12.09.2012

[film] 夜の流れ (1960)

12月1日土曜日のお昼、神保町シアターの特集『追悼企画  女優・山田五十鈴アンコール』から1本見ました。ほんとは(ほんとうに)ぜんぶ見たいのであるが。

山田五十鈴が東京の料亭の女将で、司葉子はその一人娘でモダンガールの暮らしを楽しんでて、そこの料亭に呼ばれてくる芸者さん達とその置屋のお話、料亭の料理人の三橋達也と山田との仲に娘の司も割りこんでくる話、芸者の草笛光子に絡んでくるダメ男北村和夫とか、複数の線が流れていく。

成瀬巳喜男と川島雄三の共同監督で、製作ラインも完全に別だったようだが、どっちがどのエピソードを撮ったのかは、わかる人が見たらわかるのだろうし、若い人たちのエピソードが川島で、そうでないほうが成瀬? くらいの想像はできるものの、そんなの想像したところでどうする、であって、そんな段差があるとも思えない。

これは成瀬かなあ、と思った旅館の一室での山田五十鈴と三橋達也のやりとりはほんとうにすばらしくて、山田五十鈴の愛と焦りと哀しさと自己嫌悪と絶望と欲望と、そういうのがどちらかというと静かな対面のシーンの彼女のおっそろしく繊細な表情と首の揺れと、にぜんぶ現れてくる。 現実世界であんなの目の前でやられた日にゃ、とか想像してしまうが、そんなの想像したところで(..以下略)

その娘の司葉子は昭和35年当時の勝気で怖いもの知らずのいけいけ娘で、その彼女が古風な職人である三橋達也(どこがいいんだか)を好きになり、やがて母と衝突し、その衝突はどちらかというと旧い女であった母の背中を押し、その母の変化は娘を芸者の道に進ませることになる。
男との三角関係がふたりを変えたのではなく、ふたりはそれぞれに変わるべくして変わっていったのだと思う。夜の流れのなかで。

成瀬映画の多くがそうであるように、女性映画としての力強さがすばらしい。(単に強い、負けない女の姿を描く、ということではなく、縮んでいくことのない女の子の往く道を示す、というか)
草笛光子のはかわいそうだけど、金太郎(水谷良重)が最後に爆発するところとか、かっこいいったらない。

『流れる』(1956)には、流れの只中にある女性たちの決して戻ることのない何かに対する祈りにも似た思いがあって、それすらもまた流れていってしまうのでお手あげで、その切なさやるせなさが全面を覆っていた。

『夜の流れ』は昼の流れとは違ってよりいろんなものが流れていくのだが、女達はいつだってその流れにおける女王なのだ、女王になりうるのだ、例えばこんなふうに、と。

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