11.28.2022

[film] Dating Amber (2020)

11月20日、日曜日の午前、Tohoシネマズ新宿で見ました。

『恋人はアンバー』。日本の宣伝ポスターのコピーが問題(ほんと問題だわいつまでたっても)になって修正された、だからこそこういうのはひとりでも多く見に行かないと、って思ってしまうやつ。

1995年、アイルランドのキルデア州で、軍隊のばりばりマッチョな父に育てられたEddie (Fionn O'Shea) - 最初のほうであんたBlurのメンバーに似てるね、って言われてる。DrumsのDaveかな - は、父を失望させたくないし一人前の男子として見てほしいし、って卒業したら軍隊に行こうと思っているが、自分がゲイであることも直視したくないけど自覚していて、学校の先生とかにぼーっと憧れつつ、どちらかというとなんで女子に近づこうとしないんだ? なよなよしてて怪しいぞ、っていう同級生男子たちからの虐めとか同調圧にどう対応すべきか、のほうに苦慮している。

Amber (Lola Petticrew)は父を自殺で失ってから、母とふたりで暮らしながら母の所有するトレイラーハウスを学内のカップルに時間いくらで貸して稼いだお金を缶からに貯めていて、将来はそれを元手にロンドンにパンクでアナーキーでインディペンデントな書店(よいなー)を開くことを夢みている。AmberはEddieよりは大人で、現実的に自分がレズビアンであること、そこに立って自分の夢や将来をどう作っていくのかについて十分自覚的なのだが、目の前で派手に転んでひとりで頭を掻いたりしている哀れなEddieを見ていられなくなり、ふたりが男女のカップルとしてオープンに付きあうことで親も含めた周囲をだましてやり過ごせるのではないか、その方が楽だったりしないか、ってEddieに提案すると彼もこれに同意する。(アイルランドではこの2年前 - 1993年まで同性愛は違法とされていた)

そうしてふたりで学内を「カップル」として練り歩いたり、むりやりキスしてみたり、ダブリンまで列車で旅をして夜のクラブでそれまで自分の知らなかったドラァグクイーンとかいろんな人たちを目の当たりにしてバカ騒ぎをして、ここでAmberはSarah (Lauryn Canny)と出会ってときめいて自分の進む道に手ごたえを掴むのだが、その横にいるEddieはクラブで騒いだ後、自分の進路(軍隊行き)とかこれからやっていける自信のようなのとかが足下が揺らいで見えなくなってしまい、Amberの手も吹っ切って前以上にぐだぐだの支離滅裂になっていく。

ふたりの怪しく危なっかしいカップル仕草が巻き起こすどたばたをコミカルに描いて、そこからみんなが納得して安心するカミングアウトやパートナーとか家族の理解へー という方に簡単には向かわないところはよくて、Amberはそんなやつに構っている暇はないし、ってEddieとのうそ関係を解消するのだが、Eddieは自信も自分も見失ってだんごになっていって、やがて軍に入隊する日が近づいてきてこのままでいいのかって、でも荷作りを始めて。

“The Breakfast Club” (1985)的に親子や周囲との溝をひと騒ぎの後に埋めて旅立つ、そういうおめでたさは(よくもわるくもJohn Hughes的な父はいない。母は少し)なくて、個々の傷や痛みを見つめながらどうしたもんか.. ってまっすぐ真面目に悩んでいる(90年代..?)のはわかるし、悪くないと思うのだが、でも最後にAmberが貯めていたお金をEddieに渡してほれ持って行ってきなー、って発たせてあげるのはやっぱりやりすぎだと思った。彼のお母さんがやるならまだわかるけど、AmberにはAmberの夢があるのだしSarahと一緒にロンドンに行く、のが筋ではないのか。監督は留まる者と去る者、の対照を描きたかったらしいけど。

英国の田舎のような位置づけとしてあるアイルランドの、そのまたさらに地方で自身のセクシュアリティやクィアネスに向き合って、家族や学校と日々折り合いをつけていくことのしんどさを男女の青春映画としてきちんと描こうとした作品だと思うので、あそこだけ残念だったかも。 ほんとならAmberがEddieにおまえもついでに来い! って彼の手を引っ張ってロンドンに強奪し、あとは”Empire Records” (1995) みたいになるの - 95年だし、あの舞台はアメリカだけど。

音楽、あの頃ならもうちょっといろいろできたのではないかー。

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