12.02.2021

[film] 女ばかりの夜 (1961)

11月20日、土曜日の午後、国立映画アーカイブの『NFAJコレクション 2021秋』で見ました。 個人的に田中絹代監督作品を追って見ていきたいシリーズ。 彼女の監督作としては5作目。原作は梁雅子の『道あれど』、脚色は田中澄江。

1958年に施行された売春防止法で売春は禁止されたものの道端には依然として売る女性に買う男性たちが溢れていて、女性たちは捕まえられてもすぐに戻ってきてしまうのであった、という前振りがあり、そういう女性たちのための更生施設 - 白菊婦人寮が紹介される。

そこには寮長の野上(淡島千景)に寮母の北村(沢村貞子)に女性スタッフがいて、冒頭ではこの施設を見学にきた上流ぽいご婦人たちを前に寮の施設とかそこで暮らすいろんな寮生のキャラクターも紹介されて、夜中に脱走を繰り返すよしみ(永美沙子)とか彼女にべったりのレスビアンの亀寿(浪花千栄子 .. びっくり)とかほんとにいろんな女性たちがいて「女ばかりの夜」が過ぎていく。

そんななか、米兵を相手にしてきた主人公の邦子(原知佐子)は模範生としてまじめに更生したようだったので、社会に出ることになる。最初に働きに出た先は達吉(桂小金治)と妻のよし(中北千枝子)が営む町の小さな食料品店で、そのうち従業員経由で邦子の出自を知ってしまったよしがうざくなったので彼女が留守の間に達吉をはめてざまーみろって出て再び路上に立つもののあっという間に捕まって寮に送り返される。

続いて大勢の女工が働く住み込みの工場で、前は前歴を変に隠していたから面倒なことになったのだ、と最初に言っておくわ、って自己紹介で自分の過去を正直に告げたら工場の不良女子たちに絡まれて集団リンチにあい(ひどい)、病院送りになってもうなにもかも嫌だ、になる。ここまでくると寮の側も考えてしまう。

こんどはだいじょうぶだろうと、邦子は冒頭で施設の見学にも来ていた志摩夫人(香川京子)が経営するバラ園の仕事を紹介され、寮の同じ部屋にいたチエ子(北あけみ)とふたりで暮らしながらがんばっていると、そこで働く技術者の早川(夏木陽介)が近寄ってきて、真面目に結婚したいと言う。あのねあたしは.. と言っても彼は曲がらずに親を説得してくるから、って実家に帰っていくのだが..

赤線があろうが無くなろうが困難な時代をめげずに逞しかったり豪快だったり哀しかったりしつつ生きる女性たちのお話しは溝口でもなんでも男性監督によっていくらでも作られてきた気がするが、これはそういうのとは少し違って、なんで彼女たちは社会や世間から弾きだされたままで(結果的に)元の場所の元の仕事に戻ってきてしまうのかを、社会学的と言っていいくらいの細やかな目線と論理で説明してくれる。彼女たちはそもそもそういう素性だから境遇だから – なわけがなくて、結局世間の目(的な機能をもつ無反省な差別偏見マシーン)が彼女たちの振る舞いや居場所をそういうものとして規定して、一度それを読み取ったマシーンは彼女たちを経済的にも組織(含.家族)的にもそういう場所に追いやる(追い戻す)ように動作する – それをさらに大きな機械として丸めこんでその正常性を保っているように構成員に示す(その指令をくだすのはだれ?)のが社会というものなのだ、って。

女性監督としての田中絹代は邦子の悲しみは勿論、その無念や悔しさに十分寄り添いつつも、この不条理などうしようもなさをこれでもかってぶちまけていて、そして最後にひとりの海女として平穏に暮らす邦子を見せながらも、なんで彼女がここにこうしているのかわかる? ここまで来なければならなかったかわかる? って問いかけているような。男たちの影や目線がどこかに写り込んでいる夜、ではない「女ばかりの夜」はこんなふうに描かれなければならなかったの。

ここから『お吟さま』(1962)のラストを思うと、やっぱりすごいよね。

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