9.28.2023

[film] Comment je me suis disputé… (ma vie sexuelle) (1996)

9月18日、祝日の月曜日、日仏学院のArnaud Desplechin特集で見ました。

ほぼ若者たちのダイアログ(or 独白)で進んでいく約3時間のドラマ。長めの青春映画、という点では『ママと娼婦』(1973)の90年代版と言ってよいのかどうか。

邦題は『そして僕は恋をする』- これはうまいよなー、90年代ってかんじだし。

原題をそのまま訳すと「僕はどう主張したか...(僕のセックス・ライフ)」だし、英語題の“My Sex Life... or How I Got into an Argument”だと、「僕のセックス・ライフ… あるいはどうやって議論に巻きこまれたのか」だし、ただどちらにしても、(この話は男性が主人公なので)女性とのセックスと議論・口論・おしゃべりがひとつのストリームとなってある時期の彼の生を覆うように渦巻くように形作っていた、それがどんなふうだったのかを(本人にはそんなつもりなかったと思うけど)生き急ぐことになってしまったPaul Dedalus (Mathieu Amalric)を軸に描く。

『ママと娼婦』について言えば、これも女性ふたりに巻きとられ刈られてその下に埋もれてしまうはめにあうAlexandreのセックス・ライフのお話しと言えないこともないので、主人公の語りのばかばかしく尊大で壮大なの(ほめてる)も含めて比べてみたらおもしろいかも。そして、この手のしょうもないおとこの独り語りの起源、というか究極がプルーストの『失われた時を求めて』であることは言うまでもないの。

Paulには10年付きあってきてうまくいっていないEsther (Emmanuelle Devos)がいて、もう見切りをつけていろんな女性とつきあおうとして、学業では天敵だったかつての同級生が猿を連れて自分の上のポストにつこうとしていたり、恋もキャリアもすべてがどん詰まりの排水口に向かってなだらかに吸いこまれていこうとしているのに、自分はなにやっているのやら…. っていう顔でいろんなところを渡っていく。

「恋と冒険」と呼ぶほどにはぱっとしないMTVの”The Real World” - 90年代の - みたいに半端な穴 - “Argument”に嵌りこんだ暗さと湿り気があって、でもそのトンネルはこちらの世界と繋がっているような錯覚をもたらしてくれて、でも先が見えない読めない空気は変わらないのよね、っていう青春映画で、この映画のPaul Dédalusが他のに出てくる彼と比べていちばんPaul Dédalusだと思う。

ここの主人公から、次作では決してArgumentに辿り着かない、人付き合いのようなところにすら行けないEsther Kahnに行った、というのはおもしろいかも。

あと、音楽はPJ Harveyから“Daphnis et Chloé”まで、Desplechin作品のなかでは一番好きかも。


Rois et reine (2004)

上のに続けて見ました - ”Kings and Queen”。 これも何度も見ている大好きなやつで、『そして僕は恋をする』を見てからこれ、ってこんなにすばらしい休日の午後~晩があるだろうか。どっちも長いけど見ていて心地よくなっていくのが不思議。決して明るい話ではないのに。

小汚い学生たちのドラマから穏やかな陽光に包まれるかのように - ”Moon River”が画面を包み、実業家と再婚しようとしていてとても幸せそうなNora (Emmanuelle Devos)のお話しになる。

でも実際には彼女の父Louis (Maurice Garrel)は末期がんで亡くなろうとしているし、自殺した元夫の幽霊(Joachim Salinger)は現れるし、息子のEliasはガラスのように脆くて危ういし、なんなのよ!って困って身の回りで唯一まともそうな狂人の - 精神病院に入れられている - 二番目の夫Ismaël (Mathieu Amalric)に助けを求めようと – EliasにIsmaëlの養子になってもらおうと - する。

こんなふうに複数のKingたちはどいつもこいつもろくなもんじゃなくて、獰猛に彼女に嚙みつこうとしたり毒を盛ったりしてくるのだが、それでも泣いたり嘆いたりしている彼女が結局いちばん強い唯一無二のQueenであることがわかってくる。彼女をそういうふうに仕立てて、結果的に輝かせてきたものはなんだったのか、勿論それは(いつものように)明確に示されることはないのだが、NoraとIsmaël – あとCatherine Deneuveの女医も – のタフなこと、憎しみの海をざぶざぶ渡っていく強さってどこから来るのか。それってPaul Dédalusが”Argument”- ってじたばた自分からぶつかって転がっていくのとはまったく別の、なんでこんなことすら手にするのが許されないのじゃ? という女/神の目線での優雅さに近いものが彼女を運んでいって、父を殺して子を捨てて、実際に彼女は緩やかに勝利する、という女性映画で、そこにはみんなが納得して、冥界の煉獄に繋がれたMaurice Garrelの砂にまみれた呻きもそうだろうなー、って思う。彼女の世界は変わらない - 変える必要なんてない、女王なのだからー。

「家族」っていったいなにがどうなったら「家族」と呼べるのか、それを決めるのは、壊すのはどこの誰なのか、変わるもの変わらないものがあるとしたらなんなのか、見れば見るほどわからなくなっていくよ、というのがDesplechinが家族を撮るときのベースにある気がして、そのへんは彼の最新作でも。

29日、久々に見るはずだった『クリスマス・ストーリー』、チケット買って楽しみにしていたのにいまはロンドン…

9.27.2023

[film] Khers nist (2022)

9月17日、日曜日の昼、新宿武蔵野館で見ました。 邦題は『熊は、いない』、英語題は”No Bears”。

ヴェネチアで審査員特別賞を受賞した、ということ以上に、監督のJafar Panahiが国に収監されてしまったことでも話題となった。この映画の中で動きまわる監督の姿を見るとぜんぜんしゃれになっていなくて、とにかくご無事で、早く出られますように、と祈るしかない。

テヘランの町中で映画を撮っているとこが冒頭で、Zara (Mina Kavani)とBakhtiar (Bakhtiar Panjei)の男女のカップルが国を出るためのパスポートを取得するタイミングが異なる – Zaraの方が先に出国して彼は後から – ことでそんなのだめだ - しょうがないだろ - って揉めていて、そのあまりにシリアスな様子にはらはらしていると、遠隔でテヘランの現場に指示を出す映画監督Jafar Panahiの姿に切り替わる。

どういう経緯と事情によるのか明らかにはされないが、監督はトルコとの国境に近い村の家屋に下宿のような形でひっそりと間借りしていて、先の映画スタッフに指示を出したり村の人々を撮影したりしている。村人は彼を先生として親切に扱ってくれるので、彼のところにやってくる若者にカメラを渡して撮影して貰うように頼んだら、撮影ボタンと停止ボタンを間違えていて撮るべきところがちゃんと写っていなかった(というエピソードが後でなるほどー、って)。

ある日助監督のReza (Reza Heydari)が監督を訪ねてきて、夜中に彼を車に乗せて密輸団が通る闇の獣道を抜けて国境の近くまで彼を連れていく。普段ここに来たら密輸団が襲ってくるのだが今晩は連中と話をつけてある。今、この晩ならここから国境を越えることができる、とやんわり彼の背中を押すのだが、監督はなんとか留まってそのまま村に戻る。

戻ると監督のところに村の衆がやってきて、数日前に先生が撮っていた村人たちの写真を - そのなかに若い男女のカップルが写ったのがあるはずだからそれがほしい/渡せ、と強く要求してくる。理由を聞くと、村では赤子が母親のお腹にいる頃から許嫁が決められるのだが、そうやって予約済みだった娘が他の男と一緒になろうとしている。先生のカメラの写真に彼らが写っていればそれを証拠として彼らを糾弾することができる、とやってきた村人たち - 許嫁を取られて悶える男とその親族と村長が最初は慇懃に、だんだん乱暴に狂ったように要求するようになってきて、でも監督は動じず、カメラの写真をぜんぶ見せて写っていないものは渡せない、と突き放して村長と村人の前で宣誓(嘘ついていません)までさせられることになっていい迷惑なのだが、次に矛先が向かうのは疑われている二人で…

そして、テヘランで撮影していたZaraとBakhtiarのふたりは…

国境という、人をある線から向こう側になんとしても行かせたくない縛り、村の謎(きもちわるい)としか言いようのない男たちの風習、これらは大昔から人々の意識と行動を内面から支配して抑圧して、その線を越えたり断ち切ったりしようとするものには「熊」が。「熊は、いない」けど、熊の被り物をしたなにかはある条件を満たすとやってきて、人を襲って食う。それは迷信なのか伝説なのか物語なのか、誰も答えを持っていないのに(が故に)ある土地や地域では正確に作動して、その土地の人々をその土地の者として固定して、その土地をその土地たらしめ、自らを存続させようとする。サステイナブル(✖️)。

でも「ふつう」に、コトを荒立てずに暮らしていれば「熊は、いない」。熊はいない、ということを監督はほらこんなふうに、と自らの微妙に頼りない身体を風景とカメラの前に曝して示しつつ、その同じカメラが熊の食い散らかした跡を映しだしてしまう、という不条理と恐怖を描く。映画を撮る、つくることがそうして写ったもの写らなかったものの間に横たわる不条理を踏んで貫いて生きることなのだとしたら.. うん、それはそういうものだから… と来たところで監督はやはり熊に…

にっぽんにもこれとおなじ類の熊は地方だろうが都会だろうがうようよいて、だから人が減って生身の熊が増えて、さらに人は減って、熊も減って、みんないなくなっちまえー、と。

[log] London - 0925

9月25日、月曜日の昼間に飛行機に乗って英国に向かう。

行きは8月に出張した時と同じBA機材の便で、今回のもまだ新しい機体にはなっていない - 眠くなったら座席をうぃーんて倒して足を伸ばしてレバーをひねってパタンって橋をかける(わかるひとにはわかる)しみじみ変な座席仕様で、なんでそんなのに乗っていくのか往復JALでよいのでは、と思われるかもしれないが、ひとつには機内食があたりまえに英国のごはんしてて、これはつくりが日本で食べる所謂「洋食」とははっきりと違うかんじで懐かしくなるのと、もうひとつはいろんな新しい映画をまとめて見れる – とにかく14時間あるし - というのがある。日系エアラインでかかる映画(洋画)のセレクションはいつからあんなにつまらないのになってしまったのだろうね?


Polite Society (2023)

ずっと見たかったやつ。ロンドンのシェパーズ・ブッシュにパキスタン系の姉妹 - Ria (Priya Kansara)とLena (Ritu Arya)と両親が暮らしていて、妹のRiaはスタントウーマンになることを夢見て日々格闘技の稽古をしたり女学校内で喧嘩したり威勢よく元気たっぷりで、姉のLenaはアートスクールに通っていたのだが、最近描くのをやめてしまったらしい。Lenaが富豪の母とそのきらきら系エリートの息子が開いたパーティに呼ばれて、他にも若い女性がいっぱい呼ばれているので品評会みたい、ってやな予感がしたのだが、やがてLenaは息子に婚約者として選ばれあれよあれよと式をあげたらすぐ彼のラボがあるシンガポールに行く、というのでなんかこいつ怪しいぞ、って彼の身の回りの調査を始めて、でもやばそうなのは出てこないし家族からもLenaからも怒られたので諦めかけたら、直前にこれはあかんぞ、ていうやばいネタが出てきて断固式を阻止すべし! って仲間と一緒に大作戦を立てて会場に乗りこむのだが、敵 – 特に婚約者の母親は格闘技の達人でRiaには歯が立たなくて絶体絶命に陥って…

家族ドラマであることとか敵がわらわら手強くしぶといこととか絶体絶命てんこ盛りなこととか、昔のB級カンフー・アクションのノリがてんこ盛りなのだが、パキスタン系移民の姉妹を中心に据えたことでびっくりするほど生き生き跳ねまわる楽しく爽快なコメディに仕上っている。特に”Bridgerton”にも出ていたPriya Kansaraさんの身体の動きと力強さがすばらしくかっこよい。ラストにX-Ray Spexの”Identity”が鳴りだしたところでうむ! って。 これは日本公開されなきゃだめよ。


Somewhere in Queens (2022)

Ray Romanoの初監督作で、共同で脚本も書いて主演もしている。QueensはBrooklynと比べると注目度はぜんぜんかもしれないが、とっても好きな町 – 歩いていて楽しいよ - だし、こんなの日本ではぜったい公開されないだろうし。

Queensでずっと続いている家族一族経営の建築屋をやっているLeo Russo (Ray Romano)とAngela (Laurie Metcalf)の夫婦には一人息子の”Sticks” (Jacob Ward)がいて、高校(Glendale)のバスケットボールチームではエースで、夫婦で見にいって応援して、試合には負けたものの帰りに大学のスカウトから声をかけられる。

素直なよいこのSticksには明るいGFのDani (Sadie Stanley)がいて、彼女を両親どころかRusso家の全員に紹介して、Daniも初めは戸惑いつつもみんなと仲良くなっていくのだが、詩も書いているんだ、というStickが書いたそれを聞いた彼女は少し困ったふうになり、だんだん距離ができて別れたい、と彼女が告げる。Sticksの様子を見て心配になったLeoはDaniに会いに行って、大学への進学もある大事な時なのでもうしばらく彼の傍にいてやれないか、って頼んで..

という息子の恋愛模様に父親が首を突っ込んだことから始まる一族の生々しい崩壊… の他にもAngelaの病のこと - かつて癌の治療をしたけど完治してなかった? - とかいろんな事情やおせっかいが絡まり、全員が隅々までおせっかいでやかましくてタフな家族ドラマが展開する。かつて小津あたりがやってもおかしくなさそうな、今時こんな? っていうノリなのだが、なんか悪くないの。Versailles palaceっていう結婚式場のようなところでしょっちゅうテーブルを囲んで宴会をしている家族 – Queensあたりならいかにもいそうだし。


Maybe I Do (2023)

これもNY映画で、40年くらい昔のrom-comのような印象。脚本・監督のMichael Jacobsによる”Cheaters”というお芝居が原作。こんなの舞台でやったほうが、ってふつうに思えてしまう一本だった。

ある晩の3組のカップルの姿が描かれる。
映画館でポップコーンをばりばりしつつひとり泣きながらスウェーデン映画を見ているWilliam H. Macyに同じ映画を見ていたDiane Keatonが声をかけて、ふたりでモーテルに行ったりダイナーに行ったり、こういう場合はなにかしたほうがよいのかと思いつつもどうすることもできず、でも互いが同じような人生の悩みを抱えていることに気づく。

コロンバスサークルにある高層ホテルでRichard GereとSusan Sarandonがベッドに横になっていて、ふたりはつきあって4カ月になろうとしているらしいのだが、ずっと積極的なSusan Sarandon に対してRichard Gereははっきりこの関係を終わらせようとしている。

つきあっているEmma RobertsとLuke Braceyが親友の結婚式に出ていて、ブーケトスの時にEmma Robertsがキャッチしようと目をギラギラさせているのをみたLuke Braceyがトスされたブーケをが横っ飛びで全身でブロックして、同居しているアパートに戻ったふたりは、なんでどうして? って喧嘩になり、Emma Robertsはアパートを出て実家に戻る。

彼女が実家に戻ると両親はRichard GereとDiane Keatonで、Luke Braceyの実家の両親はWilliam H. MacyとSusan Sarandonで、要はどちらの実家でも夫婦関係は壊れていて、結婚しても自分の親みたいになってしまうのならしないほうが、とLuke Braceyは思っていて、それでも仲直りも兼ねて両家で会ってみよう、って顔合わせをしてみたら、それぞれの親たち全員があーらびっくりパニックになっておもしろい。

わかりやすいシチュエーションとじたばたコメディを通して結婚とは、を炙りだそうとしているのだが、あまりに普通すぎるというか、生活に困ったことがない白人エリート層の余裕と嫌味にしか見えない - そういうのを示したいのなら当たりかもだけどそうではないし。キャスティングも嫌味ぷんぷんで悪くない、のにー。

9.24.2023

[film] Esther Kahn (2000)

9月17日、日曜日の晩、日仏学院で見ました。
『エスター・カーン めざめの時』 上映後に監督Arnaud Desplechinによるティーチインつきの。

2002年のNYのリンカーンセンターで、Desplechin作品で最初に見た作品で、そのときのこれはなんなの? という衝撃を確かめたくてずっともう一回見たいよう、って言っていたのをようやく。今回の特集で最初にチケットを買ったのだががんばったのに後ろの方の番号になった。

原作 (1905)は英国の詩人・作家・批評家のArthur Symons (1865-1945) - ワイルドやイェイツの同時代人でジョイスの出版者でありヴェルレーヌやマラルメの翻訳家であり、あの時代の文化の交錯点にいたひとりで、Desplechinにとっては短編とは言え原作があり、英語(一部イディッシュ)による時代劇であり、前作の『そして僕は恋をする』が男性が主人公だったので女性を中心に据えた女性映画となった、そんな一本である、と。

19世紀英国のロンドンの東の方のユダヤ人居住地区で仕立て屋の家に生まれたEsther Kahn (Summer Phoenix)は優しい父(László Szabó)とやや棘のある母(Frances Barber)と大家族に囲まれて自分はこれからどうするのかぼんやりしていた時にみんなで出かけて天井桟敷の上から眺めた芝居を見てこれだと確信して、エキストラのオーディションに出かけてみたら通ってしまい女優の道を目指すことになるのだがどうしたらよい女優になれるのか見当もつかず、老いて落ちぶれた俳優のNathan (Ian Holm)にいろいろ教わっていくのだが、あまり役に立ちそうなことは教えて貰えず、恋をすることじゃ、ってセクハラど真ん中のことを言われ、とりあえず目についた劇評家のPhilippe (Fabrice Desplechin)に近づいてみると、この遊び人は軽く適当に火をつけてくれて、恋も芝居も虜になったところで主演の「ヘッダ・ガーブレル」の初日を迎えると、彼は品のよくなさそうなイタリア娘(Emmanuelle Devos)を伴って現れたのでふざけんじゃねえよ、って開幕直前に自分で自分の顔をタコ殴りして、割れたガラス片をせんべいのようにばりばり食べてどうするんだ? になって… (原作には「ヘッダ・ガーブレル」を演じるところも血まみれになるシーンもない)

むかしあるところにEsther Kahnという娘がおりまして、というアイリスから入って、彼女はどうやって自分の声 - 最初は名前の”K-A-H-N”すらきちんと発声できない - を獲得して舞台上のキャラクターと出会ってそれを演じる自分自身を見い出し、Esther KahnとなってPhilippeにごめんなさいを言わせるところまで行ったのか、「成長」なんて言葉を使うのが恥ずかしくなるくらい、どれだけ顔が腫れあがっても口内が血だらけになっても彼女は頑として彼女であろうとした、ニーチェの「瞬間という杭に短くつながれて」の状態をそのまま刻々と生きた女性を描いた女性映画で、所謂「波瀾万丈」がもたらす相克とか「女優一代」みたいな惹句からも離れて、彼女はどうやって彼女になったのか、Esther Kahnたりえたのか。登場人物同士の対立のありようを通して各人物のコアを浮かびあがらせていく他のDesplechin作品とはちょっと違う。

彼女はこんなふうにやってきた娘だったのでこうなったのです、という説明の仕方ではなく、我々には(おそらく彼女にも)最後まで彼女が何者でなんで女優になろうとしたのか、なんで主演舞台の直前に自分をぼこぼこにしてガラスを食べようとしたのかの核心はわからなくて - Philippeの浮気は表面でしかない - その混乱と当惑の波の強さときたら例えば”Opening Night” (1977)の比ではなく、後のトークで監督も言っていたように「ヘッダ・ガーブレル」の苦しみは彼女のそれとは何の関係もない - でもとにかく彼女があんなふうにそこにいて「演技する」ことについてなにかを突かれて気づかされ感動してしまう、そんな強さがあってとてつもないドラマだなあ、って改めて思った。

それを可能にしたのが女優Summer Phoenixの輪郭の強さ - 自分はなんで生きているのか? ここにこんなふうにしているのか?(怒)という問いの強さで、こういう演技 - 監督の言っていた「魂をさしだす」生々しい演技ってこういうもの - を可能にしたのは彼女で、彼女にしかなしえないなにかがはっきりとある。


明日から少しロンドンに行ってきます。お仕事。

9.22.2023

[film] Petite nature (2021)

9月16日、土曜日の午後、日仏学院の第五回映画批評月間で見ました。
邦題は『揺れるとき』、英語題は”Softie”。監督はSamuel Theis。

長髪を後ろで束ねて華奢で女の子のように見えなくもない10歳の男の子Johnny (Aliocha Reinert)が母に連れられ兄と小さな妹と一緒に家を出ていくところが冒頭。後に残され捨てられる父親はぼーっとして不機嫌なまま荷物をぶん投げたりしているがもうどうでもよいらしい。

母親(Mélissa Olexa)と一緒の新生活で明るい未来が開けるかというと、そんなことはなく、ドイツとの国境付近でタバコ屋をやっている彼女は夜遅いしずっと酔っぱらって男を連れこんでいたり、少し上の兄は不良でGFと遊んでばかりなので、Johnnyは妹の手をひいて彼女の面倒をずっと見ていて、でもこれまでもずっとそうだったから、と諦めて少し怒ったように無言で宙を見つめていることが多い。

新しい学校では若い男性教師のAdamski (Antoine Reinartz)がそんなJohnnyを気にかけてくれて、話しかけてくれたり本をくれたりするので、少し好きになって彼の家をつきとめてみたりして、思いきって扉を叩いてみると先生は家に入れて一緒に暮らしている彼女を紹介してくれて、彼女が務めているCentre Pompidou-Metzの夜間美術館に誘ってくれたり、いろんな人たちのいるパーティに呼んでくれたりする。

こうして周囲の世界や大人にまるで無関心だった - 右左で水槽に運ばれる金魚のようでしかなかった - Johnnyの世界で、彼ははじめて自分の欲しいものを手に入れたいと思ったり、それを妨害してくるものに抵抗したり怒ったりすることを、その感覚を掴んでいく。でもそれもまた粗暴な母親やそこまでは意識していなかったAdamski先生に否定されたり、もっと大きい「良識」のようなものに簡単に潰されてしまったりするのだが。

そうやって外の世界と自分の内の世界との壁やその境い目でいろんなせめぎ合いがあって自分の思うようにはならない(ことが多い)のだ、ということを学ぶJohnnyの脆く危なっかしい「揺れるとき」を拾いあげていく。いつも友達とつるんでいる彼の兄からすれば何に躊躇しているのかわからないであろうことがJohnnyの目とか結ばれた口とかから読み取れて – それくらいのきめ細かさで彼の表情と動きを微細に追っていくカメラがとてもよい、というかところどころ張り裂けそうになって辛すぎたりするくらい。

最期にDeep Purpleの”Child in Time”ががんがん鳴りだして、生まれれ初めてこの曲よいかも、って思った。


Revoir Paris (2022)

9月17日、日曜日の午後、同じ日仏の特集で見ました。  邦題は『パリの記憶』、英語題は” Paris Memories”。

上の『揺れるとき』もこれも、とにかくぜんぜん外れがないのってすごい。デプレシャン特集のおまけ・ついで、なんてレベルじゃ全くないの。

監督・脚本は“Mustang” (2015), “Proxima” (2019)のAlice Winocour。

ロシア語の同時通訳をしているMia (Virginie Efira)は医師のパートナーVincent (Grégoire Colin)と一緒に暮らしてごくふつうの日々を送っていたが、雨の晩にちょっと立ち寄ったブラッスリーで銃乱射事件 – ここの描写、ものすごく怖い - に巻きこまれて気がついたら病院で手当てを受けてて途中から記憶がなくなっていることに気付く。テロから3カ月経っても心神喪失状態のままのMiaは誘われるままに現場で被害者の人たちが定期で開いている集会に参加してみると、別の参加者からあなたが自分ひとりトイレに逃げ込んで難を逃れていたのをみた、って卑怯者呼ばわりされ、でも憶えていないのでどうしたらよいのか、って途方に暮れるしかない。

同じく現場で友人たちと会食をしていてテロの際に足を怪我したThomas (Benoît Magimel)と知り合って親密になったり、少しづつ戻ってくる記憶を頼りに厨房に匿ってくれたらしい男性を探したり、そうしているうちにVincentとの関係は細く遠くなっていって…

テロそのものの恐怖は勿論あるのだが、突然暴力的に記憶を奪われる、ある部分の記憶を喪失してそこに自分がいたのかどうかすら定かでなくなってしまうことの怖さ、心細さがよく伝わってきて、それって多数の死者が出たなかで自分だけが生き残ってしまった - なぜ? という罪の意識のようなもの(おそらく来る)と重なって実存の不安(のようなもの)に直結してしまう。起こってしまった出来事にしがみついてそこから這いあがりたいのにどこにも引っかかりがない→すべてが滑りおちていく感覚の生々しさ。主演のVirginie Efiraがすばらしく上手い。

監督の兄が2015年のバタクランのテロの際の生存者だったそうで、そういうことなのか、と。


『揺れるとき』もこれも、身近なひとの誰にもわかってもらえない - 孤児のようになってしまった感覚のありようを映像でとてもうまく捕らえて伝えていて、『あ、共感とかじゃなくて』になっている - 彼らに必要なのは共感ではなくケアなのだ、というのを切実に訴えていてよかった。

9.21.2023

[film] Frère et Sœur (2022)

9月16日、土曜日の晩、ル・シネマ渋谷宮下で見ました。邦題は『私の大嫌いな弟へ ブラザー&シスター』、英語題は”Brother and Sister”。”Rois et Reine” (2004) – “Kings and Queen”と並ぶ家族対置ドラマ。上映後に監督Arnaud Desplechinのトーク付き。

今開催中の日仏でのArnaud Desplechin特集もこれを見た以降、順番に見ていて、これから書いていきたいのだが、ひとつひとつ、ものによっては20年ぶりくらいに見たものもあって – それは楽しいことでもあるのだが、記憶も含めて掘り返して振り返り、はなかなか重くしんどいやつらでもあり、ずっと映画を見ていくとこういうこともあるのだな、っていうのと、こんなことまで映画はもたらしてくるのか、って(いろいろおそい)。

冒頭、詩人のLouis (Melvil Poupaud)の息子の葬儀に義兄のAndréが現れるとLouisは10年以上も顔も出さないでなんだ! って激怒して追い返そうとして、そのドアのところにLouisの実姉のAlice (Marion Cotillard)もいる。そんなに怒らなくても、というくらい怒る。

そこから5年後、LouisとAliceの両親 – Abel (Joël Cudennec)とMarie-Louise (Nicolette Picheral)が舞台女優であるAliceの主演舞台『高慢と偏見』の初日に車で向かう途中、向こうからやってきて木に衝突してそのまま車のなかで動けなくなってしまった女性を助けようとして車から下りたところで、同様に変な動きをしながらやってきたトラックに轢かれてしまう。女性は死亡して、Marie-Louiseは意識が戻らず寝たきりとなり、Abelは集中治療室に入っている。

両親の事故を知ったAliceはLouisの新しく出た本にむかむかしたり最悪の状態で、でもどうにか舞台はやりきって病院に向かい、道路も通っていない田舎に妻Faunia (Golshifteh Farahani)とふたりで籠っていたLouisも都会に出て病院に向かい、しばらく両親の家に滞在することにして、Aliceを除く甥とか義兄とは会うものの、Aliceにだけはどうしても会いたくないし、病院ではLouisの姿を見ただけでAliceは卒倒してしまうし、いろいろ辛すぎてやってられないLouisはアヘンを手にいれてトリップしてみたり - 実際にLouisが空を飛んだりする。

Aliceは劇場の外で震えていた彼女のファンだというLucia (Cosmina Stratan)のことが気になって、ルーマニアから来て無一文らしい彼女の面倒をみてあげる。Luciaとのやりとりのなかで明かされるAliceとLouisの過去のこと。そんなLuciaに食べものを買ってあげようとスーパーマーケットに向かったAliceはLouisにぶつかって目を合わせる – あんなに会いたくなかった奴に。

やがてMarie-Louiseが亡くなり、彼女の葬儀を巡ってAliceとLouisの影の争いがあり、それに続くかのようにAbelがベッドで管を引きちぎって廊下で倒れて亡くなり、その葬儀ためにFauniaもでてきて、両親の家の片づけが始まって。

幼い頃から親に天才ともてはやされてきたAliceと、他の天才の話を散々聞かされ苦労してきたLouisが賞を受賞して文壇デビューしたとき、Aliceは面と向かってあんたなんか大っ嫌い、と言い、互いの成功を嫉んだどろどろの沼に嵌ってそれがLouisの息子の死により、さらに3名の死も描かれ、超えようのない溝が深まって戻りようがないところまで拗れてしまった、と。

Arnaud Desplechinの映画のなかで、ちょっと癖のある/変な人のいる家族や主人公たちをドライブしたり場合によっては支えたりしてきた「憎しみ」という感情、それが家族のなかでも/なかだからこそ強く根を張って猛毒となりシミをつくり、やがて取返しのつかない事態を引き起こす – でも生き残った者は傷を負いながらも生きていくし、というのが基調音で、そこはDesplechinの映画だなあ、とは思うものの、今回のについてはどうしてもその憎しみのありようがこちらに迫ってこなかったかも。 どうやってそれが生まれて、どうして抱えこまなければならなかったのか? について。その起源と行方を常に考えさせてくれたのが、彼の映画だったりしたので、それに従って考えてみると。

監督とのトークのなかで、Aliceはピュアな存在で、Louisは反対にどこまでも邪悪なほうで、という説明があったが、オースティンやジョイスの劇を演じる女優で、寄ってきたファンの娘をとても気にかけてしまうまさにMarion Cotillardとしか言いようのない彼女が、なぜ - 向こうが悪いことは十分わかっていたとしても – Louisひとりにあんな態度を取って/取れて、解けない毛玉を吐いて転がしてしまうのか、そこのつっかえが最後まで取れなかったかも。たとえば、“Kings and Queen”のEmmanuelle DevosのMaurice Garrelに対する憎しみは、ものすごくよくわかる、けど今度のは-。 そこさえ乗り越えてしまえば、あとはいつもの歪で死者を踏みこえていくでこぼこした世界が広がっているのだが。

あと、最後に彼女が遠いアフリカの方に行ってしまうとこも.. それでよいのかなあ、って(まだ考えている)。ふたりそれぞれ僻地に行けばよかったのにな。ヒマラヤの山奥の小道とかでぶつかって「あなたは.. わたしのお姉さんではありませんか?」って(まだ)言うの。

音楽はAl Stewartの“Timeless Skies”が聴こえてきた、気がした。

John Cassavetes映画との比較でいうと、似たかんじではあるものの、彼の映画の主人公たちはまず破綻してぶっ壊れててまったく先がないの。その条件でその状態で酔っ払ったみたいに「愛はとめどなく〜」なんてぬかして狂っていくの。Arnaud Desplechinの今回の、最近のも真ん中にいるのはとりあえず成功者、勝ち組の確信犯なのよね。“Kings and Queen”のNoraだって。

9.20.2023

[film] Gran Turismo (2023)

9月15日、金曜日の晩、109シネマズ二子玉川のIMAXで見ました。『グランツーリスモ』。

監督が”District 9” (2009)や”Elysium” (2013)のNeill Blomkampということで、B級メカ好きジャンク系飛び道具として、なんかおもしろそうかも、って。ゲームで高得点を叩きだした若者がスカウトされて訓練してほんもののレーサーになる、という実話がベースと聞いて、実話? フィクションなら(映画はしょぼかったけど)”Ender's Game” (2013)とか、当時の若者に決して小さくない影響を与えた(と思う。二回くらい見た)“The Last Starfighter” (1984) 『スター・ファイター』 - 農道の端に捨ててあったアーケードゲームでハイスコアを出した若者が宇宙人に拉致されて宇宙戦争に巻きこまれるお話し - とかあったけど、こんな実話があったの?

任天堂もプレステも触ったことなくてどっちがどうなのかもわからず、ゲームなんてだいっきらいで興味なくて、F1のと今回のような車(レーシングカー?)の違いもルールまわりもよくわからず(車の機構でフェードが悪い、って言い合う場面があったけど、フェードってなに?とか)、それでも楽しむことができたのはお話しとして極めてバカバカしく直球でわかりやすいファンタジーになっているから、だろうか。(バッティングセンターでばかすか打っていたらプロ野球とか、マッチングアプリで100%だった相手とデートしてみたらパーフェクトだった、とか)

英国日産の営業だったDanny (Orlando Bloom)が東京の本社に行ってドライバーを養成するアカデミーを作って彼らをレースに出そう、ゲームの宣伝にもなるしドライバーも養成できるし車の宣伝にもなるし、ってプレゼンをしたらそれがあっさり通って(リスクまみれの絶対やばい投資だと思うけど、あんなんで通るんだ?)、ル・マンを走ったこともあるのに落ちぶれて腐っていたJack Salter (David Harbour)をチーフエンジニアとして投入する。

ウェールズのカーディフで地元サッカーチーム選手の息子であるJann Mardenborough (Archie Madekwe)は父親(Djimon Hounsou)にあきれられながらも小さい頃からずっとGran Turismoのゲームにはまっていて、でも将来の展望もなんもないしどうする? になっていたところにアカデミーへの参加資格が届いて、厳しいトレーニングに耐えて、Jackたちからは”sim racer”ってバカにされたり怒られたり泣いたりしながらのし上がる、というよりぎりぎり生き残っていく。親からの反対はもちろん、Jackをはじめ昔からいるメカニックや、ライバルレーサーからの嫌がらせとかもたっぷり、全体として汗と涙の王道のスポ根ドラマとしか言いようがなくて、それがちょっと驚きなのは本当にそういう冗談みたいな筋書きに乗っかったままサーキットを転々として(世界中を旅することができて)、いきなりプロのレーサーとして輝いてしまうわけではないにせよ、怒涛のクライマックスを迎えるのはやっぱり夢か冗談かとしか思えない。

もちろん挫折や試練 - 人身事故を起こしたりもあって、そこではやはり過去に傷を負っているJackがケアしてあげたり、人情サイドもわかりやすい。子供に見せたらよいな – プレイ中のゲームのブースが解体されてサーキットを走る車に滑らかにトランスフォームしていくところなんて子供が抱く夢そのもの、だと思うし – 仮想と現実をかき混ぜながら自分の理想の乗り物ができあがっていくメカへの妄想(よくもわるくも)って、”The Fast and the Furious”のシリーズあたりが作ったものだろうか?

主人公はレーサーに育っていくJannなのだろうが、映画のなかで断然すばらしいのはJackで、David Harbourのなりふり構わない熊みたいな態度がたまんない(彼のキャラクターは実在の人物のそれにリンクしていないらしいが)。彼がぼろいウォークマンで聴き続けるBlack Sabbath - “Paranoid”とか”War Pigs”と、Jannがレース前に必ず聴くKenny G / Enyaの対比とかも。事故後のJackとJannがしんみりドライブするシーンで流れるBon Iverも。

あと、俳優さんがみんなとてもうまいのでドラマが浮いていない。Jannが事故ったとき、なりふり構わず泣き叫ぶママはGeri Horner -     Ginger Spiceだし。

日産もプレイステーションもこんなの格好の宣伝材料だと思うのにそんなに前に出てこない(気がする)のはなぜ?

9.19.2023

[film] Falcon Lake (2022)

9月14日、木曜日の晩、シネクイントで見ました。『ファルコン・レイク』

カナダ/フランス映画で、監督はケベック出身の俳優Charlotte Le Bonで、これが長編監督デビュー作となる。原作はフランスのBastien Vivèsによるバンドデシネ - ”Une sœur” (2017) -『年上のひと』(翻訳が出ているが未読)。2022年のカンヌの監督週間に出品されている。

冒頭、薄暗い水面の上になにか布に包まった死体のようなものが浮かんでいて、それがほんの少し動くので生きているのか、って。

13歳のBastien (Joseph Engel)が家族 - 両親+弟ひとり - で母の友人のLouise (Karine Gonthier-Hyndman)の一家が暮らすケベックの湖畔の家にヴァカンスでやってきて、しばらく滞在することになる。そこに向かう車中の様子から、Bastienはそんなに活発で快活な子ではなく、弟はまだ動物みたいなものなので、大人たちの間でひとり取り残されてしまうのかと思うのだが、家にはもうひとり、Louiseの娘で16歳のChloé (Sara Montpetit)がいて、でもBastienみたいなガキなんて相手にするか、というかんじで独りで平気っぽい。

なのでBastienは結局ひとりのまま、遊んで/遊ぼうよ、ってChloéに寄っていくほど子供でもないし、弟とだらだら過ごしていると、彼女はたまにワインを片手に原っぱに連れて行ってくれたり、近所のあたま悪そうな青年たちのハウスパーティに連れていってくれたり、家に戻ると彼の目の前で着替えだしたり髪を洗ってくれたり、そこらの男子は彼女に向かって欲情垂れ流しで寄ってくるようだし、自分の知らない扉の向こう側の世界をちらちら見せてくれる謎のお姉さん、的な振る舞いを見せて、でもそんなのに軽々しくついていってはいけない、と自戒するくらいの分別はある。この辺の無表情で不愛想な子供ら同士の微細な見栄の張りあいがおもしろいのだが、Chloéが幽霊や湖に浮いていた死体の話などをはじめると、それは(見たもの勝ちだし)ずるいや(.. でもすごいな)、ってなる。

ふたりの仲が親密になっていくことよりも、ふたりの間にはなにがあったり起こったりするのか、その距離感を手探りで追ったり確かめたりしながら無為の、無駄な日々と時間を過ごしていくようなところがあって、自分は自分が引き起こす痛みにどこまで耐えられるのか、って手の親指と人差し指の間のヒレの部分を血が出るまで噛んでみる - なかなか血を出すとこまではいかない - を何度も試してみたり、自分が一番嫌なシチュエーションてどんなのか、とか、初体験は? とかそういうとりとめないことを言ったりやったりするようになる。

そうやってつるんでいるうち、Chloéとはやったのか? っていう近所のガキの問いに「やった」と嘘をついたBastienはやがてChloéに愛想つかされて、そんな痛み – こういう痛みなのか – で彼のひと夏は一巻の終わり、それだけでも別によかったのかもしれない…

最初、これは湖底に引きこまれたり岸辺に打ちあげられたりする系のひと夏ホラーものなのだと思った。“Under the Silver Lake” (2018)みたいな。深度が見えないひんやりした湖の底にはぜったい蠢く何かがいる - それは彼らの皮膚の延長なのだ、とか終わらない永遠の夏はここでいつか見た死体と並んでこんなふうに、っていういつものかもしれないし、大人は(よいことに)ぜんぜん介入してこないし、彼らの仏頂面とふがいなさと並べてやりようはいくらでもあると思ったのだがなー。

全編16mmで撮影されたという湖畔の夕暮れや夕闇の景色はぼんやり粗くいかにもなかんじで、そこは賛否あるかも。藪の向こうの闇を照らすなにかとか方向感を狂わせるノイズっぽい音とか、もっと考慮できそうなところはある気がして、いやそうじゃなくて団子になってこんがらがったモヤモヤでいいの、だってそうなんだから、ぜったいに振り返らないんだから、などもわかるし。

そしてあのラストは、あのままあの後ろ姿を1分くらい流しておいてもよいのに、って少しだけ思った。やや漫画っぽすぎるかもだけど。

9.18.2023

[theatre] National Theater Live: Best of Enemies (2023)

9月11日、月曜日の晩、Tohoシネマズ日本橋で見ました。

Morgan NevilleとRobert Gordonによる2015年の同名ドキュメンタリー・フィルム(未見)を元にJames Grahamが脚本を書いてJeremy Herrinが演出をしている。Young Vicでの初演時はGore VidalをCharles Edwards が演じていたがここではZachary Quintoが。めちゃくちゃおもしろかった。

1968年の大統領選を前にTVネットワーク各局 - CBS、NBC、FOX、ABCはどうやって視聴率をあげるか策を練っていて、中でもスターアンカーマンもいなくて一番低迷していたABCは半ばやけくそで、共和党・民主党の党大会の中継に合わせて新右派の論客であるWilliam F Buckley Jr. と新左派の論客であるGore Vidalという、まったく噛み合うとは思えない組合せによるTV討論を仕掛けてみようとする。

プロポーザルを受けたBuckley (David Harewood)もVidal (Zachary Quinto)も互いにいま一番討論したくない嫌で嫌いな相手 = Best of Enemies だやなこったってはっきり言いつつ、ものすごい数の人々が視聴する放映の場で相手をとっちめてやるよい機会だから、と受けることにする(程度にはどちらも鼻高野郎であった、と)。

セットは真ん中にTV討論のセットがあり、その上階には3分割されたモニタリングルーム(スクリーンにもなる)があってプロデューサーたちが指示を出したり天を仰いだり罵声を浴びせたり、当時の制作現場のライブ感を示すのと、モニタリングはリアルタイムのスタジオだけでなく、当時のニュース映像なども映し出され、世論のなかで討論の置かれた場所を多層で映し出す。 更に、Aretha Franklin、Andy Warhol、Bobby Kennedyといった当時のアイコンを舞台上や袖でうろうろさせたり歌わせたり、時代の先鋭的な声を代表させるかたちでJames Baldwin (Syrus Lowe) を登場させて彼に人種差別のありようなどを語らせる - この補助線の使い方はとてもすばらし。

あくまでも来るべき大統領選の党大会で候補者を決める、そこに向かって世論に説得力のあるコメントをかましてブラウン管の前にいる市民をなるほどー、って思わせることができればよいだけなのだが、どうしても目の前にいるそれぞれにとって考え方は勿論、喋り方から目つきから経歴から何から何まで気にくわない天敵野郎になんか言ってやりたくて、ぶちのめして涙目にしてやりたくてたまらない相手を言葉でやっつけることに全霊を傾けようとしていて、そんなので常に一触即発状態でぴりぴりの現場や人間関係(Buckleyは彼の妻、Vidalは彼の恋人)がまずはおもしろくて、その雰囲気が伝わってくるだけでこの舞台に触れたお得感がくる。

後半は”The Trial of the Chicago 7” (2020)などでも描かれた荒れに荒れたシカゴでの民主党の党大会に続いたやつで、あの舞台裏とかどんなふうにTVから流されたのか、2人の論客の表情や言葉を通して触れる、それだけでどんなドキュメンタリーよりも(ベースはドキュメンタリーなので)おもしろいものになっている - 誰もがどっちがどうなるのかちっとも予測できないという点でも。

TVショウにおける討論がどれだけスリリングでそこでの小さな亀裂が致命的ななにかを視聴者=世界にもたらしてしまうことは”Frost/Nixon” (2008)などでも示されたとおりだが、ここでの戦いはそんなふうな勝ち負けが明確に示されないことがかえって面白さに拍車をかけている気がした。終わった後、どっちも血まみれなのにふふっ、ってかっこつけてなんか言おうとしていたり。

それでもこれがどこかの国の(すべてが)D級討論番組 - あきれたり気持ち悪くなったりですぐに切ってしまうのでほんとうはそうではないのかも知れないが - と桁違いの清々しさを湛えているように見えるのは、互いに言い負かすことを宣言しつつもそれが決して相手の言葉尻やロジックのようなところに向かわない、論敵が拠って立つところの世界観をリスペクトをこめて再構成して、相手の向こう側に広がるそれらに向かって何かを言わんとしているからで、それを可能にしているのは彼らの想像力と教養と呼ぶしかない視野の広さと厚さなのだ。それを育てる広義の人文学をこの国の政府が目の敵にしているのは、ほんとわかりやすくしみじみクズだわ、って改めて。

9.16.2023

[film] L'innocent (2022)

9月10日、日曜日の午後、日仏学院で始まった第5回映画批評月間で見ました。邦題は『イノセント』。

メインとなるアルノー・デプレシャンの特集は最近のを除いてひと通り見直してみる予定で、大好きだし楽しみだけどものすごく過去や家族についていろんなことを考えたり振り返ったりすることになるので頭がぱんぱんになり、”Un conte de Noël” (2008) - 『クリスマス・ストーリー』のMathieu Amalricのように路地でばったん、てなってしまいかねない重い秋の始まりになるであろう。よいけど。

Louis Garrelの監督・主演による99分のクライム・コメディ。彼の監督作だと短編の”La règle de trois” (2011)とかのひねた文学青年ふう、が好きだったのだが、今回のはとにかくふつうにおもしろい(ほめてる)。脚本にone shotでJean-Claude Carrièreが絡んでいる、ってほんと?

冒頭、拳銃の使い方 - 間違えたら頭がふっ飛ぶぞ - をシリアスに指導する恐そうな中年男がいて、これからどんぱちとか襲撃に向かうところかと思ったら、それは刑務所内で行われた演技のワークショップで、演じていたMichel (Roschdy Zem)はそこの囚人で、そのワークショップを指導していた女優のSylvie (Anouk Grinberg)と出所後に結婚するらしい。

それを横で見ていておもしろくないのがSylvieの息子のAbel (Louis Garrel)で、めでたくMichelが出所 〜 結婚して朗らかで幸せそうなふたりを見て、一緒に彼女の夢だった花屋をやるんだ、っていうその店舗スペースを見に行ったらとても家賃とか払える立地ではなく、いや、家主とは知り合いだったから安くして貰えてさ、というMichelに、出所したと言っても過去からの闇のコネクションは続いてて、まだ片足つっこんでいるに違いない、と確信する。

Abelは水族館に勤めていて、やってくる子供たちにウーパールーパー - フランスだとぜんぜん違う呼び名なのね - のことを教えたりしてて、同僚のClémence (Noémie Merlant)とは昔から冗談を言い合う仲なのだが、ひとりになると亡くなった妻の写真を見つめてめそめそしている。 そういう辛さも抱えているので母さんには結婚して不幸になってもらいたくない、というのもあるらしい。

ひとりだと不安なのでClémenceを巻き込んでこっそりMichelの日々の挙動を観察したり追ったりしていくと、彼の上着のポケットに拳銃を見つけてしまったりやはり怪しくて、でもそんなAbelの動きはMichelとその仲間にはぜんぶお見通しで、Clémenceと一緒に次のヤマを手伝え、母さんを幸せにしたいだろ - さもなくば… って脅される。

狙うのは高額なイラン産のキャビアで、依頼主は花屋スペースの家主で(な? 母さんのためにも失敗したくないだろ?)、狙う予定の運搬車は必ず途中のドライブインに停まってドライバーひとりで夕食をとることがわかっているので、AbelとClémenceが隣りでひと芝居うって彼をテーブルに引き留めておけ、その間に俺らがコンテナを開けてブツを運びだすから、と。

画面分割したり「作家」っぽいことを試しつつ巻き込まれ型のクライム・コメディ、だけじゃなくてホームドラマの要素も孕んで全方位でよくできていておもしろい、というのが世間の評判らしいのだが、恋人同士の設定で渋々嫌々芝居をはじめたAbelが、食堂のトイレで見境がつかなくなりいろいろ感極まってぼろぼろ泣き出してしまう - そしてそれを受けたClémenceにも伝染してしまうシーンを見て、これ少女漫画(よい意味で)じゃん! て思ってしまった。そういえばLouis GarrelもNoémie Merlantも少女漫画によくある顔だよねえ、ってなると、これの登場人物設定のまま少女漫画で読めたらなー、となり、ついそっちの方に考えが行ってしまうのだった。

だから面白くない、なんてことはまったくなく、この後に寄ってきた警察も絡んで話は更に転がっていくし、SylvieとAbelの母子関係も改めて試されることになるし、ここでの「イノセント」ってなんなのか、など着地点に向かって目を離せなくなるのだが、犯罪を経由して家族がばらけて、また纏まろうとする、そういうストーリーの強さはあって、全員演技うまいしなー(ワークショップやるくらい)、って改めて。

これ、ふつうに劇場公開してもぜんぜん問題ないと思いますわ。しないの?

9.15.2023

[film] June Zero (2022)

6月10日、日曜日の昼、シネマカリテで見ました。
邦題は『6月0日 アイヒマンが処刑された日』。 最近、ナチスドイツ絡みの映画が多いような気がしているのは単なる気のせい?

New York Jewish Film Festival 2023でも上映されたJake Paltrow監督作品。言葉はほぼヘブライ語 - アラビア語、スペイン語が少し - で、全編スーパー16mmで撮影されている。

1961年、ユダヤ人の大量虐殺に関わったアドルフ・アイヒマンはテルアビブに収監され、あの有名な裁判の結果、すべての訴状で有罪となり絞首刑を待つばかりであった – というところから話は入っていかない。

13歳のユダヤ系リビア人移民のDavid (Noam Ovadia)が学校で悪さをした罰で父親に鉄工所に連れていかれて炉のようなところに体が入るかどうかをチェックされ、しばらくそこで働くように言われる。なにを作るのかはわからず、そこの社長Shlomi (Tzahi Grad)の部屋に入るといろんな勲章とか火器のようなものがあり - 彼はイスラエルの暗殺部隊にいた過去が - ガラスケースに入っていた金時計を盗んだりするのだが、鉄工所の仲間にも馴染んでいって、やがて可動式のコンパクトな焼却炉、のようなものをひとつ作ること、その期限があることもわかるのだが、それをなにに使うのか、始めのうちは明らかにされない。

次のエピソードは旧知の仲らしいShlomiに炉の話を持ちこんだ刑務所の刑務官Haim (Yoav Levi)の話で、彼の仕事は厳重に収監されていて死刑執行を待つだけのアイヒマンに自殺も含め彼を殺さないように「守る」ことで、なんとかしてアイヒマンの独房に近寄って情報を得ようとするジャーナリストから髭剃りをする床屋まで、変なことをしないように目を光らせるのだが、ユダヤ系モロッコ人である彼自身にしても、アイヒマンに対する恨みは当然あるし、どうせ日がくれば国によって殺されることが決まっている彼を汗かいて必死になって守らなければならないのか、というのはあるし。

次のエピソードはポーランドのゲットーを訪れて自身が生き残った経験を話すMicha (Tom Hagy)がいて、イスラエル代表団の女性が、アメリカからやってくる使節団に対して彼の経験を聞かせるべきだろうか? 彼が話したようなトラウマ、彼の受けた傷を観光目的で来た連中に軽々しく共有すべきではないよ、って喧嘩腰で吹っかけてくる。Michaはアイヒマンの裁判の際も検察官として間近でアイヒマンに接していたのだが、これに対する彼の答えって、ホロコーストという人類史上類を見ない悲惨にどうやって当事者でない我々が向きあって継承していくべきか、について考えるとてもよい材料だと思った。

タイトルはイスラエルの「死刑を行使する唯一の時間」の定めに基づいた、1962年5月31日から6月1日の日付が変わる真夜中 – だから”June Zero” – から来ていて、Shlomi – Davidの鉄工所が作っていたのは刑執行後のアイヒマンの遺体を焼くための焼却炉で、イスラエルでは火葬が禁じられているので使われるのはこの一回のみ、前例もないので焼却炉の設計図はナチスがユダヤ人を焼いたときのものが元だとか、炉が出来あがって試しに羊かなんかを焼いてみたらおいしそうに焼けてしまったがいいのか?(→火力が足らない) とか、そんな漫画のような”Zero” - 消失点に向かって人々が不安で目を泳がせながらばたばたと動いていく。

世界が注目した大物戦犯の最期は - イスラエルが国際法に違反して逮捕~拉致したものだから? - こんなにも静かに、歴史を消したり燃やしたりするかのようにひっそりと実行されたのだ、と。ここにはいろんな見解や隠された事実もあるのかもしれないが、この映画はそれらをばらばらと灰のように撒いてみせる。

こんなふうに描かれたイスラエルの戦後は、現代が舞台となるエピローグで、焼却の際のエピソードをウィキペディアに載せろ、俺はあの場にいたんだ! って言ってくるところまで含まれて、おそらく歴史修正の辺りへの目配せもあるのだと思うが、このパートは別にいらなかったかも。

でも、こんなふうに歴史的転換点の前線にいた、居合わせることになった市民の身の回りのことってもっと描かれるべきよね。 『この世界の片隅に』(2016)とかあったけど、日本映画が描く戦争って絶叫したり泣いたりの兵士とか吠える権力者とかそんなのばかり(まるでスポーツ)でぜんぜん見る気がしないな、とかそんなことまで。

9.14.2023

[film] A Child is Waiting (1963)

9月9日、土曜日の午後、Strangerの特集”The Other Side of John Cassavetes”で見ました。
こんなの、どう見てもぜんぶ必見だし。John Cassavetesなんてぜんぶが”The Other Side”だと思うし。

邦題は『愛の奇跡』? 原作はAbby MannによりStudio Oneていう1時間枠のTVドラマシリーズ用に書かれて1957年に放映された同名ドラマの映画版。

冒頭、発達障害をもつ子供たちの医療施設の入り口で車から降りようとしない12歳の少年Reuben を所長のDr. Matthew Clark (Burt Lancaster)がおびき寄せるように中に入れて、それを離れて見ていた彼の父親(Steven Hill)はもうだめだ見ていられない、というかんじで出ていってしまう。

そこにジュリアード音楽院からのいろいろを経て新任教師のJean (Judy Garland)がやってきて、扉を開けた直後からいろんな子達に囲まれて、そのなかでも特にReubenはJeanになついてきて、Jeanも興味をもって彼について調べていくと父親と母親(Gena Rowlands)の病気に対する考え方の違い - 父親は子供の障害を認めようとせず医者をたらい回しにした - も含めて明らかになったりもしたのだが、所長はJeanがReubenにべったりになっている(Reubenもまた同じく)のはよくない、って彼女の担当を変えてしまって… 

どんな動きをするのか予測がつかないまま大きくなっていく子供たちを前に父親も母親も動揺したり目を背けたり、それはJeanも最初のうちは同様なのだが、所長だけは揺るがずに対応を決めるし、政策観点で口を挟んでくる自治体に対しても強くものを言うし、そんな障害児をめぐる社会の縮図のようなものを描きつつも、そこに突然生じる裂け目とか断線の衝撃とか、その揺れが当事者たちにもたらすショックや気まずさをためらいなしに追う目はJohn Cassavetesだなあ、って思った。

プロデューサーのStanley KramerとJCが障害児のとらえ方を巡って対立して、結果的にJCが折れてハリウッドのメインストリームから干されることになった、それもあって彼はこの映画を認めていない、というのは有名な話であるが、ここでの子供たちのダイナミックな描き方 - 学芸会のとか – は何が起こるかわからない予兆をはらんだじゅうぶんいつものJCのそれだと思うし、結末はどん詰まりのように見えても、まだ終わらないかんじがするところだってそうだし。

子供のことを気にかけながらも集中できなくて(十分な愛を注ぎこめなくて)自分ひとり苛立ちながら端からぜんぶ崩れて/崩していくGena Rowlandsの演じる母親、というのはこの辺からもうある、と言ってよいのかしら。


Minnie and Moskowitz (1971)


上のに続けてそのまま見る。『ミニーとモスコウィッツ』。

これ、21年の6月にもCriterion Channelで見ているのだが、大きな画面で見たらなんだか印象が(よい意味で)ぜんぶぜんぜん違ってて、わーこれすごいなに! となった。

NYからLAに越してきたしがない駐車場係のSeymour Moskowitz (Seymour Cassel)がLACMAのキュレーターだけど恋愛に関してはぼろぼろで泣いてばかりのMinnie Moore (Gena Rowlands)と出会って、降りかかってくる困難だの災難だのを端から揃ってひっかぶって、ふたりで踏んだり蹴ったりでもうやだ! って何度も互いに弾いたり弾かれたりで、でもとにかく愛を(あんま納得できないままでも)貫こうとする。愛とは災禍そのものである、どんなに抗ったってぶちのめされ、それでも流れこみ注ぎこんでくるのだ受けいれよ、っていうJohn Cassavetesの愛へと向かう基本的な態度、というかそんなものに立ち向かってもしょうがないのだから降参しろ諦めろ、という理念のようなのが最初に表明された作品なのかも、と思った。

のだが、小さいPCの画面で見た時は掃き溜めに咲いたなんか、みたいにごちゃごちゃあれこれどん詰まっていて大変だなあ、というかんじで、それはそれで面白かったのだが、今回の大きな画面のだと、よりでっかいスケールで愛ってこんなもんだろおらー、って”Love Streams” (1984)で車が向こうにぶっとんでいくあのイメージで、ふたりの恋が火花を散らしてでっかい花火から爆弾にまで膨れあがっていく、支離滅裂でガタガタ壊れた珠玉のrom-comとしか言いようがないの。

これってGena RowlandsとSeymour Casselの間でだけ起こるふわふわしたマジックだなあ、って。John Cassavetesもいやーな役で出てくるけど、Seymour Casselの髭とおさげのなんともいえない柔らかさがすべて、というか。夜のアイスクリームバーから始まる最初のデートのキュートで胸踊ることときたらとんでもないから、とにかく見て。

9.13.2023

[film] Retour à Séoul (2022)

9月5日、火曜日の晩、ル・シネマの渋谷宮下で見ました。
邦題は『ソウルに帰る』。英語題は”Return to Seoul”、オリジナルの英語題は”All the People I'll Never Be”。昨年のカンヌの「ある視点」部門で上映された。

監督はカンボジア系フランス人のDavy Chou、脚本は主人公と同様、韓国から養子に出されてフランスで育ったLaure Badufleと監督の共同。

25歳で、韓国で生まれフランスに養子に出されてフランス人の両親に育てられたFreddie (Ji-Min Park)は日本に向かうフライトがキャンセルされてしまったので気まぐれのようにソウルにやって来て、外国人向けのホステルに宿を取り、そこの窓口のTena (Guka Han)と強引に仲良くなって、彼女を通訳にして – 韓国語は一切できないから - 酒場に繰り出し、Tenaの友人だけじゃなくそこにいる人たち全員を巻きこんで歌を歌ったり騒いだり、で、Tenaの男友達をホテルに連れ帰って朝を迎える。 そんなキャラクターです、と。

Freddieはそんなつもりはないけど、と再三繰り返すものの何かが引っかかっているようで、韓国にいるのだから、と自分の生みの両親と会う手だてについてTenaに聞いてみると、TenaはHammondという養子縁組センターが唯一の手掛かりである、と教えて、Freddieがそこのセンターに行っていろいろ聞いて手続きをしてみると、父親とはコンタクトが取れて、母親の方は会うことを拒否しているらしい。

そこでFreddieはTenaを連れて、再婚し群山で家族と暮らしているらしい父親(Oh Kwang-rok)のところを訪ねると、向こうは家族総出で泣いて喜んで歓待してくれて、ここにずっといてほしい、って乞うのを振りきって帰った後も父親は養子に出したことを後悔しているとか、出直したいとか、韓国語でメールや電話をしてきたり、ソウルにまでやってきたりストーカーのようになってきたので、もう寄ってくんな!触るな! ってブチ切れて、その荒れた振る舞いはTenaやその友人にも及んで自分でもどうしちゃったのか.. ってなったり。

2年後、Freddieはソウルに住んでいて、武器商人の男と知り合い、その日は彼女の誕生日で、この日、自分を生んだ母親は自分のことを想ってくれたりするのだろうか? って。母親は依然として会うことを拒否していて、父親は相変わらず一緒に暮らしたがっていることも明らかにされる。

そこから5年後、片言の韓国語を喋れるようになっているFreddieは武器商人の男の会社に就職して韓国にミサイルを売っていて、韓国への出張にフランス人のBFのMaxime (Yoann Zimmer)を連れてきて、改めて生みの父親と会ったり、でもやはり気になるのは母親の方で…

おそらく自分を生んだ両親と会うこと(それで自分を捨てたことを謝罪させたり)が目的だったのではない、彼らと会って、その顔を見て(言葉はわからないけど)話して、それによって自分のなかで何が起こるのかを見てみよう、くらいだったのではないか。そして、父親と会ってみたら、思っていたのとあまりに違うし今の自分とは100% 相容れないし受けいれられないし、これはなんなの? 彼らと自分の血が繋がっている、って、血とか国とかって、なに? と。

こうしてFreddieは彼女を実親から引き離した一要因であるかもしれない戦争に関わるビジネスに足を踏みいれ、写真すら残っていない母親の影を求めて何度も韓国に足を運ぶ。

単に異文化にはまるとか、自分探しとか、だけではない、自分の身をソウルに帰らせる、引っかからせるものはなんなのか、を異邦人の目で追っていこうとして、それは最後のほうでなんとなく明らかになるのだが、そこだけちょっと甘くて普通すぎたかも。わかるけど。

でも、フランス人でも外見は典型的なコリアン、というFreddieがいろんなところにぶつかって怒ったり怒鳴ったり、そうやって自分も傷ついたりしながら平気な顔して向こうに歩いていって、でも決して和解のようなところに落としこもうとしないところとか、フランス映画だなー、って。韓国を撮っていても、佇まいとか雰囲気とか音楽のかんじとか、どう切ってもフランス映画っぽくなるー、とか。決して「国民性」とか「地元」とかに回収させようとしないJi-Min Parkのふてぶてしさもすばらしい。

韓国はふつうにそうなのかも、だけど、日本でも親族のべったーずけずけ、こちらに土足で踏みこんでくるようなところは(会社とかのふつうの呑み会とかでも)感じるところがあって、あれ変だし迷惑だから、いまや国際的にやめるべきだよね、って思う。あんただれだよ? なんてしょっちゅうだし。というようなところを「にほんすごい」系の人に投げかけたくなったり。

9.12.2023

[film] The Natural History of Destruction (2022)

9月2日、土曜日の午後、イメージフォーラムで見ました。

ウクライナのセルゲイ・ロズニツァによる《戦争と正義》という見出しのついたアーカイヴァル・ドキュメンタリーの2作。ナレーションもなく、日付や土地を説明する字幕もなく、アーカイブ映像を繋いでいくだけ、他のロズニツァ作品と同様、音だけは後から加えられていて、そこは賛否あるかも(あんなふうに聞こえるだろうか?)。 映像の繋ぎ合わせでそこでなにが起こっているのかをわからせてしまう。戦争の映像とはそういうもの。

元になったのはW・G・ゼーバルトの『空襲と文学』(1999) - これの英語題が”On the Natural History of Destruction”だった。邦題はここからの『破壊の自然史』。あのような空襲のあと、文学はなにを語ることができるのか? という問いに対して、ほれ、映像はこんなふうにやるよ、って。

重厚そうで堂々とした戦闘機が組みたてられて、そこに積まれていく銃弾の一本一本から機関銃から大小の爆弾まで、その工程や工場の、そこで働く男女の誇らしげな表情があり、チャーチルの演説などがあり、飛行機から投下されたそれらが地表に落ちて、小さな火花のように見えた光の粒が近づくにつれて大きな噴煙や火柱になって、町とか一帯を飲みこんで広がる空爆の様子が描かれて、爆撃された後の町では廃墟とか瓦礫を前に佇む人たちとか並べられた沢山の死体、それを覗きこむ人々の絵と。

部分部分は記録映画で断片として見たことはある(気がする)ものの、一連の流れとして見ると、これらは整然と組織化されたヒトの行動として流れていって、決して戦闘機や爆弾といった破壊兵器の仕業ではない、ヒトの集まりが寄ってたかって別のヒトの住む地域を焼野原にして、混沌をもたらし、大量の死体を転がしたことがわかる。これが「破壊の自然史」で、まるで山火事や大地震や火山噴火のように扱われてしまいかねないヒトの歴史で、あまりに大量で機械的で広範囲であるが故に「自然史」のような扱いと用語で捕捉しないことには処理・納得できない、人類による人類の大量殺戮のありよう。

解説によると『イギリス空軍だけで40万の爆撃機がドイツの131都市に100万トンの爆弾を投下し、350万軒の住居が破壊され、60万人近くの一般市民が犠牲となった』と。説明(言い訳)のしかたはどこもなんであろうとも同じで、戦争の災禍を止めさせるためには空爆も原爆も総動員もやむなしだった、というこれもまた「自然史」に沿ったすり替えの目線があり、これは直近のウクライナのだろうが、「テロとの戦い」だろうが、どこにも適用できる万能なあれで、でもなにをどう言ったってこれは人殺し(複数)で、ヒトがヒトを明確な意図と意志をもって、人為的に、抹殺する、そういうものなのだ、と – はっきり言うわけではないが、示そうとする。これを見ても「やっぱ連合国すげー Good Job!」とかいう人いないよね? いるのかな?


The Kiev Trial (2022)

9月7日、木曜日の晩、おなじくイメージフォーラムで見ました。 邦題は『キエフ裁判』。
久々にシアターに自分ひとりだけ、だった。

これもナレーション等は入らず、被告側のドイツ語による供述はそれを通訳するソ連側の言葉の方に字幕がつく。

1946年1月にキエフで行われた「キエフ裁判」- 第二次世界大戦の独ソ戦で、ナチスドイツとその協力者によるユダヤ人虐殺などの戦争犯罪の首謀者を裁いた国際軍事裁判の様子を描く。観客でびっしり埋まった法廷? にナチスドイツの15名が出廷して、最初の罪状認否では全員が罪状を「認める」か「一部は認める」かを申告して、そうだろうな、ってなるのだが、この後の生き残った人々による虐殺の現場の描写 - 一部は”Babi Yar. Context” (2021)にもあったもの - があまりに凄惨な地獄でおそろしく、それ以上におそろしいのは、被告人弁論での、命令だったから、他にやるものがいなかったから、やらないと殺されそうだったから、など、しらじらと語られるそのトーンだったかも。それ以外になにをどう言えばよいのか、くらいの投げやり感。

そして最後は屋外の広場で、被告全員が横一線に並べられての公開絞首刑 - 『処刑の丘』(1976)みたいな - が執行されて、執行の瞬間、広場を埋め尽くした観客の間からは大歓声があがって、ここもまたおそろしい。

自然史が抽出する「自然状態」と「法」、そこから導きだされる「正義」とは? というのはあるにしても、『破壊の自然史』の描写も含め、ここで淡々と繋げられた場面、その展開については少なくとも「正義」って呼んでよいものではない、よね?  だから戦争なんてなにがなんでも絶対に起こしてはいけないのだ、と。

9.11.2023

[film] La casa lobo (2018)

9月3日、日曜日の昼、イメージフォーラムで見ました。

実験ふうアニメーション「なのに」大ヒットしているようで、よいこと。イメージフォーラムで売り切れ印をみるなんてそうあるもんではないような。

監督はチリのCristóbal LeónとJoaquín Cociñaの二人組による二本だて。- PJ HarveyのPV - “I Inside the Old I Dying”もこのふたりによるものだった。きもちわるとかわいいの危なっかしい境界上の可逆と不可逆を行ったり来たりしつつ、ノスタルジーと段ボールの糊で繋いで崩してを繰り返して、内外の変容への感覚が麻痺していくような効果をもたらす。ホラーとトリップ紙一重のあやうい綱渡りのような。

Los huesos (2021)


14分の短編。邦題は『骨』、英語題は”The Bones”。Ari Asterが制作に参加している。
1901年に制作されたというストップモーションアニメーションが2021年に発掘され、Nuevo Museo de Santiagoがこれを復元してみたらこんなものが映っていました、という。

チリの建国に携わった二人の歴史上の人物 - Diego Portales (1793-1837)とJaime Guzmán (1946-1991)のお墓を少女のConstanza Nordenflycht (1808-1837) - 15歳の時にDiego Portalesと関係を持たされ3人の子供をもった – が掘りおこして死者の骨を拾って魔法の儀式のなかで蘇らせて... という肉の再生過程がフィルムの逆回転のなかで描かれて、フランケンシュタインとかゾンビみたいなのだが、彼女がそれをやることでなにを実現したかったのかが最後にぽつん、と慎ましく明らかにされる。こんなふうに骨に絡まった(絡まされた)歴史の紐から解き放たれたい人 - 女性 - 兵士、など、きっと山程いるよね、ってちょっとしんみりした。


La casa lobo (2018)

世界中でいろんな賞を受賞している。5年をかけて作成された74分間のノンストップモーションアニメーション。邦題は『オオカミの家』、英語題は”The Wolf House”。

ピノチェト独裁政権下のチリの田舎でプロパガンダ風のナレーション(Rainer Krause) - スペイン語ときどきドイツ語 - によって地元のおいしい蜂蜜を産する夢のような共同体 - コロニーの紹介がされて、そこを抜け出してオオカミのひそむ森に向かったMaria (Amalia Kassai)が一軒家を見つけて、そこにいた二頭の子豚PedroとAnnaを養子にして、彼らを囲い込み、ヒトとして成型して彼女にとっての理想の家と家族を実現しようとする。お話しとしてはほぼこれだけ。

森やオオカミといった外部と壁に囲まれ家具やキッチンのある内部 – すべてがぐにゃぐにゃ可変 - とを結ぶMariaの知覚世界がどこかから聞こえてくる声や子供たちによってどう変わって、変えられていくのかが一連の、果てのない悪夢のなかで描かれ、そのどこまでも容赦なく終わらない、止まらない眩暈耳鳴りのさまを描く。

ぜんぜん止まらない実物大のアニメーションとして見ていて飽きないのだが、ダークで怖くて震えるかというとそんなでもなく、アンフォルメルだけどアバンギャルドで変なわけでもなく(音響とかもっと工夫できたのではないかしら?)、溶けるところと固化するところのバランスはよくて、ところどころかわいく見えてしまったりもして、背景を知らないとわーどろどろでおもしろ、くらいに留まってしまうかも。これなら”Coraline” (2009)とかLaikaの初期作品のほうが怖く生々しく迫ってくるものがあったような。

あの時代のチリに実在したドイツから逃げ出してきた児童虐待犯だったPaul Schäferがチリの山奥につくったカルト - Colonia Dignidad(尊厳の家?)がモデルで、そこからの脱出とか逃亡、記憶を漂白したり、がテーマなのだと思えばその痛ましい傷口も見えてくるのだろうが、それらは再現できたり追体験できるものでは決してないというのは作り手もわかっているのであんなふうになって、でもまだはっきりとオオカミはいるのだ。いまのこの国にだってうじゃうじゃ。

あと、異なるものから不可視だった過去を発掘/発見して伝えようとする試みであれば、Patricio Guzmánのドキュメンタリー諸作のようなやり方のほうが真っ直ぐに届くのではないか、とか。

今日はチリのクーデターから50年目だった。

そして911も。あれから22年経って、あの時真っ暗になって混乱していた自分とかその周りにいた人たちに、もうだいじょうぶになったよ、って言えるようになっているかというと、まだぜんぜん。あまりにだめすぎてかなしい..

9.10.2023

[film] Mechta (1943)

9月2日、土曜日の昼、シネマヴェーラのウクライナ・ジョージア・ソ連映画特集で見ました。
邦題は『夢』、英語題は”Dream”。監督は『一年の九日』(1962)、『十三人』(1937) がおもしろかったMikhail Romm。

西ウクライナの農村に両親と暮らすAnna (Yelena Kuzmina)が食べていけないからポーランド(当時はポーランド統治下)の方に出稼ぎに出ることになり、両親がお祈りするのが冒頭で、街の食堂で給仕する彼女は嫌なかんじの男性客に難癖つけられたり散々で、それだけでは食べていけないので夜遅くに下宿屋に戻ってからもそこの靴磨きや洗濯掃除をする女中として働いている。

その下宿屋の名前が「夢」で、おなじ場所で食料品店もやっているケチで口うるさいマダム(Faina Ranevskaya)が大家で、彼女に溺愛されている中年息子のLazar (Arkadi Kislyakov)は設計エンジニアを目指して応募したりしているが無職で、Vanda (Ada Voytsik)は新聞に交際&結婚相手求むの広告をだし続けていて、他には世界一の御者になりたいけどぜんぜん客がつかない御者、などなどあんまぱっとしない宿屋の連中は毎晩ビンゴのテーブルを囲んで世間に向かってグチとか呪いの言葉とかを吐き続けていて、この場所から動くことができない。

Annaは彼女と同じく都会に出てきている兄経由で兄の友人らしいTomash (Vladimir Shcheglov)と知り合って、ちょっとときめいたりもしたのだが、彼らと会ったりすれ違ったりした後には必ず警察らしき面々が現れて、彼らのことを知っているか? ウソついたらえらいことになるぞ、などと聞いたり脅したりしてくる。

やがてAnnaは食堂をクビになり、Lazarの応募は選から落ちて、でも彼は選ばれたぞ! って周囲に嘘をついて母の金を持ち出しAnnaを連れて高級レストランに、Vandaのところには自称富豪が現れ、やがて騙されていたことがわかったVandaは自殺し、これらいろんな化けの皮に威圧されたり振り回されてばかりのAnnaはすっからかんになった上にTomashの件で逮捕されてしまう。なにが悪いのか、どうしてこんなことになってしまったのかさっぱりわからない… 不条理劇のように壊れていく/壊していくそれぞれの「夢」たち。

「夢」というひとつ屋根の下宿屋の住人の、ひとりひとりの夢が目の前で崩れて破れて塵と消えていく様とそれらをもたらした個々の欲望、見栄、焦り、諦め、絶望、やけっぱち、その刺しあい潰しあいなどを目の前の絨毯の模様やシミのように生々しく、それが巻いて巻かれて叩かれる業とか運命とか、それを黙って天井裏から見つめる誰かの目線まで含め、なんの慈悲も誇張も飛躍もなしに描いて、理解できないことなんて、古くさいものなんてなにひとつない。バルザックやトルストイを読んで沁みてくる喜劇なのか悲劇なのかのあれ、としか言いようがない近さで。

『一年の九日』も『十三人』も、どちらも登場人物たちが望むと望まざるとにかかわらず、ひとつの場所 - 研究所とか砂漠とか - に縛られて動けなくなったまま、ひたすら死に向かって転げ落ちていくお話だったが、これもそれに近く「夢」の屋根の下から出ることができないままにそれぞれが破滅に向かっていって、他にどうすることができただろうか? って彼らの強いクロースアップは訴えてきて、それらに自業自得だろ、なんてとても言えない。ついていなさすぎ。

それでも最後の最後に「夢」が何かをしたのかしなかったのか、Annaは唐突に復活して、それが指し示すなにかは冗談のようにも、あるいはまた別のありえたかもしれない「夢」のようにも見えてしまうのだが、政治とか革命がそれを可能にした… のだろうか。 なにが起こったのかがよくわからないところがまた..

邦画だとこのような破滅とか転落にはギャンプルなどが絡んでくるのかしら。なんとなく寺内大吉原作の競輪の映画 - 『競輪上人行状記』 (1963) などを思い起こしてしまった。でもこっちの方はどう見ても自業自得とか甘えとか、仏教ぽいというか..

9.07.2023

[film] Haunted Mansion (2023)

9月1日、金曜日の晩、”Asteroid City”に続けて109シネマズ二子玉川で見ました。『ホーンテッドマンション』。
1日はサービスデイだからね、はしごでもしないことにはお財布が。

2003年のEddie Murphy版も2021年のマペット版も見ていない。ディズニーランドのアトラクションにあるやつ(?)が元ネタらしいのだが、そこにも入ったことはない。要はお化け屋敷こわいだろ〜 なんだよね? 当初は脚本をGuillermo del Toroに依頼していたが引っこめたって… あーなんて勿体ないことをー。

最初に死者がでかい顔をしてずっと生者と一緒にお祭りしている街としてのニューオーリンズが紹介され、ギークの天体物理学者だったBen (LaKeith Stanfield)は妻と死に別れたあと、失意から立ち直れないままお先なしやるきなしのツアーガイドをしていて、シングルマザーのGabbie (Rosario Dawson)とTravis (Chase Dillon)の買ったぼろ家に立ち寄ったらそこから抜け出せなくなる。なんで抜け出せないかというとそこにずっといるお化けだか幽霊だかが悪戯とか悪さをしてくるからで、元のアトラクションではそうしてまとわりついてくるあれこれを振りきって脱出する、というのがテーマだったのではないかと想像すると、抜け出すための別の手とか助っ人などが必要で、そういうのとして、(やがてニセであることがわかる)神父のKent (Owen Wilson)とか、落ちこぼれ霊媒師のHarriet (Tiffany Haddish)とか、お化け屋敷専門のなんの役にも立たない教授Bruce (Danny DeVito)などが集結してきて、他に水晶玉に閉じ込められている霊能力者にJamie Lee Curtis – “Everything Everywhere All at Once” (2022)を上回る派手被り衣装、敵方のお化けの首領に館の当主だったJared Leto  - 出し方、もうちょっと工夫してあげればよいのに – などがでてくる。

結局は性悪・邪悪すぎて首を切られた旧当主の呪いをどうする、を巡って館を中心に閉じこめられる/脱出する/追っかけるの右往左往のどたばたゲームで、見ていて飽きないのだが、首なしとか帽子の使い方とか、わかりやすく先が見えてしまうのがつまんなくて、どうせやるならどこまでも悪趣味のげろげろ – “Addams Family”みたいな – に振りきってしまえばよかったのに – でもディズニーのじゃ無理か - とか。

まずこれってホラーなのかコメディなのか。ホラーだったらちっとも怖くない。なにしろ最初に入居した母子組が恐怖で疲弊したり衰弱したりしているわけではなく、ただ出らんないのよねー、って腕組みして困惑していて、お化けたちの困った挙動については教育上いかがなものか、程度だし、集まった面々もよくわかんない変なことがあれこれ起こるので嫌がるものの強がり半分で怖がりはしないで、さてやるべきことはー、みたいな態度で、とにかく誰ひとり怖がらないの。怖がらないけど巻きこまれる – アトラクションだからいいのか。怖くないけどなんかいる/見える、っていうのが実は一番怖い - “The Babadook” (2014)みたいな - んだけど。

コメディでやるにしても芸達者が集まっているので、”Ghostbusters”的なノリとかWes Anderson風の連携でも見せてくれれば楽しくなったに違いないのに、ちっともわくわくしないし、どちらかというと個々が連携プレーしないところ(お化け側もそんなふう)を見せようとしているみたいで、でもその様子があまりヒットしてこない。どちらかというと、妻を失ってこの世に未練がなくなったBenの悲しみや辛さをところどころクローズアップしてくるので、なんか中途半端で座りがわるいかも。などを思うと、del Toroの”Crimson Peak” (2015)って、痺れるようなお化け屋敷ものだったなー、とか。 これならアニメーションでもよかったのではないか、とか。

で、最後は結局Halloweenだよ! (Jamie Lee Curtisはここから現場に向かったのかも)って子供も一緒にみんなでわいわい騒いで、結局/やっぱりそこかーって。冥界の蓋がどっちみち開いているのなら最初から駄菓子でも食べて猫になって落ち着けばよいのに、とか。

でも子供の目からしたら実はとても怖くておそろしいなにかが見えているのかもしれないしー、とも思ったり。
 

9.06.2023

[film] Asteroid City (2023)

9月1日、金曜日の夕方、109シネマズ二子玉川で見ました。『アステロイド・シティ』。

いつのまにか、みんな大好きWes Andersonになってしまった感のあるWes Anderson作品。
音楽はいつものAlexandre Desplat、ちらりと出演もしているJarvis Cockerがぼそぼそ歌うのも聞こえてくる。

ありもしない国や土地、ありそうにない都市とか町とか村、ありそうでなさそうな建物や乗り物、ありもしない組織の縛りとか忠誠、ありもしない家族とその絆、ありえないしゃべりと会話の劇、すべてが作りもので、作りこまれたり加工されたりしていないものはない、犬やキツネだって英語を喋る、そういうカラフルでプラスチックな駄菓子の世界。ここの上で、一族郎党、犯罪、陰謀、戦争、冒険、救出、正義、友情、などを中心としたわざわざぎくしゃく拗らせた物語が展開して、そこで流れていく会話にも活劇にもなんの表も裏もなく、ただドミノ倒しのようにぱたぱた地平線の向こうまで走っていくのみ。こないだの”Barbie”の方がまだ現実世界とのリンクはあったし、キノコ雲は”Oppenheimer”のほうが本物ぽかったし(←そりゃそうだ)。

アメリカ合衆国50年代のいろんな夢や可能性や試行錯誤に溢れてきらきら(orどろどろ)していたTVドラマ制作の舞台の表と裏と結果と。モノクロ世界のTVホスト(Bryan Cranston)が劇作家Conrad Earp (Ed Norton)を紹介して、彼のタイプライターが叩きだした世界がカラーの紙芝居のような”Asteroid City”として広がっていく。

砂漠のまん中に町があって、長く奥にのびていく一本道があり、ガソリンスタンドとかモーテルとか、昔に隕石が落ちたクレーターの観光名所があって、近くでは原爆の実験もしているし、警察とギャングがカーチェイスもしているし。

ここで開かれる天才子供(スターゲイザー)の表彰式にやってきた、妻を失った(けどまだそれを子供たちに告げていない)元戦場カメラマンの父Augie(Jason Schwartzman)と天才息子のWoodrow(Jake Ryan)と妹たちの車が途中で壊れて、子供たちの祖父(Tom Hanks)が呼ばれて、謎めいた女優Midge(Scarlett Johansson)とその娘Dinah(Grace Edwards)が現れ、モーテルにはバスで来た小学生たちとかバンドとか、いろいろ集まってくる。

米軍のGibson将軍(Jeffrey Wright)が仕切るクレーターでの表彰式の上空にUFOが現れて宇宙人がすたすた下りてきて意味ありげに隕石を持っていって、Augieはその写真を撮るのだが、大統領と話した将軍は一帯を軍事的に隔離して大騒ぎになって…

最後は反乱だ一揆だって大騒ぎになるのはいつものことで、ただ眺めていればたのしー、しかなくてこれでよいのか、っていつも思うのだが、これはTVドラマの世界での出来事で、それを作っている側の、作者や演技指導する人たち、役を演じている俳優たち「現実」のことも出てくる層構造になっていて、更にはその成果をブラウン管を通して一家で見るであろう当時の人々もいるし - これらぜんぶ包めて – 50年代のアメリカの風景 - モノクロとパステルの箱庭を覗きこむようにして眺める。 映画でも同様の作り-作られる世界のありようを描くことはできる、のだろうが、TVは大衆文化のセンターにみっしり組み込まれる使命と期待を背負った魔法の器で、というあたりの広がりようが興味深い。ドラマ ”Asteroid City”に出てくる記号や意匠を掘っていくといろいろおもしろいのかも。

他方で、そうやって描かれた世界の完成(完結)度とか落ち着きのようなところ、あるいは映画の作劇の手癖、のようなところで今度のはよかったわるかった、などが語られて、いろんな芸達者な人々もいっぱい出ているし目にも耳にもやさしく楽しいからいいや、になる。今回だとやはりScarlett Johanssonが飛び抜けてすばらしく、彼女とBill Murray - 今回はCOVID-19で出れなかった - が絡んでほしかったなー、くらい。

おもしろいおもしろくないでいうとおもしろいし楽しいし、Wes Andersonがやろうとしていることも見えるし、それを実現できる才能も結果としてのクオリティもすごいと思うし、でもなんか、自分が映画に求めているなにかとは違ってきているような気もし始めていて、それなら自分が映画に求めているものってなんなのか、などと問い返したり考えたりすることもできるので、そういう変なかたちで彼の映画を見て笑ったあとに微妙に捩れたような顔になって穴から出てくるのがここ数作のー。

9.05.2023

[film] Fifi Martingale (2001)

8月27日、土曜日の昼、ユーロスペースのジャック・ロジェ特集で見ました。

邦題はそのまま『フィフィ・マルタンガル』。日本では劇場初公開で、Jacques Rozierの最後の長編監督作となる。脚本は”Maine Ocean” (1986)と同じくJacques RozierとLydia Feldの共同。

相変わらず奔放かつ適当に転がっていくかんじがたまんなくて目が離せないのだが、みんなの楽しい逆立ちヴァカンスがメインにくるわけではなくて、バックステージもの。なんでそれ? という唐突感はあるものの、古くからあるジャンルとしての股旅ものとバックステージもの - 日常のあれこれから離れた非日常イベントの内と外で、方々から潜りこんできた変な人たちが自由に好き勝手に振舞ってえらいことになる(でも結果オーライ - 誰も責任とらない)、というどたばたコメディの基本は変わっていないような。

パリでヒットしているブールヴァール劇『イースターエッグ』のリハーサルで年老いた俳優のYves (Yves Afonso)が劇場に着いたところで足を轢かれて、どうする? になると入れ違いのように田舎で芝居をやっているというGaston (Jean Lefebvre)がここの舞台でやらせてほしい(自分はできるから)、って現れたり、そこを仕切っている劇作家は上演しようとしている自分の稚拙な劇がモリエール賞なんぞを受賞したことに我慢ならないようで、これから改変して目にモノ見せてやる! って(誰か - 誰?)に向かって吠えるのだが、その場にいた全員がこいつはなにを言っているのかどうするんだ? になって頭を抱える。

とりあえず台詞を一瞬で憶えられる特殊能力をもったGastonが代役に立つことになって、彼は前借りした出演料を手に女優のFifi (Lili Vonderfeld - Lydia Feld)を連れてブルゴーニュの方のカジノに向かい、赤黒に賭けるルーレットでMartingale法 - 負けたら次は常にその倍の金額を賭ける - で大儲けして、意気揚々と戻って客を入れたガラ公演が始まるのだが、Gastonはそれだけが取り柄だった台詞をぜんぶ忘れてしまい、プロンプターの指示も無視しまくりで全員が真っ青になるのだが、バルコニーにいた宴会ギター野郎どもがじゃんじゃか弾いて歌って盛りあげてくれて、客席も含めた全員が? 状態のままイースターエッグ見つかってよかったなー最高~ みたいなしゃんしゃん、になる …

なんとなく、こないだ見たフェリーニの”Luci del varietà” (1950) - 『寄席の脚光』の頑固芸人たちが巻き起こす終わりのない彷徨いを思いだした。未来があるとは思えないのに、まじめにこつこつやらないとやばいのに、そんなつもり微塵もない。なにか起こっても自分らのやり方をなにひとつ変えずに超然としてて、結果的には一歩も進んでいない振りだしの地点に立っていて、それみろ/どうするよ? みたいな顔をしていたり。

Jacques Rozierのヴァカンスものにあった昼間の浜や砂州の風通しのよさはシアターやカジノの扉の奥とその向こう側に閉ざされて、その密閉されたかんじがおじさんたちのとぐろを巻いた胡散臭さに磨きをかける – これってあえて探すとしたら”Maine Ocean”に出てきたNYの興業主のおじさんのそれと同じようなノリで、どこかからか無責任に湧いてきて、とにかくしぶとくぶっとくて、消滅したりしない。

(カジノのとこ、”Bob le flambeur” (1956) - 『賭博師ボブ』みたいになったらおもしろかったのに)

そしてそんな様相が悪の渦巻く極悪な磁場をつくるかと思いきや、あれこれ揺さぶられて網の上で煎餅がひっくり返るようにお祭りのようにいろんなものが弾け飛んで制御不能になってもうなんでもいいや… って。

こうして、こんなふうに先の見えない誰も責任とらないリハーサル状態が延々続いてどこまでも終わらず、いつまで経っても「本番」にはたどり着けなくて、登場人物みんなが遭難者たちになってしまう、と。

で、そんな遭難した状態がやばいとか、自分が遭難しているなんて誰ひとりとして思っていない、というふてぶてしくよいかんじ。こういうの、狙ってだせるもんでも適当にやってでてくるもんでもなくて、やっぱりJacques Rozierってすごいな、になったの。
 

9.04.2023

[film] La maman et la putain (1973)

8月26日、土曜日の午後、ヒューマントラストシネマ渋谷のジャン・ユスターシュ映画祭で見ました。

邦題は『ママと娼婦』、英語題は”The Mother and the Whore”。 モノクロ、219分、4Kリストア版。NY行きがなければ、初日にかぶりつきで見に行ったはずの待望の1本。作・監督はこれが彼にとって最初の長編作品となるJean Eustache、撮影は『影の軍隊』(1969)のPierre Lhomme。73年のカンヌでグランプリ(Grand Prix Spécial du Jury)を受賞している。

冒頭、主人公のAlexandre (Jean-Pierre Léaud)がEx.のGilberte (Isabelle Weingarten)を追いかけて結婚したいんだけど、と迫るのだが、Gilberteはそんなふうに前のめりのAlexandreにもうあなたとは無理だし会いたくないし別の人と結婚するのだからもう寄ってこないで、とはっきりと告げる。

ここまでのAlexandreの喋り方とか態度などから彼がどんなひとなのか – 特に仕事はしていないふう - はおおよそ見えてくるのだが、彼はブティックに勤める年上のMarie (Bernadette Lafont)のアパートに居候していて、それは同棲というほど熱く湿ったものではなく、野良犬が屋根と布団を求めて出入りしているだけのような温度感で、彼は目が覚めて支度してそこを出るとLes Deux Magotsなどのカフェに行って男の友人たちと本や新聞の話題とか68年のことなどとうにどうでもよさそうなことをあーだこーだ喋ってだらだら過ごし、そこで目があってこちらに何かを送ってきた気がした女性を追いかけて電話番号を聞きだして会おうとする。それがVeronika (Françoise Lebrun)で、ポーランド系のフランス人で看護婦をしながら病院の寮で暮らしていると。

Veronikaは自ら性的に奔放でいろんな男と寝ているとはっきり言って、そう言われてもべつに動揺しないAlexandreとも親密になっていって、初めのうちはそれをMarieに言ってもふたりの関係に影響を及ぼすことはなかったのだが、MarieがLondonに出張しているときにVeronikaをアパートに呼んだりしているうちにオープンにぐだぐだになっていって、MarieとAlexandreが寝ている時間に酔っぱらったVeronikaがなだれこんできて、そのまま3人で寝たり、そういうことをやっていても3人のありようはそう変わらないように見えたのだが、Marieが睡眠薬を飲んで自殺未遂を起こしたりして…

Marieのアパートの部屋 – のザコ寝している部屋(ほぼ定点)とAlexandreが通うカフェいくつか、場所としてはそれくらい、登場人物はAlexandre周辺にいる胡散臭そうな男たちを除けばほぼ3人で、そこで語られる言葉というとAlexandreの独り語りのような周囲の本や詩や音楽や愛や町についての呟きと女たちとの痴話喧嘩を含むどこまでも行方の見えない愛とか関係についての戯言ばかり - 後半にVeronikaの比重が大きくなっていく - 用意されたプロットやカタストロフィに向かって追われていくわけでもないのに、これだけで3時間半以上もたせてしまうのって、なんかすごい。(一応、「結婚」というのはキーとしてあるのか)

この感覚が(よい意味で)よくわからなくて、なんでだろう? というとこもあったので須藤健太郎氏の『評伝ジャン・ユスターシュ 映画は人生のように』を読み始めて、まだ読み終えていないのだが、破滅的な人生 - 最後は拳銃自殺 - を歩んだJean Eustacheの生涯を端から追っていく、というよりは個々の映画のなかに彼の人生の欠片とか痕跡を拾っていくというアプローチがおもしろい – そういうことができてしまう人生などについて。

この映画に関しては、MarieとVeronikaには実在したモデルがいたがAlexandreにはいなかった、というところとか、彼の言葉のところどころ他人事のように乖離して聞こえる語り口(引用の織物)については同時代のJean-Jacques Schuhlの”Rose Poussière” (1972) -『バラ色の粒子』の影響が大きいこと、などについて、あとはMarieのモデルとされて、映画では美術全般を担当していたCatherine Garnierが映画完成直後に自殺してしまったこと、などが印象に残った。

タイトルも含めて、この映画における女性の描き方 – Jean Eustacheが女性のありようをどう見て、どうとらえて表象したのか、については - 当時はこんなんだったのかもなー、でもJean Eustache個人のジェンダー観のようなところに閉じてしまうのでもなく、今の目線でどこにどんな問題があったのかなかったのか、それは当時のなにがもたらしたものだったのか、などについて誰かの書いたものがあったら読みたい。

あと、ラジオのように(実際にはレコードをかけたりして)部屋の隅を流れていく音楽たちが甘くせつない。こんなにも甘く鳴ってしまってよいのか、Léo Ferré - Édith Piafの『パリの恋人たち』 - とか、これってなんなのかしら? って。

もう一回くらい見たほうがよいかも。
 

9.02.2023

[film] Devyat dney odnogo goda (1962) - Девять дней одного года

8月26日、土曜日の昼、シネマヴェーラの特集 -『日常と戦争そして旅 ウクライナ・ジョージア・ソ連映画』で見ました。

いまはかの地では戦時下、戦争が日常で、この国だって明らかに戦時に片足つっこんだ(つっこみたくてたまらない)戦前の日々となっていて、なんでこんなことになってしまったのか? を考えるのにすごく遠くにいってしまった気のする昔のロシア・ソ連の映画を見つめて距離を測ったり肝を冷やしたりするのはとても大事で必要で、べつにそんなの抜きにしてもどれもすごくおもしろいから。戦争の暴力や不条理をどう見つめ、向き合い、描こうとしたのかの苦闘も含めた古典だから。

邦題は『一年の九日』、英語題は“Nine Days of One Year”。監督はMikhail Romm。

冒頭、核の研究施設で事故のようなのが起こって、教授っぽいSintsovは大量の放射線を浴び(でもひとり強がってて迷惑)、弟子の若い物理学者Dmitri (Aleksey Batalov)も同様に浴びてしまい、これ以上浴びたらしらんぞ、って言われる。頭はよさげでも軽薄そうな物理学者のIlya (Innokenty Smoktunovsky)は空港で恋人のDmitriのところに発とうとしているLyolya (Tatyana Lavrova)を口説いて引き留めて結婚しようって詰め寄るのだが、Lyolyaはぎりぎりで振りきってDmitriの方に向かって一緒になる。

当初のタイトルは”365 Days”だったそうで、一年間ずっと研究と日々の暮らしを行ったり来たりしつつ過ごしていくDmitriとLyolyaのふたりの季節ごとの一日を切り取ったのを9回分 – その中にはなんにもない穏やかな普通の日もあれば、実験が成功した日もあれば事故が起こったりIlyaが現れて波風がたったりの日もあり、流れとしてはDmitriの病状が悪化していって骨髄移植を受けるあたりまで。

核の研究施設の緊張などはあるものの、共通の高い目標を掲げたプロジェクトの遂行に打ちこむ研究者たちの群像を追っていて、そうするとこないだ見た”Oppenheimer”を思い起こしたりもする(男性ひとりの顔のポスターのビジュアルもなんとなく)。あの達成前と後の時系列いったりきたりの苦闘と同じようなことが、一年間の戻れない、戻せない一方向に流れる時間のなかで描かれる。 アメリカの反対側で原子力開発を競っていたソ連においても研究者たち - 国の威信をふつうに信じた若者たち3名が熱く魂を焦がして、Oppenheimerの努力は原爆に、Dmitriの努力(こちらは架空だけど)はチェルノブイリに行って、やがて沢山の人と大地を殺しました、とさ。


Trinadtsat (1937) - Тринадцать

↑のに続けて見ました。邦題は『十三人』、英語題は”The Thirteen”。 監督も同じくMikhail Romm。

スターリンがJohn Fordの”The Lost Patrol” (1934) - 『肉弾鬼中隊』をみてこういうのを作れ、って命じて作られた、と。(なんでわざわざあんな悲惨なお話を? ってふつうに思うわ)

戦いを終えて帰るべく中央アジアの砂漠を進む赤軍の10人に国境警備隊の司令官とその妻と地質学者の3人が加わって、砂漠のなかでの水を求める渇きとの闘いがきて、井戸らしいのを見つけたけど既に潰されていたり、ようやくそれらしき穴を見つけたと思ったらそこに隠されていた機関銃が2機見つかり、でも井戸は枯れ枯れで、でも何時間かかけてコップ一杯くらいはとれる、そんなでもないよりまし、って水のためにそこに陣取ると、向こうから敵らしき指令がやってきて、そこは俺らの井戸だからどけ、って脅してくる。

彼らは赤軍が1年攻めても倒せなかった恨めし憎っくき敵どもであることがわかって、200人規模だと(勝てるわけないだろ)。とりあえず援軍を求めて若い兵士と馬を砂漠の向こうに送りだし、掘りだした機関銃をセットして迎え撃とうとする。向こうも水が必要で疲弊しているはずだしかかってこい! って。この辺、迷いも決断の時とかもなくてあっさりしたもの。

初めのうちは機関銃でばりばり蹴散らすかんじだったのが、ちゅん、って弾にあたってあっけなく倒れる兵士がひとり、またひとりと増えていき、司令官がころりと倒れて、妻も銃を手にするが倒されて…

暑さで喉が渇いてううーってなっているところに敵が群れてきたら走って逃げるのも体力使うし面倒だし正常な判断もできなくなって、ああなっちゃうんだろうなー、っていうたんたんとした悲惨。かわいそうだけど、みんな虫けらみたいに一瞬で倒れて砂の中に、みたいな。

こんなふうに砂に埋もれて棄てられる犬死になっても国は映画にしてくれたり英雄ぽく見てくれるんだからみんながんばれ、ってことか…. やなこった。 みんな騙されちゃいかんぞ、って確認するために見る。

9.01.2023

[film] Meg2: The Trench (2023)

8月25日、金曜日の晩、109シネマズ二子玉川のIMAX 3Dで見ました。夏の納涼サメまつり。

前作を見たのはロンドンだったがその中味なんてすっかり忘れている。そして勿論、それでまったく問題ない。 でっかい鮫がやってきて、Jason Stathamがやっつける。それ以上でも以下でもない – あ、でも今回は鮫以外にもいろいろ。監督はなんと、Ben Wheatleyではないか。

冒頭、ぶーんて飛んできた虫がよりでっかい生物に食われてそいつが更に食われて、の連鎖が描かれて終端に特大のやつがぶぁしゃーん(覚悟しろ)って。

続けて、海に汚染物質を投棄しようとしている悪者の船に乗り込んだJason Stathamがひとりで悪い奴らをやっつけてくれる。日本語版の特別対応として、悪者を日本政府+東電にしたバージョンを作ってくれないだろうか。 あの腐れきったろくでなしどもをー。(中国資本も入った映画だからやってくれるのではないか)(ほんとうに冗談じゃなく頭にきている)

前作にもあった気がする沖合に浮かぶ掘削とか調査とかをしているでっかい施設に、前作ではまだ子供だった気がするMeiyingとか彼女の叔父のWu Jingとかがいて、新たな潜水スーツを試したり、Megを飼いならせるか実験したりしていて、水深7000mの海溝へのダイブ運航をして降りていったら、違法の採掘をしていた謎の潜水艇が攻撃してきて、どかどかやったりやられたりしながら危機をなんとか脱して – 7000mの深さでも、そこの水を含んでおけば1分くらいは素潜りで動ける、ってJasonが言っていたけど本当なの? - でも複数のMegなどが隊列くんでやってきたり、戻ったところで施設は悪者たちに占拠されていたので、小さなボートでリゾートがある近くの島に漕ぎ出していったら当然悪い奴らは追ってくるし、Megたちも無表情に寄ってくるし、オオダコもくるし、陸上でも狂暴なトカゲみたいのががぶがぶ始めるし、観光客でいっぱいの島ぐるみのJurassic Parkみたいなパニック映画になっていく。

でっかいサメの映画が怪獣映画のようになっていくのはとっても正しいと思いつつも、警察も軍もなくて、連中と対峙するのがJason Stathamほぼひとり - 味方は数人で敵はいくらでも、というのがものすごい。そして見て一週間経ってしまうと、どんなふうに彼がやっつけたのか、なにひとつ脳裏に残っていないのもすごい。なんとなく残っているものとして、Jason Stathamが大口開けて迫るサメを彼の足一本で止めてしまう絵があったけど、そんなこと - サイズや重さをそんなに考えずに相手を - ができてしまうのも、水中が無重力だったからで、これが重力の世界に移ってきた途端に、夢のように溶けてしまって、食われてしまうやつは食われて消えてさようなら、ってだけだと。

それにしても、サメっていつの間にかゾンビとか西部劇とかと同じくひとつの聖なるジャンルになっているよね。なんでサメ映画なのか? 吠えないし騒がないし前に泳いでいくだけのサメがつるーっと無表情にやってきて、目の前にある人などを平等に捕食する、それだけで集団パニックを引き起こす、という構図そのもののおもしろさと、水の中だとぜったいアウトで食われちゃうけど、陸になんとかあがればセーフ、みたいな境界のせめぎ合いみたいのがたまんないのかしら?(でも今回のはサメにくっついて出てきたタコとトカゲみたいのが..) 子供の頃、予告見ただけで怖すぎていまだに”Jaws” (1975)すら見れていないのに、こういうのは見れてしまうのってよいのだろうか?

この作品て、実は人間 vs. サメではなくて、人間の善玉 vs. 悪玉のどんぱちの傍を勝手に傍若無人にばしゃばしゃ通り抜けて浮かびあがって蹴散らしたり食べちゃったりするのがサメたちの主な役目なので、なんか嫌いになれない。

とどめがあの主題歌でー サメが、でっかいサメが、おいらは無敵のめがろどん!ってラップでイキってるのなんで?

ギガとかテラとかは次くらいから出てくるの?