5.29.2015

[film] Tomboy (2011)

23日の土曜日の午後、アンスティチュの特集『彼らの時代のすべての少年、少女たち』から。

この日の午前は終っちゃいそうだった三菱一号館でワシントン・ナショナル・ギャラリー展をみた。
あそこはもう何回も行っているから(いやみ)、あの猫も「やあ」ていうかんじだった。 いっこ、Cézanneの”The Battle of Love” (1880)があって、これが”Love Battles”の元になったという“La Lutte d'Amour”と同じ、ドワイヨンの見たやつと同じやつなのかどうか。 このテーマでいくつかのバージョンがあるのでわかんないのだが、印象派の展覧会なら英語題だけじゃなくて仏語題も出しておいてほしいわ。

さて、もし日本でもリリースされていたりしたらこの特集のリストにぜええったい入っていたに決まっている秀作、”Bande de filles” - “Girlhood” (2014)の監督 - Céline Sciammaさんのひとつ前の作品。

いやー、やっぱしよいの。

快活そうな子 - 男の子かしら女の子かしら? - がパパと一緒に団地に引越してきて、新居にはママも妹もいて、ごく普通の幸せそうな家族にみえる。
その子は近所の子供たちに遊びましょ、の儀式にでて、そのときに「ぼくはミカエル」ていうので男の子かと思うのだが、家では「ロール」て呼ばれて、お風呂に入ったり近所の男のガキの容姿をまねたり、座りションしたりしていることから、ああこの子は男の子になりたい女の子なんだなー、て思うの。

でもだからといって、性同一性障害のあれこれ、みたいなところには行かない。
男の子の格好をしたり男の子として遊んだりして、なにがいけないんだろう? なんで自分を「ミカエル」と名付けてはいけないんだろう? なんで青い服を着ちゃいけないんだろう? そして、その振るまいがばれたとき、ママは、家族は、なにをそんなに狼狽えて、近所に謝りにいったりするんだろう? これのどこがいけないんだろう?

よいこと、わるいことを決めるのはだれなのか?(少なくとも自分じゃなさそうだ)
この居心地の悪さはいったいなんなのか、どこから来るのか。

そこに答えなんてないんだ、きっと。
社会化とか去勢とか、児童心理学みたいなところからも遠ざかって、カメラはひたすらロール/ミカエルの戸惑いと畏れとまっすぐな眼差しを捉えようとする。
たとえば、U2の”Boy”の、あの目差しなの。

この監督はわかっているとか信じられるとか、そういうことではなくて、なんでこの子を撮るのか、ということを考えて考えて、ファインダーの反対側で彼女はロール/ミカエルの目をして立っていて、そういうところまで見えるのがよいの。 その先のことを考える余裕なんてないのさ。 

“Girlhood”、とっとと公開されますようにー。

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