12.22.2012

[film] 女は二度生まれる (1961)

『雁の寺』に続いて『女は二度生まれる』もシネマヴェーラでやってて、ここまで来たら見るしかない、と、8日に。

その前にお昼、フィルムセンターの日活100年特集でこれを見る。

『性談・牡丹燈籠』 (1972)。
牡丹燈籠て、お話しそのものがすきで、映画だと山本薩夫の『牡丹燈籠』(1968)とか、中川信夫の『怪談 牡丹燈籠・鬼火の巻』『同・螢火の巻』(これらはTV)とかみんな素敵なのだが、これは見たことなかった。

67分、結構ばさばさ省略してて、気がついたら突然人が死んだり殺されたりしてて、お露とお米が新三郎を奪いにやってくる。 情念とか因業とか、そういうのもふっとばして、とりあえず、機械みたいにターミネーターみたいにやってきて、連れていこうとする。
どのへんが「性談」なのかはあんまわかんないのだが、冷え冷えとした救われないかんじ、これはこれでなかなかよかった。

その後で渋谷に移動してみました。『女は二度生まれる』 (1961)

これ、昔、フィルムセンターの川島雄三特集で見ていたことを、フィルムがまわりだしてから気づいた。 よくあること。

靖国神社の裏手の花街で芸者をしている小えん(若尾文子)が板前(フランキー堺)とかお金持ちとか学生とかいろんな男としゃらしゃら楽しく遊んでいて、そのうち建築家のおとうさん(山村聡)に囲われて二号さんになって、おとうさんが病に倒れて亡くなってからいろんなツキが落ちてきた気がして、ひとりでしっかり生きなきゃよっこらしょ、と目覚める。  おとうさんが死んで、生まれ変わるわたくし、というのを劇画タッチではないふうに割とあっさり描く。

ここでの若尾文子さんも申し分なく素敵で、女性映画としてよく出来ているとは思うのだが、でもこれ、男性が絵に描いたお話しだよねえ。
彼女の態度のありようとか、「二度生まれる」ていうタイトルとか、男性にとって都合よい女性のあり姿、でしかないような。
この辺を、とんがった現代娘として登場した江波杏子が威勢よく蹴っとばして暴れてくれたら気持ちよかったんだけどー。

いや、肝心なのは彼女がどうやって生きたか、生きるかじゃろ、ていうのはわかるけどさ。 うん。

べたべたしてないし暗くないし、好き嫌いでいうと好きな映画なのだが、なんというか、こういう女性像をしたり顔で肯定し、それを継承してきた男社会で育ってきたんだからねあんたは、というのは忘れないようにしよっと。

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