみると、ごにょごにょ言うのでどうしよう、ってなるのだが、Désiréも逆ギレしそうな勢いで突っかかってきそうだったのでいいや、って雇うことにして、Odetteが大臣と一緒にドゥ―ビルの別邸に滞在するときにも同行する。
使用人としてのDésiréはどこに行っても力強くて頼もしくて文句のつけようがない(そこがまた癪な)のだが、夜に彼が寝言でOdetteの名前を言いながら悶えているのをMadeleineに聞かれて、OdetteはOdetteでDésiréの名前を呼んでいるのを大臣に聞かれて、本人たちもそれを自覚して全員が目を合わせてはいけないような異様な事態になって接客どころじゃなくなって(おもしろい)。
雇い主と使用人・小間使いの間に頑としてあって絶対に崩してはならない壁については、その「絶対」のありようを巡っていろんなコメディ - “Cluny Brown” (1946)とか、”Downton Abbey”なんかも?- が作られてきて、この作品のおもしろいところは、中心のふたりの恋の強さとか熱さが間にある壁を壊したり穴を開けたりしようとするのではなく、その壁があまりに分厚いので、壁を中心として愛とか欲望のありようが捻じ曲がっていってどうしてくれるのだ(どうしようもないだろ)、っていうの。
例にあげた2作は英国の階級制がベースで、こちらはフランスのだから対照的にあえて、っていうのもあるのだろうか(これが日本に来ると『近松物語』(1954)みたいになるの)、Désiréはご主人様の命令には極めて忠実で、その忠誠心の裏返しというのか捩れというのかで、仕事への情熱の裏なのか表なのか、自身の愛を主人に向けてあんなふうに表出させることしかできないのだと、そしてそれは前の雇い主のところでも起こってしまった、と。でも彼にはどうすることもできないので、どうしたらいいのか教えてほしいものだ、って荷物を纏めて出ていっちゃうの。
これを具体的なアクションのなかに示すのではなく、Désiré - Sacha Guitryのラップのようなとてつもない喋りと共にぶちまけ、彼の言葉とそれをべらべら澱みなく発する彼の身体が画面を、我々の視界を覆ってしまう。これが舞台の上で演じられていたら、彼の言葉は真っ直ぐにこちらに刺さってきて、それはそれでよいと思うのだが、映画になると彼の言葉と欲望はOdette - Jacqueline Delubacにぶつかって、満たされないかわいそうな彼の欲望が行き場を失って、そこに留まって、ドラマとしてこれらが垂れ流されていくのをどうすることもできない。そういう欲望や制度や道徳がぶつかりあう不穏で不条理な事態や状態が世界に曝されてしまうのが映画のおもしろさ、おそろしさであり、ギトリがドラマが始まる前にスタッフから裏方からぜんぶ紹介してこんなですー、ってやるのもそのタネも仕掛けもないことを明らかにしないとほんとに救いがなさすぎることになってしまうからではないか。
上映後の濱口竜介監督のトークを聞いていてそんなようなことを考えていたの。
あとは、欲望と道徳のせめぎ合うところに生まれる倫理(ロメールいうところの格言?)の話とか。いまの邦画の気持ち悪さの根っこってこの辺にあるのではないか、とか。 ギトリの新しさ、現代に繋がっているかんじもこの辺か。 あとはギトリの喋りの息継ぎの驚異、とか。
とにかく、まだまだ見ないとだめだわ、ってなるのがやばい。
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