5.31.2015

[log] May 31 2015

昨晩の地震でちゃんと動いてくれるか少し心配だったけど、ついこないだも乗った気がする日曜朝のNEX7号でとりあえず成田に来て、これから西のほうに飛んでいくの。
あーあ、The Nels Cline Singersがああ...

昨日、"The Trip to Italy"ていう中年おやじ映画を見て、だいたいあの年代(この年代)の連中て「ああこういうところで死にたい」という一言を言うために旅をするもんなのよね、と思ったのだったが、これは旅ではなくて仕事だぼけ、と改めて念をおしとく。

今度のはまずドイツに行って一泊して打ち合わせしてからスウェーデンに飛んでさらに打ち合わせして木曜の朝に成田着いてそのまま会社、というこんなの旅ではなくて仕事なのはもちろんわかってるけど、少なくとも堅気の仕事じゃないよねごめんねパパ。

スウェーデンスウェーデン、ということで自分のiPodを探したのだが、それらしいのはThe Cardigansくらいしかなかったので行きのNEXでは数年ぶりに彼らの音を聴いてみた。けどいまはどんな逆立ちしたって”Carnival”のかんじにはあがっていかない。

スウェーデンはストックホルムのあるあたりではなくて、地名を書いてしまうとあいつではないかとかばれてしまうかもしれないのでここには書かないけど、綴り字と発音がどうがんばっても一致しないへんてこな地名で、だから何度聞かれてもちゃんと言えないし覚えられないし。
ここ出身の有名人、ということでWikiで見てみるとメタル関係のひとばっかしずらずら並んでいる。あとはStellan Skarsgård - “Nymphomaniac”のセリグマンさん - とか。 どうかふつうのひととして戻ってこれますように。

ストックホルムのほうだったらちょっとがんばってじたばたして、Noah BaumbachとGreta Gerwigがまったりしたというベルイマンの島にでも行ってみたかったのだが。

で、スケジュールがびっちりだし今回も団体行動を求められているので勝手な活動は許されていなくて、(くりかえすよ)許されていなくて、だから今回はレコード袋すら持ってきていないし映画館の場所もチェックしてない。 かわいそうったらない。  帰り便の経由地ヘルシンキの空港でムーミンのなんかを買うくらいしかないんだわ、きっと。
そういえば夜って寒くなるのかしら..

つまんないので、たぶんInstagramのほうにだらだら上げると思います。

https://instagram.com/talking_unsound/

向こうについたら日本はもう6月かあー。
ではまた。

5.30.2015

[film] Life After Beth (2014)

24日の日曜日、シネマカリテの『カリテ・ファンタスティック!シネマコレクション2015』 ていうので見ました。 前に米国で見逃してとっても悔しかったやつ。
もうさー、どうせ上映は総デジタルなんだし、期間とかファンタスティックとか枠で括らないでずっとこのまま垂れ流しでやっちゃえば?  見なくてもわかるクソみたいな邦画とかアニメとかじゃない、みんなこういうのに慢性的に飢えてるの、いいかげんわかったでしょ?

Beth (Aubrey Plaza)はある日、ひとりで山にハイキングに出かけて蛇に噛まれて死んじゃって、恋人のZach (Dane DeHaan)は彼女のパパ (John C. Reilly)とママ (Molly Shannon)とひんひん泣いて悲しんで、未練たらたらしてたら、彼女のお墓のとこにでっかい穴があいてて、彼女を見た気がして、そしたら本当に彼女は家に戻っていて、でもなんか様子がおかしい。

彼女はちょっと怒りっぽくなってて怖いけど昼も夜も歩ける、けど自分が死んだこととか知らないし、周りを泥で固めて籠るようになったり、最初は戻ってきたのを熱く喜んでいたZachも、これはBethじゃない別のなんかかも、てだんだん思うようになって、そうしているうちに別のところでおんなじようなのがー。

恋人の喪失というパーソナルな穴を埋めるべくほっこりと蘇った死者(≠ゾンビ)が穴を埋めるどころかいろんな穴をぼこぼこ掘りはじめて、やがてその穴がそこらじゅうに広がって社会的なパニックになっていく様をなかなかおもしろく描いてて、よかった。 死はパーソナルなものだけど、墓場はソーシャルなんだなあ、とか。
でも最後にはやっぱりパーソナルな、(失)恋物語としてちょっとしんみり終るの。

これはコメディぽい作りだけど、どシリアスにこさえてもよかったかも(そういうのはもうあるか)。
で、ふだんから泣きながら笑っているようなDane DeHaanくんの演技は、このドラマに見事にはまっていたと思う。 最後のお別れのとこなんて、切なさが全開になってほんとじんわり。
そして、ほぼずっと死人としてのBethを演じきったAubrey PlazaさんのどSっぷりは、たまんないひとにはたまんない、かもしれない。

John C. ReillyとMolly Shannonの夫婦の錯乱してわけわかんなくなっていくとこも、いいの。

音楽は全編で不穏なBlack Rebel Motorcycle Clubの轟音がわんわん鳴っている。
あとはCANの”Vitamin C”とか。

[film] La belle personne (2008)

23日、アンスティチュの同じ特集で”Tomboy”に続けて見ました。
Christophe Honoréの『美しいひと』 - 英語題だと”The Beautiful Person”。

これもすばらしくよかった。 いちころ。

原作のラファイエット夫人の小説『クレーヴの奥方』、この古典ロマンを現代フランスの高校生のお話、学園モノにしている。

寡黙で不機嫌なJunie (Léa Seydoux)は母をなくして従兄弟のMatthiasのところに世話になっている転校生で、同窓のOttoと恋仲になって、イタリア語教師のNemours (Louis Garrel)のことも気になって、彼らだけじゃなく登場人物全てがものすごくいろんな視線、お喋り、噂、妄想、嫉妬、憶測、罵詈、雑言、などなどに絶えず曝されつつ、結果としては互いのお尻や胸や唇を求めて右往左往している。 だれも勉強なんてしてやしなくて、呼びたい奴はそれを恋と呼んで、欲望のままに何かを吐きだし、掃きだし、目の前の人物は入れ替わっていく。

17世紀末の物語や心理のひだひだを現代に置換して、というよりも、現代の高校生活には既にそれらがじゅうぶん全部あって、学生も教師も食堂のおばちゃんもその中を生きている、古典を読むことと現代のお喋りやノイズは例えばこんなふうにも連なって重なって、ひとつのでっかい音楽を奏でることができる。(わかったかサルコジ)

相手の気を惹く、目線で伝える、言葉で伝える、頭のなかでもやもやする、歌を唄う、ここにはやってはいけないことなんてなにひとつない。 現代の学園においては、やりたい放題の聖域を例えばこんなふうに俯瞰することだってできる。 そこには悲劇も喜劇もない、か、悲劇も喜劇もなんだってある。

でもこれを、寂しがり繋がりたがりの思ったことをすぐ口にして堪えられない今の子供たち(偏見です)に適用したらどうなるのか、ていうのは少し気になる。
(そんなのこれっぽっちも見たくないけど)

Louis Garrelは、首をのばして恋にきょときょとおどおどしているまだ軽い時代の彼(こういうのがいいの)で、それにしても、その遥か上をいくLéa Seydouxのすばらしいこと。 屋外でOttoの前に胸をはだけて殺し屋みたいにすうっと現れるところなんか、たまんないし。

ぼくの名前は平凡すぎて本の主人公なんかにはないんだ、て沈むOttoのところに彼女が持ってくる絵本がこれ。 いいよねー。

http://www.tomiungerer.com/work/books/otto/

音楽はバッハやドニゼッティにNick Drakeの詩と唄が被さってもなんの違和感もないの。
こないだの“The Last Five Years”をChristophe Honoréが撮っていたらなー、とか。

5.29.2015

[film] Tomboy (2011)

23日の土曜日の午後、アンスティチュの特集『彼らの時代のすべての少年、少女たち』から。

この日の午前は終っちゃいそうだった三菱一号館でワシントン・ナショナル・ギャラリー展をみた。
あそこはもう何回も行っているから(いやみ)、あの猫も「やあ」ていうかんじだった。 いっこ、Cézanneの”The Battle of Love” (1880)があって、これが”Love Battles”の元になったという“La Lutte d'Amour”と同じ、ドワイヨンの見たやつと同じやつなのかどうか。 このテーマでいくつかのバージョンがあるのでわかんないのだが、印象派の展覧会なら英語題だけじゃなくて仏語題も出しておいてほしいわ。

さて、もし日本でもリリースされていたりしたらこの特集のリストにぜええったい入っていたに決まっている秀作、”Bande de filles” - “Girlhood” (2014)の監督 - Céline Sciammaさんのひとつ前の作品。

いやー、やっぱしよいの。

快活そうな子 - 男の子かしら女の子かしら? - がパパと一緒に団地に引越してきて、新居にはママも妹もいて、ごく普通の幸せそうな家族にみえる。
その子は近所の子供たちに遊びましょ、の儀式にでて、そのときに「ぼくはミカエル」ていうので男の子かと思うのだが、家では「ロール」て呼ばれて、お風呂に入ったり近所の男のガキの容姿をまねたり、座りションしたりしていることから、ああこの子は男の子になりたい女の子なんだなー、て思うの。

でもだからといって、性同一性障害のあれこれ、みたいなところには行かない。
男の子の格好をしたり男の子として遊んだりして、なにがいけないんだろう? なんで自分を「ミカエル」と名付けてはいけないんだろう? なんで青い服を着ちゃいけないんだろう? そして、その振るまいがばれたとき、ママは、家族は、なにをそんなに狼狽えて、近所に謝りにいったりするんだろう? これのどこがいけないんだろう?

よいこと、わるいことを決めるのはだれなのか?(少なくとも自分じゃなさそうだ)
この居心地の悪さはいったいなんなのか、どこから来るのか。

そこに答えなんてないんだ、きっと。
社会化とか去勢とか、児童心理学みたいなところからも遠ざかって、カメラはひたすらロール/ミカエルの戸惑いと畏れとまっすぐな眼差しを捉えようとする。
たとえば、U2の”Boy”の、あの目差しなの。

この監督はわかっているとか信じられるとか、そういうことではなくて、なんでこの子を撮るのか、ということを考えて考えて、ファインダーの反対側で彼女はロール/ミカエルの目をして立っていて、そういうところまで見えるのがよいの。 その先のことを考える余裕なんてないのさ。 

“Girlhood”、とっとと公開されますようにー。

5.27.2015

[film] Horns (2013)

17日の日曜日、アンスティチュで「少年たち」を見た後に渋谷に移動して、見ました。

読み返してみたらネタバレしてる。 たぶん。

子供の頃からずっと恋仲だったIg (Daniel Radcliffe)とMerrin (Juno Temple)がいて、ある朝ぼろぼろよれよれの風体で起きあがったIgの部屋の外には報道陣がいて、彼は彼女を殺した容疑者として追っかけまわされている。 困ったことに彼はコトが起こった晩のことをよく憶えていない。

家族からも疑われたりするので、あーまったくもうやってられん、て翌朝起きてみると、頭に角みたいのが2本はえている、というか2本ぎりぎりくいこんで出っぱっているのを見つける。 なんか吹き出物よか痛そう。
これはつまりあれよね。ピノキオの鼻みたいなもんで、なんか都合がよくないもんだからにょきにょきはえてくるんだよね?  つまりあんたが。 て誰もがおもうだろう。
で、大騒ぎになるだろう。 こいつやっぱし… と。

どっちにしても本人にとっては冗談じゃないので医者に行ってみると応対する医者の反応がおかしくなって治療してくれないし、メディアに囲まれておらどうだ、て開きなおって見せてももなんか様子がちがうし、角が見えない奴もいるようだし、ぜったいなんか変だ。

これ以上書くとつまんないかもなので書かないけど、殺人の謎と角の謎とふたりの愛の謎と、これらが絡まってあらあらあら、みたいに展開していくの。 表向きは変てこサイコサスペンス、なんだろうがホラーとしてもコメディとしても見ることはできて、でもでこぼことぎこちなくて、一気に見せるふうではないのだが、すごい裾野が広がっている、というか広げることができる。

わたしはクラシックな変身譚、のように見ました。あのときの恋の呪いが角を植えつけて、角はアンテナになってほんとうのことを明らかにしようとする。自分にとって角は何だったのかがわかった時のIgの覚醒は恋の目覚めに等しい。 ふたりの恋はほんものだった。そしてほんものであるためにどんな嘘だってついてみせるし角だろうが羽根だろうが生やしてみせる。 あんな角だったら生えたっていいかも、と思わせることができたのならこの映画はその人にとって当たり。

主人公はDavid Bowieが大好きで、IgはIgnatiusの略だろうが、これをIggy、て読むとBowieのTransformationに憧れるIggy、ていう図も現れる。 そしてそれは。

Daniel Radcliffeさんはすばらしい。HarryPがどうの、なんて言わなくていい。

そして、Heather Grahamさんはなんでいつもあんな役まわりなのかしら。 角よりも謎。

5.25.2015

[film] The Last Five Years (2014)

一本飛ばしていた。 15日の金曜日の晩、有楽町で見たやつ。

Cathy (Anna Kendrick)とJamie (Jeremy Jordan)の出会って付きあってプロポーズして結婚して別れるまでの5年間、最後の5年間のあれこれをほぼ二人の歌と歌唱だけで綴る。

Cathyの歌は別れることが決定的になったところから始まって時間を遡っていって、Jamieの歌は出会ったころから時間の流れに沿って進んで、まんなかあたりでぶつかって終る。その終りは、先が見えているぶんちょっと苦い。

Cathyは大学の頃から舞台俳優志望で、でもあんまぱっとしなくて、他方Jamieは新人作家として脚光を浴びてNYに渡ってそこからも前に進んでいく。 このふたりの位置の違いや距離感がふたりの恋の行方やその後になにか影響を与えたとは思えない。 そんなにわかりやすいものではないのだ、と誰もが思う。それにふたりは歌を通じてしかなにかを言わない。

歌が明らかにするのは彼らのエモだと思うのだが、それが歌われる断面で、彼らのエモが乱れることはない。ふたりのハーモニーも含めてぶれたり揺れたりすることは殆どなくて、つまり、歌と歌の間に、つまり映画で描かれた外側でなにかが起こったのだなと、見ている我々は思う。

歌として表現される彼らのその時々の想い。その歌はふたりの見事な歌唱と共に見事な美しさと調和をみせる。 3分間のポップソングの中で完結する完璧な愛の世界。その歌は94分間続いて、その歌が描きだそうとした理想の世界は5年間でぷつんと途絶えた。 終った理由はわからない。 わかるわけないし、わからなくていいじゃん、ということをこの映画の歌のありようは伝える。だからひとは歌を求めるのだし、愛に向かうのではないか、と。 それでじゅうぶんじゃん。

て言ってしまったら終りであることも確かで、あとはもう歌をふんふん聴いていれば済んでしまう。
これは歌を土台にしたひとつの世界、またいつか歌い出すことで再生可能となる世界。
でも例えば、歌が歌えなくなって世界の終りがすぐそこに見える、そういう世界 - 例えばジャック・ドゥミの - 身を切るような世界 −  例えば「最後の5年間」ではなくBowieの”Five Years” - 「あと5年しかない」 - ていう刹那があったらなあ、ていうのは高望みかしら。

Anna Kendrickさんはうまいねえ。
しかし、”2”が話題になったからって今頃”1”を上映してんじゃねえよ! - “Pitch Perfect” 


昼間の地震、本の山が崩れていなかったのはすごい、えらい。
まあ床の上だからなー。これで崩れたらまた引っ越しになるとこだわよ。

5.24.2015

[film] Petits frères (1999)

17日からアンスティチュ・フランセで始まった『彼らの時代のすべての少年、少女たち』は初夏にふさわしい待望の特集で、その最初の一本。 日曜日のお昼にみました。

「少年たち」。 英語題は“Little Brothers”。

妹と犬のキム(ブル系、かわいい)と三匹で暮らしているタリア(Stéphanie Touly)のところにどこかの施設に入っていたらしいろくでなしの義父が戻ってきて、うぜえんだよこのくそやろう、て大喧嘩をした彼女はキムと家を飛びだして地下鉄に乗り、かつて世話になったことがあるらしいダンボの住んでいるアパートに向かう。

そこは低所得者層向けの団地みたいなとこで、大人も子供もみんなガラ悪くてダンボのうちにも手下と思われるガキ共がたむろしてて、タリアも最初は当然ケムたがられて、その流れでキムを闘犬用に売っちゃえ、ってキムは近所のちんぴらのとこに連れ去られてしまう。 キムを失ったタリアは怒り狂ってガキ共をしばくのだがタリアがものすごい剣幕なので連中はほんとのことを喋るわけにはいかず、更にタリアのことを好きになったガキも出てきたりして複雑になっていくの。

タリアが好きで世話をやいてくるそいつに、キムを連れ去った連中をぶっ殺すから、て拳銃の調達を依頼して手渡すんだけど、それって自分がやられちゃう可能性もあるわけで、その辺の引き攣ってひくひくするやりとりとか、おもしろいったら。

そこにはピュアでまっすぐな子供の世界はなくて猜疑心と残酷さと嘘と打算と、要は表裏の掟とかどうしようもない力関係とかで動いていく汚れた大人の世界とおんなじ政治があって、どうやってそういう汚れは上から下に浸透していくのか、あるいは下から上に上がっていくのかおもしろいなー、ていうのと、それでも子供たちは子供たちで自分たちの聖なるなにか、不可侵ななにかに無邪気に留まろうとして走りまわっているように思える。それもまた子供特有の狡さと見るか、それがサバイバルということなのか、どっちにしても楽じゃない、でもその目付きのキツさからタイソンと呼ばれてしまうタリアのガニ股の、そのキックの力強さが全てを蹴散らしてしまう。 闘犬に向いてるのはこっちだろ、飼い馴らしてみろよおら。

こないだ見たドワイヨンの”Love Battles”と同様、なにがあってもぜったい負けない - 勝てないかもしれないけど少なくとも負けはしない -  タフな女の子もの。

音楽は全編でヒップホップがかかって、フランス産なんだけど90年代のヒップホップのざらざらした隙間みたいのがあってよかった。

[log] Chicagoそのた - May 2015

シカゴでのあれこれ。
もうすごーく昔のことな気がするので思いだせるかぎりでがんばる。

行きと帰りの機内でみた映画;
4月もそうだったけど見たいのは既に見ていて、見ていないのは見たくないのばっかしだった。

ちょうど「シャーロット・エリザベス・ダイアナ」がデリバーされた直後だったので大英帝国特集でいこう、と適当に決める。

Kingsman: The Secret Service (2014)

シンガポールで見たやつをもういっかい、あのラストの花火大会のところとか。
最近の007もそうだけど、リアルに走りすぎて面倒なかんじになってきたスパイアクションが忘れかけているバカバカしさがてんこもり。

Night at the Museum: Secret of the Tomb (2014)
ほれ、大英博物館の話だから。 これ、1も2も見てなくて、だって夜中に博物館の展示物が動きだすなんて当たり前すぎてつまんないじゃん。 でもほんとばかじゃのう、とか、ああRobin Williams … とかやっているうちに終ってしまった。 Rebel Wilsonさんがもっと大暴れすると思ったのにな。

他には、びっくりしたことにワイズマン先生の”National Gallery” (2014)なんかもやっていたのであるが、さすがにこれは、だった。(なんでか?)

帰りの便のほう。

Still Alice (2014)
映画館でも見るつもりだったしどうしようかなー、でも見てしまった。もう一回見ればいいや。
50歳で若年性アルツハイマーと診断されたAlice (Julianne Moore)、病状の進行に伴う家族とのあれこれ。
自分の頭のなかにある記憶こそが自分を、自分とその家族を、更に自分と社会を繋いで自分たらしめるものなのだ、ということが明確に冷酷に告げられる。 それでも。 それはAliceなのか。
その後ろ姿、後ろ頭のみですべての事態の救いようのなさ、遠くに行ってしまうAlice - を説明してしまうJulianne Mooreのすごいこと。
家族のなかではあんま出来のよくない次女を演じるKristen Stewartもすごくよいの。

Interstellar (2014)
見るものがないので眠り薬としてもういっかい。 … でも眠れず。
本を床に直に平積みしておくと地球と人類を救うことはできないんだな、ということを強くおもった。

大茶飯 (2014)   英語題は”Gangster Pay Day”
行きの機内で半分くらい見て寝ちゃって、帰りの機内で残り半分をみた。
Anthony Wongさんがやくざ(あんまハードじゃない、ちんぴら寄り)の親分で、父から受け継いだ料理屋をやっている若い娘Meiを好きになって、でも子分の若いのもMeiのことが好きでMeiも子分のほうを好きそうで、やがてその若いのは敵対する組のに殺されちゃって、さて親分は。
冒頭、MeiがAnthony Wongの遺影らしき写真を受け取るシーンがあるので、だれもが彼がたったひとりで殴りこみに行って血みどろの最期を、ていうのを思い浮かべると思うのだがそうはならないほのぼの人情系だった。
タイトルにあるようにお料理が結構出てくるのだが、もうちょっとおいしそうだったらなー。


お食事関係:
既に書いたように今回のお食事関係は基本ほんとうに悲惨で、あんまなかったのだが、ひとつだけシカゴピザ - ほんもんのDeep Dish Pizzaに連れてってやる、と言われて戴いたのがすごかった。

http://www.loumalnatis.com/

わたしはもちろん、スライス$1.25くらいのクリスピーなNew Yorkピザでずっと育ってきて、それなりに食い散らかしてきた歴史もあるのでシカゴのなんて、あんなのピザじゃねえ菓子パンじゃねえか、くらいの偏見がある(同様に東京でもてはやされているらしい本場ナポリの.. ていうのにも同様)のだったが、ここのはとんでもなかった。 底のあるぶあつい鉄鍋(Deep Dishね)みたいので一枚45分かけて焼きあげられるそいつは、ぜんぜん別のたべもので、ピザって呼んでいいのこれ? だった。レイヤーのないラザニアみたいにふんわり溶けてどっかに行ってしまうトマトとチーズとペパロニと、でもそいつらは後からきちんとやってくる。
また来なくちゃ。

Valois Restaurant
7日のお昼、Hyde Park散策をしていたときにたまたまぶつかってランチした食堂。
修行時代のオバマがよくコミュニティミーティングをしていたとこらしく、オバマのFavorite 5皿とか貼ってある。 そのリストの1番目にあった - N.Y. Steak and Eggs - $9.50(だったっけ)を頼む。(キッチンに向かってオーダーしてその場で精算する学食スタイル)

この値段でこれならすごいー。 お肉はしょうがない(値段に比例するから)にしてもハッシュドブラウンと卵はおみごとだった。 朝からこんなのがあるなら。

Miller's Pub
到着した3日のお昼、シカゴ美術館と宿の間、高架鉄道のしたにあった古いイタリアンパブ。
なんかここ、ぜったい前に来た記憶があるのだが、いつだったかしら。
ふつうにハンバーガーを戴いて、あんま粗くない厚くないみっしりしたパテにブリオッシュ生地のバンズの馴染むことはまること。 なにかしらこれ? てじっと見てもバーガーはバーガー。

レコード屋は、The Waterboysのライブ前にReckless Recordsていうとこに行った。
RSD関係は、日本よか数はあったけど、やはり既に食い尽くされているかんじ。

それとは関係なく買ったThe Mountain Goatsの新譜(45回転2枚組)がとってもよくて、ずっと聴いてる。

本屋は、Hyde Parkで2軒、57th Street Books(新刊本)ていうのと、Powell's Bookstore(Usedのみ)、あとホテルの近所でSandmeyer's Bookstoreていうとこ。

Powell’sはオレゴンのとは別のようだったが、1時間いても決着つかずに撤収。こわいこわい。

Sandmeyer’sは町の小さな本屋さん、だったがセレクションと佇まいがたまんなかった。

http://www.sandmeyersbookstore.com/

Food52のレシピ本をどうしよう、て悩んだくらいであんまし買わなかった。
これから夏に向けて、まず床に積んであるやつらを直視せよ、てことなんだ。

ほかにはー?

5.21.2015

[tv] Late Show with David Letterman

昨晩、CBSの”Late Show with David Letterman”が33年間にわたる歴史の幕を閉じました。
90年代と00年代、23:35から始まるこの番組を見てから寝ることが精神安定剤になっていた時期もあったので感慨深い。 SNLはこれからも続くかもしれないけど(Lorne Michaels次第だろうけど)、にんまり微笑むDaveの姿を見ることはもうできない。

自分以上にいろんな想いを抱えて泣きそうなファンはいっぱいいるに違いないのだが、それでも帰りの電車でDaveの番組最後のスピーチを見て泣きそうになって、そのスピーチでもエピソードが語られた最後の音楽ゲスト - Foo Fightersの6分以上に渡る見事な”Everlong”に重なっていく過去の映像をみて、また泣きそうになって喉の奥が痛くなった。

(映像はいまそこらじゅうに出てるから、見てね)

ここだけでも見てほしい。 どれだけとんでもなくバカバカしくてくだんなくてすばらしい番組だったことか。
それから、この番組とSNLの音楽パートが、米国音楽のある部分の歴史を確実に作ったのだといおう。
(この番組のライブだけを集めたCDもあったよね)
はたしてJimmy Fallonさんはどこまで行けるのかー。

Warren Zevonが最後に出たときのことも、Brian Wilsonが突然現れたときのことも、毎年のクリスマスのDarlene Loveも、居座って番組をジャックしちゃったMadonnaも、後ろむいてDaveだけに乳をみせたDrew Barrymoreも、Jack Hannaの動物コーナーも、stupid human tricksもstupid pet tricksも、ぜったいぐだぐだになる料理コーナーも、なにもかもなつかしい。

これのゲストに出る前夜のBright Eyesが緊張しまくってBoweryのライブでリハーサルしてた(客に時間計らせてた)こととか、いろんなことを思いだして止まらなくなる。

ありがとう。 おやすみなさい。
Thank you and goodnight. 

[theatre] Of Mice and Men

16日の土曜日のお昼に六本木でみました。
National Theatre Liveのシリーズで、こないだの『欲望という名の電車』の次のやつ。

上映されるのはシネコン、でもこっちは演劇を見るつもりで来ている。 のに、いつもの映画(だけじゃない)のくだんない宣伝予告に映画泥棒までをひととおり流されて、ほんとにげんなりする。 いまのシネコンが関心あるのって集客だけで、客のことなんかこれぽっちも考えてないよね。

原作はスタインベックの小説 -『二十日鼠と人間』(未読)で、30年代 - 大恐慌時代、農場を渡り歩く季節労働者のふたりのおはなし。
James Francoさんの2014年はこればっかしだった、と別に熱心にフォローしているわけでもないのに、なんでかわかる。どこからか流れてくる。 ほんと変なやつ。

頭がよくて真面目なGeorge (James Franco)は、体がでっかくてちょっと頭の弱い甥のLennie (Chris O'Dowd )の面倒を見ながら一緒に旅をして農場を渡り歩いて、そうやって小金を貯めていつかは自分たちの農場を買おうな、て夢を見ている。
怪力男(でも気はちいさい)のLennieはふわふわちっちゃいのが好きで、ネズミを見つけては寄っていって捕まえて、でも力の加減がわからずにすぐに潰しちゃうのでGeorgeに怒られてばかりで、彼の夢は自分たちの農場でてんこもりのウサギに囲まれて暮らすことなの。

ある日たどり着いた農場には結婚したてのぼんぼんとその浮気性の妻 (Leighton Meester)とか、いろんな人たちがいて、そこには明確な階層というか序列というか厳しい食物連鎖があって、底辺で虐げられている老人とか老犬とか黒人とかもいて、そのなかでふたりの位置も将来もぼんやりと浮かびあがって、やがて悲劇が、起こるべくして起こる。

最初にネズミを殺しちゃったLennieが、どこに行っちゃったんだようって嘆く冒頭からふたりの行く末はじゅうぶん想像がついて、だいたいその通りになるのでほんとにやりきれない。 だってふたりはどっちもぜんぜん悪い奴ではないのだし、ではなにがいけなかったのか、その解も、あの世界のなかにいる限りは見えてこない、その出口なしのやりきれなさ。

スタインベックがこれを書いた時点で農業は既に機械化が進んでいて、ここに描かれたような世界はすでに"Ghosted World"となっていた、と幕間に演出家のAnna Shapiro(”This Is Our Youth”もこのひとの演出)が語っていた。 我々からすれば、更に海の彼方、忘却の彼方にあるどうすることもできないこのGhosted Worldが、なんでこんなにシンプルに胸に刺さってくるのか、わからない。
John Fordの古い映画を見たときに来るあのかんじ、と言ったらほめすぎだろうか。

最後、George の頬をつたう涙はライブでは見えなかったかも。
James Francoもよかったけど、Chris O'Dowdもすばらしいの。 やっぱし生で見たかったねえ。

[film] Blackhat (2015)

10日の日曜日の晩、銀座でみました。 なんでこんなおもしろいのにここでしか -

ハッキングで中国の原発がやられて、中国のサイバークライム担当の刑事がネットワーク技術者の妹と一緒にアメリカに渡って、FBIへの捜査協力と収監されているハッカー(Chris Hemsworth)の条件つき釈放を依頼する。 ハッキングで使われたプログラムのオリジナルはMITにいたときにそのハッカーとふたりで作成したものだから彼の技術があれば追跡できるはずだ、と。 FBIがそんな要請を受ける可能性なんて200%ないと思うが、とにかく追尾デバイス付きで彼はリリースされて、犯人を追いはじめたと思ったら今度はシカゴの穀物取引所がやられて、金の流れを追って香港に飛んで、舞台がアジアになった途端にサイバーなんてどこやらに行っちゃって、Michael Mannのどんぱちやくざの世界になっちゃうの。 (アジアなめてねえか)

ネットワーク回線の向こうに広がるデータの海にコードとかコマンドとかを送りこんで変なことをやると物理的な大惨事を引き起こすことができる、というのが最近はやりのサイバークライムと言われるやつで、でもその現場ときたらたいてい四角い箱(サーバー)のなか、プログラムがひっそりかたかた動いているだけなので、そこに映画的な見せ場をどう作るのかは、むずかしいよね。 で、むずかしくて面倒だから途中で投げてアジア世界のどんぱちにしちゃったのかしら、とか。

だからアジアに来て中国の彼もFBIもやられていなくなって二人きり(なかなか艶っぽくてよいかんじのふたり)になってからの捨て身の、いちかばちかの逃避行 & 刺し違えたる! になってからのほうが映画としては俄然おもしろくなる。

お店で厚紙とかテープとかいっぱい買ってきて体にぐるぐる巻いて防弾チョッキつくって、とにかくこれだってエンジニアリングなんだから、とかやって、ジャカルタのお祭りのどまんなかにおびき出して原始的にやっちゃうの。 Thorのとんかちがあれば一発なのにね。
でも祭りの後片付けの人たちの迷惑かんがえてやれ。

あの規模のハッキングをやる悪党があんな少人数のちんぴらのわけないじゃん、とかNSAのパスワードがあんな子供騙しの手で取れるわけないじゃん、とかいろいろ文句はあるけどいわない。

でもこのテーマって、そもそもぜったいTony Scottだったのになあー。

音楽はAtticus & LeopoldのRoss兄弟で、もろでしたわ。
あといつも思うことだが、Michael Mannの映画の銃声って、なんであんなに気持ちよく響くのか。

5.17.2015

[film] Cinderella (2015)

昔のをぜんぜん書けていないし、じたばたしているうちにルビッチ特集終っちゃうし、ほんとふんだりけったりなのだが、シカゴ行く前のも少し書いておく。

26日の日曜日の晩、日本橋でみました。

最初のおまけ、「アナ雪」絡みの短編はぜーんぜんわからず。 よく知らない人の家で無理やり幸せなホームビデオ見せられてるかんじたっぷり。 喧嘩うってんのか。

Cinderella、珍しくクラシックどまんなかで、あたりだった。 Kenneth Branaghえらい。
そもそもネズミとかちっちゃい動物が隅っこでちらちらぺちゃくちゃ喋ったりしているだけでもう許す、になってしまうところが情けないのだが、この映画はそれでいいの。 かぼちゃが馬車になる世界のお話しなんだから。 ファンタジーなんだから。

Ella - Cinderella (Lily James)の幸せだった子供時代から暗転した下女の時代がどんよりときて、舞踏会のお知らせで一瞬舞いあがったと思ったら叩き落とされ、あんただれ?としか言いようがないFairy Godmother (Helena Bonham Carter)がどこからか現れて、"Bippity Boppity Boo”とか唄いだしてから先の展開は怒濤でしたわ。 行け、行くのよElla! ってつい拳に力が入るように馬車と共に全てが転がり、突っ走っていく。(単純)

Cate BlanchettもHelena Bonham Carterもどっちもふるふる震えながら大喜びでやっているかんじもよくて、継母はどこまでも意地悪で、魔法使いはどこまでも化け物で、ばばあ共の本性は底が知れない。どうせならこの両者に直接対決させればよかったのにー。

Cinderella役のLily Jamesさんもよいのだが、王子役がなあー、もうちょっとだけ頭よさそうだったらなー。あれじゃぜったい利発なEllaの尻にしかれる。

小学校のころ、洋画というものを意識しだした最初期に「シンデレラ」を見た記憶があり、あれってなんだったのか、と探してみるとどうやら、”The Slipper and the Rose: The Story of Cinderella” (1976) - というやつだったらしい。Richard Chamberlainが王子で、王子なのにへんな顔、て思ったことを憶えている。

Ellaもの、ということだとやっぱし”Ella Enchanted” (2004) がいちばんすきだなー。

5.16.2015

[art] Robie House (1909)

7日の木曜日のお昼に行って、みました。 陽射しの強い初夏のいちにち。

火曜の夕方まではまじめにお仕事してて、水曜日に一挙に力を抜くのは後ろめたかったのでここもふつうにがんばって周囲に油断させて、木曜日は最後のいちにちだし、会場も適当にやっているように見えた(うそうそ)のでさぼることにした。 このイベントは午前2コマ、午後3コマのいろーんなセッションがあって、そういうのにてきとーに参加してで知見を深めるのであるが、午前の1コマのあとで抜けて、タクシー拾ってHyde Parkのほう - シカゴ大学のあるほう - に行ってみた。

ここにあるのがFrank Lloyd Wrightの初期の、プレイリースタイルの代表作と言われ、U.S. National Historic Landmarkとかいろんなの認定されているFrederick C. Robie Houseで、せっかくここまで来たんだから見るべし、だったの。

家のなかに入るには30分おきくらいにやってる1時間のツアーに参加するしかないのでWebで11時の回を予約していったら10:20に着いてしまったので、10:30のに切り替えてもらった。
一回のツアー参加者は10名くらいだったか。 同じイベントから来ているおっさんもいた(名札隠せよ)。 代金は$17 + 邸内の写真を撮れるパスが$5の$22。

http://cal.flwright.org/tours/robie

最初に1階の納戸みたいな子供部屋でビデオを見つつ建物全体のガイド説明をうけてから外の道路をぐるっと回って玄関から中に入る。 隙間たっぷりゆったりの初夏の大学のキャンパスの間に横にすうっと伸びたその外観は高さがなくぺったんこの分、十分にかっこいいの。

玄関はこじんまりしてて天井が異様に高くて訪問者を威圧するとかびっくりさせるとか、そういうことがない、むしろ外から引き摺ってきた視線をそのまま継承して階上のリビングにそのまま滑らかに繋げる、そもそもそういう効果を狙っているのではないか、と(ツアーのおねえさんの説明)。

玄関からそのまま階段をあがり左にぐるりとまわってリビングに、そこから更に窓の向こうの世界にかちかち一挙に抜けていく導線のシャープなかっこよさときたら鳥肌もんなの。 なんだよこれ、って。
コンフォタブルな、ゲストを暖かく迎えてくれるようなやわい感じではなく、こちらの視線をがっちりふん捕まえて強制的に横流し - スワイプする、それでいてちっとも不快にはならない不思議。
車のデザインとか、(車そのものにまったく興味ないので)どこのなにがおもしろいんだかちっともわからんが、ここにあるデザインとかスタイルのありようって、ひょっとしたらそういうのに近いのかも。

その後の客間にしても台所にしても、すべてがロジカルに説明可能なデザインの支配下にあるのに難しくないし面倒くさくない。 広さが十分にあるから、ではなくて、どちらかというとこじんまりしているのに抜けるべきところに抜け道、というか視界的な抜け穴、見晴らしのよさがあるから、ではないか。

FLWと日本、が云々されることになるのはこれよりずっと後のはずなのだが、既に基本的な視座とか基調は揃っていた/揃えられていたような気がしてならないのだった。 あ、だから日本建築えらいなんて言うつもりはまーったくないけどね。

1時間は短すぎ、あと1時間くらいはうろうろしていたかったよう。
次に来たときは$55のもっと豪華なやつにする。

残りのHyde Park散策はまたあとで。

[art] The Art Institute of Chicago

3日の日曜日、午前9時過ぎにシカゴに着いて11時くらいにホテルに入って、通りの東の彼方に見えたのがここで、とりあえずはここを目指すことにして、途中でハンバーガーを食べてからなかに入る。 ホテルから歩いて10分くらいのとこだった。

どこかから“#1 Museum in the World 2014”ていうのを貰ったらしく、その張り紙がそこらじゅうに貼ってあり、フロアマップを手にするなりおねえさんが寄ってきて「なにをお探しですか?」て聞いてくる。 デパートに買い物に来たわけじゃないので、だいじょうぶですありがとう、て返す。

ここに来るのは2回めで、来ると必ずやらなければいけないのがフェリスごっこで、それはみんなで手を繋いでフロアをまわって、『グランド・ジャット島の日曜日の午後』のところで腕組みをして目をまわす、というやつなの。 手をつなぐのはできなかったけど、後のほうのはやった。「フェリス」ももう30年前のことなのか …    そばにいたおばさんふたりが「あらやだ猿がいるわ」「あらあらほんとだわほんもんの猿なのかしら」「なんで猿がいるのかしら」とかずーっと話している。 それにしても変な絵だよねこれ。

最初にみた企画展がこれ。

Ireland: Crossroads of Art and Design, 1690–1840

アイルランドのアート総合物産展みたいなかんじで、絵画から宝飾、家具、テキスタイル、製本、楽器、などなどを幅広く並べてある。 わたしがアイルランド熱にかかっていたのは90年代初のことで、そんときはAir Lingusで飛んで、GallwayからDublinまで旅していっぱい楽しんで、そのときのことが蘇るのだったが、まあ大いなる田舎、よね。田舎であることの覚悟の度合い、というか腰の据わり具合が半端じゃないの。

製本のコーナーのどうやって使うのか見当もつかない器具道具とか大小のきれいな本がいっぱいのところがよかった。Book of Kellsくらい持ってくればよかったのに。(むりだよ)

アイルランドってやっぱし言葉(詩)と歌と音楽とお食事の国だよねえ、というのを改めておもった。 久々にアイリッシュベーコンが食べたくなった。

おみあげコーナー、ちょっと悩んだけど結局買わず。 笛とか、昔買ったやつあるでしょ。

Shatter Rupture Break

この日で終ってしまう予定の企画展で、これをいちばん見たかった。

第一次大戦に向けて社会も生活も急激に変化を遂げていた今から100年前、「美」のありようも大きく変わっていって、統合や融和を表象する天上のなにかから分断化、文節化、機械化、歪んで崩れて壊れてがたがたぎすぎすしたものの「リアル」とかにその磁場を変容させていった。
この美術館が”The Modern Series”の第一弾として展示する”Shatter Rupture Break”は、同館の収蔵品からこのテーマにそった映像、写真、絵画、コラージュ、彫刻、本、オブジェ、壊れた身体、テキスト、などを多様に多面に紹介していて、ちょっと教科書みたいではあるが、わかりやすくていかった。
アメリカ人て、こういう欧州の文化史とか思想史とかを整理させるとほんとにぱきぱき思いきりよく捌いてしまうねえ、と改めて感心する。
んで、もちろんそれだけではなく、現代に生きる我々との交錯点も示すの。 爆発的に肥大するデータの海のなか、死んだ目をしてcopy & pasteと”Like”と炎上にまみれた「日常」を生きると言われる我々との。

薄暗い場内、大きめのプロジェクタでリピート上映されていた映画はFernand Légerの”Ballet mécanique” (1924) - なんかなつかしー - とLuis Buñuel の”Un chien andalou” (1929)と。
壁に引用されていたテキストは、アドルノ、エイゼンシュタイン、イェィツ、アポリネール、ベンヤミン、カフカ、などなど(もう思いだせないや)。

John Gossage: Three Routines

“Shatter Rupture Break”の反対側のギャラリーでひっそりとやっていた企画展。これもこの日が最終で、こんなちっちゃいスペースでレトロスペクティヴ(宣伝文句)やってる。 80年代のベルリン、最近の、アメリカを中心とした旅日記、過去のキャリアを総括したメドレーの3つのRoutine。
目の前のデッサンと遠くの、届かない風景のあいだをブリッジするかのような絶妙な段差と距離感がなんでか不思議な親密さをもたらす、そういう写真群。 いいよねえ。

あとは近代絵画を中心にふつうに。
Hopperの”Nighthawks” (1942)をじっくりと。水族館のガラスの向こうの夜鷹たち。
あとはPissarro、Renoir、Monetとか、いろいろ。 MetとかMOMAだと大抵すごい勢いで走っているのだが、ゆっくりできたので3時間くらいだらだらしてたかも。

5.10.2015

[music] The Waterboys

6日の水曜日の晩、シカゴのHouse of Bluesでみました。
この晩はレコード屋にも行かねばならず(誰も頼んでないよ)、地下鉄でそこに行って豚みたいにぶひぶひ掘っていて気づいたら9時になっちゃってて、慌ててTaxiで駆け込んだらバンドの音が聴こえてきたのであーあ、と思いつつ当日券($45)で入る。

Waterboysは、90年代の米国で、何度かチケットを買っては用事ができて潰れを繰り返し、Mike Scottのソロですら叶わず、こないだのクアトロでようやく、と思ったのに月曜日の晩なんて無理なのでまたしてもか、だったの。 ここを逃したらもう一生見れないんじゃないかと。

前日に続いて80年代中盤の英国音楽特集。 85年の当時、間違いなく輝いていたのはこっちの方だったのよ。

入った時点で何曲目だったのかわかんなかったが、すぐ”A Girl Called Johnny”をやってくれて、”We Will Not Be Lovers”をやってくれたのでもう全部ゆるす、になった。
”We Will Not Be Lovers”は本当に大好きな曲で、原曲の風の彼方に砕け散って消えていくようなかんじではなく地面に楔を打つようなアレンジだった。(でもいいの)

バンドは米国人3人、英国人3名、米国のボールドなところと英国のトラッドなところがうまくバランスしていてほんとに気持ちよい。 特にSteve Wickham先生のフィドルの自由自在なこと。

長髪に黒ぶち眼鏡、帽子を被って"Wayne's World”の頃のDana Carveyに見えなくもないMike Scottさんはご機嫌で、「最初にシカゴに来たのは確か84年でさー、20分くらいのセットだったけど、Lou Reedの"Rock & Roll”とかやったんだよね」とかいろんなことをべらべら。

Mike Scottがピアノに座り、Steve Wickhamさんとふたりだけでこじんまり、しかし力強く演奏された“Don't Bang the Drum”、バンドが再び揃った後に続くのはもちろん、”The Whole of the Moon”で、「これは俺の歌だー!」「いや俺のなんだようー!」とかあちこちで勝手に絶叫する酔っ払い共の大合唱になってやかましいったらなかったが、歌うよねこれは。 キャンプファイヤーでいつか歌ってみたい曲永遠のNo.1なの(いくつだあんた)。

アンコール、アメリカ西部訛りの英語でぼくらWaterboysのトリビュートバンドなの、とか言ってメンバー紹介してから、Lynyrd Skynyrdのカバーやります、とサザンロック風のギターをじゃらじゃらと流して、でも実際に歌いだした曲はなんと、”Purple Rain" (1984!)だった。 最初は冗談ですぐ終るかと思ったのに、Mike Scottさんと殿下の声質が似ていることもあってフルで気持ちよく最後までいった。 中盤の天に昇るギターソロのとこはSteve Wickhamせんせいのフィドルが見事に完コピ、更にバックのストリングスまでカバーして神としか言いようがないのだった。

そのあとの仕上げは”Fisherman's Blues”で、酔っ払いがぐるぐるまわってうるさくて、おまえら漁師じゃねえだろ! とまるごと投網で一網打尽にしてやりたくなった。

外にでたら頭上にまっすぐのびていたのは、Wilcoの”Yankee Hotel Foxtrot”のジャケットの建物で、おおー、てさらに盛りあがったの(ひとりで)。

5.09.2015

[music] The Jesus and Mary Chain : 30th Anniversary of Psychocandy

帰国しました。 湿気と気圧ですでに…

5日火曜日の晩、シカゴのRiviera Theatreていうとこで見ました。
地下鉄で地下を15分、高架を15分走って着いたぜんぜん知らない駅のそばの知らないシアター。
2日前までオンラインで売っていたから当日でもだいじょうぶかと思って窓口行ったら売り切れてて憮然、しばらくねばってみるかー、と外でぼーっとしていたらチケットを片手にぷらぷら立っているおにいさんがいたので聞いてみたら$20でいいよ、ていうので即買う(定価は$35)。 ありがとうおにいさん。

Riviera Theatreは大昔に建てられた劇場の椅子をとっぱらってライブ用に改修したアメリカではよくあるやつ、音響は古い劇場特有のもっさりしたかんじなのだが、1階のフロアは段差があって見やすい。

The Black Ryder、ていうバンドの前座が既に始まっていた。オーストラリア発、男子2, 女子2のスローで濃厚ながりがりで、Black Rebel Motorcycle Clubぽい、と思ったらメンバーとも関係あるらしい。

さて、JAMCについては昔もどっかに書いた気がするけど、30年前(sigh…)出てきた当時はぜんぜん評価していなくて、むしろ英国音楽もつまんなくなったなー、とか思ったのだった。 後から出てきたRideなんかもそうだったが、ギターノイズを既にあるものとして扱うその手つきの安易さいいかげんさ、みたいのが嫌だったの。しかもノイズとしては品ないし安っぽいし、”Candy”だの”Honey”だの甘ったるいし、そのくせ恐るべき子供、みたいに言われてて、なんだそりゃ、とか。

悪くないかも、と思うようになったのは“Sidewalking" (1988)くらいからで、”Honey's Dead”のときのライブ - 確か川崎のクラブチッタ?  - も行ったのだった。

9:15くらいにメンバーが出てきて、知っているとおもうけど今日は”Psychocandy”全曲と、オリジナルリリース盤には入っていなかった"Some Candy Talking”とかもやるからね、て言った直後に始まったのが”April Skies”だったので一同あれあれ? ってなって、更にトチってやりなおしたりしてるので、コミックバンドかよ、とか思った。 しかももう4月じゃないし。

これが本編前の前菜としての5曲。 “April Skies” - “Head On” - “Some Candy Talking” - “Reverence” - “Upside Down”  - この流れがなかなかみごとで(いいよね?)、音も十分に分厚くやかましく荒れ狂い、あーこういうの聴くの久々かも、と蘇るものがあったの。

この後でメンバーは引っこんで ステージ後ろにもなんか手が入って、”Just Like Honey”からの本編が始まる。 背後に垂れさがる縦スクリーンに古い映像(Stanley Russellという名前が)が(全曲ではないけど)投影されて、さらに最初のここだけ、The Black Ryderの女の子がバックヴォーカルではいる。 ストロボばりばり、はちょっと勘弁してほしかったけど。

”Psychocandy”を聴いた当時にみんなも思ったにちがいないのだが、どの曲もぜんぶ同じに聴こえる金太郎飴、はライブでも同じで、でもじゅうぶん気持ちよいからいいの。 敢えていうと、“Taste of Cindy” - “Never Understand”のあたりがこっちの耳も爛れてきたのか、とっても気持ちよく浸っていられた。 “Psychocandy”の甘さ。 30年を経て我々はこの甘さを受容できたのか? できるようになったのか?   しらねえよそんなの、とJim Reidの仏頂面は言っているようだった。

こうしてラストの”It's So Hard”まで一気に走って、ぷつんと終った。 このままアンコールもなし。

シカゴの深夜の地下鉄、慣れていないからかやはりちょっとだけ不気味だったかも。

5.08.2015

[log] May 08 2015

帰りのO’Hare空港にきました。 やれやれ。

今回、食べものにはほんとうに恵まれなかったのであるが、ここのAmerican Airlineのラウンジもあんまりにあんまりなので憮然としている。

日曜の夜から雨、月曜も曇りでむしむし、火水は突然気温10℃以下で震えてて、木金は暑くて陽射し強くて夏になってて、こんなのだれでも体調崩す。 しかもなんかの花粉(あの白い花?)が、ぜったい、まちがいなく飛んでる。 部屋に籠って仕事してればよいのか。 そうか。

映画は2本、ライブは2本、アートはふたつ。
不慣れな土地で、仕事の場所はホテルから車で20分くらいのとこで、日中はタイムテーブルにそってぎちぎちに拘束される、そういう状態のなかではこんなもんだろうか。
レコード屋も本屋も、いくつか行ったけど、あんましだった。 タイミングもあるのだろうし、NYと比較したら難しくなるに決まっているけど、あともうちょっとなんかあればなあー。 あるところにはあるはずなんだがなあー(.. こりてない)。

食べものに関していうと、仕事のイベント会場のごはんがいつもながらにさいてーで、朝だとヨーグルトにデニッシュにポテトにスクランブルエッグにベーコンにバナナ、を列に並んで取るの。 センサーとか顔認証とかIoTとかいうんだったら、会場にでぶ認証のセンサーつけて、これらのでぶをなんとかトランスフォームできるような食事を自動調整して出してみたらどうか、ていつも思う。

というわけで、滞在中、とくに夜中はホテルのそばのセブンイレブン(ここしか開いていない)で調達したKindのバーとバナナばっかし食べていた。 そしたらなんと水曜日の午後のおやつタイム、会場でKindバーが大量にばらまかれやがって、その衝撃ときたら。

Kindバーっていうのは、これ。  SNICKERSよりはHealthy、なのかもしれない。

http://www.kindsnacks.com/

TVでは、いよいよ終りを迎える”Late Show With David Letterman”にお別れを、というのもあったのだが、シカゴの放映時間て、東部の23:30にあわせて22:30からで、部屋に戻ってくる時間には既に終ってしまっているのだった。 オバマが出ていたときだけ、たまたま見ることができたけど。

残りのあれこれは、またあとで。

[film] Hot Pursuit (2015)

7日木曜日、シカゴ最後の晩は会場のほうでもみんなに感謝のお祭りで、参加者むけにFall Out Boyのライブなんかもあったのだが昼間に相当へろへろになってて、本屋とかも行きたかったので7時に会場を出て、9:30にAvengersを見たシネコンで、これ見ました。 

とにかく頭使わなくてよいバカなやつがほしくて、オープンしたばかりのこれかJack Blackの”The D Train”にするか悩んで、でもいちばん見たかったのはKristen Wiigの”Welcome to Me”だったのだが、これは金曜の晩からで残念、というわけで結局これにした。

客は自分の他に買い物帰りみたいなおばさんがふたりだけ。

Cooper(Reese Witherspoon)はガキの頃からパパのパトカーの後ろに乗っけられて捜査の作法や規則あれこれを叩きこまれ、大人になってからも当然警官で、収監されたやくざの大物Cortezの妻Daniella(Sofía Vergara)のwitness protectionを命じられて彼女のところに行くのだがこいつがぜんぜん言うこときかないとんでもないビッチで振り回されて大変な目にあうの。

小さいのとでっかいの、まじめなのとあばずれのガールズ珍道中ものかと思ったら終りのほうでひとひねりあって、悪くなかった。 なんか酷評されているみたいだけど、ひとによってはどこがおもしろいんだかわかんないかもだけど、おもしろいよ。 日本ではぜったいかかんないだろうけど。

やっぱし、Kirsten DunstとReese Witherspoonにはコメディ(ラブコメじゃなくても)をやってほしい、てずっと思っているので、彼女が小さい身体で目玉をひんむいて絶叫したりしているのを見るとそれだけで嬉しくなってしまう。

ここんとこメディアへの露出が著しい(滞在中、ほんとよくTVに出てた)Sofía Vergaraさんも、あんな役柄ばっかしなんだろうけどがんばっていてよいの。 ああいう無駄でごちゃごちゃどうでもいい大柄感を出せるひとってあんまいないかも。

エンドロールにはちゃんとNGシーンも付いてるし、みんな劇場で見よう! ... しーん

5.05.2015

[film] Avengers: Age of Ultron - 2D (2015)

シカゴに着いてお仕事も始まってもう終って部屋に戻ってきて、これから映画に出ていってもよいのだが、まだ初日だし微妙に疲れたりしているのでおとなしくなんか書くことにする。 仕事しろ仕事。

着いた日、3日の日曜日の晩、8時くらいに地下鉄で少し行ったとこにあるショッピングモール内のシネコンでみました。 昼間は天気よかったのに晩はざーざー雨になった。
3Dのは時間が合わなかったのと、どうせもう一回見るだろうから、と2Dにした。
座席が予約のだった。 アメリカでは初めてだった気がして、すこしだけショックだった。

SWの予告が流れる。 もうなん十回も見ているのに大画面だと鳥肌がたってしょうもない。

ストーリーをこまこま書くのはやめるが、うーむなかなかなんというか。

前作の最後で醜い宇宙人が「ぐふふ」とか言っていた気がするのだが、今回のは宇宙からの襲来ものではなくて、流れとしては"Captain America: The Winter Soldier”の後、HYDRAの残党がまだいて、そいつらと戦っているのだが、HYDRAが大戦前に目指した理想とAvengersが火消し的に実現しようとしている世界の平和との間の溝が改めて露わにされる。 “The Winter Soldier”のなかで示された米国政府が要注意人物をあらかじめぜんぶ抹殺しちゃえば世界は安定するじゃん、という理屈と、宇宙も含めた危険なフリークスの集合体であるAvengersの行動原理って、そんなに違わないんじゃないか、と。 で、実際に冒頭のHYDRAの残党との戦いでは、Iron Man軍団に対する民衆からの敵意がはっきりと示される。 

奪還した魔法の青い石、そいつをTony StarkとBruce Bannerが解析していくなかで人工知能Jarvisが食われてものすごく邪悪なUltronが生まれて、Avengersはそいつと戦うはめになるのだが、いろいろ考えさせられるの。

AIが導きだすところ or 拠ってたつところの善とか正義とかって、これだけ多様性が尊重される今の世の中で、誰にとってのどういうものなのか、とか、そういうこと言い出しても正解なんてないし混乱するに決まっているから、じゃあとりあえずひとの基本に戻って田舎生活、とかいうとそれって安易にお国ばんざい、みたいなとこに落ちがちだよね。 それって正にいま、厳然たるアメリカの「指導力」に呼応して世界中で起こっている右傾化の波に直結していて、Tony Starkがいくら冗談いって茶化しても、あんま笑えない。

アクションとか仕掛けはめちゃくちゃ派手で無敵で(3Dで見たら目が疲れてしぬ)、でもすげえー! にならないのはそういうことなのだと思うが、でもたぶん、観客の大多数はそんな難しいことを考えたくないに決まっていて、そのへんどうなんだろうねー。

"The Dark Knight”シリーズの、Christopher Nolanの苦悩、というのがあんま好きではなくて、あそこで示された面倒くささとは別のやつがあって、でもこっちのはちゃんと考える価値がないとは言わない。 といおう。

ばっかみたい、なとこもいっぱいあるので、そういうところだけ見て笑っていたいのに… というのはよくわかる。

Elizabeth Olsenさんがすばらしくよい。 彼女ならではの。

Mark Ruffaloのどこがそんなによいのか。Keira Knightleyに続いてScarlett Johanssonまで..

日本の宣伝コピー「愛を知る全人類に捧ぐ」はとんでもない勘違い。(これがいまの日本なのよね)
7月の公開時期も含めてShame on you ! だわ。

次のにはアライグマと枯木野郎を出してあげてね。

5.03.2015

[log] May 03 2015

夏の始まりで連休も始まっていて、どっぷりとルビッチ特集に浸かってぬくぬくしていたいところなのに朝6時に起きて、いまはみんなうきうき楽しそうな成田にいて、こないだどっかの馬鹿な総理が辱としかいいようのない演説を「堂々と」やらかしてしまった国に向かうのでなんだかとっても恥ずかしい。 これがバケイションであったならまだお金を落としてお詫びすることもできように、お仕事だもんだからよいことも楽しいこともどこにもありゃしない。 先々週のSFからそのまま放置しといてくれりゃよかったのによう。

このたびの行き先はシカゴで、だからとうぜん、さっきまでのNEXで聴いていたのは新譜も素晴らしかった(なんか書こうと思いつつ時間ないままの)Sufjan Stevensの"Illinois"で、そういえばこのひとはBrooklynのKings Theatreでまさにいまこの時間、ライブをやっているはずで、しかも土曜日はちょうどIndependent Bookstore Dayだし、これがNYだったらどんなにか、というのはいつも思うことなのであんまいうまい。 (そういえばBGMの選択肢として、Wilcoの"Yankee Hotel Foxtrot"もあったね。 連想の経路はBrooklyn → “While We’re Young” → 映画のなかでアドロックが)

シカゴは2008年のLollapaloozaで遊びに行って以来で、その前に仕事で何度か、はあったもののあんまくわしくはなくて、だーかーらー今回も仕事で団体行動なんだからひとり勝手に出歩いたり失踪したりしないように、というのはわかってる。最大の懸念はなんといっても昼夜の寒暖差だよね、というのと監視の目がやや緩くなる火曜の晩以降が勝負、てじぶんの心にそうっと留めておく。

あとはこないだのSFで達成できなかったあれこれをなんとか、といつもこうやって未達のなんかを追いまわして疲弊してばかりで、そんなんでいいのか、なんで自国ではそれができない?  てこれもいつも思うのだが、だってしょうがないじゃん、て開きなおるしかない。 音楽でも映画でも本でも海の向こうにはあるものがあってくるものがきたんだもの。

日本側への心残りとしては、やはりルビッチ特集くらいかしら(イメージフォーラム・フェスティバルも、今年はあんまない気がした)。 自分が死の床に横たわりて「天国は待ってくれる」を見とどけてぱたり、ていうのが自分にとって長いこと理想の死にかたのひとつ、なのだが日曜日の今日はそいつが上映される。 きっと同様の思いの老人が大挙して押し寄せることじゃろうて。 ごほごほ。

戻ってくるのは今度の土曜日。
ではまた。