8.23.2022

[film] Max et les ferrailleurs (1971)

8月7日の夕方、ル・シネマのロミー・シュナイダー映画祭で見ました。
邦題は『マックスとリリー』- ビデオ公開された時のタイトルは『はめる/狙われた獲物』、英語題は”Max and the Junkmen”。 日本では1990年にビデオリリースされて、今回のが劇場初公開、米国でも公開されたのは2012年だって。

監督はClaude Sautet、原作はClaude Néronの同名小説。音楽はPhilippe Sarde。

冒頭、警察内部で「Maxの件は残念だった...」という声が聞こえてきてそこから回想に入る。

パリから少し離れた労働者の町に、元裁判官でとても正義感が強く見える刑事のMax (Michel Piccoli)がいて、銀行強盗をちっとも阻止できないのに静かに苛立っていて、友人のスクラップ屋 – これが英語題のJunkman - をやっているAbel (Bernard Fresson)の知り合いとか内部に入り込んで次の強盗の計画を引き出す計画を立てる。

その流れでMaxはホテルに滞在する離婚した(やや)裕福な銀行家、を装ってAbelの周りにいた娼婦のLily (Romy Schneider)を呼びだす。彼女経由で連中の情報を引き出したりこちらの偽情報を吹きこんだりするために。

MaxはLilyとセックスしたりするわけもなく、一緒にワインを飲んでとりとめのない話をしたり、トランプしたり、Lilyは好き勝手にお風呂に入ったりだらだら過ごして、このふたりのどうってことない会話とそれらを通してなんとなく近づいていく – Lilyは当然Maxの思惑なんて知らないしMaxは自分の正体も含めてほぼなにも語らない – ここでの経過がすばらしくよくて、でもAbelの方には何の動きも見られないのでもうないか、って諦めかけた頃に..

内とか過去に何かを秘めて隠した(絶対に任務や狙いを知られてはならない)不愛想な男とそういうの知らんぷりで無垢にふるまう(ことを求められる仕事でもある)女のやりとりが続いて、そういうのが/それでも、ふたりが思いもよらなかったようなところに彼らを追いやる、というかそんなふたりの場所が気が付けばできていたことに彼ら自身も驚いたりしている – そんなふたりの姿がとてつもなく素敵で、この、部屋に追いやられた二匹の野良猫みたいなシーンだけで何十回でも見ていたくなるし、この邦題でよいのかも、って。

これがあるので、終盤の一味が実際の強盗に向かうシーンはカットとかすごいと思って見入ってしまうものの、見ていくのはとても辛い。MaxもLilyもどちらも泣き叫んだり激しく動いたりするわけではないのに、それぞれのなかで何が起こっているのか、彼らの頭のなかで何が暴れているのかわかるので張り裂けそうになって。冷戦下のスパイものというわけではない、ただの泥棒の騙し合いなのになんでこんなに痛切に見えてしまうのだろう。

どちらかというとMichel Piccoliがすばらしくて、彼は刑事でも探偵でも軍人でも銀行家でもスパイでもおそらく”Max”という名前(『サン・スーシの女』でもそうだった)で、あんなふうに硬くごわごわで – それが少しだけ緩んだり崩れたりしたときには世界のなにがどうなるのかわからない - 取り返しのつかない事態が起こってしまう – その佇まいが彼をある時期のフランス映画のああいうような「男」にしたのだろうなー、って。

あとは、ここで描かれたような職業男性像 – 刑事とか探偵とか、黒め厚めの服を着た堅い職業の男たちって、今はどうなっていたり、ここからどう変わっていったりしたのだろうか、って。これって映画とか小説の中だけの話だったのかしら? 60~70年代の冷戦のなかの世界のありようと関係があったのかしら? とか。

仕事とか任務によって非情に冷酷に引き裂かれてしまったり殺されてしまったりする男女のドラマって、随分減っているのでは、っていう気もして、これっていろいろ引き裂かれてしまうような局面が減ってきたということなのか、引き裂かれても再生しちゃう/できちゃうからへっちゃらさ、になってきたということなのか。

なにを言いたいのかというと、Michel PiccoliもRomy Schneiderもこの時代の額縁の絵としてものすごくパーフェクトにクラシックにはまっていて、このふたりの像のようなのってここ以降の映画では余り見ることができないものになっている、と。だから必見としかー。


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