9月20日、月曜日の晩、シネマヴェーラのサイレント特集で見ました。
原作はElliott Lesterによる演劇 - "The Mud Turtle"で、監督はF. W. Murnau。Terrence Malickの”Days of Heaven” (1978)のインスピレーション元になったのだという。 邦題は『都会の女』。Webでみると『都市女郎』(中国語タイトル?)っていうのも出てくる..
田舎で小麦農家をやっている家の長男Lem (Charles Farrell)が農場主の父親 (David Torrence)に命じられてシカゴに赴く。大都会への初めてのお使いらしく列車に乗っている時点から切符どこいった? とか隣の席の女性きれいー、とかそわそわ落ち着かない。
街のカウンター食堂でウェイトレスをやっているKate (Mary Duncan)は毎日立ちっぱなしでかったるいし、やらしくてうざい男性客ばかりだし、遅くにアパートに戻っても窓の外は高架電車が走っているし玩具のカナリアくらいしか相手いないのでどんよりの日々で、そんななか、客としてやってくるわかりやすくて朴訥なLemに惹かれて仲良くなっていく。Boy meets Girlのrom-comっぽい。
Lemが都会で浮かれてぼーっとしている間に小麦の価格が落ちてきて、厳格な父親に言いつけられた「ぜったいに単価1.15ドル以下では売るなよ」をこれ以上待っても守れそうになくなってきたので引きあげることにする。でも、小麦ではだめだったけど、Kateを連れて帰ったら喜んでもらえるのでは、と軽く考えたLemは結婚して一緒に帰らないか、ってプロポーズする。Kateは少し悩んで考えて、Lem は駅の改札ではらはらしながら待って、すれ違いそうになりつつもとにかくふたりは列車に乗って、馬車に乗り継いで、それを降りて農場に入る波うつ麦畑を走り抜けて(すばらしい絵。ここだけずっと見ていたい)実家にたどり着く。
母と妹はふたりの帰宅を歓迎してくれたのに、小麦の売値を聞いた父親は激怒して、Kateについてもどうせ金目当てですぐに飽きて都会に戻るだろう、ってひどいハラスメント(ほんとひどい)をするの。 で、それをあんまりだと思ったLemが歯向かおうとしたら母 (Edith Yorke)がお父さんにたてついたらだめよ、って立ちはだかり、それでLemは萎んじゃって、Kateはがっかり失望する。見ているこっちもLemだめじゃん、てふつうに思う。
やがて収穫シーズンが訪れて、収穫(ところで収穫の車をひくのは大勢のロバ?)を手伝う農夫たちが大勢住みこみでやってきて、Mac(Richard Alexander)が給仕をするKateに目をつけてダイナーにいた頃の男達と同じ目で彼女に寄ってきて、Kateがこいついい加減にしろよ、ってイラついてLemの方を見つめても彼は自信を失っててだめで、その様子を見た父はやはり都会から来た娘は淫らでがっかりじゃ、って決めつける地獄が展開される。
もうじき嵐が来そうで小麦の値も高騰しそうだから夜通し収穫したいって父が農夫たちに申し出た時も勢いにのるMacは男としての自分を見せたる、って父親に向かってもっと給料あげてくれないならストライキだここから引き揚げる、そしてKateには一緒に駆け落ちしようぜ、と誘って..
Rom-comとして見ると、父親がダメって一喝してふたりを認めなかったくらいで萎えて潰れそうになるLemは弱すぎてダメだし、下心まるだしのMacの接近もあれじゃ猿とおなじだろ、とか思うし、後半の展開は割とぐだぐだ平板でしょうもない。
こんなならキレたKateが都会に帰っちゃって再び舞台はシカゴに.. とか、限界を超えて糸の切れたLemがついに銃を手にして… とか、赦してほしいと手を差しだす父親に都会の女をなめんなよ、って啖呵をきる.. とか、日々疲れてしまったKateが”Groundhog Day”のループに嵌る.. とか、の方がおもしろくなったはず。 でも、あの麦畑の景色があったので、なんとかぎりぎりでよかったねえ、になった気がした。
ようやく”No Time to Die”が公開されるのはうれしいけど、このままNo Time to Dieの世の中になってしまうのはほんとうに嫌。
9.29.2021
[film] City Girl (1930)
9.28.2021
[film] 水俣 ―患者さんとその世界― (1971)
“MINAMATA” (2020)の公開に合わせてユーロスペースで土本典昭のドキュメンタリーを上映していたので、9月12日の日曜日に『水俣 ―患者さんとその世界―』を、19日の日曜日に『水俣一揆-一生を問う人々-』 (1973)を見ました。
個人的なことだが、わたしの大学の頃の恩師は、鶴見和子さんや今月初めに亡くなられた色川大吉さんらと水俣の調査団に参加して現地に行かれていた方だったので、水俣の話はずっと何度も聞いていて、(おまえのようなバカは)現地に行ってみなさい、と繰り返し言われた。けど、今もそうだけど底なしのバカでぼんくらだったのであまりきちんと向き合わないままで来てしまった。そういう激しい後悔を抱えつつ見る。
きっかけは何であっても、水俣の世界に触れるのに遅いも早いもない、寧ろ、今こそ向かい合うべき時ではないか、と強く思った。
チッソの工場が不知火の海に有機水銀を垂れ流して当初は奇病のような様子で苦しむ人々や手足が曲がり動けない子供たちや狂ったようになった猫があちこちに現れるようになり、亡くなる人もいれば、障害を抱えて苦しみ続ける患者さんもいれば、その介護で追われる人も出てきた。でも会社側は汚染水と病との因果関係を見ず認めずにやり過ごし、企業城下町として雇用の多くを負う自治体も騒いで風評を貶めるようなことをしてくれるな、と沈黙を強いたり裏工作で運動を分断したり、指をさされたくない人たちは沈黙し、やがて因果関係が認められ、それでも責任を認めようとしないチッソに対して、認定患者たちが立ちあがって大阪の株主総会に直訴しようと出ていくところまでが『水俣 ―患者さんとその世界―』。
でも、どちらかというと冒頭の船で海に出ていく夫婦とか、浅瀬でタコ捕りをする漁師とか、路地で遊ぶ子供たちとか、海と共に暮らす人々の姿とか家屋の奥で子供たちを抱く親たちの姿の方が残る。そしてその姿は病として現れていようがいまいが変わらずにどれもとても尊く美しくて、これが「患者さんとその世界」なのだとすると、この世界のためならやはり声をあげることにはなるだろう、と映像がストレートに語る。それは善と悪のように引き裂かれたコントラストをなす世界ではなく、ひとつの調和した世界 – 苦海浄土 – のように見える不思議、このありように触れる意義は大きいのではないか。
石牟礼道子さんがいたねえ。
この次の『水俣一揆-一生を問う人々-』は、『患者さん..』の後、一時的な慰謝料ではなく一生の面倒を見ろ、という交渉の場に移るのでよりハードに、激しくなる。前作が「なぜ彼らは声をあげたのか」だったとすると、こちらは「患者たちはどう闘ったのか」をダイレクトに叩きつける。地元では闘うことも叶わず亡くなった家族の魂と「怨」の字を携えた東京への巡礼の旅がいろんなうねりを孕んでぱんぱんの直談判へと突き進んで社長の胸ぐらを掴んで向き合い、補償内容、範囲をひとりひとりの名前をあげて詰めていくところは凄まじくて、なぜなら彼らはここで彼らの一生を問うているからなのだ、と。一生を問うこと、一生を背負って立ち向かうこと。
病が悪化して死んでしまわない限り、患者の病の痛みと苦しみは家族を巻き込んで死ぬまで続くのだから会社はそこまでケアするのが当然。 いまは割とあたりまえのように思えるこれらの議論が怒号と涙にまみれて、恫喝のようなところにも行って、それでもなかなか首を縦に振らせないカネと会社優先のおそろしさ。なにが彼ら会社員をそうさせているのか、そして「公害」なのに政治家たちが背後に隠れて出てこようとしない不思議、など。生への切実な問いと希求がこんな奇妙な構図をもたらしてしまう近代のありよう。
例えば、同じような交渉の場面がよく出てくるFrederick Wisemanの映画のそれとはなにがどう違うのだろう? とか。これは交渉ではなく一揆なのだ、いまここしか勝負する場と機会はないのだ、という絶望がー。
構図としては311の福岡から最近のコロナ禍まで、政治の責任を企業や自治体におっ被せて弱者- 被害者を分断して無力化して棄てようとする最近の手口とほぼ変わらない。というかここで学んで企業も政治家もより卑怯に狡猾になっていったのだな、って。
そして、でも、あたり前だけど、どの問題だってまだ解決していないんだよ。
本当にさー、8月に放置されて自宅で亡くなった人たち、政府の責任を問うことできると思うんだけど。もちろん、因果関係がー、とかデーターがー、とか向こうは言うのだろうが、ふつうに異常だしおかしいし悔しくない? だって連中は五輪とかやって遊んでたんだよ。
PTAの新作 - ”Licorice Pizza”の予告があまりによすぎて泣いている。今のこの瞬間、いちばん見たい。
Thanksgivingにやるのかー。
9.27.2021
[film] The Brat (1931) + Pilgrimage (1933)
どういう事情なのか、どうしてこの2本なのか不明なのだが、MoMAのバーチャルで”John Ford Rarities from the MoMA Archive”というタイトルの二本立てがかかっていて(9/30まで)、どちらもものすごくおもしろくて。
9/18に”The Brat” (1931)を、9/19に”Pilgrimage” (1933)を見ました。
The Brat (1931)
邦題は『餓饑娘』とか『餓鬼娘』とか。雑誌「文學界」2020年4月号の蓮實重彦さんによるジョン・フォード論にこの映画のポスターが引用されている(のの一部をWeb上でみただけ。本文の方は未読)。
女優/作家のMaude Fultonの書いた同名舞台劇(1917) - 主演も彼女 - がベースで1919年にまずサイレントで映画化されて、これが2度目の映画化、3度目のもあって”The Girl From Avenue A” (1940)だそう。
NYのローワーイーストから夜間法廷に連れてこられたごろつきのThe Brat (Sally O'Neil)が判事とのやり取りでぐじゃぐじゃ返しているとそれを面白がった作家で貴族のMacmillan Forester (Alan Dinehart)が自分の作品の題材に出来そうなので郊外の自分の邸宅に連れていきたい、と申し出て彼女と自分の一族を一緒に住まわせて巻き起こる旋風の数々。
まず、彼女が庭の大きな樹にかかったブランコをぶんぶん乗り回すところがすごくて、これを見るとルノワールの『ピクニック』(1936)のブランコってなんてお上品で貴族なのかしら、とか。あとはポスターにあるようなスカートまくり上がりがいっぱいあったり、Macの取り巻き娘のひとりAngela (Virginia Cherrill)とBratの互いの服をぼろぼろにする凄まじい取っ組み合いの喧嘩とか、見どころたっぷり。Pre-Code。
ストーリーはシンプルで、彼女の率直な物言いをBishop (Albert Gran)が感心したり、家のなかで彼女と同様にスポイルされてぐれているMacの弟のSteve (Frank Albertson)との恋バナがあったり程度で彼女を飼い慣らしてレディにするつもりはなくて、とにかく威勢がよくてぜったい揺るがないパンク娘 - Bratを見て痺れているだけであっという間に終わってしまう。当時の映画のなかで描かれた女性像からすると相当異色なのではないか。
彼女がそこらに置いてあった”The Restless Virgin”ていう本を拾いあげて少し読んで目をまんまるにするシーンがあって、たぶんポルノ本だと思うのだが検索しても同名の最近のやつしかでてこなかった。
Pilgrimage (1933)
邦題は『巡礼』になると思うのだが、allcinemaにも載っていないので日本では公開されていないのかしら?
第一次大戦の頃のアーカンソーの田舎で、未亡人のHannah (Henrietta Crosman)と息子のJim (Norman Foster)はふたり暮らしで、Jimが農作業の合間とか夜中に抜け出して村娘のSuzanne (Heather Angel)に会いにいくのがHannahは気に食わないし、やめろと言っても聞かないのでふたりを引き離すべく勝手に徴兵に応募してJimを戦地に送ることにする。戦地に赴く直前、地元の駅でJimがSuzanneにお別れをいうと彼女は彼の子供を身籠っている、と。 Jimはその場で結婚したかったのに時間がなくてそのまま離れ離れになって、彼はフランスであっさり戦死してしまう。
Jimが亡くなってSuzanneに彼の子供が生まれてもHannahは彼らを許さずに認めずに無視し続けて、終戦から10年が過ぎて第一次大戦の戦死者の母親たち – “Gold Star Mothers”にフランスの戦地を訪れて追悼しようという政府のプロジェクトがやってくる。当時の自分がやったことへの後悔の念に苛まれているHannahは参加を渋るのだが、アーカンソーでひとりだけだからとかみんなに説得されて旅に出て、そこで彼女はー。
自分と同じように息子を失った母親たちがどんな思いで過ごしてきたのかを知ったり、パリでJimに瓜二つの思い詰めた顔の若者に出会って彼の結婚の悩みを聞いたりしているうちに生まれてくる贖罪の念と自分にできること、すべきことはなにかを考え始めるHannah。 Jimの墓の前で泣き崩れたあと地元に戻った彼女はSuzanneのところに向かうの。
書いてしまうと暗い内容に見えるけど、Hannahのとる行動も感情の行方も一貫していて(その土地の、ひとり親の母の)倫理があって、それを丁寧に掬いあげてきちんと並べて、単なるお涙頂戴にはなっていないし、フランスで他のMothersと一緒に射的場で撃ちまくってぜんぶ当てまくるとこなんてコミカルで痛快ったらない。
興行的には当たらなかったらしいが、これ、主人公を母親ではなくて父親にして、彼の後悔と贖罪をメインにしたらまた違ったのではないか。 そんなことないかしら?
この2本、Pre-Code時代の女性映画なんだと気付く - ひとつは結婚前の、もうひとつは母となった女性の。
(あったりまえすぎるが)John Fordすごいー。もっと見せてMoMA。
9.26.2021
[film] Those Who Wish Me Dead (2021)
9月20日、月曜日の午前、日本橋のTOHOシネマズで見ました。
邦題は『モンタナの目撃者』 - 「あたしに死んでほしいと思っている奴ら」でいいのに。
監督はTaylor Sheridan - 監督として”Wind River” (2017)の他、”Sicario” (2015)とSicario: Day of the Soldado (2018)の脚本も書いている人。執拗に追いかける殺し屋と傷を追った追われるもののドラマ(そんなに暑苦しくないやつ)をつくる人、だろうか。
Hannah (Angelina Jolie)はモンタナの森林消防隊でスモークジャンパー - パラシュートで降下して消化活動をする - をやっていて森林火災現場で同僚と子供達を救うことができなかった過去のトラウマから自棄になり、友人のシェリフEthan (Jon Bernthal)に世話になったりしている。
ある朝、フロリダの事故訴訟専門の会計士Owen (Jake Weber)はTVニュースで知り合いの判事の自宅の事故を知ると顔色が変わり、そのまま息子のConnor (Finn Little)を連れて車でモンタナのEthanのところに向かう。前日に判事宅を襲ったふたりの殺し屋 Jack (Aidan Gillen)とPatrick(Nicholas Hoult)はいなくなったOwenの自宅を探って目星をつけると淡々と彼らの後を追い始める。
Owenは自分が握っている情報が暴かれると困ることになる悪い連中がいるから、とConnorに紙を渡してひとりになるようなことがあったらまず報道陣にこれを渡すようにと告げ、そのタイミングで追ってきた彼らに銃撃されて、父がとどめを刺される直前に車から逃れていたConnorは川を伝って町に向かう途中でやんちゃなことをした罰で高い見張り塔で謹慎中だったHannahと出会う。どっちも最初は険悪に毛を逆立てているのだがこれは放っておけるものではない、とHannahは察する。
殺し屋たちはOwenを襲った後、現場から逃げたと思われるConorの行く手を阻むべく森に火を放ち、Owenが直前に連絡を取っていたEthan宅に向かうとそこには彼の身重の妻Allison (Medina Senghore)がいて..
前半の殺し屋たちの狂いのないプロの仕事ぶりが、後半に入ると彼らの想定していなかった方に少しづつボタンが外れるようにずれていって、その苛立ちが3人の大人たちとの思うようにいかない接近戦のなかで森林火災と同様に燃え広がり、為す術もなくお手あげになっていく。
悪い奴は(お仕事として、お仕事だから)どこまでも悪い奴としてよい人たちを追い詰めて殺そうとして、よい大人たちは善悪の事情すら飲み込めていない子供を守るために傷を負いながらも立ち向かおうとする、というシンプルな筋立ての上になすすべもない凶暴かつ非情な森林火災が覆い被さってくる。すべてをなかったことにできてしまうような恐ろしいやつが。 でも、それでもHannahのような消防隊員たちは犠牲を出しながらも火災に向かっていくしかない。
死んでほしいと思っている”Those”って本当は誰なのか、何なのか。”Wind River”にはあっという間に人を凍えさせて葬る凍てつく冬の大地が出てきた。悪い連中が引き起こす犯罪の舞台の表だか裏だかに居座って好き放題にやってくる火事とか雷とか寒気の塊とか。こういうのの前で「悪」とはいったい何でありうるのか、どうしろっていうのか。
というようなのとは別に、JakeとPatrickのふたりのワルは、あと少しコミカルに仕立てたら”Home Alone”にできたかもねえ、とか、殺し屋に追われる子供の名前がConorだと”Terminator”みたいだねえ、とか、Nicholas Houltは子供の頃、”About a Boy” (2002)でこれと同じようなあんま可愛くないガキを演じていたねえ、とか、そんなことを思ってしまったりもした。
渋谷のタワレコにアナログレコードの売り場ができた、というので行ってみた。なんか値段すごく高くない? 輸入盤が一枚約4000円、場合によっては軽く5000円、とか。中古盤の相場も10年前の倍くらいになっていて、1万円台のがざらだったり。みんなあれらを買うの? 景気よいの?
WBSだったか、ニュース番組でもアナログレコードの売れ行きが好調でヴァイナル工場はフルで生産を始めています、とか。 CDが登場したとき、彼らがどんなふうにアナログ盤を隅に追いやって駆逐して、その後でCCCDとかどれだけひどいことをしたのか忘れていないので、けっ、とか思って見ていた。今プレスしている盤の音域だって本当のところはどうなのか、確認しといた方がいいよ。
9.25.2021
[film] Oasis Knebworth 1996 (2021)
こっちから先に書いておく。 9月23日、木曜日の晩、ヒューマントラスト渋谷で見ました。
ワールドワイドの上映会のようだし、でっかい音でなんか見て聴きたいかも、程度で。
ネブワースの野外で1996年8月10日と11日、2日間に渡って行われたライブの告知からチケット獲得の熱狂からライブ本編まで、OASISが王様だった/になった当時の巨大イベントを追ったドキュメンタリー。
わたしにとってこのバンドはguilty pleasureで、カップ麺とかマクドナルドとかあんず飴とかそういうのと同じで、年一回くらい聴いてそれで十分の人たちで、それでも”Supersonic”のシングルが出た時にはRebel Rebelっていう今はもうないヴィレッジのレコ屋で英国盤を買って聴いた - The Stone Rosesの「アドアド」と同じだと思った。NYでの最初のライブはWetlandsっているハドソン沿いの100人くらいの小屋で特に宣伝もしてなくて、かわいそうなので行ってあげようと思ったのだが、でも当日は用事が入っていけなかった。
1994-95年のBlurとの対決の時も、自分がライブに行ったのはBlurの方だったし、少なくともNYでの彼らは苦戦していた。 初めて見たのも2002年のBeacon Theaterの”Heathen Chemistry”のツアーの時にようやく、チケットも簡単に取れたし欧州や日本での当時の売れ具合からするとぜんぜん、だった。
要するにわりとどうでもいいところにいたバンドなので、これからひどいことを書いてしまうかも。
映画のはじめはチケット争奪の大騒ぎ。 今の子にはわかんないだろうが、昔は朝の発売時間に受話器握りしめてリダイアルボタンを押しまくるか、ぴあのカウンターに夜通し並ぶしかなかった、それで発売の時が訪れると(ぜんぜん繋がらないから)過ぎていく時間と共に擦り減っていくあの感覚が蘇る。 けどこれは映画なのでチケットを獲れたものの歓喜のみが語られる。 関係ないけど、いまのチケットをオンラインで取る仕組み - 発券はコンビニとか - ほんと手続きがバカみたいで呆れるしかないんだけどみんなあれで満足してるの? 格差が広がって金持ちはコネで苦労しないでチケット取れるからどうでもよいの?
で、待ちに待ったライブ当日がきて、ヘリでバンドが飛んできてカウントダウンの後でライブが始まるのだが、ライブフィルムとしてはさいてーだと思った。 フルの音源は別途発売されるのでそちらを買って聴けということなのだろうが、曲の途中で観客の陶酔コメントだのバンド側の思い出だのが入ったり客席側の歓声だので音のバランスがころころ変わるので興醒めする。一曲フルで流せ、とまでは言わないけどなんであんな編集するの? 監督のJake ScottはPVだとR.E.M.の”Everybody Hurts”とか、Radioheadの”Fake Plastic Trees”とか、印象に残るのも沢山撮っているひとなのに。
最後の方で、この頃はSNSもなかったから音楽に没入することができてよかった、とかコメントが入るのだが、この映画そのものがSNS的手法を入れることでライブの興奮を思いっきり削いでいるじゃん、と思って、しかもそのコメントときたらどれもスーパーポジティブなOASIS すごい! この曲グレート! この場にいる自分たちすごい! みたいなのばっかしなので、このバンドのライブってそういうほめ殺しとアルコールでぐいぐいあげて酔っぱらってみんなでバンザイの幸せになる、そういう様式のもんなのだろうな、って。
この頃から顕著になっていったフェスでライブを楽しむ感覚もこんなふうに作られていったのかも。みんなあの夏のどこかで、あのバンドや仲間たちと一緒につくった思い出や歴史や伝説作りに飢えているというか。 べつにいいけどなんか、あーもうほんとに左に寄ったロックなんてとうにしんでるんだわ、って改めて。
ここに流れている圧倒的な全肯定意識や感覚 - しかもそれを叫んで笑っているのはぜんぶ白人 - が当時のYBAsとかトニー・ブレアとかと相まってどんなふうにその後のBrexitへと向かう意識を醸成していったのか or あれとは違う何かなのか、そういうのを書いたのがあったら読んでみたい。ライブイベントとしての盛りあがりが異様に見えてしまう自分がおかしいのかしら - ”Live Forever”でJohn Lennonの肖像に向かって敬礼するシーンなんて吐き気がした。
ちょうどこの頃、大西洋の反対側のアメリカではBeckが出てきて、”I'm a loser, baby, so why don't you kill me?” ってやっていたわけで、そのベクトルのちがい。この映画の最初の方でStock Aitken WatermanあたりのダンスミュージックからHappy MondaysやThe Stone Rosesの方に向いた英国の流れが紹介されていたが、米国ではグランジがあって、そもそもぜんぜん違っていたのよね。
あと字幕がバカすぎ。”OASIS”のバンドのロゴに「オアシス」とか。
こういうのにうんざりした後、今日の夕方に新宿で見た”fOUL”はすばらしいライブフィルムだった。
なぜ音楽はハードで、マイナーで、3ピースで、手癖のように繰り返されなければならないのか、自分でもよく思いながらいまだに言葉にできない何かを砂上の楼閣として組んでは崩してを繰り返していった稀有なバンドの記録。 だから自分はかつてライブに通ったりしていたのだ、ということを思い出させてくれる。 時間のあるひとはぜひ。
9.24.2021
[film] Spione (1928)
9月17日、金曜日の晩、シネマヴェーラのサイレント映画特集で見ました。ここまでくると止まらない。
Fritz Langがサイエンスフィクション大作 “Metropolis” (1927)の次に撮った作品。お金をかけた割に興行的には難しかった“Metropolis”のあと、世界はこうなる、から、今の世界はこんなふうだ、って肌身に近い生々しい接近戦を重ねて煮詰めていった国際スパイアクションで、おもしろいったらない。オリジナルは178分らしいがムルナウ財団が2004年に実施したリストレーションで143分。原作は彼の妻Thea von Harbouによる同名小説、脚本はふたりの共同。 イギ`リスとアメリカでの公開タイトルは”Spies”。
自分がFritz Langを知ったのは前世紀に千石にあった三百人劇場での『死刑執行人もまた死す』(1943)のリバイバルのときで、この時は散々すごいんだから、っていろんな人に言われて見たらほんとにすごくて驚異的でこの辺から昔の映画にはまるようになった。以降、Langはなにを見てもすごい(Lubitschも同様ね)になっているのでこれもとうぜん。
冒頭、金庫の鍵を開けて書類を盗みだして、移動(逃走?)中の銃撃があって、国を跨いだ電波塔のあいだを電波が行き交って.. 一次大戦後の世界がまるごときな臭くやばい方角に向かい始めた頃、政府には市民からなにをやってるんだ/やられてるんだ、の文句が来始めたし、身内の諜報員はやられてばかりなので、あまり外部に顔を知られていない切り札の諜報員326 (Willy Fritsch)を投入するのだが、敵側はそんな奴知ってるわ、ってロシアのスパイSonya (Gerda Maurus)を彼にあてがってとにかく潰せ、って。
最初から顔がわかっている悪の首領は大銀行のトップにいる車椅子のHaghi (Rudolf Klein-Rogge)で、大勢の人がわらわら蟻のように働く要塞のようなピルのどこかに潜んですべてを掌握して操っていて、彼には何を隠してもムダ、誰も逆らうことができなくて、ロシアで兄弟を殺されたSonyaにもああはなりたくないだろう、とか言うし。
他にも阿片に浸っているマダム - Lady Leslane (Hertha von Walther)を脅して巻き込んだり、日英同盟策定の中心にいる松本アキラ (Lupu Pick)のところにはKitty (Lien Deyers)を雨のなかの捨て猫にして寄り添わせたり、欲しい情報を手に入れて敵を潰すためだったら脅し・ゆすり・強奪・誘拐・偽造・逃亡、色仕掛けなんでもやるし裏切り者は死んでもらうし、ばれてもばらしても死んでもらうし、どうしようもないの。
複数のスパイ工作を並行して流しつつも、あっと驚く真相が明らかになったりどんでん返しがあるわけでもなくて、善玉と悪玉は見りゃすぐわかるし、画面の上では起こったことしか起こらない。すべての暴走も裏切りも殺人もハラキリも部屋の中か外、窓の内側か外側、壁のこちら側か向こう側、国境線のこちら側か向こう側のどちらかで起こって、どちらかの側に非情な、虫ケラの死をもたらす。 唯一、内側と外側の見境いがつかなくなって双方に決定的にやばいなにかを晒してしまうのが326とSonyaの恋で、なのでこれはものすごくデンジャラスで甘美な恋の物語でもある。
クライマックス、Haghiのビル内に毒ガスが放たれてどこかに消えてしまったかに見えた彼がどこで、どういう形で姿を現し、そして再び消えるのか - ここのテーマはやがて『死刑執行人もまた死す』でも変奏される、というか国家だろうがなんだろうが巨大組織と個人は常にこういうかたちで騙して殺して滅びるのだざまあ、っていうLangの根っこにある冷たい認識がくっきりと浮かびあがってすごいねえ、しかない。こんなのが第二次世界大戦の前に作られて、それでも、もちろん戦争を防ぐことなんてできなかった、と。
ここには悪も正義もない。悪も正義も存在しない、というのではなく、それらが本来機能すべき方に機能せず、スペクタクルとして消費され続けるばかりの現在を正確に照射している。丁度“Metropolis”が「進歩」の概念を無化したのと同じようにー。
松本アキラの机の上とかにある新聞の広告 - 婦人公論? とかが気になった。どこで手に入れたんだろう。
9.22.2021
[film] Street Angel (1928)
9月16日、木曜日の夕方、シネマヴェーラのサイレント特集で見ました。
少し前にみた”Lucky Star” (1929) に続くFrank Borzage - Janet Gaynor - Charles Farrellによるメロドラマ。邦題は『街の天使』。
ソーセージ盗られた!太鼓壊された!とかざわざわしているナポリの街中をカメラが動いていく - 街全体がオペラのセットのようですばらし - と、Angela (Janet Gaynor)の家に入っていって、彼女が医師から病気の母のための処方箋を貰って、でも薬を買うお金がないのでどうしよう、って仕方なく通りに出て自分の体を売ろうと誘いをかけてみたりするのだがぜんぜんだめで、衝動的にカウンターで飲んでいる客の横にあった現金をひったくろうとしたところを捕まり、客引き&窃盗は未遂でも一年拘留とか言われて真っ暗になり、隙を見て逃げだしてなんとか家に戻ると母親は亡くなっていて、それなのに警察は追っかけてきて、そのときに匿ってくれたドサまわりのサーカス団にそのまま雇われる。
サーカスで巡回しているうちに元気になって、そこの占い師から今日あんたの愛が現れるよ、って言われて公園で絵を描いているGino (Charles Farrell)にぶつかり、サーカスの客を奪っていた彼とは初めは喧嘩ばかりでつんけんしてて、なぜか彼が彼女にくっついて巡業に加わってて、彼女の肖像画を描いたりしてゆっくり仲良くなっていく - 「あたしこんなんじゃないわ」-「でも僕にはそう見えるんだよ」 - のだが、彼女が興行で足首を折って続けられなくなったので、サーカスを辞めてふたりでナポリ(ナポリ.. あそこはやばいかも、って彼女は思う)に戻り、彼の絵で食べていくことにする。最初はお金がなくて彼女の肖像画も二束三文でしか売れないのだがふたりでいると楽しくて、やがて教会の壁画を任されることになって、お金も入ってきたしほら、って指輪をだして明日結婚しよう、って盛りあがったところで、かつてAngelaを追っかけて取り逃がした警官がドアを叩く…
いま連れていかないで逃げないから1時間だけ彼といさせて、って頼んで、でも彼は有頂天で天国にいて、彼女にとっても天国だけど地獄のディナーを過ごして、引き止めようとする彼をごまかして、何も告げずにいなくなり、1年間服役するの。で、しゃばに戻って彼が描いたはずの教会の壁画のところに行ってみると別人の絵がかかっていて彼はクビになったと言われるし一緒にいた家は蜘蛛の巣だし。延々散々探し歩いて、浮浪者のようになっているGinoとAngelaはどんなふうに再会するのかー。
幸福の絶頂から喪失のどん底までを、彼の描いた肖像画 - 宗教画のモチーフに繋いで映画全体がひとつの絵画を形成する天球のように覆い被さってくる。Angelaに再会した彼が「おまえか.. おまえなのか!」って狂ったように追い詰めていくシーンにはドイツ表現主義映画のような魂の底の暗さと強さが全開で - まじで殺しちゃうのかと思った - でもそれを可能にしているのはやはりこのふたりだから、としか言いようがない。
最後のディナーのテーブルで本当に嬉しそうなGinoと、それを全身で浴びながら過酷な運命に立ち向かおうとするAngelaの引き裂かれた表情の生々しさときたら。最初からずっと流れているオー・ソレ・ミオの旋律 - 彼がしょっちゅう吹いている口笛とそれに応える彼女の口笛、そこに教会の鐘の音が被さりオペラの大合唱になって襲いかかってくる。これがサイレントのおそろしさなの。
ラスト、奇跡のように教会に現れる出会った頃にGinoの描いたAngelaの肖像 - 彼女は「あたしはずっとああなのよ」って言うの - 出会った頃の彼の台詞に返すように。
でもやっぱりAngelaは彼に一言告げて出ていくべきだったのかも..
RIP Richard H. Kirk..
高校のとき、Cabsの”Three Mantras” (1980)に出会わなかったらたぶん死んでいた。嫌いな奴とかに会う時、自分を殺して貝にして生き延びるしかないときには”Western Mantra”を頭のなかで鳴らしていた。いまだにそうだわ。
ありがとうございました。
9.21.2021
[film] Gunpowder Milkshake (2021)
9月14日、火曜日の晩、アメリカのNetflixで見ました。日本のNetflixにはまだ来ていなくて、英国はSky TVと劇場公開で、繋がるかしら見れるかしら、と思ったら繋がった。
タイトルがよいなー、と思って。語感のかんじとして”The Peanut Butter Falcon” (2019)のあたりに近いかも。
Sam (Karen Gillan)がどこかの組織を急襲する場面が冒頭。Samは幼いころにやはり暗殺者だった母Scarlet(Lena Headey)と別れて(別れさせられて)、その後は闇の組織The FirmのNathan(Paul Giamatti)に暗殺者として幼い頃から育てられて雇われている。
次の仕事はThe Firmの金を持ち逃げした会計士から金を奪い返す仕事で、図書館に行って母のかつての仕事仲間であるMadeleine (Carla Gugino)、Anna May (Angela Bassett)、Florence (Michelle Yeoh)と会って最新の武器を貰って - 武器は収蔵されている本の中に仕込んであって、『高慢と偏見』、『ジェイン・エア』、『自分だけの部屋』の3冊 - 現場に向かったら誤って会計士の腹を撃ってしまうのだが、彼は奪った金は誘拐された自分の娘の身代金だったのだと言い、お願いだからお金を持って交換場所のボーリング場に行って娘を取り戻してくれないか、と虫の息で請われ、Nathanの反対を押し切ってボーリング場に向かい、娘のEmily (Chloe Coleman)は保護するものの身代金のお金はふっとんでぱあ、会計士のいる病院に戻ると彼は亡くなっていた。
この件と、最初の襲撃でSamがロシアマフィアの大物の息子を殺していたことがわかったのとで、The FirmはもうSamを守りきれないって彼女に通告をして、SamはEmilyを連れて隠れ家に行き、そこで母と再会して、女性3人とも合流して、どんぱちの舞台は図書館に...
ストーリーとか考えなくてもかっこいい女性たち5人による血みどろのアクションとして十分に楽しめる。
ただし。ただし、図書館は静かに本を読んだりお勉強したりする場所で喧嘩や殴り合い殺し合いや爆破などをしてはいけない、本はくりぬいて武器や鈍器を収めるための器ではない - 空っぽの頭を埋めて世界のいろんなことを教えてくれる宝箱で、司書の人は収蔵されている図書を扱うプロで、武器や暗殺を専門にしている人たちではない - というあたりは基本の当然の、あったりまえの了解事項として置いたうえで。勘違いしないようにね。
出てくる女性たちはみんな強くて俊敏でかっこよく、出てくる男どもはみんなマッチョで野蛮で愚鈍でみっともなくて、実際にそうであってまったく文句はないのだが、”The Raid” (2011)あたりから始まって”John Wick” (2014)あたりで普通になってしまった(or ゲームでそういうのあるの?)ぐさぐさ接近戦の血が飛び散る描写の数々って、あれはいいのだろうか、痛そう~ っておもしろがればいいのか。なんかああいうのを見せずにやるやり方もあるんじゃないか、とか。
最後はみんなで風を切って走り去っていっちゃうのだが、図書館はあのままでいいの?そもそもあれは実は図書館ではなかった(経営;CCC)とか?
Kate (2021)
9月11日、土曜日の晩、日本のNetflixで見ました。日本 - 大阪? を舞台にした女性の殺し屋Kate (Mary Elizabeth Winstead)の話で、上の”Gunpowder…”とは痛そうな殺戮描写を含めて共通点がいっぱいある。小さい頃から暗殺者として育てられてきた孤独な白人女性が、仕事で誤って殺してしまった男の娘 – 非白人 - を連れて限られた時間(Kateは毒を盛られて24時間で死ぬ運命)のなかで襲ってくるやくざ達と戦って、最後には自分を育ててくれた男と対峙する。
そして彼女たちと殺しあう相手は、前者はロシアマフィア、後者は日本のやくざで、どちらも組織内の絆や掟の強さと組織に敵対する外の者に対する残虐さや不寛容は謎や脅威のような形で提示される。
日本のやくざの描写については、BBCで放映されて今はNetflixで見ることができるミニシリーズ - ”Giri / Haji” (2019)も同様で、この辺、どうなのかねえ、って。 この”Kate”だと、主人公が戦うやくざ社会/家族のありようと日本のアニメ/Kawaiiとかのポップカルチャーがなんのギャップもなく都市・繁華街・家屋のなかに共存している。もういっこ、”Kate”と”Giri / Haji”の共通項として、守られる対象となる日本の女性は若くて英語が堪能でコミュニケーターとしても優秀、っていうところとか。 – これらの(異国から見て)異様な戦う人/守られる人のありようって映画としてはCool !(とは決して思わないけど)で済んじゃうものかもしれないが、これらの映画の与えるイメージがこの国(どんな国でも)に暮らす人たち、あるいは/特に海外に暮らすアジアの人たちに対する偏見や差別を徒に助長するものになりはしないか、という点は注意する必要があると思った。結局先進国に暮らす白人向けのエンターテインメントなんだよね、で済まさないで。
あと、Woody Harrelsonて”Solo: A Star Wars Story” (2018)でもそうだったけど、育てた子に最後やられちゃうよね。
9.20.2021
[film] The Regeneration (1915)
9月10日、金曜日の午後、シネマヴェーラのサイレント特集で見ました。
前の日に見た映画のサブタイトルが”Degeneration”だったので、これで”Regeneration”することにした。邦題は『復活』。
Raoul Walshが28歳の時に監督した(現存する)彼の最初の長編映画で、世界最初のギャングスタ映画でもある。
原作はBoweryのキップリングとかディケンズの”Hard Times” (1854) の登場人物Mr. Bounderbyとか言われたOwen Kildare (1864–1911)のメモワール - ”My Mamie Rose” (1903)とそれを1908年に舞台化したのと。
ロウワー・イーストのスラムのアパートの一室で、10歳のOwen (Rockliffe Fellowes)は母を亡くして天涯孤独の身になって泣いているところで(その背後に猫がちょろちょろ)、向いの部屋の夫婦 - 飲んだくれで乱暴な夫とほぼ同体格の奥さん - の奥さんの方があの子かわいそうだからうちで引き取りましょうよ、って連れてくるのだが、そこも貧乏なとこは変わらずに虐められて散々なことばかりで、長屋の住人も面倒を避けて寄ってこなくて、そういういざこざばかりなので旦那を殴り倒してそのまま路上生活に入る。
やがて17歳になったOwenは魚市場で働いてて、仲間にいじわるしていた若者と喧嘩して勝ったりしていると立派な格好したやくざに認められて、25歳になる頃には地場の若者を束ねるリーダー格になっている。
彼らの反対側に街のギャングの一掃に燃える若い地方検事Ames (Carl Harbaugh)がいて、その婚約者で社会に役立つことをしたいって燃えているMarie Deering (Anna Q. Nilsson)がいて、Amesがディナーの席でギャングがいるところに連れて行ってあげよう、って舞台で演し物をやっているボールルームにみんなでいったら案の定いちゃもんつけられて、助けてー、って言ってたらMarieに見とれていたOwenが間に入ってくれたり、チャリティーで地元の子供達を招いた遊覧船にOwenの仲間たちも乗せてもらって、ちゃらちゃら遊んでいたら突然火事になって - みんな河に飛びこんだり救命ボートが転覆したりなかなかの迫力 - 子供達を救わないといけないところにOwenたちががんばってくれたり、夫がDV野郎で、ずっと泣いている赤ん坊を引き離したいって相談にきた妻のためにOwenが力になってくれたり、そうやってOwenとMarieは互いに惹かれあうようになる。
OwenがMarieを通して神の愛とか慈愛とかに触れて勉強したりよい人になっていく反対側でギャング団では二番手だったSkinny (William Sheer)がのしあがって、より荒くれの彼の下で警察とトラブルを起こしたかつての仲間を助けたことからふたりの間に少し亀裂が入って、でもやっぱり仲直りしたいと思ったMarieがギャング団のところに行ったら追い詰められて絶体絶命になって、そこに警察がなだれこんで大乱闘のどさくさでMarieは… そしてOwenは…
エキストラにBoweryやHell's Kitchen周辺のほんもんのギャングたちを大量に採用しているので、スラムの様子も人々の顔も階段で遊んでいるガキとか猫とかもはんぱじゃない迫力と佇まいで、遊覧船火事から大乱闘まで見せ場もいっぱいあって、でも最後は一騎打ちと魂の救済のようなところまで踏みこんだてんこ盛りで、これをたった72分に見せてしまうってどう考えてもすごい。Martin Scorseseならぜったい3時間かかる。
とにかくRaoul Walshってどの作品見ても殴り合いのシーンがほんとにダイナミックで力強くて痛そうで、それはもうこの時点からそうだったのかー、って改めて感銘を受けた。 Wikiのページでも全編見れるので、見てみてね。
エミー賞で”Mare of Easttown”のKate Winsletとかがたくさん選ばれてうれしい。英国での最後の日々に見ていたドラマで、でも途中で日本に帰ってこなきゃならなくて、こないだU-Nextにようやく入ってくれたので、これの残りを見るために加入した。まだあと2エピソードくらい。 おもしろい、というのとはちょっと違う、異様な生々しさ息苦しさに満ちたやつで、撮影はTaylor SheridanとずっとやってきたBen Richardsonだったり。
9.18.2021
[film] The Card Counter (2021)
9月10日、金曜日の午前、Metrographのバーチャルの一回きり上映会で見ました。
夏休みの2日目だったので、朝9時からのでも見れた。前の日に見たやつの重めのが残っていたのだが、スチールを見たら見たくてたまらなくなるやつ - なるよ、そんなOscar Isaac - だった。
こないだのヴェネツィアにも出品されたPaul Schraderの作/監督作品。”First Reformed” (2017)の次のー。
Executive ProducerにはMartin Scorseseの名前もある。
William Tell(自称)(Oscar Isaac)はポーカープレイヤーとして全米を渡り歩いているのだが、宿泊するモーテルに着くとまず部屋に貼ってある絵や飾りを外してどけて、ベッドや椅子や照明を持参した布と紐でぐるぐるに覆って縛って、カード賭場での「仕事」と食事やバーでの時間以外はその上で書き物したり寝たり、僧侶のようにものすごく潔癖で規律に貫かれた日々送っている。ギャンブラーのタイプとしては”Hard Eight” (1996)でPhilip Baker Hallが演じたSydneyのような。
彼自身のナレーションでカードプレイ - ブラックジャック、ポーカーからルーレットまで - の攻め筋とか決まっている極意のようなものを淡々と語りつつ、そんな彼のストイックな洞察や生活態度がどうやって生まれてきたのかについて、かつての刑務所での服役生活が語られ、更にそれをもたらしたアブグレイブの収容所で囚人を拷問してその様子を嬉々として写真に撮ったりしていた過去 - が語られる。
やがて途中で拾った若者Cirk (Tye Sheridan) -「カーク」だけど”C” - との会話から、CirkはTellと同様アブグレイブにいてその後逮捕されて自死した父親を持ち、その仇として当時収容所の上にいながら無罪放免となったGordo (Willem Dafoe) - 現在はセキュリティアドバイザーのようなことをやって稼いでいる – を付け狙っていることがわかる。
カードのトーナメントの資金調達をしてくれるかつての恋人La Linda (Tiffany Haddish)とCirkの3人でアメリカを旅して、緩く - 次はどこそこで会おう – 賭場に集まっては散ってを繰り返しつつ、全米から賭場に集まってくるいろんな人たち – “Mr. USA”っていう勝つと”USA! USA!”って雄叫びをあげるうざい奴 - とかを横目で見つつ、ひたすらカードに集中してカウンターに向かうTellの姿を浮かびあがらせる。
カードに向きあって集中して黙考する彼の姿は十字架に向かう聖職者のようであり、Edward Hopperの絵(になかったっけ?)に出てくるなにかを抱え込んで逃げられず動けなくなってしまった都市生活者のようでもあり、永遠に次のカードを待ち、その次をどうすることを考えることでのみその生を維持している人、のよう。
やがてトーナメントでそこそこの勝ちを収めたTellは、手元に貯めておいた札束の殆どをCirkに渡し、これで借金を返してオレゴンの母親のところに戻って一緒に暮らすように諭して別れるのだが、その後にCirkはGordoのところに向かって..
上映後の監督とのQ&Aでも指摘されていたように最後の方は”Taxi Driver” (1976)を思わせたりもするのだが、どちらかというと”First Reformed”の流れで、苛烈だった過去から逃れらないまま固まってしまった男がかつての自分のようになにかに憑かれて彷徨う若者の魂と出会って動揺しつつある行動にでる、そういうドラマ、なのかもしれない。”First Reforned”のEthan Hawkeが日記を書いていたようにTellはカード・カウンターに向かう。書くこととカードを待つこと、そして次の手 - 勝ち負けとは少しちがう決着をつけることについて。
それにしても、旅の最後に立ちはだかるのがまたしても加虐指向を煮詰めたような怪物Willem Dafoeであるってどういうことだろう。 ”The Lighthouse” (2019)で対峙するRobert Pattinsonのことも思うとほぼ定番の怪物扱いのような。
そしてEthan Hawkeのよい意味でのわかり易さとは反対側にあるOscar Isaacのよい意味での黒光りする不気味さと異様さ。
でっかい音で聴いたら気持ちよさそうな音楽は、Black Rebel Motorcycle ClubのRobert Levon Been、この人はPaul Schraderの”Light Sleeper” (1992)の音楽を担当したMichael Beenの息子さんなのね。
とにかく低気圧をなんとかしてほしいのだがそれ以上にー。
9.16.2021
[film] Lucky Star (1929)
9月8日、水曜日の夕方、シネマヴェーラのサイレント映画特集で見ました。邦題は『幸運の星』。
サイレントだけど、最初の劇場リリースのときは最後の25分間だけ音や声が入ったバージョンだったという。
“Lucky Star”というとMadonnaの1983年のシングルなのだろうが、わたしはどちらかというとFriends Againっていうしょうもないバンドの”Lucky Star”の方で、Frank Borzageも好きなので見る。
1917年のアメリカ、Mary (Janet Gaynor)は牛や鶏がいる貧しい酪農家の娘で、父親はいなくて未亡人の母親と幼い兄弟たちを抱えて朝早くから乳搾りとかがんばっている。いつものようにミルクを配達にいった電線工事の作業場で、親方のWrenn (Guinn Williams)からやな扱いを受けて、彼とTim (Charles Farrell)が電柱の上で殴り合いの喧嘩をしているのを目にする。そこでWrennがMaryに投げた代金のコインを彼女がごまかそうとしたのを見たTimは彼女のお尻をひっぱたく。
やがて第一次大戦でWrennもTimも志願兵としてフランスに行って、そこでもふたりは同じ隊に配属されて、ふたりとも同時にMaryから手紙を受け取ったりしている(Timへの手紙はややそっけない)。ある日上官のWrennから押し付けられた食糧の配送中に運転する荷車が爆撃にあって、Timは半身不随の車椅子になってしまう。
地元に戻ったTimは一軒家で一人暮らしを始めて、自分でいろんなものを作ったりしていて、あまり人が寄ってこないのが寂しくて、仕事の途中で通りかかったMaryに声を掛けるものの、彼女はかつて自分のお尻をひっぱたいた彼を警戒している。でも彼が車椅子で動けないのを知って、少しづついろんなことを話していくとだんだん打ち解けてきて、Maryはいろんなものを持ってくるようになって彼は自分が作ったいろんなものを見せるようになって。
このふたりが仲良くなって、ばいばいするときにMaryが振り返るところとかすごくよくて、ある日Maryが卵を持ってきたので、これでシャンプーしてあげよう、って頭の上で卵を何個も割って泡立てるところとか(やってみたい)。で、洗って乾かしてみたら彼女は黒髪だと思っていたのがブロンドのふわふわ髪で、体もところどころ汚れているから拭いてやろうか - ところで君はいくつなの? って聞くと18だというので、慌てて目を逸らしたり(ずっとただのガキだと思っていた)。この辺、昔の少女マンガの典型みたいだけど、たまんない。
そうやってこぎれいになったMaryは村のダンスパーティーに行ってみたいな、って貯めたお金でドレスを買って、Timのところで着替えてパーティに向かうのだが、そこに現れたのが軍服で偉そうなWrennで、他の女の子とも問題起こしていたりで周囲からは評判わるい。彼がMaryに目をつけて強引に口説いてきて、MaryはTimの方が好きになっていたので逃げるのだが、翌日WrennがMaryの家に現れて彼女の母親に噓八百だの贈り物だのならべて取り入ってくる。 MaryはTimのことを母親に打ち明けるのだが、あんな片輪者と一緒になってもよいことなんかひとつもない、家族のこれからのためにもWrennの方と結婚しておくれ、って返す。
せめてTimと直接会って話してほしい、とMaryは母に懇願するのだが、約束したその当日は大雪で松葉杖でも満足に歩けないTimにはとても無理で、MaryはTimから貰ったレコードプレイヤーで音楽をかけてお祈りしながら待つのだが、雪は止まずにそのまま夜が明けて、母はしょうがないんだよ諦めな、って迎えにきたWrennの馬車に彼女を引き渡すの。
その頃Timは、雪の上で何度も転んでは起きてまた転がってを繰り返しながら少しづつ歩けるようになっていって..
シネマヴェーラの紹介文では『涙なしには見られないメロドラマ』とあったので、そのまま雪に埋もれてTimは死んじゃうんだわかわいそうすぎる、と思っていたらそうはならなかったのはよかった。
とにかく向かい合って見つめあうふたりの真横からのショットだけで幸せいちころであとはなにもいらなくなる、そんな素敵なやつなので、Lucky Starっていうのはあんたたちのこととしか言いようがないわ、って。
Frank Borzage - Janet Gaynor - Charles Farrellのトリオのは、今回の特集で3本かかるので、全部見たい。(今日2本目みた)
9.15.2021
[film] DAU. Degeneratsiya (2020)
9月9日、木曜日の午後半分で見ました。この日から夏休みをとっていて、夏休み初日にこういうのを見てしまうのだからどうしようもない。邦題は『DAU. 退行』、英語題は” DAU. Degeneration”。 全6時間9分。
実在したソ連のノーベル賞受賞物理学者Lev Landau (1908-1968)- ニックネーム”DAU”が構想して君臨したソ連の巨大研究施設 – 施設内で研究から生活まですべて賄う - の精巧なレプリカをウクライナに建設し、そこに集めた素人を含むキャスト10000人以上を実際に生活させて、そこで行われた実験や施策や各種講演やセミナー、そこで彼らが生活していく姿を13年に渡ってカメラで追い、そこでかつてのソ連の全体主義や恐怖政治がどんなふうに浸透して顕現するのかしないのか、それはどういう人格や支配様式や機構や習慣によってもたらされるものなのかを「実験的に」捕らえようとしたアート・プロジェクト = 「DAUプロジェクト」で撮影され編集された14チャプター、2019年のパリのプレミアと翌2020年のベルリン国際映画祭での2チャプターの上映後、そのやり方の倫理的是非を巡りいろんなスキャンダルや問題が露呈して、いまのとこ、コロナ禍とぶつかったせいもあるのか、上映館でふつうに公開がされたのは日本だけ。ロシアではふつうに上映禁止。
というプロダクションの事情や背景、後日談は見た後に知った。知っていたら少し考えたかも。 あと、見た時点ではこれの前の時代のドラマ『DAU. ナターシャ』 - ベルリン映画祭の銀熊受賞作 - も見ていなかった(9/12にストリーミングで見た)。
ダンテの『地獄篇』の九圏に倣って展開されていく全九章。時代は1968年頃。
要塞のような巨大施設の概要が紹介された後、施設を訪問したキリスト教の宗教学者とユダヤ教のラビが宗教とは、という話をする。絶対神はいかにして可能となるのかとか、それを可能とする民の受容のありかた、のようなこと。ここでは科学としての共産主義が神となるのだが、創造主であるはずのDAUは老いて車椅子で動けず喋れず、来訪者に対しても固まって手を振るくらいのことしかできない。
冒頭に登場する宗教者とか、学者による講義やディスカッションのところは、俳優ではなく実際にその領域の学者や知識人が演じている、というよりそのテーマについて直に語る姿をそのまま映していて思想的な裏付けや背景は申し分ないかんじ。他にも何を狙っているのか祈祷をしている呪術師の姿やアーティスト - Marina AbramovićやCarsten Höllerの姿も見ることができる – これらも、実際に研究所で召喚されていた人々やイベントをモデルにしているらしい。
研究所で行われたデモンストレーションや講義の他に、赤ん坊や動物を使った実験(まさか本当に実施してはいないと思うけど)や超人育成プログラム、の様子も紹介されて、このプログラムに参加した「超人」達 - 実はたんなるレイシストのごろつき - は後半の展開に大きな役割を果たすことになる。
他には食堂の入り口でいつも酔っぱらって寝転がっている「人事部長」や食堂を運営する側のウェイトレスや料理人や使用人たちのブリューゲルの絵のような姿 - 職業によって階層化された社会の低層で好き勝手に飲んだり食ったり「堕落」している彼らと、ハイエンドの学者・研究者たちの他に、研究所を政治的に動かし運営し検閲し浄化しているKGBの連中とか、理想に燃えてやってきてだんだん洗脳されていく学生たちとか、王室のように象徴として暮らすDAUのファミリーがいる。
これらの登場人物の間で、いかにソ連の根幹となる共産主義のイデオロギーと研究所を国家にとって安全確実に維持・運営できるように為政者が(地下)活動し暴走していくのかを、西欧の音楽を流してダンスしたりはっぱを吸ったりして羽目を外していた学生たちひとりひとりを尋問して丸坊主にしたり、秘書に対するセクハラを繰り返していた所長に辞表を書かせて強引に交替したりといった密室での問答無用の手口とともに描いて、恐怖政治をあぶりだしていく。
8章あたりまでは、そうやって日々の生活に忍び寄る全体主義の恐怖をじんわりと重ねて描いていってああ怖いねえ、くらいなのだが、最終章で所長や警察の後ろ盾を得た「超人」たちのバイオレンスが爆発して阿鼻叫喚の地獄絵に突入してしまう。その予感は十分にあったものの、あそこまでエクストリームに行くのか、と。英国上映版ではカットされたという豚の屠殺、というより豚殺しの場面は凄惨すぎて見れなかった(ベルイマンのドキュメンタリーでの屠殺シーンは見れたのに)。実際にそういうことがあったのかどうか、知らんけど、ああいうのは見たくない。
最後、誰もいなくなった廊下には豚さんたちが残って、「科学は幸福、真実こそ理想」とかいうの。
内容は濃くて、どのエピソードもホラーに近い緊張感どろどろで見応えたっぷりだし、今後こんな規模で映画が撮られることはない気がするので、興味と時間があって、コロナで精神的にきつい状態になっていない人は見た方がよいかも。でも見ていてなんかどんよりしてくるもうひとつの理由は、この映画そのものよりも、この映画が映しだす管理統制ディストピアの理不尽や不条理がいまのにっぽん社会のそれを簡単に思い起こさせてしまうところだと思う。これは共産主義(共産党)がー..っていうそっちの話ではなくて、日本の政治機構の中枢にいるじじいだの宗教関係者だのがこの映画の共産主義とおなじように無盲目に崇拝している家父長制、その敷布のうえであれこれ動いていく – 支配される側はそこになんの疑念も抱いていない、その辺のー。
家父長制をテーマに日本でも同様の閉鎖環境下でのドラマを作ったらおもしろいかも。でもいまの日本て、知識人たちの風貌がものすごく弱いよねえ。昭和なら迫力ある恐そうな人たちいっぱいいたのに(そうかだからか)。
あと、35mmフィルムで撮っているらしいけど、カメラの動きとかボケはもうちょっとなんとかならなかったのか。R.W. ファスビンダーあたりがきちんと撮ってくれたらすばらしいものになっただろうにー。
Norm MacDonaldが亡くなってしまった。90年代〜00年代のSNLのキャストはみんな大好きだったのでとても悲しい。 土曜日になると友達みたいに現れて笑わせてくれた彼らにどれだけ助けられたことだろう。
ご冥福をお祈りします。
9.14.2021
[film] Le choc du futur (2019)
9月5日、日曜日の昼、”Miss Marx” (2020)に続けてシネマカリテで見ました。
英語題は”The Shock of the Future”。監督はカバーユニットNouvelle Vagueの片割れ - Marc Collin。
70年代の終わり、壁一面のモジュラーシンセとゴダールの“Numéro deux” (1975) - 『パート2』- のポスターが貼ってあるパリのアパートでAna (Alma Jodorowsky)が目覚めて気怠げにタバコを吸ったりしていると、彼女に広告音楽の仕事を依頼したらしい中年男が現れて締切の今日中になんとかしてくれないと困る、と文句を言い、彼女はがんばってみるけど機材が壊れていて、とか言い訳して追い返す。その後の電話の会話などからこの部屋は持ち主(含む機材)の彼が長期で空けているところにAnaが間借りして、機材も使わせて貰っていることがわかる。
シンセの修理に来た男がたまたま抱えていたリズムボックスRoland CR-78を試させて貰ったAnaは、これさえあれば! って気がしたので、それを強引に借りていろいろ試してみるのだが、結局締め切りには間に合わずにあーあ、ってなっているとそれ用の歌入れを頼んでいた女性 Clara (Clara Luciani)が現れて、ごめんできなかったのでキャンセルで、と謝ると、このシンセおもしろそう、って寄ってきたのでふたりでいろいろ遊んでいたらClaraが詞を書き始めて、ふたりでなんとか一曲こさえて、それを晩のパーティでお披露目して業界の人たちに聞いて貰おうぜ! って盛りあがる。
お披露目はうまくいったみたいな気がしたのだが、ターゲットの業界の人は「いいんじゃない」くらいの無反応だったので、Anaは泣きながら外に飛び出して、まあまあって別の男に近くのスタジオでレコーディングしているバンドがいるから行ってみよう、って誘われて、その演奏を見て話を聞いて少し持ち直すの。それだけなの。
なんか、シンセの登場が当時の音楽の世界にもたらした衝撃や驚きの話と、Anaがこの世界で成功したいんだ、っていう野望の話がうまく噛み合っていないかんじがした。スイッチを入れてツマミを回したり鍵盤を押したりすると予想もしていなかったような音の雲が現れてツマミの操作でその雲が粘土のようにぶにょぶにょしたり色や肌理が変わったり、そんな音を出したりミックスしたりしながらなにができるかわからないスリルに身を委ねる遊びの楽しさと、それを曲として組みあげてみんなに聴いてもらいたいって願うのって異なる欲望ではないか - 食材を探して料理を試行錯誤する楽しさと料理を食べてもらう喜びが別であるように - とか思うのだが、そんなことないのかな。
本作の会話の中にも名前 - Laurie Spiegel - が出てきて、映画の最後に捧げられている彼女を含む女性の電子音響/音楽家たちを取りあげたすばらしいドキュメンタリー “Sisters with Transistors” (2020) – 必見 - を見ると、みんな成功なんて考えずに好き勝手にやっているうちに気付いたら.. ってかんじなのだが。
音楽が誕生する瞬間、混じり合ってぶつかる何かが別のなにかに変貌するその魔法の一瞬がちょっとでも捕らえられていたらなー、って。『右側に気をつけろ』(1987) のLes Rita Mitsoukoの演奏シーンの、あのぞくぞくくるやつ。
Anaの部屋にレコードコレクターのようなおじさんが当時の最新の音楽を紹介しにくるところがおもしろかった。Throbbing Gristleの”United”からAksac MaboulとかSuicide(50年代ぽくて変なの、っていわれる)とか - うん、まあわかるよ - で、最後にシェフィールドからの革命だ、ってThe Human Leagueを流していくの ← これは正しい。あと、よいレコードを漁れる聖地として「東京」の名前があがるのだが、ほんと? 今じゃなくて70年末に? 西新宿?
日本ではどうか知らないけど、バンドのNouvelle Vagueって英国では結構人気で、カフェとかブチックでよく流れていることがあって、彼らがボッサアレンジしたNew Waveとかを聴くとなんかうずうず痒くなって家に帰ると爆音でオリジナルをかけてしまったりする。”Ever Fallen In Love”なんか特に。 この映画にもそういう効果はあるかも。
今日はLondon Film Festivalのチケット発売日で、まだメンバーなので一応サイトにアクセスしてざっとみて、ストリーミングで見れるやつの本数の少なさに泣いてる。 NYFFもそうだけど、現地に行って並んでもいいから見たいよう。
9.13.2021
[film] Miss Marx (2020)
9月5日、日曜日の昼、シネマカリテで見ました。
昨年のヴェネツィアでプレミアされた、作/監督はイタリアのSusanna Nicchiarelli(前作はNicoの評伝映画”Nico, 1988” (2017))- 未見)、撮影はCéline Sciammaの作品で知られるフランスのCrystel Fournierによるイタリア-ベルギー映画。舞台は19世紀末のイギリス。
冒頭、Eleanor Marx (Romola Garai)が偉大なる父のKarl Marxの葬儀で弔辞を述べて、父と亡き母との愛の絆とその歴史が語られる。まだ幼い姉の息子が気になるものの経済的にはFriedrich Engels (John Gordon Sinclair – “Gregory's Girl” (1981)のGregoryだよ… )が父の遺産の管理を通じて援助してくれている。
Eleanorはシェリーを社会運動家として紹介して客席からぶーをくらった劇作家のEdward Aveling (Patrick Kennedy)と仲良くなって、一緒に暮らすようになり、一緒にアメリカに渡って工場の使役の現場を見たりしながら自身の社会思想家/運動家としてのビジョンを固めていく。他方でだんだん明らかになっていくEdwardの浪費癖 – なんも考えずにお金を使いまくる - とか、女性にだらしなかったり – 突然妻だという女性が戸口に現れる – とか、アヘンでらりらりするのが大好きで能天気な快楽主義的な性向が頭にくるようになってきて..
他にもEngelsと家政婦の間の子供だと思っていたのが、そうではなかったことが明らかにされたり、彼女が尊敬する父から受け継いだ社会や労働や家族に対する熱い想いと理想と、彼女の身の回りで展開されていく現実の居心地のわるさ、といった段差がじりじり広がっていって、それは子供の労働を当然のことと思っている支配階級への幻滅だったり、ふたりの関係については最初の方でEleanorとEdwardが余興で演じたイプセンの『人形の家』のノーラとヘルメルの対話 - 父からの抑圧から逃れたと思ったら彼からも同様の抑圧受けていたことに気付くとこ – そのままだったりして、くたびれて嫌っていたアヘンに手を出して、家のなかで怒りをぶちまけた後に服毒自殺してしまう。
評伝ドラマとしては割と平板な可もなく不可もないかんじなのだが、はっきりと理想を掲げて壁にぶちあたった女性の怒りと苛立ちを共産主義とフェミニズムと共にぶちまけるさまを当時の(挫折した)パンクとして描く、というところは今にまっすぐ刺さるテーマでもあるので、そんなに悪くないかも。ラストにどいつもこいつもざっけんじゃねーよ! ってひとり天を仰いで仁王立ちするRomola Garaiさんはすばらしい。それにしても、彼女の周りに寄ってくる男たちってほんとにどいつもこいつも - マルクスだってエンゲルスだって – どうしようもないのでしみじみかわいそうになる。
音楽は”L'Internationale”も含めてアメリカのDowntown Boysがやってて、決して悪くはないのだがしかし、音がみっしりと厚い最近のパンクの音で画面のトーンに合っていない気がして、あーこれなら、The FallとかSlitsとかせめてBikini KillとかせめてHoleとかを適当かつがんがんに流してくれたら、旧左翼のおじいさんなんかも寄ってきたかもしれないのにー、とか。しらんけど。
あとは、やっぱし社会主義運動やサフラジェットに向かっていくアクティビストとしての側面はもうちょっと強調されてもよかったと思うし、折角ヨーロッパ中心とはいえインターナショナルなスタッフを集めたのだから、もうすこしイギリスの外の視点や展開があってもよかったかも - 彼女が翻訳した『人形の家』や『ボヴァリー夫人』、他に南アフリカの作家Olive Schreinerくらいしかその窓はなかったのだろうか。この時代のイギリスにはこれらの腐ったところも含めてぜんぶあったのかもしれないけど。
もう9月も半分て、いいかげんにしないか。
9.11.2021
[memo] September 11 2021
あれから20年なのでなんか書く。
20年ということでTVからは当時の映像がいっぱい流れてくるのだが、未だに見ることができない。発生当時の日本のメディアの無神経で無責任な報道の仕方は相当あたまに来たものだがそれは20年経っても何ら変わっていない。これらを海の向こうの衝撃映像(&お涙)として扱ってしまうことがどれだけ幼稚で恥ずべき日本(よかった→)すごいを植え付けて醸成してきたか、それが結果的にどれだけこの国を貶めているか、わかってる?
いまから10年前、あれから10年たった地点でどんなことを思ったのかはこのサイトに書いたのだがしかし、あそこから10年も生きることになるとは思ってなかったしまだこんなの書き続けているとは思わなかったし。 でもなんか書こう。
20年たった。というとレコードの世界では、20年前のこの日、この盤がリリースされました、とか知ってがーんもうそんなに、ってショックを受けて楽しんだりするのだが、この日のこの件については、もうそんなに、というよりまだこんなところで、って速い遅いというより、変わらない現実の塊りのままならなさ、みたいなのに苛立ちとか諦めとか無力感とかなんで?が大量に押し寄せてくる。映像を見れないのはこの辺もあるのだろう。
あの日以降、街中の至るところに貼りだされた行方不明の家族や恋人や友人を尋ねる手書きの貼り紙、もうとうにどこかに片付けられてしまったあれらの紙片に書かれていた、どこかに消えてしまった人達は、未だに探し求められている状態のまま、探す人は20年後の姿だったり探される人は20年前の姿だったりしながら、でもみんなどこかにあるはずの会いたい場所で、会ったら話したいこの20年を抱えたままずっと両側でうずくまってきたのだと思う。
WTCが崩れて3日後だったか5日後だったか、地下鉄が動きだしたというので近くに行ってみたの。結構離れたところでもまだ真っ白な埃もうもうで視界はほぼゼロ、石灰の焼けたのに酸がかかったような匂いが襲ってきて、10分で咳が止まらなくなったので帰ったのだが、あのとき、なにをしにいったのか、なにを見ようとしていたのか、20年前の自分に聞いてみたい、そんな20年、でもある。あのときに撮った現像していないフィルムがどこかにあるはずー。
あのテロを受けてブッシュがイラクとアフガンに派兵して、はっきりと世界は変わった。どう変わったのか - バランスが崩れたいう言い方には違和感があるし、発端はあの崩落なのだろうし、でもこれは割とみんなが「報復」措置として侵攻を認めてしまったものの、世界的には認められていないあってはならない異様な「戦争」で、これに巻き込まれたイラクやアフガンの犠牲者やその家族の数を、その怒りと痛みの拡がりを無視してはいけないのだし、先月末の撤退で更に新たな火種を撒いて抱えこんでしまった。はっきりと。
そしていまの足下にはコロナもある。政治家たちはこの局面でも戦いを、戦うことの意義や正当性をいろんな形ですり込んで(or ごまかして)きているけど、ウィルスが教えてくれるように「テロとの戦い」の本当の「敵」はなんだったのか、そういう「敵」は「戦い」によって収束できるものだったのか、ここらで振り返って反省しておかないと苦しみも憎しみもなくならないし、50年経っても行方不明の人たちは還ってこない。
これはアメリカのこと、ではない。すぐ隣(どこでも、どの国でも)で苦しんでいる人たち、明らかに攻撃の矢を向けられて苦しむであろう人たちのこと、彼らの痛みを自分の、自分たちのこととして受けとめて20年間に崩れ落ちたふたつの塔を、掘られた穴を見ること。
それなしだと次の10年を迎える前にみんないなくなるよ。
9.08.2021
[film] Wildfire (2020)
9月4日、土曜日の晩、BFI Playerで見ました。
作/監督はこれが長編デビューとなるCathy Bradyによる英国/アイルランド映画。
冒頭、アイルランド紛争の緊迫した映像と、続けてついこないだのBrexitの映像のなか経済問題として語られる両国の姿が流れる。
フェリーで海を渡っているやや疲れた女性がいて、到着したイミグレーションゲートで怪しまれて服まで脱がされても小さなポケットナイフくらいしか出てこなくて、でも家族からあなたの捜索願が出ている、と言われる。彼女はそこを抜けると車を捕まえてヒッチハイクで内陸にある国境近くの町を目指す。
これがKelly (Nika McGuigan)で、彼女はご無沙汰にしていたらしい姉のLauren (Nora-Jane Noone)の家の扉を叩く。Laurenは突然の訪問と再会に驚いて心配しながらも行くあてのなさそうなKellyを家に置いてあげるのだが、Laurenには夫(あまり喋らないがやさしそう)がいて、昼間はでっかい物流の倉庫で働いていて、職場の人間関係はあまりうまくいっていないかんじ。
1年近く失踪していたKellyがなぜ突然戻ってきたのか、なんの説明もないのだが、姉妹がまだ小さかった頃に車でふたりを連れだしてから自殺した母親の直前の姿が姉妹それぞれの視点で何度もフラッシュバックされるので、それがKellyに対しても姉妹の関係そのものにも傷となっていることが暗示される。Kellyの滞在が長くなるにつれてあんま先のことを考えずに近所をぷらぷら出歩いて子供達と遊んだり昔住んでいた家を訪れたりしている彼女とLaurenの夫婦との間、ご近所界隈、Laurenの職場、等でいろんな摩擦が出てきて、互いの瘡蓋をはがし合うような諍いを繰り返しながら、ふたりは過去の一点に向かって/一点を巡ってだんだんと近づいていって、結果、周囲からは孤立していって。
そのやりとりのなかで彼女たちの父もまた紛争(直接間接かはわからず)で亡くなっていることが示され、いまの苦しい生活環境がもたらした彼女たちの孤立は母が自殺したときのそれに同期していくかのようで辛くて、でもそれ故に双方の痛みがふたりをバインドしていって、パブのジュークボックスから流れるVan Morrisonの”Gloria”に合わせてふたりが踊って叫んで抱きあう場面はすばらしいの – それを眺めて苦虫の男たち、という図も。
よくある家族の喪失を巡って、ふたり取り残された姉妹のお話し、ではあるのだが、その発端となりふたりの間の真ん中に横たわっているのは北アイルランドとアイルランドの国境で、両国の抗争に端を発したなにかは半世紀以上に渡って、いまだに人々を苦しめる、その生々しさと痛みが十分に伝わってくる。明確な差別やヘイトのそれとは違う - 間接的には格差の話なのかもしれない、でもあとに残されたものの行き場を失った怒りはWildfire - 野火として国境周辺を焼き尽していまだ消える気配なんてないのだ、と。
最後のほうの母の死の真相をめぐる姉妹のやりとりはとても切なく、でもやさしく彼女たちを包んで、そこからの事故と逃走に転がっていく流れは、じたばたつんのめってたどたどしいけど、拳を握りしめてしまう。
Kellyを演じたNika McGuiganさんの少し疲れてみえるけど絶対やられるもんか、の面構えと、Laurenを演じたNora-Jane Nooneさんの火がついたら止まらない燃える目と立ち姿、この姉妹が並んだときの絵は、Kellyが着ている赤 - 母が亡くなったときに着ていた – で最強のものになる。”Black Widow”のあの姉妹みたいに。
そして、Nika McGuiganさんが映画の撮影後、癌で亡くなっていたことを知ると言葉を失う(映画は彼女に捧げられている)。映画の公開もそのために少し遅れたと。ご冥福をお祈りします。
あのあとのふたりはどこにー。
9.07.2021
[film] Shang-Chi and the Legend of the Ten Rings (2021)
9月4日、土曜日の午前、六本木のTOHOシネマズで見ました。2Dで。どうでもいいけど、なんでこれはTOHO系で上映可になっているの?
次フェーズに入ったMCUの対アジア戦略とかいろいろあるのだろうが、単にカンフー映画好きだから、程度で臨んだ。のだが、渾沌のMorrisが出てきた時点でめろめろになってしまったので極めて適当なことしか書けないかも。
監督は”Short Term 12” (2013)や”Just Mercy” (2019)を監督したDestin Daniel Crettonなので間違いないはず。そしてBrie Larsonは出てくるにちがいない、と思ったらやっぱり。
数千年前、Ten Ringsを手に入れたXu Wenwu (Tony Leung)は不老不死の不死身の無敵になってずっと悪の組織の中心で生きてきて、でも山奥にある伝説の村ター・ローに攻め入ったらそこにいた女性 - Jiang Li (Fala Chen)とカンフーバトルの末に恋におちて、彼女は村をでて彼は組織を捨て、ふたりの家庭をもってふたりの子供が生まれて幸せだったのに、Liの死をきっかけにWenwuは悪の組織の首領に復帰して、そこで殺人兵器として鍛えられた息子のShang-Chiは殺しのミッション遂行前に父の前から消える。
サンフランシスコでホテルマンとしてうだうだ働いていたShang-Chiから名前を変えたSean (Simu Liu)はある日音信が途絶えていた妹では? と思われる封書をマカオから受け取り、どうしたものかと思っていると同僚のKaty (Awkwafina)と一緒に路線バスの車内で襲われ、バス真っ二つバトルの末に母の形見のペンダントを奪われて、同じことが妹の身に及ぶことを危惧した彼はKatyと一緒にマカオに飛ぶ。
封書にあった住所は建築中の高層ビルで、いきなりエレベーターに乗せられ、そこの上で行われている闇バトルに強制参加することになったらその喧嘩相手は妹のXialing (Meng'er Zhang)だったので、びっくりしているうちにやられちゃって、でもそこにサンフランシスコのと同じ敵が現れて妹のペンダントも奪おうとして、こいつらなんなんだ、と言っていると父Wenwuが。
彼らは隠し砦に運ばれてWenwuは亡くなったはずの妻が実は村の岩戸の奥に閉じ込められている、自分には彼女の声が聞こえるので救出しにいくのだ、って聞かなくて、ペンダントを奪ったのもその手掛かりを探るためだった、と。そんなの嘘だ魔物に騙されているんだと思う兄妹は組織に先回りして村に入り、伯母のYing Nan(Michelle Yeoh)の助けを貰いながらWenwuとWenwuが岩戸を開けちゃった場合に備えてバトルの準備をする。やがて現れたWenwuはやはり一心不乱に岩戸をどかどか殴りだして、その裂け目からは魔物どもがわらわらと..
中国数千年の歴史が育んだ魔物化け物も含めた森羅万象があって、そんなんでも家族の絆は大事で必要で、それらを獲得する手段としてはカンフーとかギロチンとかTen Ringsとかがあって、という世界観をカンフーに着目して描こうとするとどうしてもマニア向けのエイジアン・エキゾチシズムたっぷりのB級アクションになりがちだったところを、ハリウッドの - MCUの力技は(細部はいろいろあるにせよ)あんま違和感なく繋いだ超大作のスケール感をもってまとめあげてしまった。もちろん”Black Panther” (2018)が持ちえたような普遍性や訴求力にまでは達していない – それはなぜか、は考察する価値はある – かもだけど、はじめの一歩としは十分ではないか。
偏見を抱かれがちだった家父長制や男尊女卑のようなところも慎重かつ大胆に上書きしようとしている - ここはアジア圏のなかに暮らすひとと外から見るひとの間にギャップがどうしてもあって(Destin Daniel Crettonは、そういう段差や困難を常に描いてきたひとでもある)、それが隙とか弱さに繋がってしまうところがあるのかもだけど、それでもこの一歩は大きいと思いたいし、九尾狐とか麒麟とか龍とか、ここで解き放たれたものがハリウッド版ゴジラのように受け入れられていったらよいな。いやゴジラとはちがう..
カンフー映画としては、最初のWenwuとLiの組手が圧倒的にすばらしくて(”The Grandmaster” (2013)までは届いてないか?)バスの中のパニックも面白くて、ビルの足場を使ったのはジャッキーチェンもののコピーみたいで、ター・ローの村のはカンフーというより指輪物語みたいになってしまうのだが、その強引な魔法も含めて悪くないかんじで、結果としてはWenwu- Tony Leungの一人勝ちのようなかんじ。それでよいのか? なんかみんなよい、って言ってる。
あと、最近のMCUはなんでもポータルでするする移動しちゃうみたいだけど、これってドラえもんの「どこでもドア」とおなじなのか違うのか。(いつも忙しそうなWongがドラえもんに見えてくる) ところで、せっかく舞台をサンフランシスコにしたのだから、魔界のポータルがここのチャイナタウンにも通じていたのだ、ってすれば、”Big Trouble in Little China” (1986)のKurt Russellも召喚できたのにさ。
あれだけ”Crazy Rich Asians” (2018)から出ているんだから、Ken Jeongも出してあげればよかったのに。ところでKaty - Awkwafinaは、あのままどうやってAvengersに入ってくるつもりなのか? 次あたりでPepper Pottsみたいに改造されちゃうのだろうか。 弓矢をHawkeyeに教えてもらうのだろうか。
Wenwuは、妻が岩戸に閉じ込められている説の前には日本に出張しているので不在説を信じて固執していて、その頃に撮られたのが“In the Mood for Love” (2000)なのね。
ところでTen Ringsって、分割したら意味ないの? ひとつだけだと1/10のパワーなの?
こんなふうにどーでもいいことばっか、だらだら書いていきたくなる、すてきな映画。 Morrisに会いにもう一回みるかも。
9.06.2021
[film] The Green Knight (2021)
9月2日、木曜日の晩、米国のYouTubeで見ました。
A24制作 - David Lowery監督・脚本による伝奇もので、こんなのぜったいに映画館で見た方がよいに決まっているのだが、どうせまた見るに決まっているのだし、あの喋るキツネを見たくてたまらなくてつい。
冒頭、農村風景で前景に角の生えたヤギと鵞鳥がリアル小競り合いをしているその向こうで家屋に火が燃え広がって「キリストが生まれたー」とか声が聞こえる。これだけで胸倉掴まれて、続いてでっかく“The Chivalric Romance”(騎士道物語)- 次画面で“Sir Gawain and…”、次画面で”… the Christmas Game”って、古文書のゴシック体ででっかくでんでんでん、と出て、それだけでおー、って向こうの世界に引っ張りこまれる。
原作は14世紀に書かれたアーサー王物語を詠う長編詩 - 『ガウェイン卿と緑の騎士』。
Sir Gawain (Dev Patel)はでっかいことしたいなとか、まだ騎士にはなれていない、とか自分に言いつつガールフレンド (Alicia Vikander)と地元でぐだぐだしているとクリスマスの宴の日に伯父のKing Arthur (Sean Harris)とQueen Guinevere (Kate Dickie)に呼ばれて彼らの傍らに座らされて、お前のことはいつも気にしてきた、とか言われて少しびっくりしていると、扉がごおおーって開いて、馬に乗った緑の半樹人the Green Knight (Ralph Ineson)が現れて、ここに自分の首を叩き切る勇気のあるものはいないか? 叩き切って自分が生き返って無事だったらそのお返しを1年後のクリスマスに自分のところ - the Green Chapelでやるのじゃー、ってよくわかんないけど、誰も手をあげないのでGarwainは手をあげて立ちあがって緑の騎士の首をだん!て切ったらやっぱりこいつは立ちあがって自分の斧を置いて自分の首を拾いあげると「1年後にGreen Chapelで会おうぞ!」って馬で去ってしまったので、Garwainはその斧を携えて旅に出ないわけにはいかなくなる。
ここまでで、旅に向かう大義とか心意気とかも含めて、かわいい人形劇で茶化されたりするようにちっとも勇ましそうなかんじはなくて、厄介事に巻きこまれちゃったなって進んでいくと、屑拾い(Barry Keoghan)に会って身ぐるみ剥がされて死にそうになったり、裸の巨人の行進を見たり、キツネと出会ったり、親切そうな領主(Joel Edgerton)と謎めいた女性(Alicia Vikander - GFと2役)と盲目の老婆(Helena Browne)に会ったり、いろんな誘惑や試練にあうのだが、それらを乗り越えて彼が成長していく証のようなものは特に見れらなくて、どこまで行っても自分はこの程度なのか、Green Chapel行きたくないな、の方がとぐろを巻いてやってくる。
でももちろん最後には、待っていた緑の騎士のところで、ゲーム - 取引きのルールに従ってお前の首を差し出せ、って言われるのだが…
これこれを達成した - 誰それを倒した - から騎士になれるとか、騎士になれたらあんなことこんなことができるとか、そういうレベル設定やゴールや教訓があるわけではなくて(あっても冠とか剣とか)、母 - Morgan Le Fay (Sarita Choudhury)やGFや王/女王の目線とか - 所詮は人形劇 – に縛られながら成長したくてもできずに苦しんで彷徨うGarwainの顔面が何度も映し出され、その暗さを反映するように手もとも遠景もぱっとしないどん詰まりが延々続いていく。そうしてみるとこの先の見えない彷徨いはまるで”A Ghost Story” (2017)のシーツを被ったゴーストの世界にそっくりで、あの成仏できない立ち姿に胸を打たれたひとには来るけど、そうでもなかったひとにはどうかしら。
光とか闇とか樹々の深い緑とかも含めて中世の神話世界に引きずり込む引力はすごくて、そこに居心地わるそうに現れた勇ましさの欠片もない中途半端な若者はどこを目指して如何にして騎士になるのかなれないのか。そんな半物語、みたいなおはなし。
このGareainの風貌なら、誰もがAdam Driver主演を思い浮かべてしまうのかも知れないが、ここでのDev Patelの煩悶する立ち姿は実にセクシーで - 映画全体も猛々しくなくてぬめっとしてセクシーなの - 見応えたっぷりに向こうの世界にはまっている。Kylo Renとはちょっと違うかも。
これがアーサー王伝説(周辺)のいち解釈としてどんなもんなのか、未だリリースされていない英国ではどう受けとめられるのか、見守りたいけど、わたしはキツネの耳がしゅんと立ちあがるところだけで十分だったので、もう一回大きな画面で見たい。
David Loweryさんは”A Ghost Story”が公開された時のQ&Aで、Peter Panの映画化のことを嬉々として語ってくれて、あれはどうなったのかしら、と思ったらまだ撮っているのね。こちらも楽しみ。
暑さがどっかにいってくれたのはよいけど、低気圧と湿気がまだ中途半端にのさばっているのできつい。
9.05.2021
[film] Censor (2021)
8月28日、土曜日の晩、米国のYouTubeで見ました。
ポスターが血まみれの哀しそうな女性の姿で、ホラーは基本ムリなのだが、今年のサンダンスで話題になっていたし、The Final Girls(ロンドンベースのホラーフィルムとフェミニズムの交点を探るCollective)が推していたし、土曜日の晩ならだいじょうぶかも、と。
ウェールズのPrano Bailey-Bondさんの脚本/初監督作で、彼女が2015年に書いて作った15分の短編”Nasty”が元になっているそう。
80年代中頃、サッチャーの時代/炭鉱ストが話題になっていた時代、Enid (Niamh Algar)は英国の映画検閲機関で、ホラー映画の検閲担当をしていて、申請されてくる大量のビデオを細かくチェックしてメモ書きしてものすごく厳格に仕分けて分類して、この作品はこことここをカットしないと18禁にはできません、とか強く言うので同僚からは評価されたり疎まれたり、彼女の上司と繋がっている業界関係者からは嫌味や脅しのようなことを言われたりしている。
英国では80年代初、Video nastiesと呼ばれた暴力的ででろでろ低予算のホラー映画やエクスプロイテーション映画がビデオリリースされることの是非を巡ってメディア上で活発な論争が行われていた、その頃のお話で、家にいる子供たちがそういうビデオを繰り返し見てしまうことによる悪影響についてこの映画のなかでも語られる。見ようと思えばなんでも見れてしまう今となっては微笑ましい限りのお話だが。
ある日、Enidが検閲してリリースされたビデオに影響を受けたと思われる殺人事件 – 容疑者はビデオ映像上の手口については語れるものの実際の殺人の経緯はまったく憶えていないという - が発生して、容疑者が検閲に言及したことからEnidの周辺が騒がしくなってくる。
別のある日、両親に呼ばれたEnidは幼い頃に行方不明になったままの妹の死亡証明を見せられて、まだ彼女は生きているかも知れないのになぜ? って自身のトラウマ – Enidは当時一緒にいた妹の失踪について何か知っている(憶えている)のかも - をかき混ぜられた後、検閲の仕事でFrederick North (Adrian Schiller)というカルト系の大御所監督による”Don’t Go into the Church”という作品を見て激しく動揺する。そこに映っていた教会の入り口はなんか憶えがあるし、そこに主演しているAlice Leeという女優は妹に似ている気がする、ひょっとしたら… とか。
こうして思い込みと衝動だけでNorthの屋敷に乗り込んでいくEnidの脳裏にはこれまでに検閲した最低最悪のバイオレンス映像の断片が繰り返し再生されて、ビデオの世界と現実の見境がつかなくなっていくのだが、単なる虚構と現実の混濁、というよりも彼女が自身の過去の記憶を無意識に検閲してカットしたりしていなかったか、とか、更には自分が作品世界に入って検閲される側になってしまったとしたら、という疑念を孕みつつ、被害と加害の境界のようなところにまで踏み入っていくように見える。
ここから先の展開は書きませんけど、ありがちなサイコホラー(→狂気)のようなところに向かわず特殊効果にも頼らず、主人公の記憶や日々の仕事の交錯のなかで誰にでも起こりうる事故のように描いて、背景のビデオも含めた映像の細かい質感や肌理、過去のホラー作品の暗い色味とかまで押さえてうまくミックスして、メタホラーのようなかんじで追っていける。ので、恐怖がだんだんに絞り込まれて息ができなくなっていくホラー映画の怖さ、はあまり来ないのだが、でも散りばめられた個々の映像には映像としてエグいのも結構あるので注意した方がよいかも。
あのラスト、なんかしんみりするというか、それでもこわいというか。
こういう視点て、画面上で散々餌食にされ、娯楽として曝され消費され続けてきた女性だから持ち得たものではないかと思うのだが、どうだろうか。
同じく女性監督による英国産ホラー“Saint Maud” (2019)、日本に来ないのかしら。傑作だと思うんだけどな。
オリパラが終わるタイミングを見たように別のお祭りが始まろうとしている。これは100%、特定政党とメディアの問題 - オリパラもそうだけど - なのでいい加減にしてほしいのだが、とにかく、大勢のひとが苦しんだりばたばた亡くなっているのに、それを放置して自分たちのことしか見ようとしない、そういう連中が上で偉そうにしている、という点で、いまのこの国はアフガンと大差ない。そして、あの連中の提灯もって騒いでいるメディアは本当に罪深いクソだと思う。
9.03.2021
[film] ドライブ・マイ・カー (2021)
8月28日、土曜日の午後、シネクイントで見ました。”Summer of Soul..”に続けて。
村上春樹の短編が原作の濱口竜介監督作品で、カンヌで脚本賞を受賞した、云々。
濱口監督作品は、“THE DEPTHS” (2010)、『なみのおと』(2011)あたりから、『ハッピーアワー』(2015年)も『寝ても覚めても』(2018)も見てきたのだが、村上春樹は前世紀末の『ねじまき鳥…』あたりを最後にほぼ読んでいない。大学の頃、周囲はみんな読んでいたからそれなりに読んだのだが、そこから先はきれいに止まっている状態。他に読むのいっぱいあるし、くらい。
既にすばらしいレビュー記事も監督インタビューも沢山読める状態になっているので、ここでは感想を五月雨で流していく。
舞台演出家で俳優の主人公の家福悠介(西島秀俊)がいて、妻の音(オト)(霧島れいか)がいて、ふたりは薄暗い部屋のなかでセックスをしている。音の上半身が立ちあがっていて、彼女はゆっくりとなにかのお話を語っている。彼女は女優をしていたが今はその話(正確には悠介が纏めた筋)を元にして脚本を書いたりしているらしい。ふたりの間にいた娘は4歳のときに亡くなり、それ以降、音は複数の男性と関係を持つようになって、その最中の姿を偶然目にしてしまった悠介がおろおろし始めたある日、音は自宅で倒れているのを悠介に発見され、そのまま亡くなって - ここまでが序章で、タイトルと音楽が被さる。
広島の演劇イベントでの演出&総合プロデュースを委託された悠介は自分の赤い車(名車らしい)で広島に向かう。長期滞在になるのとホテルから離れたところ(車のなかで音が録音した戯曲のテープを聞くため)に宿をとったので、専属の運転手として渡利みさき(三浦透子)も手配されている。オーディションにはいろんな国からいろんな言葉(含.手話)での申し込みがあり、そこには新進俳優の高槻耕史(岡田将生)も入っている。演目はチェーホフの『ワーニャ伯父さん』で、稽古の様子と行き帰りのみさきとのぽつぽつしたやりとりがあって、ドラマトゥルクのコン・ユンス(ジン・デヨン)の家に招かれたら舞台で手話のソーニャを演じるイ・ユナ(パク・ユリム)がいて、ふたりが夫婦であることがわかってふたりの話を聞いたり、ワーニャ役をあてられた高槻との音をめぐるやりとりとか、いろんなお話が絡み合っていく。
いろんなお話。最初の方には悠介自身が演じる『ゴドーを待ちながら』があったし、音が悠介に語る自身をやつめうなぎだと認識する女子高生の話があるし、テープのなかで朗読され反復される『ワーニャ伯父さん』があるし、稽古のなかで繰り返される『ワーニャ伯父さん』もあるし、イさんとコンさん夫婦にも亡くなった子のお話があるし、音と関係があったことがわかる高槻を経由して語られるやつめうなぎ女子のその後の話があるし、みさきが語る彼女の鬼母の話があるし、その母の別人格「サチ」の話もある。これらの話はどれもゆっくりとした抑揚のないトーンで登場人物の間から発せられてそこにいる彼らのなかに入っていく。いくつかの断片は繰り返されて、いくつかはステージへと。そういういくつもの物語は道となるのか舞台となるのか、その話(語り) – 多くは既にいない人たちが語る -を満たして走り出す赤い車のドライブ。走り出しで葬送のように厳かに包み込んで流れる音楽は石橋英子のユニット「もう死んだ人たち」によるもの。なにかを振り切って走り去ろうとするドライブではなく、誘蛾灯に引き寄せられるように死者も生者もそこに向かう。生と死が分かつことができないなにかがあるどこかに。
村上春樹の多くの小説のイメージって、それなりそこそこの生活をしている男性の主人公が主人公から見たら不思議な謎めいた女性と運命的な出会いをして、性的なところも含めて巻き込まれて気付かされて取り残されて、がーん、って途方に暮れる、というもの(前世紀末時点)で、この映画もざっくり切ってしまえば悠介が音の別の姿を知ってがーん、てなってしょんぼり北に向かう、それだけのー。
(「僕は、正しく傷つくべきだった」← その前に隣の人の傷に気付きたいもんだわ)
(ベケットやチェーホフの演出やワークショップをやってきたような男がこんな程度でがたがたになっちゃうの? っていうのは少しある。 いやあるのだ、っていうドラマなのかも)
いや、もちろんそれだけではなくて、オープニングとエンディングで映しだされるのが女性であるように、過去に傷を受けたり喋れなくなったりそもそも発語できない女性たち(&子供たち)のありようが露わになる – やつめうなぎの件も含めて – そういう女性映画なのだと思った。見終わったあとに『ハッピーアワー』のラストのような感覚が。
登場人物たちの薄皮をぺりぺり剥いでいくような展開なので、俳優の演技については、演技とは、というところも含めて繊細に演出されている。各俳優の演技と発語は、手話の箇所も含めて計算され尽くしていてそこに正確にはまっていく俳優たちがすばらしい。
なかでも高槻役の岡田将生のあの車の中での台詞回しはすごいと思った。彼、おそらく悠介に恋をしていたのではないか。
約3時間という上映時間は全く気にならない。『ハッピーアワー』(5時間17分)と同様。これらの作品て、演技や画面構成に隙がないぶん、登場人物の表情や動きや発言に対して、「なに考えてるのあんた」とか「なんでそんなことを」とか「おいおいそっちかよ」とか、逐次で突っ込みたくなる箇所が次から次へと湧いてくるし、それを可能にしているように思う。誰もが画面に没入しつつ脳内でそれをやるのであっという間に時間が過ぎてしまうのではないか。好きな人同志で好き勝手に喋ってよい鑑賞会とかやったら面白くなるはず。そして、これの元祖が小津や成瀬であることは言うまでもないの。
村上春樹の「やつめうなぎ」って、サリンジャーの「バナナフィッシュ」なのかしらん。
あと、どうでもいいかもだけど、悠介がみさきと会った初めの頃の彼の彼女に対する言葉遣いとか態度ってなんかひどくない? 原作がああなのかもだけど「ありがとう」くらい言うもんじゃないの? とか。
しばらく立ち寄っていなかったが、今月のCriterion Channelのラインナップはすごい。やばい。
9.02.2021
[film] Summer of Soul (…Or, When the Revolution Could Not Be Televised) (2021)
8月28日、土曜日の午前、シネクイントで見ました。今年のサンダンスで話題になった時からとっても見たかった1本。なので公開翌日に走る。
1969年の夏、ハーレムのMount Morris Park – 今はMarcus Garvey Park – で6週間に渡って開催されたHarlem Cultural Festival(ハーレム文化祭)に出演したアーティストのパフォーマンスと場の様子をとらえた作品。 それぞれのパフォーマンスのすばらしさ、とんでもなさもさることながら、なんでこんな映像が埋もれていたんだ? サブタイトルにあるように「革命がテレビ放映されなかったとき」… Or, 革命はこうして隠蔽される。
監督はThe RootsのAhmir "Questlove" Thompson。彼のレコード掘りの旅やインスタで延々だらだら(←ほめてる)繰り広げられるDJに触れたことがある人は彼が真摯で思慮深い音楽の探究者であることを知っている。1997年に彼が日本で初めてその存在を知ったフェスに2017年に改めてぶつかり、それを記録したビデオテープの存在を知り、それがミックスも含めて奇跡的によい状態で保管されていた、と。さまざまな偶然と最良の探究者が重なって発掘復元された1本 – その偶然に近年のBLMの動きも加わっていることは言うまでもない。
冒頭、まだ小僧のようだったStevie Wonderがキーボードを力強く引っ叩き、更には引っ叩きの延長でドラムソロまで披露する、現在のStevie Wonderの姿と重ねて掴みとしてはじゅうぶん。
そこからなぜこの場所で、こういうフェスが必要とされたのか、どんな人たちが集まってきたのか、69年という時代と共にハーレムのコミュニティやカルチャーの紹介をした後で、ゴスペルの方、神の方↑ に目を向けて(Mahalia Jackson & Mavis Staples !)、中盤にモータウンを始めとしたスターたちを並べて、そうはいってもね、と裾野としてのニューヨリカンの源流を辿り、最後は問答無用のNina Simone ~ Sly and the Family Stoneで締める。単に時系列で並べるというより、「この熱狂はマジックでもなんでもない、時代と場所、季節と人々と音楽のミックスが生み出した必然」ということと「なぜ月面着陸は放送されてこの熱狂と興奮はされなかったのか?」というメッセージを的確に伝えるべく編集と構成は十分に考え抜かれているように思った。
現代の(含. 出演していた)ミュージシャンたち - Mavis Staples、Gladys Knight、Sheila E.などからのコメントは証言という側面だけでなく、はっきりとライブの熱狂に驚き興奮しているし、映像をモニターで見ている現代のアメリカ人と会場でわあわあしている観客が横並びに連なってゆるゆる高揚していく。約2時間に渡る1曲を輪になって楽しんでいるかんじ。
夏のマンハッタンの公園のフェスだとCentral ParkのSummerStageとかProspect ParkのCelebrate Brooklyn! とかいろいろあって、最近は有料のも多いけど、基本はフリーでほんと気持ちよくだらだらできるのがいっぱいで、たまんなくよいの。今年に入ってフェスのイメージはなんか汚れてしまったし(結局金か)、当分近寄る気にはなれないけど、フェスっていうのはそもそもこういうもんなのだ、というのを”Woodstock” (1970)よりもストレートに伝えてくれる気がした。「愛と平和」なんてくっつけなくても。
個人的なハイライトは、やはりSly and the Family Stoneかしら。Cynthia Robinsonがかっこよくて、Greg Erricoのスネアが炸裂してGreg本人が喋ってくれるし、"Everyday People" (1968)の歌詞とかすばらしいし。彼らは中盤に出てきて、映画の最後にもういっかい、”Higher”を演奏してくれる。ラストは"Hot Fun in the Summertime”じゃないのかと思ったら、この曲のリリースはほんの少しだけ後だったのね。
このラインナップで、自分が見たことあるのはNina Simoneだけだったかも。93年のBeacon Theater。2階席からだったけど、あれはほんとにとんでもないものだった。
まだまだこういうフィルムが世界のどこかに眠っていると信じたい。Questloveさんにはこれらを掘って束ねて繋いで”Women Make Film” (2018)のようなでっかい音楽ドキュメンタリーを編んでほしい。
このサブタイトル、昔どっかで見たような、ってずっと思っていたら、デプレシャンの『そして僕は恋をする』(1996) の英語題 - “My Sex Life... or How I Got Into an Argument” だったかも。(そんな似てないか...)
それにしてもさー、『さよなら、私のロンリー』ってなに? ほんといい加減にしてほしいわ(怒)。
9.01.2021
[film] After Love (2020)
8月27日、金曜日の晩、BFI Playerで見ました。英国はロックダウンを終えたので新作映画は映画館リリースが中心になっている。これが6月にリリースされた時もすぐに見たかったのが、ストリーミングに来るまでに約3ヶ月かかった(泣)。
英国-パキスタン系のAleem Khanの長編監督デビュー作。BFI - BBC制作。すばらしかった。
英国人のMary (Joanna Scanlan)はAhmed (Nasser Memarzia)と結婚してからイスラム教に改宗して、ドーバーに暮らしていて、夫は仕事でドーバー海峡を行き来している。ある晩、ふたりで家に帰ってきて寛いで鼻歌を歌っていたらソファで夫が亡くなってしまう。あまりに突然なのでお葬式でもひとり茫然として泣くしかないMary。
やがて夫の財布から彼のフランス人のIDとGenevieveという女性の写真と住所が出てきて、更に彼のスマホには彼女からと思われる親密なメッセージが沢山落ちてくるので、Maryは意を決して対岸のカレーのGenevieveのところに行ってみる。
その住所に着いてそれらしい女性がいたのでMaryが寄っていくとGenevieve (Nathalie Richard)はヒジャブを被っておとなしそうな彼女を見て派遣された掃除婦だと思い込んで、さばさばした態度でありがとう中に入って、引っ越し前で大変なのよ助かるー、とか指図してくる。
ちがうとも言えず戸惑いながらもMaryは、彼女からまったく見えなかった亡夫の反対側の人生に足を踏み入れることになって、そこに掛かっているAhmedのシャツの匂いを嗅いだり、神経質そうな彼の子Solomon (Talid Ariss)と会ったりしていく。それは彼女がそれまでAhmedと積みあげてきた人生を根底からひっくり返すものだったし、もしそれがGenevieveにばれたら彼女の側の人生も壊すことになる(GenevieveもSolomonもAhmedの死を知らない。メッセージ送っても返してこないよ、とか言ってる)し、なによりもその後になにがどうなるのか、誰のためにやっているのか、どういう結果を得たいのか自分でもわからないのが怖ろしい。
ドラマの前半のトーンは崩壊/自爆の予感に溢れたスリラー/サスペンスのそれ - 天井にひびが入って落ちてくる床に水が満ちてくる - で、その恐怖がGenevieveの家庭に入り込んでGenevieveの不安 – Ahmedと結婚はしていないという – やゲイであるSolomonの惑いや苛立ちに触れたり、お腹が減ったという彼に引っ越し箱のなかから缶やスパイスを取りだしてサーグのカレーを作ってあげたり(おいしそ)しているうちに自分と同じように拠りどころが不在のまま宙に浮かんでいる家族の痛みがわかるようになってきて、でもやがて破局はやってくる..
その破局は自分が望んだものだったのか、これは喪失なのか失恋なのか、鏡の前で服を脱いで自分の肉を見つめるMaryの虚無と絶望はそのまま残されたふたりにも転移して – “After Love”。
ふっくらとして寡黙なMaryと対照的に瘦せぎすで饒舌なGenevieveと神経質なSolomon、会話には英語とフランス語とウルドゥー語が混じって、それぞれの持つ写真の中/ビデオの中/録音テープの中に亡霊のように現れるAhmedの姿、カレーの海岸とドーバーの崖の間に立つ生者と死者、生きているものも死んでいるものも彼らはどうやってなにかを残そうと、残ろうとするのか。もういっこ、Ahmed, Mary, Genevieveの間に無意識に横たわっている差別意識(GenevieveがMaryに会ったときの態度とか)のことも。
これらをそれぞれの家の屋内、それぞれの海辺(崖)の線上に細やかに散りばめていて、その線上、その距離を踏んで、さてどうやって生きようか、という。
まだ考え中なのだが、これ、男性の方が死ぬ、車を持たない女たちの「ドライブ・マイ・カー」なのではないか、って思った。
主演のJoanna Scanlanさんがとにかくすばらしい。印象に残っているのは”Pin Cushion” (2017)の毒母とか、“How to Talk to Girls at Parties” (2017)の主人公のママとか、最近だと”How to Build a Girl” (2019)にも少しだけ出てて、どちらかというとコメディ系が多かったのだが、こんどのはとにかく強い。
日本でも公開されますようにー。 むりかなあ..
世の中はとにかく悲惨であたまにくるのばっかりで、文句書き始めると止まらなくなるので、しばらく書かないでおく。
そういうののためにTwitterがあるのかもだけど、そういうのには使いたくないしー。