米国に出る前の日、4/6(土)に神保町シアターでみました。 この特集『いろはにほへと ちりぬるをんな〜春よ!映画よ!女たちの饗宴』も見たかったのだが、結局見れたのはこれだけ。
侯孝賢の作品、これはまだ見ていなかったので。
19世紀の上海、赤暗い光が瞬く遊廓のなかに浮かびあがる3人の娼婦のおはなし。 それぞれの娼婦、それぞれの客にクローズアップするというよりも、彼女たちが客を待ち、客と相対し、客に恋をしたりいろんなことがあり、アヘンを吸ったり食事したり、そこで一生のほとんどを過ごす(運のよい人は身上げされて外界に出ていく)、その金魚鉢のなかの世界を定点カメラ(カメラも水面の動きにしたがって揺れたり)でじっくりと追っていく。
いろんな思惑とか歓びとか妬み嫉み裏切りとかがあって、それなりの修羅場(客に毒飲ませたり家具壊したり火つけたり)もあったりするものの、客を歓待する場として相応の統制は取れていて、なんかあると長老が出てきたり年配の女性が出てきたり、館内ですべての収拾と落とし前はつくようにはなっている。
かといってそこは牢獄(魂のそれ、も含む)では決してなくて、むしろ逆にそこにいる女性は自身の生の全てを客に投げだし、客を繋ぎ留め、そうすることで自分も生きる。 なんとしても生きる。
よいわるいはともかく、それはそういう世界、そういう場所として昔からそこにあって、そこで映画は「生きろ!」とかうざいことは決して言わない。 例えば、彼女たちはこんなふうに恋をした、一生懸命恋に生きた、ということを控えめに、しかし最大限の賛美と美しさをもって語ろうとする。 あの赤暗い光の瞬きと、そのなかで揺らめく金魚たちの美しさ、そして閉塞感も退屈さもうんざりも、それらをぜんぶひっくるめたものとしての恋の輝き儚さ、残酷さを見つめようとする。
で、この空気をまるごと掴まえるような目線はそのまま「ミレニアム・マンボ 」(2001)のオープニングに繋がるのだとおもう。
恋愛の普遍性、というよりも、ドラッグ/毒として、不治の病として古代から脈々と流れてきている恋愛のありよう。 んで、それをより明確に意図的に時の流れのなかに置いたのが「百年恋歌」(2005) だったのでは。
というのもあれば、終始あちこちうろついて、出会いがしら相手をかまいたちの電撃で仕留めて持っていって、しかもほいほい乗り換える、ホン・サンスみたいな恋愛もあるの。
侯孝賢とホン・サンスの映画における恋愛とジェンダー、みたいな論文、だれか書いていないかしら。
4.30.2013
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿
注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。