11月23日の祝日、鎌倉の川喜多映画記念館でやっている田中絹代の展示に合わせて彼女の監督作品2本(午前1本、午後1本)が上映されたので見てきた。そこまでしても見たいやつだったの。TIFFのあとはもうどこも上映してくれないの? ひどすぎない?
恋文(1953)
田中絹代の第一回監督作品。朝日新聞に連載された丹羽文雄の同名小説を木下恵介が脚色して成瀬巳喜男が脚本に手を入れたという。助監督には成瀬の『おかあさん』 (1952)とおなじく石井輝男の名前がある。
彼女は1949年に初めて海外(アメリカ)に渡って同期にあたるクローデット・コルベールとかジョン・クロフォードとかベティ・デイヴィスの活動に触発されてなんかやらなきゃ、って戻ってきたらアメリカかぶれ、ってメディアに叩かれて、そこを救ったのが成瀬の『銀座化粧』(1951)~『おかあさん』(1952) - だったと。
戦争から戻ってきた礼吉(森雅之)は古本のせどり(転売屋)をしている弟 - 洋(道三重三)のところに身を寄せるのだが、ぼんやりしてばかりで幽霊のようになっている。友人の山路(宇野重吉)が渋谷のすずらん横丁(いまの恋文横丁)でやっている米兵に向けた恋文代筆業 - 米兵の相手をして子供ができたり生活に困ったりした女性達が窮状を訴えたり会いたいって言ったりを英語でうまく伝える手紙の代筆 - を手伝うことにする。
礼吉のぼんやりはかつて恋人だった道子(久我美子)の面影をずっと追っていたからなのだが、ある日代筆業の客として道子を見かけて追いかけてやっと会えたと思ったらこれか! って散々彼女をなじって、言ったあとで自分でもぼろぼろになっていくので、弟が見かねて道子に会ったりすると、彼女には彼女なりの事情があったりしたのだ、ってわかるし山路も礼吉に怒ったりするのだが..
後年の『女ばかりの夜』 (1961)のテーマ – どんなにあがいてそこから抜けようとしてもそれを許されない女性たちのありよう - は既に底流としてあって、それが勝手な男性側の視点からもプレスされることで結果的に悲劇をもたらす。身勝手な男性意識の典型で、米兵への恋文代筆という職業だってその屈辱的な従属関係の後ろにくっついて商売をするってしょうもない位置にいるくせに悩んでいるのは自分だけだみたいな顔をして。でもこれはアメリカ占領下だったから、とかそういう事情とは関係ないこと。
そういうどん詰まった(故になし崩しで勝手に転がっていかざるを得ない)男性の表情をやらせたときの森雅之はすごくて、そこに被さる久我美子の引き攣ったままのか細さもすばらしいの。最後が移動中の車のなかの切迫感と共に終わるところとか、見事だと思った。
あと、これは見てみればわかるけど、いろんなおなじみスターの皆さんがこれでもか、ってかわるがわる登場してくるのもすごい。だれそれがカメオで.. って騒がしいレベルじゃない。
弟が路面店に並べている洋雑誌の数々、あれぜんぶほしい。売って。
月は上りぬ (1955)
田中絹代の監督2作目 - 最初は『春琴抄』を考えていたそう。脚本は斎藤良輔と小津安二郎の共同。助監督には斎藤武市。五社協定のせいでキャスティングが難航したらしいが、小津は撮影の間ずっとセットの後ろで見ていたという。
こーれーはー、すばらしいラブコメだった。ジェイン・オースティンみたいなの。大好き。
戦争で奈良に疎開したままそこで暮らしている浅井家がいて、父の茂吉(笠智衆)と三姉妹 - 長女で未亡人の千鶴(山根寿子)、次女の綾子(杉葉子)と三女の節子(北原三枝)がいて、近くのお寺には千鶴の亡夫の弟 - 昌二(安井昌二)が居候のように住み着いていて節子とは仲がよい。
昌二の友人で電信技師をやっている雨宮(三島耕)が出張でやってきて、気になるらしい綾子との間でのくっつく-くっつかない-くっつけたいなどで節子 & 周辺が勝手にやきもきして、東京に帰った雨宮を追って綾子が出ていったと思ったら、今度は昌二と節子がじたばたする。それらの若者たちを晩秋の月夜がしっとりと包んだりしているの。
雨宮と綾子の電報のやりとり - 雨宮が”3755”って送ると綾子が“666”って返すとか - なんだそれはオーメンか、ってなった後に判明する驚愕のプロトコル(万葉集)とか、すったもんだの果てに子供みたいに仲直りして一緒に東京に行くことにした昌二が節子に向かって、『飯をつくれ、洗濯をしろ、金には困るぞ、でもいつも笑っていろ、俺がうんと可愛がってやる』とか言う、それも繰り返して念押しするあたりは鳥肌もんの気持ち悪さ(斎藤と小津、どっちが書いたんだろ?)で、そんな奴についていったら死ぬぞやめたほうがいいぞ、とか思うのに節子は泣きながらうんうん頷いていて、月夜の晩の生々しい光が恋人たちを狂わせたに違いない、って思わせるくらいに屋内から外に向かったカメラは素敵で、同様に外から縁側をとらえたカメラもよいの。客席も含めてみんなで月の光を浴びてうっとり酔っていくかんじ。
とにかく、綾子と雨宮が月の光の下を歩いていくシーンのすばらしいこと。踊らなくたってキスをしなくたって、月がいるだけであんなにも幸せそうに満ち足りて見えるってどういうことなのかしら。
最後に残った千鶴にもよい人 - 佐野周二がいそうなので、お前もどうだって茂吉はいうのだが、おとうさんそれやったら『東京物語』になっちゃうわよ、って。
あと、北原三枝が下女役の田中絹代に演技指導をするシーンのおもしろいこと。
これならこないだのカンヌで評判になったのもわかる、クラシックだわ、って。
ロックダウン中にクローズしていたロンドンのPicturehouse Central(映画館)が復活してて、クリスマス映画特集で”The Holiday” (2006) を上映するときのイントロでJude Lawが来るって。いいなー。
いま必要なのはこういうのだよねー。
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