3.19.2023

[film] エリ・エリ・レマ・サバクタニ (2005)

3月17日、金曜日の晩、恵比寿のガーデンだかユナイテッドだかなんでもいいやシネマ、で見ました。

青山真治 一周忌企画で、1週間限定DCP特別上映、だそうなので、こんなの初日に見にいく。しかし1年なんてあっというま、よね。

東京FM開局35周年記念作品で、カンヌの「ある視点」部門に出品された。英語題は”My God, My God, Why Hast Thou Forsaken Me?” 冒頭の、ランブルフィッシュのアニメとか、あったなー、になる。

舞台は2015年。 311の津波/原発事故とCovidによるパンデミックのほぼ中間地点、というのがおもしろい。いや、おもしろくはないし、それがどうしたなのだが、ここに映しだされる海の、海沿いの景色、ヒトが消えてしまった道路や原野は、約10年を隔てて起こったふたつの災禍を思い起こさせないわけがないの。そして、これらが政治が引き起こした人災であるというところも (こんなのは言うまでもないか)。

はじめに海、すばらしい海が正面にあって、手前の砂のうねうねの向こうからガスマスクをしたふたりの男 - 浅野忠信と中原昌也 - が現れて、風で朽ちて打ち捨てられ死体とハエでいっぱいの小屋から目ぼしいもの(なにが目ぼしいのかは不明)を拾って、廃校と思われる建物に持ち帰って音を出したりしている。

これと並行して、探偵らしい男(鶴見辰吾)と富豪らしい老人(筒井康隆)と彼らに守られているらしい黒ずくめの少女(宮崎あおい)が、金に糸目は/手段を選ばぬ方式で何か/誰かを探しているらしい。

ラジオのバカみたいなDJの喋り - 岡田茉莉子さまはバカすぎる、って消そうとするが中原昌也はバカだからいいんじゃないですか、と返す - によって、レミング病と呼ばれる原因不明/治療不可の奇病によって人々がばたばた自殺していて、その規模は都市部で数百万人、であることが明かされる。

上の二組 - 計5名が岡田茉莉子さまが道路脇で営む喫茶店でぶつかって、かつて伝説のユニットを組んでいた浅野忠信と中原昌也の出す音に病の治癒効果があるらしいのでお嬢様をなんとかしてやってくれないか金ならいくらでも、って持ちかけるのだが、中原くんが音楽が療すんじゃないよウィルスが音楽を好物にしてて食べるんだ、と言い残して出て行ったきりー。

この先は誰がどう納得したのか確信をもったのか、その結果なにがどうなったのか誰にもどうにもはっきりしない。 お葬式で中原くんを焼いたあと、浅野くんがひとり原っぱで轟音のギターを引っ掻きまわして海に向かって轟かせ(あのアンプは彼ひとりで運んで積んだのか。電源は?)、目隠しをされた宮崎あおいがそのノイズの焦点に立ってその放射を独占して浴びまくってぱたりと倒れ、霊となった中原くんがジェダイのようにそれを笑ってみている。ウィルスはノイズをたらふく呑みこんで霧消したのか散ったのか、そんなの神にだってわかるわけないし。

ただ、みんな幸せに一緒に暮らしました、にはならなくて、みんなひとりひとりになったところに雪がはらはらと。(悶絶)

原野のギター洪水のところと、宮崎あおいがひとり食堂のテーブルに向かうとこ、ラストの雪のとこ、Nancy Sinatraの”The End” (1966) - 恋の物語の終わりには終わりがないの、って歌う - が流れるところだけは、あと500回くらい見てもいい、それくらいこの映画は好物なのだもっとくれ。と、自分のなかのウィルスはいう。

“EUREKA” (2001) のように「生きろとは言わん、でも死なんでくれ」すらも言えなくなってしまった世界の終わりに雪が降ってきて、人は窓の奥にそっと消えるの。

でも、男たちが女の子を守って運んで治療して、女性は守られたりシチューを作ったり飛び降り自殺したり、極めて伝統的な性役割期待の上に乗っかったお話しだったりするとこ、聖書がそんなだからしょうがないのかもしれんが、それらをドライブするのはただのノイズである、ということ。

あと、物語の主人公は神々しすぎて得体のしれない浅野忠信ではなくて、なにもかも最悪だくそったれ、をその態度と共に(映画の終わったあとも)言い続ける中原昌也だと思うので、早く回復してくれることを祈る。

この映画を見たあとで、野球とかお花見とかはしゃぐ世界はあたまおかしい - レミング病はまだなくなっていないのね。

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