6月11日、土曜日の昼、神保町シアターの特集『映画で銀ぶら―銀幕の銀座』で見ました。
いまの勤めているとこは銀座の近くで、オフィスにいたくないのでぶらぶらしていることも多くて、この街はなんかよいなあ、になりつつある。
監督は島耕二、脚本は中田晴康と山本嘉次郎。だれもが知っているヒット曲 - 映画の少し前にでた高峰秀子の - 笠置シヅ子のじゃないんだ? - シングルに連動した69分のプログラムピクチャーで、なかなかおもしろかった。
引退した落語家の新笑(五代目古今亭志ん生)、おだい(浦辺粂子)と娘のひよこ(服部早苗)が暮らす一軒家には会社員で会社の合唱サークルを指揮する甥の武助(灰田勝彦)がいて、2階には新笑の恩人の娘で絵描きになりたいお秋(高峰秀子)とその親友で声楽家になりたいお春(笠置シヅ子)のふたりが下宿していて、あと半ノラ犬のポチがいつでも勝手にあがってくる。
お春とお秋は朝起きるといきなり合唱したり、ちゃぶ台のとこにおりてくればご飯を仏前みたいに山盛りにしたり味噌汁にダイレクトにぶっこんだり元気いっぱいで、でもヒマすぎるしお金もないので職を探さなきゃ! って出かけようとしたら、おだいに犬のポチを捨ててきておくれよと頼まれて、断れないけどポチもなかなか別れてくれなくて、困ったなあ、になっていたら公園やってた映画の撮影に巻き込まれてギャラで1000円貰ってラッキー、になり、そこのエキストラで知り合った白井(岸井明)から銀座のお店で流しで歌えばもっとじゃんじゃか稼げるよ、って言われたので3人でまわって歌って、を始めて、更にそこに会社をクビになった武助も加わって、最後は再び高座にあがることにした新笑の家をなんとかすることもできそうでめでてえなあ、って。
カンカン娘の「カンカン」って、Wikiには山本嘉次郎の造語で、当時の売春婦の別称「パンパンガール」に対して「カンカンに怒っている」という意味が込められている、とか、中国からきた「かんかんのう」=「看看奴」、つまりみてみて娘、とか、たんに「フレンチ・カンカン」にひっかけただけかも知れん、とかいろいろあるみたいなのだが、とにかくあのメロとリズムにのったら勝手にまわりだしてとてつもなくご機嫌だし、つなぎパンツに丸メガネでまるで漫画みたいな高峰秀子と歌いだしたらなんでもヴギウギにしてしまう笠置シヅ子のふたり組は最強としか言いようがないので、このふたりこそ唯一無二の銀座カンカン娘なのだ、って言い切ってしまってもよいのではないか。
でも映画のなかにもあるように女子ふたりで盛り場でああいう歌を歌っていると、おうねえちゃんすてきじゃねえかよう、って酔っぱらいが山ほど絡んできそうなのが目にみえるようで辛くて、彼女たちふたりで腕にネコの刺青(フェイク)なんかしてイキってみてもやっぱり映画のなかのお話よね、ということにしたくなるのと、同様にここの「銀座」って新宿でも渋谷でも上野でも池袋でもなくて - 今の目線で見れば、だけど - やはり「銀座」で絶妙だったのかも、とか。 どんな町にだってそこで生きた人たちの影と光の両面あったりするものだが、銀座のありようって、映画での扱われ方も含めてそういうのとはやや違う位相 - 例えば「銀ぶら」の「ぶら」とか - にあるような気がして。
もうひと組のコンビというと、いつものぐちぐちぬたくり芸の浦辺粂子と、彼女に正面から絡んで引っ張ったり転がしたり、なにこのふたり夫婦なの? の自在なノリを見せてくれる志ん生で、このふたりが毎朝毎晩あんなやりとりをしてくれる下宿なら家賃倍払ってもいいわ。 ほんと、記録映像でもない志ん生があんなふうに落語の欠片でもさらさらって見せてくれるとは思わなかったので、とてもお得した気分になった。さいご、武助とお秋が一緒になるのはいくらなんでもご都合主義すぎないか、って思ったけど、あのセットの、あんな近いところで志ん生の落語をきけるなんていいなー、しかないわ。
6.17.2022
[film] 銀座カンカン娘 (1949)
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