11月20日、日曜日の午前、Tohoシネマズ新宿で見ました。
『恋人はアンバー』。日本の宣伝ポスターのコピーが問題(ほんと問題だわいつまでたっても)になって修正された、だからこそこういうのはひとりでも多く見に行かないと、って思ってしまうやつ。
1995年、アイルランドのキルデア州で、軍隊のばりばりマッチョな父に育てられたEddie (Fionn O'Shea) - 最初のほうであんたBlurのメンバーに似てるね、って言われてる。DrumsのDaveかな - は、父を失望させたくないし一人前の男子として見てほしいし、って卒業したら軍隊に行こうと思っているが、自分がゲイであることも直視したくないけど自覚していて、学校の先生とかにぼーっと憧れつつ、どちらかというとなんで女子に近づこうとしないんだ? なよなよしてて怪しいぞ、っていう同級生男子たちからの虐めとか同調圧にどう対応すべきか、のほうに苦慮している。
Amber (Lola Petticrew)は父を自殺で失ってから、母とふたりで暮らしながら母の所有するトレイラーハウスを学内のカップルに時間いくらで貸して稼いだお金を缶からに貯めていて、将来はそれを元手にロンドンにパンクでアナーキーでインディペンデントな書店(よいなー)を開くことを夢みている。AmberはEddieよりは大人で、現実的に自分がレズビアンであること、そこに立って自分の夢や将来をどう作っていくのかについて十分自覚的なのだが、目の前で派手に転んでひとりで頭を掻いたりしている哀れなEddieを見ていられなくなり、ふたりが男女のカップルとしてオープンに付きあうことで親も含めた周囲をだましてやり過ごせるのではないか、その方が楽だったりしないか、ってEddieに提案すると彼もこれに同意する。(アイルランドではこの2年前 - 1993年まで同性愛は違法とされていた)
そうしてふたりで学内を「カップル」として練り歩いたり、むりやりキスしてみたり、ダブリンまで列車で旅をして夜のクラブでそれまで自分の知らなかったドラァグクイーンとかいろんな人たちを目の当たりにしてバカ騒ぎをして、ここでAmberはSarah (Lauryn Canny)と出会ってときめいて自分の進む道に手ごたえを掴むのだが、その横にいるEddieはクラブで騒いだ後、自分の進路(軍隊行き)とかこれからやっていける自信のようなのとかが足下が揺らいで見えなくなってしまい、Amberの手も吹っ切って前以上にぐだぐだの支離滅裂になっていく。
ふたりの怪しく危なっかしいカップル仕草が巻き起こすどたばたをコミカルに描いて、そこからみんなが納得して安心するカミングアウトやパートナーとか家族の理解へー という方に簡単には向かわないところはよくて、Amberはそんなやつに構っている暇はないし、ってEddieとのうそ関係を解消するのだが、Eddieは自信も自分も見失ってだんごになっていって、やがて軍に入隊する日が近づいてきてこのままでいいのかって、でも荷作りを始めて。
“The Breakfast Club” (1985)的に親子や周囲との溝をひと騒ぎの後に埋めて旅立つ、そういうおめでたさは(よくもわるくもJohn Hughes的な父はいない。母は少し)なくて、個々の傷や痛みを見つめながらどうしたもんか.. ってまっすぐ真面目に悩んでいる(90年代..?)のはわかるし、悪くないと思うのだが、でも最後にAmberが貯めていたお金をEddieに渡してほれ持って行ってきなー、って発たせてあげるのはやっぱりやりすぎだと思った。彼のお母さんがやるならまだわかるけど、AmberにはAmberの夢があるのだしSarahと一緒にロンドンに行く、のが筋ではないのか。監督は留まる者と去る者、の対照を描きたかったらしいけど。
英国の田舎のような位置づけとしてあるアイルランドの、そのまたさらに地方で自身のセクシュアリティやクィアネスに向き合って、家族や学校と日々折り合いをつけていくことのしんどさを男女の青春映画としてきちんと描こうとした作品だと思うので、あそこだけ残念だったかも。 ほんとならAmberがEddieにおまえもついでに来い! って彼の手を引っ張ってロンドンに強奪し、あとは”Empire Records” (1995) みたいになるの - 95年だし、あの舞台はアメリカだけど。
音楽、あの頃ならもうちょっといろいろできたのではないかー。
11.28.2022
[film] Dating Amber (2020)
[film] Where the Crawdads Sing (2022)
11月19日、土曜日の午後、Tohoシネマズ新宿で見ました。
邦題は『ザリガニの鳴くところ』。Delia Owensによる同名ベストセラー小説 (2019)は読んでいない。
製作にはブッククラブで原作本を紹介したReese Witherspoonの名前があり、脚色には”Beasts of the Southern Wild” (2012)のLucy Alibar、書き下ろしの主題歌をTaylor Swiftが歌っている。
1969年、ノースカロライナのBarkley Coveという湿地帯のある小さな町で、Chase Anderson (Harris Dickinson)という地元の少し金持ちであまり評判のよくなかった若者が櫓の上から落ちて死んでいるのが発見される。争った形跡も襲われた痕跡もなく第三者の怪しい指紋などもなく、酔っぱらって落ちた可能性も否定できないのに、警察は昔からここにいて世捨て人のような暮らしをして地元民から”Marsh Girl” - 沼女 - って呼ばれている24歳のKya (Daisy Edgar-Jones)を容疑者として拘束して裁判にかける。
映画は、Kyaを子供の頃から見て知っている弁護士のTom (David Strathairn)が弁護にたつ裁判の経過を追いながら、並行してKyaの幼年期からここに来るまでのことを辿っていく。
アル中でDVの父(Garrett Dillahunt)に愛想をつかして母(Ahna O’Reilly)が家を出ていって、それを追うようにふたりいた兄もいなくなり、幼いKya (Jojo Regina) はひとりで父の下で面倒を見なければならなくなり、学校も虐められるので行かなくなって、たまに助けてくれるのは買い物に行く先の雑貨屋のJumpin’ (Sterling Macer, Jr)とMabel (Michael Hyatt)の夫婦くらい、そのうち父親もどこかに消えてなくなり、なのでたった一人で、読み書きもできないまま大きくなる。
少し大きくなったKyaに近所のやさしそうな青年Tate (Taylor John Smith)が寄ってきて読み書きとかいろいろ教えてくれるようになり、初めての恋につながるのだが、進学で町を出ることになった彼は約束していた独立記念日になっても戻ってこなくて、Kyaの初めての恋は消えて、でも彼に貰った出版社のリストにずっと描いてきた動植物のスケッチを送ったら出版しないか、と言ってきたのでその契約金で生活のあてはできる。
そして続いて現れたのがChaseで、初めはやさしいふうだったのにじつは性格わるいし実は婚約してるしで、そこに突然Tateが戻ってきた - ばかばか、と思った頃にこの事件が。
ストーリーの軸は映画のほとんどを占めるChaseの死の真相を捌いて掘っていく裁判でもなく、KyaとTateのなんとなく“The Notebook” (2004)を思わせる - 水にはまってしがみつくようにキスをしているのを見るとつい - 「純愛」にあるのでもなく、蒸発した母がやばくなったら「ザリガニの鳴くところ」に逃げなさいとKyaに教えていたその場所 – どこと明示はされないが湿地帯の奥深くにあるであろう穴蔵のような隠れ家のような場所に向かっていくように思われた。
ただ映画で描かれる湿地帯 - Kyaが生きることのできるザリガニの鳴くところが、BBCのドキュメンタリーに出てきそうなくらい絵に描いた楽園のようにきれいに描かれているのと、あとはMarsh Girlと呼ばれたKyaは、父親がいなくなった後、ひとりでどうやって生活して成長できたのだろう、って。人と関わらず読み書きができない状態で「野生の少年」にもならず、ああいう町であれば棄てられた子はふつう保護観察下におかれると思うのだがそれもなく、スナフキンみたいなまま20歳過ぎまで.. ?
そういうところも含めて、この作品はあの土地と少女のありようを巡る軽いファンタジーのように見るのが正しいのでは、と思うのだがやはり原作を読んだほうがよいのかしら。全体としてキャラクターの善悪があまりにクリアにわかりやすく分かれているのがなー。沼のどろどろがいいとは言わんけど、このテーマと領域ならテネシー・ウィリアムズ的ななにかとか、その端っこくらいは感じさせてほしかったかも。
そんななか、最後に聞こえてくるTaylor Swiftによる主題歌 - ”Carolina”が沼にほんとうに足を踏み入れてしまったかのような生生しさで迫ってくる。何度も何度も繰り返される”And you didn't see me here - They never did see me here” というフレーズの強いこと。
あとはKyaを演じたDaisy Edgar-Jonesもすばらしかった。TVシリーズの”Normal People” (2020)では、今回とは逆のお金持ちの令嬢 - でもやはり親とは切り離されていて、相手役の男子の方が貧しい母子家庭 - を演じていたが、一見弱そうに見えて実はひとりであることを貫いてびくともしない強さとしなやかさを、なめてかかってくる連中にさらりとかましてみせるかっこよさときたら。
11.25.2022
[film] Recalled (2021)
11月19日、土曜日の昼、シネマート新宿で見ました。
邦題は『君だけが知らない』、ハングルでは” 내일의 기억” – 英訳すると”Memories of Tomorrow”。この邦題、いいよね。 監督のソ・ユミン Seo Yoo-minはこれが長編デビュー作となるそう。
最後に急展開とかどんでんがあるわけではなく時間経過と共に明らかになっていくやつ、なのでふつうに書いていったらなにかバラかしているかも。なかなかおもしろかった。
病院のベッドでスジン(ソ・イェジ Seo Yea-ji)が目を覚ますと、ジフン(キム・ガンウ Kim Kang-woo)が涙を流しながらよかった.. って言ってて、見るからに弱って痛々しいスジンは病院行きのもとになった怪我かなにかで記憶を失っているか混濁している - ということを自分でもわかっている。
起きたときに傍にいたジフンがおそらく自分の夫、そんな彼が当然のように車で連れて帰ってくれた先が彼女たち夫婦の家(モダンなニュータウンの一角)、なのか? と見ている方も思いつつ、家に戻ったスジンのフラッシュバックなのかデジャヴなのかひょっとしたら実際に起こっていることなのかの区別がつかない/つけられない事態とパニックが続いて(退院できる状態だったとは思えない…) そのどのひとつもストーリーに落としこめるほど信用できるものではないが、スジンの経験した事故がとても怖く深く彼女の過去に根をはったものであることはわかる。
他方でジフンは夫婦でカナダへの移住の準備を進めているらしく、ビザ申請に行った大使館でのジフンの急いでいる様子とか、スジンが描いたという夕陽でまっかに染まった湖(カナダにある)の絵をみせたり、でもこんな新築ニュータウンのようなところに入ったばかりのようなのにもう移住するのか/できるのか、とか。
もうひとつは建築資材の盗難(のふり?)事件を追う2人の刑事と、そこの監視カメラに車で立ち去るジフンの顔が映っていて、更にジフンの建築関係の会社が傾いてやばそうであること、などがわかってくる。 流れとしては普通にジフンが怪しいと思うしそういう動きをしているし、おそらく本当の夫ではないなりすましで、でも単にスジンになにか悪いことをするために近づいているのでもなさそうなー。 (ここまでにする)
それが自分の記憶なのかどうかはあてにならなくて、見えているもの、浮かんでくるものは幻覚のようなものかもしれないことがわかっていても、そこに傷や痛みや危機 - 自分だけでなく小さな女の子とかの - が見えてしまうので、スジンは懸命にいろいろ動いて引っかき回しているとそれに跳ね返るように「事実」 - 男たちの顔が浮かんだりやってきたりしてきて、それらの点と線と時間軸が繋がっていく気持ちよさというか(事件の)気持ちわるさというかがー。
自分に見えていることは他人には見えない – これは当然として、ここでは自分の過去が自分のものではなくなっていること、それを知って握っている他人が自分(の過去)をきちんと知らせないままでいることの恐怖があって、この蓋をされたような恐怖もまた他人に伝わるものではない、と – 『君だけが知らない』ままにしておいたことには理由があった、けどどっちみち傷は開いてしまう。あのときスジンが偶然同窓生に会わなければどうなっていただろうか? あのままカナダに渡ってなにも起こらなかったかのように過ごすことと、この結末に向かうこと、どちらがー。
この辺の記憶(を自分が持てないこと、自分のを他人が持っていること、変わってしまうこと/消えてしまうこと)にまつわる恐怖とか強迫観念とか、最近いろんなところで大きくなってきているような気がしてなんなのだろうか、って。歴史修正主義のああいうのとなにか。
あとは舞台となったマンション - 日本だったら団地 – のエレベーターとかフロアに並ぶドアとかの誰もが知っていそうな配列、毎日見ている - どこかで見ているいろんな人の出入りのもたらす眩暈とか。 それが廃墟となった同様の建物に埋め込まれていたなにかによって揺さぶられて真実が.. というあたり。
11.24.2022
[film] Mrs. Harris Goes to Paris (2022)
11月18日、金曜日の晩、109シネマズ二子玉川で見ました。『ミセス・ハリス、パリへ行く』。
原作はPaul Gallicoの小説”Mrs. 'Arris Goes to Paris” (1958) – 英国でのタイトルは“Flowers for Mrs Harris”。
1957年のロンドン、バタシーの辺りで掃除婦 – 契約している家に通ってお掃除してまわる仕事 – をしているAda Harris (Lesley Manville)がいて、戦争に行ったきり戻ってこない夫を待ちながら仕事仲間のVi (Ellen Thomas)や飲み仲間のArchie (Jason Isaacs)と毎日慎ましく楽しく暮らしていて、ある日掃除する先のけちなお金持ちLady Dant (Anna Chancellor)のクローゼットにある豪華なドレスを見せられてぽーっとなり、これがほしい! とパリに行くためのお金を貯めようと思って、ドッグレースに大金を賭けたり(大負けしたけど実は)、夫の戦死の通知と共に遺族年金が… とかあって、現金を握りしめて初めてのパリに飛ぶことになる。
駅で寝泊りしているおじさんたち(よい人たち)に聞いてHouse of Dior – あの、50年代のDiorだよ! に着いて、オートクチュールのお披露目商談会に入ろうとしたところで門番のように冷酷な支配人Claudine (Isabelle Huppert) - “Phantom Thread” (2017)でLesley Manvilleが演じていた役柄 - に止められて招待状もなにもないなら入れないよって意地悪されるのだが、その場にいた公爵Marquis de Chassange (Lambert Wilson)に入れてもらって、次々に出てくるモデルさんの纏うドレスにぽーっとなりつつ欲しいドレスの番号を紙に書いて(あんなのぜったい決められない)でもやはり隣の金持ちに意地悪されて一番ほしかったドレスは落とせなかったけど、札束をちらつかせたのが効いたのかアトリエで採寸しましょう、って言われてやったー、になる。
でも宿もなにもない状態で採寸に通ったりどうするの? になると、そこにいた会計担当のAndré (Lucas Bravo)とモデルのNatasha (Alba Baptista)に助けてもらって(Andréのアパートに泊まる)、公爵は晩にディナーに誘ってくれて、夢のような時間を過ごすのだが、横からClaudineのいじわるがちょこちょこ入ったり、公爵の貴族目線に失望したり、Dior本人に直談判までしたりして、天国、というほどでもない。でもパリの(パリも外国も初めての)イギリス人が体験する初めての異文化、ということではよいことわるいこと含めてとても楽しい滞在記となる - 誰にとっても心当たりありそうな素敵な旅の思い出が。
こうして英国に戻ったAdaのところにドレスが届いて、でもそれを有名になりたくて泣きながら困っていたパーティガールに一晩貸してあげたら…
どこまでもお人好しでお節介好きで、でも変に頑なだし頑固だし、自分の愛するかわいい英国人の典型のようなMrs. Harrisの行状記として、Adaの全身満面の笑顔いっぱつでとにかくハッピーになれることは確か、なのでとても好き。みんなに見てほしい。
50年代後半のパリ、街角ではストとか労働争議も盛んで汚れて荒んでいるし、ずっとサルトルを読んでいるNatashaはAndréと「即自」と「対自」について議論していたり、Adaのいる英国では(この映画のなかでは出てこないけど)Kitchen sink realismが立ちあがりつつあった頃、オートクチュール的な華やかな文化はどんなふうに受けとめられたり共存しようとしていたのか、たぶんこんなふうだったのでは、というのがふわふわしていない、ただの夢物語でないかたちで示されているような。最後のほうに出てくるClaudineの自宅とかもまた。
どんなに生活が苦しくても大切な人を失っても歳をとっても、きれいなものは断固として見たいし触れたいし、その思いを妨げるのは許さないんだからな、ってAdaは全身で訴えてくる。そういうものを目の前で見て触れて、手を延ばしてみること、その出会いの瞬間の電撃 - あの感覚だけはいつまでもとっておきたいな、って。 あーだからNYに、ロンドンに、パリに、行きたい。 いまの東京って機会も含めてそういうのが失われすぎてて−
それにしてもLesley Manvilleさんのすばらしいこと。幸せを全身で呼吸するときの彼女の笑みときたらその向こうにある過去の悲しみや辛さをも際どい数ミリの薄皮で見せてくれる、そういうやつで、英国の女優さんてほんとこういうのがうまいなー、って。Sally Hawkinsさんとかもそういうとこある。 (Isabelle Huppertさんとか、フランスの方はその真逆でぜったいに裏面を見せない見せるもんか、としている感覚があったりしない?)
11.23.2022
[film] 愛の世界 山猫とみの話 (1943)
11月17日、木曜日の晩、国立映画アーカイブの『東宝の90年 モダンと革新の映画史(2)』更に企画展示との連動小特集 – 「脚本家 黒澤明」で見ました。
監督は青柳信雄、原作は坪田譲治・佐藤春夫・富澤有為男でこれを如月敏、黒川慎(黒澤明)が脚色、特殊撮影が円谷英二、演出助手に市川崑。
猫の話なら絶対みるので山猫の話かと思ってチケット取ったら違った(山猫と「み」の話だったらよかったのにな)..
冒頭のナレーションで、「すべての子供は国のもの」「子供を守ることは国を守ることだ」のようなことを堂々と言われるのでそれだけでげろげろ、って逃げたくなる。
曲馬団で雑巾のように虐待されていたところを少女たちの更生施設に連れてこられた16歳のとみ(高峰秀子)は少女たちの間に入っても一切喋らず馴染めなくて虐められてばかりで、施設の所長(菅井一郎)さんもとみを連れてきた山田先生(里見藍子)も心配して見守るのだがとみは一方的に虐められてばかりで、そのうち彼女を庇おうとした山田先生を攻撃した生徒をぶんなぐったとみは山の方に走り去って消えてしまう。ここまでが前半。
山のなかでたったひとりで過ごす一晩の孤独と恐怖が円谷英二の特撮でたっぷり描かれたあと、翌日お腹が減って彷徨っているときに見つけた山小屋のような家の中にあったお粥をたまらずかっこんでいるとそこに住んでいるらしい勘一(小高つとむ)と幹二(加藤清司)の兄弟に見つかって、彼らの父の松次郎(新藤英太郎)が熊撃ちに行ったまま戻ってこないというので、固まって暮すことにして、ご飯を作って食べて、襲ってくる嵐の晩 - 特撮再び - には3人一緒に耐えたり、ここで初めてとみが喋る声を聞く。
でもそのうち家に蓄えておいた米もなくなったので、とみは人里に出て民家から食べ物を盗んで持ち去るようになり、その姿を目撃した村人から「山猫」って呼ばれて噂になってくると、山田先生はそれがとみのことではないか、って気になりはじめて、そのうち松次郎がひょっこり山から戻ってくると(なにやってたんだよおまえ)子供たちをケアして守ってくれたとみのことを村人たちと一緒に銃を持って追いかけ始めて(ほんとさあーなにしてんの? ひどすぎ)、走っていくとみに発砲したりして、とみの運命やいかに…
作りようによっては『冬の旅』にできたかもしれない、無頼の目をもつ高峰秀子の疾走はFlorence Pughのと同じくらいすばらしい。
プログラムの説明には『敬愛するドストエフスキーの『虐げられた人びと』の影響』とか書いてあるのだがほんとかよー、しかない。虐げる人びとの気持ち悪さしか見えてこないわ。
子供たちに「おまえはおれのもの」って宣言した上で隅に追いやったり放置したり虐待したり追いかけたりやりたい放題やって、指摘されたら頭ぽりぽりして「ごめんー」だけとか、こんなののタイトルが『愛の世界』ってどういうこと? (西海岸だとこれが”Don't Worry Darling”になるのか) こんなのもろDVの論理に原理だし、それが変わらないままずっとふんぞり返っているにっぽん。
11月1日に同じ特集で同じ年の『ハナ子さん』(1943)を - 監督がマキノ正博でミュージカル仕立てだというので - 見たのだが、これはコメディだったけどやはりきつかった。産めよ殖やせよ〜 隣組でがんばろう〜 のりきろう〜 のなにがきついかって、こんな朗らかな笑顔でふるまう共同体から送り出された兵隊がそういうのを背負って平気で殺し合いをやってしまえること、殺せば同じ笑顔で讃えられること。 そしてこちらの方も反省はまったくなく、沸き出しても隠蔽したり改竄したり変わるつもりなんて一ミリもない。日本サッカー協会の会長の発言とかだって、自分でもどこが問題なのかおそらくちっともわかってないグロさ。こーんなに気持ちわるい大会ないわ。
こないだのKeith Leveneから一ヶ月もたたないのにWilko Johnsonまで逝ってしまった.. RIP.
11.21.2022
[film] Don't Worry Darling (2022)
11月16日、水曜日の晩、ヒューマントラストシネマの有楽町で見ました。
監督はデビュー作の”Booksmart” (2019)がすばらしかったOlivia Wilde。脚本も同作を書いていたKatie Silberman。
いつの時代のことかは明記されないが、カリフォルニアの砂漠の真ん中だか端っこだかに会社の名前 – Victoryを冠した計画された住宅地があって、ミッドセンチュリーモダンで揃えられた小綺麗な家々が並び、男たちは朝になるとあの時代のカラーの車にそれぞれ乗りこんでみんなで隊列をなして山のほうのVictory社に吸いこまれていく。
家の中に入ってみれば朝食はコーヒーとトーストとベーコン、出ていくのは夫たち、残された妻たちは掃除に洗濯に買い物にバレエのレッスン、などなど。毎日/毎週おなじメニューと行動様式で済んでしまうし、衣服は普段使いも含めてあら素敵!って言いあえるやつだし、衣食住で不満があったり困っていそうなものはないし、他のことをやったり考えたりする必要ある?
若いAlice (Florence Pugh)とJack (Harry Styles)の夫婦はそのなかの一組でまだ十分にあつあつで、隣組のようなご近所のAliceの友人にはBunny (Olivia Wilde)とMargaret (KiKi Layne)がいて、夫たちも妻たちと同じように会社内では繋がっているに決まっているし、夜はどこか誰かの家のラウンジで飲んだり踊ったり喋ったり楽しそう。終電とか気にしなくていいしな。
会社の創業者でCEOのFrank (Chris Pine)は圧倒的なカリスマ性でもって社員の魂を掌握して君臨して、社員もVictory Projectに参加してFrankの事業に貢献できることを誇りに思っていて忠誠を誓ってがんばるし、Frankの妻のShelley (Gemma Chan)もそれを支えるべく、妻たちの方への声掛けや顔出しも忘れない。
まずはここまでの設定に乗れるかどうか。気候はずっと温暖で片頭痛もなさそうで、ああいう家具とか住居デザインが好きで、家には本とレコードが十分にあって、近所づきあいやパーティー沢山も苦にならなくて、新しいものとか冒険とかを激しく求めなければ、いいんじゃないの? くらい? (まあむり)
でもAliceはどこがどう、とは言えないけど、日々の充足感とは別になんかおかしくないかここ? って感じるようになって頻繁にBusby Berkeleyスタイルの輪になって踊る女性たちの幻影が目の裏側に見えたり、隣人のMargaretの言動が少しづつおかしくなっていること - 更にそれらを友人たちがあんま気にしないこととか、やがてMargaretが首を切って屋根から落ちたり、煙をはく軽飛行機が山の向こうに消えたのにみんな知らんぷりしたりしているので、自分で山を登って追いかけて、そこのてっぺんにあった建物をのぞいてみると..
パーティとかでAliceが顔色を変えておかしな言動をしたり挙動をしてもFrankやShelleyはそんなに気にしているふうには見えず、むしろJackを昇進させてくれたりして、Aliceからすればいやあんたたち絶対へんだから、って。 そこから先は“Midsommar” (2019)ふうのホラー - 明らかにみんなおかしい - でも具体的にどこ、とか理由とかはまったくわからない – みんなだいじょうぶだよって笑う - 出たいけど出られない抜けられない – あれもおかしいこれもおかしいに絡めとられていく。そうやっていると赤いユニフォームのお掃除係みたいな連中が..
or みんな変なのは自分たちでもわかっているのだと。けど、それを言って変わったり変えられたりするのもまた面倒だし、自分に直接の危害や困難が降ってこない限りは見て見ぬふりをしておいた方が無難だ、少なくとも食うに困らない生活は保障されているし妻も満足しているのであれば、ということ? - それってシンプルに今の我々じゃん? とか。
あの家々や経営幹部が、住民をコントロールしているように見えるのが怖いのか、なにも変わらず/変えようとしないまま平々凡々と時間が経っていくのが怖いのか、そこから抜けだすパスがないことが怖いのか、これらぜんぶの目的やゴールが一切見えないことが怖いのか、こういうのを含めてわからないことがわからないのが怖い、と言えばじゃあ抗うつ薬とか睡眠薬とか、そっちにしかいかないのは冗談じゃない、ってすべてをぶっちぎって走りだすAlice – すばらしい走りっぷり - を見るしかない。
この辺、あえて言えば”Booksmart”が定型にまみれた学園生活の最後に破壊神が降り立ってハリケーンを巻き起こそうとした、その漫画を描いたのと同じように、すべてがコントロールされてのしかかってくる家とか企業の理念とかのグロい全方位の恐怖を描こうとした、のかもしれない。でも、できればもうちょっとだけ、Aliceの瞳に刻まれたのがなんだったのか、彼女の顔はなんであんなふうに歪んだのか、を知りたかったかも。
山の上になんかあるしマッシュポテトも出てくるし、”Nope”みたいなところに行くのかとも思った。けど、お話しはあくまでも”Don't Worry Darling”ってAliceに囁き続けるどこかからの声をとらえようとする。
Alice - Florence Pughの相手役のHarry Stylesがなかなかよくて、線は細いけどがんばることだけが取り柄みたいな生真面目な役柄を巧く演じていた。Frankに言われるままに猿回しの猿みたいに無表情でくるくる回るところとか。
そしてChris Pineの能面の気持ちわるさ。この人”Star Trek”とか”Wonder Woman”の熱いキャラよりも実はこっちの方なのではないか。Matt Damonなんかの数十倍気持ち悪いことができるのではないか(ほめてる)、とか。
あと、もっともっとドリーミィな音楽でぱんぱんに塗り固めてくれてよかったのに。
[film] Rosita (1923)
10月25日、火曜日の夕方、MoMAのストリーミングで見ました。邦題は『ロジタ』。
書いたままポストするのを忘れていた。
オリジナル版は散逸していて、ロシア語版など複数のプリントを参照しながらMoMAによって修復されて2017年のヴェネツィアでプレミアされて、2018年にMoMAで公開されたバージョン。監督はErnst Lubitsch(彼にとって最初のアメリカ映画。監督名のとこに”uncredited”でRaoul Walshって併記されているのだがほんと?)、製作・主演はMary Pickfordでそもそも彼女がルビッチをアメリカに招いた(あとで仲違いするけど)。1872年のフランスの舞台劇 - ”Don César de Bazan” - 『バザンのドン・セザール』がベースで、女性版フランソワ・ヴィヨンものを狙った、と。
セビリアで、大道芸人でギターを弾いて歌うRosita (Mary Pickford)は穴ぐらのようなところに一家で暮らしてて極貧のごちゃごちゃで、もういいかげんにしてほしい!、って王を激しく非難して侮辱する歌(サイレントじゃなかったらなー)をじゃんじゃか歌って民に大うけしていると、そこに自分の国のいけてなさ(自分でわかっている)を視察に来たまぬけで女たらしなスペイン国王 (Holbrook Blinn)が現れ、パワフルでお茶目なRosita を見て、自分がバカにされているのに彼女にすっかり魅了されて王宮に連れてくるのじゃ、って引っ立てようとする。 抵抗する彼女を見ていたDon Diego (George Walsh) – ちゃんとした身なりの人 - は、彼女を救うべく間に入って、やはり引っ立てられてしまう。
RositaとDon Diegoは宮殿内の囚われの身同志であっさり恋におちてしまうのだが、王様の方に対しては厳しくて言いなりにはならずに、あんたのこと相手にしてやってもいいけど、その前に自分の家族を王宮に住まわせろ、とか注文つけて、彼女の家族がぞろぞろやってきてやりたい放題するようになり、その反対側で王様は言うことを聞かない彼女への腹いせとしてDon Diegoとの結婚を申しつけた上で、その式の直後にDon Diegoの銃殺刑をやってやる、って。
お願いだから彼の命だけは助けてほしい、ってRositaは王様と交渉して、じゃあ執行の時の銃は空砲にしておくよ、って彼女に説明して、でもその裏でああ言ったけど実弾入れとけや、って部下にこそこそと指示して、それを後ろでじっと見ていたのが日頃の浮気とか三枚舌で旦那にあったまにきていた女王 (Irene Rich)で …
ルビッチ得意の豪快な女の子が権力者とかいけすかない男共を手玉にとって引っかきまわしてざまあ! っていう系統の(男女が逆だとつまんないよね)に分類されると思うのだが、ベースが劇作であるせいかドラマチックな仕掛けとか粘着するやらしい王の件など、減速させたりつんのめる要素もあちこちに見られて、Don Diegoの刑執行をめぐる裏の駆け引きは最後までどっちに転ぶかわからなくて、一応めでたし~ で終わるものの、脱線してロミオとジュリエットの悲恋で終わってもおかしくはなかったかも(そうしても悪くなかったのではないか)。
あと、ヒエラルキーの頂点にいたのは実は女王だった、その女王のことをもう少し描いてくれてもよかったのに。この後、ルビッチの『ウィンダミア卿夫人の扇』(1925)にも出ることになるIrene Richはワーナーがルビッチと契約した際の刺客でもあった、と。
ルビッチとしてはアメリカ進出にあたって大人気(だし呼んでくれたし)のMary Pickfordをメインに据えて威勢のよいぱりっとした宮廷活劇をやりたかったのかもしれないが、原作が結構クラシックなやつだったので思うようには捌ききれず、結果としてMaryのご機嫌を損ねてしまった(撮影後の彼女は相当気に食わないことがあったらしく興行的には当たったのにフィルムとかぜんぶ廃棄してしまったという)、ということなのではないか。『ルビッチ・タッチ』本には当時の批評が好意的だったこと、に加えて谷崎潤一郎の評なんかも掲載されている。
それでも最初の方の彼女が群衆を前にぐいぐい煽るシーンとかは遠くから捕らえていてもすばらしいし、王様のまぬけなかんじも含めて全体に漂うスカスカした緩いかんじはわるくないかも。ただこのレストア版はやや寄せ集め感があって、オリジナルはもっとテンポよく軽快なものだったのではないかしらー。
11.20.2022
[film] Ticket to Paradise (2022)
11月13日の午後、Tohoシネマズ日比谷で見ました。
『断絶』に続けてみるのはいくらなんでも、という気もしたがそんなときもある。邦題は片仮名そのまま。なんかつまんないのー。
情熱的に(情熱のみで)結婚して娘が生まれてすぐにいがみ合って別れてからはすれ違うたびに毛を逆立てて威嚇しあう仲のDavid (George Clooney)とGeorgia (Julia Roberts)の元夫婦がいて、娘のLily (Kaitlyn Dever)のロースクールの卒業式でもそれぞれ空気を読まない頓珍漢な喝采合戦をしている。 Lilyは学友のWren (Billie Lourd)と一緒にバリに卒業旅行に旅立つのだが、着いて早々に海藻の養殖をやっているGede (Maxime Bouttier)と出会って、転がり落ちるように恋におちて、もうたまんないから結婚するのだ! になる。
ロースクールではずっと勉学に浸かっててその鎖から解かれてエキゾチックな異国に放たれた途端に現地の若者と恋におちる、そこまではわからなくもないがいきなり結婚なんて、しかもバリで向こうの家族とずっと暮らしていくなんてやり過ぎの行き過ぎだし、気がついたら取り返しがつかないくらいにお互い憎みあうことになる(はず!)、愛する娘が自分たちの二の舞のようになることだけは食い止めなければ、という点において合意して共闘することにしたDavidとGeorgiaは一緒の飛行機に乗り込んだ途端に刺々しまくり、しかもGeorgiaの方には頭のネジが飛んでしまったかのように彼女にメロメロのフランス人パイロットPaul (Lucas Bravo)がべったり貼り付いてくる。
こうして娘を取り戻すべく腕まくりして勇ましく乗り込んでみたものの、新郎の家族も村の人々も、なにより新郎のGedeからしてとってもスイートでよい人だし、島はパラダイスとしか言いようがないし、突っ込みを入れたりサボタージュする意味も理由も見つからない空振りばかりで。仕方なく式当日のキーアイテムである指輪を盗んで隠すことにするが、しばらくしたら当然ばれて「なにやってるの?」になったりするのと、久々にふたりきりで自分たちの結婚とその躓きについて話してみたり、パーティーで馬鹿騒ぎしたりするなかで - 完全に孤立してしまっているし - 近寄っていくDavidとGeorgiaは。
最初の1/3くらいでどこにどんなふうに落ちるのかとか、その教訓とかメッセージとかが見えてしまうし、わざとそういう構造にしているのだとしても、あまりにわかりやすくストレートすぎるのと、結局George ClooneyとJulia Robertsふたりのかけあいの巧さとパワーに拠っているのと、でもそんなの予告の段階からわかっていたはずなので、あーあって(はぐらかしてくれると思ったのにー)。
そういう定型の終わり方からなんとしても逃れようとしたのかどうなのか、あのラストは、え? それなの? それだけ? ってなんかしらけて、そのまま続けてNG集に入っても楽しく笑えないのだった。
あるべき筋立てとしては例えば: 目的地のバリに向かうふたりに幾重ものトラブル - Paulも絡んでくる - が襲いかかっていつまで経っても辿りつかず、あれこれ協力してがんばってぼろぼろになってなんとか到着したときに肝心の式は終わっててあーあ、なのだがそんなふうにして乗り越えた困難はふたりにとって無駄なものではなかったようで…(ここで“Ticket to Paradise”、というタイトルが効くの)
それか、パパとママがそれぞれの部下とか友人の息子を刺客としてバリに送り込んで、Lilyに近寄らせて奪還作戦を展開するの(あとはそのまま、数年後にバリ版の”Mamma Mia!”が)。
それにしてもJulia Robertsって、”My Best Friend's Wedding” (1997)では元カレの結婚式を断固阻止しようとするし、”Runaway Bride” (1999)では自分の結婚式から何度でも逃走しようとするし、Weddingなんて人生の終わり、反対! 嫌だ、ということを役柄の上でずっと言い続けている気がして - なんでだろうか? - でもそれだけでなんかよいなー、って思ってしまう。
あと、C+C Music FactoryやCypress Hillがパバママのしょうもない懐メロ扱いされて毛嫌いされてしまうことがわかった。だいたい30年前のだしな。 もうしらん。
11.18.2022
[film] Two-Lane Blacktop (1971)
11月13日、日曜日の昼、菊川のStrangerで見ました。久々に見ようかなー見たいなー、くらい。
監督はMonte Hellman、邦題は『断絶』。シリアスっぽいけど、原題は「2レーンのアスファルト道路」ってだけだから。
この作品を初めて見たのは2003年のリンカーン・センターで、この時はここでも久々の上映だったらしく(まだデジタル上映なんてないから)35mmのニュープリントで、担当の人(あれ、誰だったのかしら?)は「これはすごい作品なんです!どこがすごいかわかんないと思うけど」ってとても興奮していて、「?」ってなったが見てみたら実際にその通り、ほんとにどこがすごいのかあんまよくわかんないけどすごい! のだった。ものすごい突風とか豪雨をいっぺんに浴びて「なんだったの..」ってなるかんじ。
夜の公道ぽいところでいろんな車がぼうぼう音を立てながらお金を賭けてレースをしていて、グレイで車体の板とかぺなぺなでもっさりした(そんなに速そうには見えない)”1955 Chevrolet 150 two-door sedan” – という種類の車らしい - の運転をするThe Driver (James Taylor)とメカニックをするThe Mechanic (Dennis Wilson)が暗いなかで黙って作業して運転をして、彼らはその時に自分がやることをやっているだけで、その説明もここに至る経緯もなにもない、彼らの名前すら明らかにされない。舗装された道路 - Two-Lane Blacktop – をただ走っていく - 走っていくためにはお金が必要で、お金を得るためにはレースで勝つ必要があって – のぐるぐるを繰り返す、勝って一攫千金はないし、負けて橋の下、でもなさそう - でも死んでしまうリスクは高そう - そんなふうにして生きるのはどんなもんなのか、それを映すために必要なものしか視界に入ってこないし撮っていないし。車の運転も車がどうやって走るのか、どうすれば速くできるのか、わからなくても、この描き方であればわかる。少なくとも彼らの受ける振動や視界がどんなふうなのか。
そうやって東の方(どっちでも)に走りだした車の後部座席に、どこから来たのかわからない少女 – The Girl (Laurie Bird)が住みついて一緒に旅をするようになり、更に途中ですれ違ったり追い越したりしていたいけすかない黄色い車を運転するGTO (Warren Oates) - 彼もなんで走っているのかよくわからないけど隣の車線にいたりして敵対、というほどではない - が目に入ってくる。登場するのはほぼこれだけ。
画面上ではほとんど会話せず車を走らせているだけのThe Driver & The Mechanicに対して、GTOは道端にヒッチハイカーを見かけると乗せてあげて親しげに話しかけたり自己紹介したり(結果出ていかれたり)対照的で、The Girlはあまり明確な意思表明はしないで好きに乗ったり下りたりを繰り返している。
The DriverとGTOは東の方(ワシントンD.C.だったか)へのレース(先に着いたほうが勝ち)をやろうっていうことになるのだが、そこに行くまでの途中でもレースで金を稼ぐ必要があって、気まぐれでシカゴに行かないか、とかも出てきて、結局The Girlは朝のダイナーにいた若者のバイクに乗って消えてしまうし、最後もどこかのレース場で、踏みこんで走っている途中でフィルムが焼けて溶けるように終わってしまう。
そうやってTwo-Lane Blacktopの流れのなかでしか生きられない蛍のような若者たちの姿を、取り巻く社会とか家族とか階層とか、そういうのを一切切り離したところ(=断絶?)で描いて、そこになんの線引きも判定も裁定もしないで、でもドキュメンタリーかというとそうではなくて、でもJames TaylorもDennis WilsonもLaurie Birdの「虚無」とはまた違う方を見ている無表情はなにかを語っていないだろうか?
これを車もない、身寄りもない(自分から切った)女性のバージョンとして描くと併映していた”Wanda”(1970)になるし、彼らが80年代に入って落ち着いてお金とか仕事をもったりすると”Crash” (1996)に登場するようになる - 事故シーンが一瞬ある - のかもしれないし、もう少し主人公たちに喋らせたりすると『国道20号線』(2007) になる。
ほとんど口を開かないJames Taylorの殺気のアウラがすさまじいのだが、少し猫背ですたすた歩いていくところとか、ぼそっと”How are you doing?”みたいなことを言う時、現在のどこから見てもよいおじいさんの彼、が垣間見えたりするので、ずっと走っていっても人って変わるところもあれば変わらないところもあるな、とか。あたりまえだけど。
11.17.2022
[film] Black Panther: Wakanda Forever (2022)
11月12日、土曜日の夕方、109シネマズの二子玉川で見ました。IMAX 3Dで。
ネタバレはー: もうしててもいいよね。
監督は前作から続いてRyan Coogler、The Black Panther - T'Challaの彼以外ではありえない主演俳優Chadwick Bosemanの死を受けて、復活も代替もCGもなし、彼は彼だったのだから、の状態で製作が進められて、”No Woman No Cry”が流れる予告篇で彼のあとに残された女性達(妾じゃない、たぶん)を巡るドラマになりそうなことが示されて、どっちにしたって見るしかないやつ。
冒頭、T'Challaは危篤状態の危機にあって、妹のShuri (Letitia Wright)は最後まであのハーブの調合を試してなんとか救おうとするのだが間にあわず、国葬が行われてQueen Ramonda (Angela Bassett)は後継の話(ハーブの再生によるBlack Pantherふたたび)をしたりするのだがShuriは伝統なんて知るかくそくらえ、になっている。
ワカンダの発展の礎となった鉱物資源ヴィブラニウムの寡占を巡ってワカンダに対して国際的な非難が高まるなか、米国が開発したヴィブラニウム探知機を使って海で作業をしていたら緑色の海の民が現れて作業員たちを皆殺しにして、同じ連中がワカンダの方にも(包囲網を軽く突破して)現れて強くて、自分たちは海の王国タロカンで、王のNamor (Tenoch Huerta)は探知機を作ったやつを引き渡さないと大変なことになるぞ、って脅す。
それでShuriとOkoye (Danai Gurira)は米国に飛んで、Everett K. Ross (Martin Freeman)-脇にJulia Louis-Dreyfusがいると夫婦漫才のよう - を突っついたりしながら情報を聞きだして、東部の大学にいた工作娘Riri Williams (Dominique Thorne)に辿り着いて彼女をワカンダに引っ張っていこうとするのだが途中でタロカンに襲われてShuriとRiriはさらわれてしまう。
これは非常事態でタロカンとの戦争になるかも、ってRamondaはハイチでひっそりと暮らしていたNakia (Lupita Nyong'o)を訪ねたりして準備をしているとやっぱりタロカンが大々的に襲ってきて..(タロカンが襲うべき相手はまずアメリカじゃないの?)
アフリカの奥地に小さいけど技術的に高度に進んで経済的にも豊かな理想郷のような国があって、でもがっちりした王政は維持してて王になるものはまず喧嘩が強くないといかん、というのが前作で描かれたワカンダの全体像で、でもそこで一番強かったT'Challaが亡くなった後、海底に同じように独自の文化をもって発展をしてきた国が現れて向こうからぶつかってくる。彼らによってあっさりRamondaまで失われてしまった後、伝統なんて..と言ってきたShuriは立ちあがるのか、あんな半魚人連中とどうやって戦うのか。
力(筋肉のほう)による統治は国の成り立ち時点からずっとあるし、周辺国もずっとそうやってきたのだし、そのバランスも簡単に崩せるものではないのでこの辺は逃れられるものではない、というのはMCUまるごと、神の世界から宇宙まで含めてそういうものなので、しょうがないものなのかも知れないけど、”Black Panther”に関してはあえて原始の、最小単位の民族、のような場所からその広がりとアイデンティティを猫系動物のしなやかさ、石と草によるトランスフォーメーションで示したところがかっこよかったのだと思う。
今回、代が替わって亡くなったものはお棺に入って送られてぜったい戻ってこない、Black Pantherは決して戻ってこない – Shuriはギークで、テクノロジー周辺にしか興味ない、となって - それでも、Namorの煽りがあったとはいえ、やはり筋肉による競り合い殺し合いの方に行っちゃうのかー。Shuriがハーブを試したときも、よりによってKillmonger (Michael B. Jordan)のやろうが(幻覚として)出てきてしまうのかー。そしてNakiaは ー。
だってさー、ワカンダもタロカンもどっちも悪くないし平和だったのに、アメリカが変なふうに突っついただけでなんであんなふうに目の前のものをどかどか壊したり殺したり始めちゃうの? そこに座って、落ち着いて話せないの? それが自分たち民族の歴史のはじめにあったから、はわかるけど、だから代が替わっていったのに – それでも聞いてくれない.. の? 最後の決着が白黒ではなくああいう形になるのは当然だわよ。(ふつうの勝ち負けになったら文句いう)
Shuriは、おそらくちっとも戦いたくなかった。だからハーブを摂取したときに思い出したくもないKillmongerが嫌がらせのように現れたのだし、最後にあの子が出てきたときも少し安心した、そういう迷いのなかで選びとられた彼女の”Black Panther”はとても細くしなやかで、他のRiriの金属のあれやOkoyeのMidnight Angelの間にいるかんじで、その逡巡や、(悪くいえば)押しの弱さについては賛否あるかもしれないけど、わたしはよいと思ったし、だからこそ最後にShuriの瞼に浮かんでくるT'Challaの笑顔がとても切なく儚くのこる。
これがMCUフェーズ4の最終話だそうだが、「フェーズ」ってなんなのか、いつも調べなきゃ、と思いつつどうでもよくなってしまう。
次作は一旦アクションものを停止して、『Black Panther: 女系家族』っていうホームドラマ仕立てにしてほしい。(Ramondaは回想シーンでいっぱい出てくる)
あと、これは”Aquaman”のときにも思ったけど、海の危機ってこれだけじゃなくいっぱいあるのだから - 特に最近 - もっといっぱい出てくるべき。あの人たちはやっぱり毎日毎日魚食べているのだろうか? それもずっとレアの刺身ばかりなのだろうか? とか。
11.16.2022
[film] La pyramide humaine (1961)
11月9日、水曜日の夕方、ユーロスペースの特集上映「現代アートハウス入門 ドキュメンタリーの誘惑」 - すばらしくよい特集だったのに見れたのはこれだけだった - で見ました。邦題は『人間ピラミッド』。
Jean Rouchによる映画とは、映像とは、そこで展開される「俳優」や「演技」のありようがどうやって社会と関わってくるものなのか、になどに関する基礎文献のような作品。
タイトルはエリュアールの1926年の散文詩集“Les Dessous d’une vie ou la pyramide humaine” 『ある人生の裏面または人間のピラミッド』から取れらている、と。 映画って人生の裏面、なのかしら?
1959年、フランス領コートジボワール、アビジャンの高校で、地元の高校のアフリカ系学生と親の仕事で現地に来ている白人学生の間には意識的or無意識的な壁があるのか放課後の遊びも交流もなかったりする。それに気づいたJean Rouchは、この状態を克服しようとする(or 反発しようとする)生徒たちの行動「について」そのまま映像に収めてみようと思う。
冒頭は、監督本人から生徒たちに対して、君たちの学校生活の映像を – 特にアフリカ系学生と白人学生の交流について - 撮ること、どういう内容について撮るか - 異人種間でもっと交流をしたい/すべきと思う生徒もいるし、別にそんなことする必要はないと思う生徒、無意識の差別意識や偏見を持っている生徒もいる、そういうキャラクターを各自に割り振るので、その役割設定に従うかたちで実際に動いてみてほしい、と。それがどういう結果をもたらすことになるのかわかっているのか? という生徒からの問いにはわからない、と返す。そんなことも検証できてないのにやるなんて信じらんない、と生徒。
こうして、自分たちに割り当てられたキャラクターに従い、もっと交流して互いを知るべき、という考えをもつ(ことになっている)白人のナディーン、アフリカ系のドニーズの2人の女生徒のサークルを中心として、授業中に、休憩時間に、放課後に、舟とか自転車で、それぞれのコミュニティで、それぞれの家庭で、街角で、繰り広げられていくいろいろな会話や行動が、そこから生まれていく友情や恋心、更にはそこから広がる失望やあからさまな敵意などが並べられていく。
彼女のところに遊びに行こう、遊びにいかない? (はじめは同性、続いて異性も。人種間だけじゃなくてジェンダー間のギャップもある)という動きに対して、信じられない – そんなことをするあなたはもう友達じゃない、という反応がナディーンがアフリカ系の彼とデートを重ねるようになって以降に出てきて、動揺と波紋を広げるようになり、やがてみんなで遊びにいった難破船のある海に入って自殺してしまう男子学生(もちろんフィクション)、にまで行って、最後はナディーンがフランスに帰国してしまう。
自分の行動がその周りにいる誰かになんらかの影響とか行動を引き起こして、それはやった人には思いもよらないような形での刺し傷とか弾丸のようになることもある。人間ピラミッドの上の人は下にいる人のことなんてふだんは知ったこっちゃないのだ、という影響とかダメージの波及のしかた、そのありようを分かりやすく示して、それって日々当たり前に起こっていることだけど、こんなふうに見えたりもする。それは原作や脚本があって、その決められたラインに従って監督やスタッフが俳優たちを固定したり動かしたりして作っていくドラマとは起こりうるコトの次第あれこれの幅や深さが根本的に違っていて、でも我々の周囲で起こる(起こり続ける)出会いとか別れって、だいたいこんなふうな、自分が自分ではない場所に置かれたところから始まったりするものなのではないだろうか? という提起がある。
ロメールやリヴェットの「ドラマ」とはとても呼べないような不安定で危うい筋運びとか、上手いのか下手なのか俳優? なのかすらわからない彼らがこっちに来たり向こうに行ったり、それだけのことにはらはらのめり込んでしまうのも、こういう「現実」があるからで、それはいまのここの現実のありようと地続きで、だからつまり。 こういうのははっきりと映画の、映画だからできることのひとつと言ってよいのだ、と言っている気がした。
11.15.2022
[film] Amsterdam (2022)
11月10日、木曜日の晩、Tohoシネマズ六本木で見ました。
1933年のNYで第一次大戦の帰還兵のBurt Berendsen (Christian Bale)は戦争で片目を失い、身体も捩れてしまった医師で、退役軍人の医療ケアをしながら戦友で弁護士のHarold Woodman (John David Washington)と連絡を取り合っていて、元上官で急死したBill Meekinsの検死を依頼される。 解剖はやったことないのだがIrma (Zoe Saldaña)という女性の助けを借りてなんとかやってみて、どうも毒を飲まされていたようだ、と。その直後に会ったBillの娘Elizabeth (Taylor Swift)は父は殺されたのだ、とふたりに告げた途端に彼女は轢き殺されてしまい、BurtとHaroldが彼女を殺した、って追われる身となる。
そこから舞台は1918年、一次大戦下のヨーロッパに移り、軍でのBurtとHaloldの出会いがあって二人とも重傷を負って血まみれで看護婦Valerie (Margot Robbie)に介護されるのだが、彼女は兵士の身体から取り出した銃弾や金属片を集めてアート作品を作ったりしていて、ふたりは誘われるままに彼女のアムステルダムのアパートで一緒に暮すようになって、そこでBurtの義眼を作ってくれるというPaul (Mike Myers) – 実はMI6のスパイ - とそのパートナーのHenry (Michael Shannon) - 実はUSのスパイ – と出会ったり、HaloldとValerieは恋仲になったりするのだが、Burtが米国 - Park Ave の妻のところに戻ることを考え始めた頃、Valerieは姿を消してしまう。
舞台は再び1933年に戻って、殺人容疑者として追われるふたりは殺されたElizabethの背後にいたと思われる富豪のTom Voze (Rami Malek)とLibby (Anya Taylor-Joy)の屋敷に赴くとそこにいたのがValerieで、彼女はTomの妹で、少し心を病んでいるようで、彼女がElizabethをふたりのところに向かわせたのだと。そこで過ごす彼らのところに殺し屋とかPaulとHenryとかが現れて、謎の組織 - Council of Fiveが浮かびあがり..
TomはBillの友人で著名な将軍Gil Dillenbeck (Robert De Niro)に会ってみたらどうか(退役軍人からの依頼なら受けてくれそう)と勧めて、彼らと会って退役軍人会ガラでのスピーチを依頼されたDillenbeckはそれを受けるのだが、そこで依頼されたスピーチの内容とは…
第二次大戦前の米国で財界を中心にそういう陰謀が蠢いていたこと、それがどこまでリアルなものだったのかについては諸説あるらしいのだが、映画の最後の方はその辺の瀬戸際っぽいテーマ - 米国はファシストに売られちゃうのかどうなのか、というスパイ戦で描かれそうな濃い闇をいかに戦い抜いて今の状態を維持したのか、をフロアの喧嘩のようにじたばた描いて、それはそれでよいのだが、これと1918年のアムステルダムで描かれる3人とその周辺のアンサンブルとは、じたばたどたばたしたトーンは似たかんじのようでもあんまし嚙みあったり層をなしているようには見えなくて、たぶんValerieがやろうとしたジャンクアートみたいなもの、に寄せたかったのかもしれないけど、ちょっと無理があるかもなー。Wes Andersonの変てこ群衆劇一座のもつ空気感がまるごと現実世界に接続されてしまってなんか気まずくなって笑いも凍りついた、そんなような違和感というか。
というのを最後のDillenbeckのスピーチの、そこだけ浮いたように変な生真面目さから感じてしまい、その理由はエンドロールのところでわかるのだが、それにしても変なかんじ。いや、変な時代に起こった変なお話だったのだよ、ということなのだろうし、ファシストネタはいつだって笑いのネタにしてよいものだったはず – それがなんとなく笑えないものになっているのだとしたらそれはつまりー、とか。
1918年から15年を経た1933年という時間差。例えば今世紀の米国のイラク侵攻から同じくらいの時間差を経たいま、という対比をしてみる意味はあったりするのだろうか? 確かに財界出身のゴミみたいなファシストもどきはいっぱい湧いてきたけど。懸念、ないことはないけど..
それにしても、すごい豪華キャストが次から次へ出てくる(Taylor Swiftなんて一瞬で死体に)ので、なーんてもったいない、ってそればかり思っていた。
Mike MyersとMichael Shannonの英米スパイの取っ組みあいの喧嘩、とか義姉妹 - Anya Taylor-JoyとMargot Robbieの猫喧嘩とかが見たかったのになー。
Pearl Oyster BarがCloseしてしまったって。こんなに悲しいことがあろうか…
11.14.2022
[film] The Clock (1945)
10月29日、土曜日の昼、シネマヴェーラの『ジュディ・ガーランド生誕100年記念特集 永遠のジュディ』特集の一本め、見ました。
原作はPaul & Pauline Gallico、監督はFred Zinnemannから替わったVincente Minnelli、邦題は『二日間の出会い』。Judyが劇中で歌わない作品の最初の一本。こんなのも日本未公開だったの?
次の出立まで48時間の休暇を貰った兵隊のJoe Allen (Robert Walker)がごった返すNYのペン・ステーションでこれからどうしようか(右も左もわからないけど)ってなっているとエスカレーター(セットのやつ。実際にはあんなことにはならないらしい)でヒールを引っ掛けて壊したAlice Mayberry (Judy Garland)にぶつかって、日曜日で開いてなかった靴屋を無理やり開けて修理して貰って、JoeはNYはじめてなので一緒に案内して貰えないかって頼んで、上の開いたバスでてきとーにセントラルパークの動物園とかメトロポリタン美術館とかを見せてつきあってあげて、ずっと一緒にいたいな付き合ってくれないかな、って犬のようになってどこまでも追いかけてくるJoeと、困ったなこっちは日曜日でやりたいこともいろいろあるのにな、のAliceの微妙な温度差が、ここでさよならしたらもうずっと会えなくなってしまうかも…の切なさに少しづつ寄っていく、そのスリルと、それがいきなり結婚しよう!になって英国国教会で式を挙げて、血液検査で時間がない間に合わない! ってはらはらして、のAliceの目線からすれば思ってもみなかった巻き込まれ型コメディ。
Joeが走ってバスを追いかけてくるので、じゃあアスターホテルの時計(The Clock)の下で! とかダウンタウン方面に向かう地下鉄の雑踏ではぐれてExpress(快速)とLocal(各駅)を間違ってぜんぜん会えない! (←よくある!) 会いたくなった時にはそういえば名前聞いてなかった! とか、どこまでもぜんぜん大丈夫じゃない二人に牛乳配達の老夫婦(実際に夫婦だって)とか、ひたすら絡んでくる酔っ払いとか、ただ見ているだけの変な人とか、NYのいろんな人たちが視界に入ったり絡んだりしてきて、これは一緒になるしかないな、になっていくところがよいの。 突然の出会いがこんなふうに恋になってこんなふうに結婚に繋がったら、の48時間。 別れた彼がそのまま戦地に向かってしまうのが切ないったら。
これ、Joeからすれば充実した休暇を過ごせて戦争に行く前に結婚までできたのでとってもよかった、かもだけど、Aliceにしてみれば週末を強引な田舎者に引っ掻き回されて、結婚したのはいいけどそのまま駅でお別れになって戦争に行かれて、そのまま還らぬ人になったらどうする? の心配も丸かぶりだろうし、本当にあれでよかったのかしら? って少し。
Judy特集はもう終わってしまって、11月4-5-6の週末は奈良・京都に行ったりしていたので見れたのはたったの5本だけだった。他のも少しだけ書いておく。以下、見た順番で。
The Harvey Girls (1946) 『ハーヴェイ・ガールズ 』
Harvey Houseっていう西部の鉄道沿いの(実在した)チェーンレストランに集団で働きにきた「ハーヴェイ・ガールズ」と一度も会ったことのない文通相手と結婚するためにやってきたSusan (Judy Garland)が列車のなかで一緒になって、現地に降りたってみればSusanの文通相手はどうでもいいおやじで、彼女がときめいた手紙を書いたのはレストランの隣で男向けサルーン・バーを経営するNed (John Hodiak)だった。うんざりしたSusanは結婚せずにそのままハーヴェイ・ガールズに加わって、向かいのサルーンを支持する地元おやじ達の嫌がらせ勢力と腕まくりして喧嘩していくの。
Susanははじめは反発していたNedと仲良くなっていくのだが、バーをやりながらひとりで砂漠の風景を見にいったりしているような奴、なんか怪しくて信用できなくない?
あと、Susanの恋敵として出てくるこないだ亡くなられたAngela Lansburyさんが素敵でー。
Ziegfeld Follies (1945) 『ジーグフェルド・フォリーズ』
総合監督はVincente Minnelliで、1932年にこの世を去って天国にいるFlorenz Ziegfeld Jr. (William Powell)が自分の作ったレビューをオールスターキャストで回想していくノン・ストップのミュージカル(たまに漫談とかも)メドレー形式のオムニバス。 Fred AstaireからCyd CharisseからLucille BallからFanny BriceからJudy GarlandからEsther WilliamsからLena HorneからGene Kellyから次々と。もちろんCGもVRも一切ないんだよ – って言ったときにふーん、で終わっちゃうのなら、ここから先には。
Ziegfeldというと、なんといってもマンハッタンの54thにあった映画館Ziegfeld Theatre (1969-2016)で、あんなにゆったりできる素敵な映画館はなかった。ここで最後に見たのは”True Grit” (2010)だったなー。
Girl Crazy (1943) 『ガール・クレイジー』
監督は当初はBusby BerkeleyだったがNorman Taurogに交替になり、最後の"I Got Rhythm"のとこだけBusby Berkeleyが演出。
Mickey RooneyとJudy Garlandが組んだ最後の学園もので、大金持ちの御曹司でプレイボーイのMickey RooneyがYaleではなく田舎の農学校に送られて、そこの学長の孫のJudyと組んで生徒数減少で閉鎖予定だった学校を救うおはなし。
Mickey RooneyとJudy Garlandのコンビを見ているとついMolly RingwaldとAnthony Michael Hallのふたりを思い出してしまうねえ(ちがう。ちがうんだけどさ)。
In the Good Old Summertime (1949) 『グッド・オールド・サマータイム』
監督はRobert Z. Leonard。大好きな”The Shop Around the Corner” (1940)のリメイクであれば、見ないわけにはいかない。
気難しいOberkugen (S. Z. Sakall)が店主の楽器店が舞台で、そこにVeronica (Judy Garland)が職を求めてやってきて、店員のAndrew (Van Johnson)とは事あるごとに対立して、でも彼女にも彼にもパーフェクトな文通相手がいて相思相愛なのでそんなの気にしていなくて..
オリジナル版と比べるのは酷かもだけど、ミュージカルにすることでなにかが失われてしまったような気がしてならない。基本は彼らの日々の仕事中や業後の会話を通してどうやってふたりが糸を手繰りつつ出会っていくのか、という話なので。でも、これはオリジナル版の方にも言えることだけど、男子側が文通相手が誰なのかを先に知ってしまうのって、ちょっとずるいのではないか、とか。
11.11.2022
[film] Pacification (2022)
10月30日、日曜日の晩、東京国際映画祭をやっているシネシャンテで見ました。
副題?に “Tourment sur les îles” - 「島の苦しみ」とあるAlbert Serraの新作。 165分。
Albert Serraについては、昔に初期作品いくつかを日仏で見て好きになり、”The Death of Louis XIV” (2016)でおおーっとなり、2018年にベルリンまでIngrid CavenやHelmut Bergerが出演した劇作品 - “Liberté”を見に行って、2019年にマドリッドのMuseo Nacional Centro de Arte Reina Sofíaまでインスタレーション作品 - ”Personalien”を見に行って、なのに映画版の”Liberté” (2019)はストリーミングじゃなくて映画館の闇のなかで見たいなー、って言っているうちに終わってしまったので見ていなくて、それみろバカ、と言っているうちに新作が。
舞台はフランス領ポリネシアの一部であるタヒチで、夜中、小さな船に乗りこんだ海兵隊?の兵隊たち数名が島にあがって、Paradiseなんとか、といういかにもな名前の南国酒場に入って酒を飲んだりダンスを眺めたりする。みんな騒いで発散するような雰囲気はなく、湿気と夜風に浸ってじっとりしている獣のような怪しさが漂う。
M de Roller (Benoît Magimel)はずっとひとりでこの地に駐在しているフランスの高等弁務官で、いつも白いスーツを着てバーテンや民族舞踊をするチームとも馴染みでバーの隅っこにいて、特に振り付けをやっているShannah (Pahoa Mahagafanau)とは仲もよくて、彼らの話を気さくに聞いたり声をかけたりしながらそこにいる。ある日住民たちの話を聞く会で、フランスが秘密裏に核実験を再開しようとしているらしい、という話を聞いたのでデモをしようと思う、という声があがり、その場はいきなりそんなことをしない方がよいと収めるのだが、ほんとうだろうか? って。彼らにその情報を流したのはどこの誰なのか?
なんとなく気になったMはひとりで(たまにShannahを伴って)島のあちこちを見にいったり隣の島の有力者に会いにいったり、単独で情報収集を始める。かといって物語はここからスパイ活劇のようになるわけではなく、島のいろんな風物とかサーフィンの名所(すごい波)とか夜中のどしゃ降りとか、明らかに潜水艦ぽい影が認められるとか、夕方になるとそこに向かってボートで漕ぎ出していく女性たちがいるとか、そういうのを前にしても動かず/動けずに立ち尽くしてばかりのMの姿を見せていく(自分になにができるというのか?) - のと、実際にそれらの光景は異様に不敵にでっかく広がっている(すごいので大画面で見るべき)。
Serraが最近の数作でずっと描いてきた(気がする)ねっとりとした、明らかに向こう側でなにか(おおよその見当はつく)がいやらしく蠢いている(なにをしているのかまではなんとなく)不穏な闇とか夜の描写はここにもあって、そこに謎の権力(者とその向こうの組織?)が関わっていそうなところも同じで、今回はそれが「楽園」と呼ばれる一見開放的な島(でも植民地)で繰り広げられている、というー。
あまり喋らずにサングラスをして遠くを見つめてばかりのBenoît Magimelの姿がよくて、突然闇夜に消されたり海に突き落とされたりしてもおかしくないのだが、それでもそこに居座ろうとする白人男の自業自得の孤独 - Chantal Akermanの“La Folie Almayer“ -『オルメイヤーの阿房宮』(2011)の主人公みたいになる手前の擦り切れっぷりがなんともいえない。
そして最後の方で(最初からいたけど)正体を現す軍の提督(Marc Susini)が部下に対して静かに、洗脳するかのように言い聞かせる統治の原理原則みたいのがしみじみリアルで恐ろしい – それを黙って聞いている兵士たちの無表情も含めて。これだけのパラダイスが広がっていようが夜空がどんなに美しかろうが - 植民地であることなどもたぶん関係なく - これが核のある世界の現実なのだと。
というような悪の論理とか陰謀論めいた世のぐだぐだに拳をあげて何かを訴えたりするわけではなく、こいつらもそれを見ているこっち側ももうみんな死骸なんだからあの大波とか放射能とかゴジラにでものまれて流されてしんじゃえ、くらいのことを静かに語っている気がした夜の雨の、絵巻物の見事さ。
ひょっとしたらMもShannahも、とうに亡くなって向こう側にいる人たちなのではないか、くらいのことを思った。それくらいに見事に撮られた「楽園」のありよう。
ここまでで今回の映画祭の感想はおわり。 もう何回も書いているけど(何回でも書くけど)、暗闇で映画を見ている時間以外の不快さったらない。あんなの業界関係者向けの見本市に呼び名を変えて「映画祭」の看板下ろしちゃえばいいんだ。
11.10.2022
[theatre] National Theatre Live: Straight Line Crazy (2022)
10月26日、水曜日の晩、Tohoシネマズ日本橋で見ました。NTLは上映があると無条件で見るかんじになってきたような。
1910年ころからNY州と市の都市計画に携わって今の州と市のランドスケープとルックス – 特に幹線道路や公園の周辺 - を決めて真っ直ぐな線を引いたRobert Moses (1888 - 1981)をRalph Fiennesが演じる。
Robert Caroのピューリッツァー賞を受賞した評伝”The Power Broker: Robert Moses and the Fall of New York” (1974)を元に(とは明記されていないらしいが)David Hareが脚本を書いてNicholas Hytnerが演出して、今年の3月にロンドンのBridge Theatreでプレビュー/上演されたもの。その後、Off-Broadwayの方にも行っている。
主演はRalph Fiennesなので、この近代史上の大物の巻き起こすドラマをすばらしい勢いと貫禄で演じていて、彼の一人芝居でも十分くらいなのだが、彼の事務所の部下として数名 - Mariah Heller (Alisha Bailey)やFinnuala Connell (Siobhán Cullen) - と描かれるそれぞれの時代で彼の周囲にいた支援者、敵対者も登場する。
全2幕もので、一幕目は1926年、当時のNY州知事だったAl Smith (Danny Webb)を巻きこんでロングアイランドの公園整備とそこを抜ける幹線道路計画を実現しようとする話。お金持ちの私有地が沢山あったロングアイランドをStraight Lineで突っ切ろうとする計画に市長は予想される(地主のお金持ち有権者からの)反発を見越して難色を示すのだが、それを強引な自論でもって押し通そうとするMoses – これはやがて実現される。でもそのなかでなんで鉄道じゃだめなの? どうしても自動車が通るexpresswayがいいってなんで? という疑問も湧いたり。
二幕目は1955年、ワシントンスクエアパークの真ん中を突っ切ろうとする道路整備の計画が公園を愛する地域住民の反対にあって潰される話で、反対派のJane Jacobs (Helen Schlesinger)とのやりとりがセンターにきて、「公共」の考え方が戦前と戦後で大きく変わってきているのではないかとか、歳を重ねてより頑迷になり、やや疲れているようだけど決してそれを認めようとしない困った老人、になってしまっているMosesの姿が印象深い。
どちらの話も、Mosesの当時のヴィジョンやその妥当性や先見性について云々する、というよりは時の権力と結託して強引かつ狡猾に自分の計画を進めていこうとする政治のパワーゲームの勝ち負けが中心で、彼がNYになにをしたのか – そのよかったことも悪かったことも - がそれなりに明らかになってきている現在では、この切り口でよかったのかも。(元になったRobert Caroの本がそういうトーンらしいので) 例えば東京の街がクズみたいなパワポだの子供騙しな「完成予想図」だのでゼネコンを儲けさせるためだけに木々を切り倒して人々を追いやって日々醜く変わっていくそのやり口なども、この辺を起点として考えることもできるのだろうなー、とか。
そして強い権力を握るひとがそれを行使する際に見えたりやったりしてしまう差別的な目線(なにのどこを優先するかの結果として)もはっきりと出て、この辺が都市における貧困とか、最近だと排除アートのあれこれに繋がっていくのだろう。そういう作品ではないことはわかっているけど、Mosesがこれらの都市計画を通して最終的になにを実現しようとしていたのかが最初のほうではっきり示されていたらもう少し全体の見晴らしもよくなったのではないか。
そうであっても、二幕目の反対派住民との対話のなかで自分で地雷を踏んでどうしようもなくなって捩れて疲弊して地団駄を踏むMoses = Ralph Fiennesの演技ときたらすさまじい。
あとは改めて、MosesがNYの州とか市にやったこと – JFKから市内に入るexpresswayもトライボロ・ブリッジもずっと(30年以上? もっと?)ずるずる渋滞が止まらないまま(車酔い必須)だし、でもリンカーンセンターもジョーンズビーチもシェイ・スタジアムも音楽のライブにはなくてはならないvenueなのだし、でもワシントンスクエアパークからSOHOの辺りを道路が分断しなかったのはよかった、でよいのか? それがやがてあの辺の地価の高騰を招いて結果的に無味乾燥なブランド店だらけにしてしまったのでは? などについて考えることもできる。
あと、Mosesのやったことは映画のなかのNYのランドスケープやその変遷にも関わっているはずで、”West Side Story”にもでてきた穴掘り~強制移住なんかはもろだろうし、他にもありそう。(戦後のrom-comによく出てくるコニーアイランドへのデートは電車を使うのが多いので違うのかしら)
NYの景色に対する思いもそこから始まったNYの暮らしに対する思いも単純なものではなくて、そういうの(の一部)が100年くらいにこの男の狂ったような線引きによってもたらされた.. ってなんかおもしろい。他の都市にはないよね。 あと、ここ数年のマンハッタンのスカイラインの変貌はなんとかしてほしい。ぜーんぜん美しくないとおもうー。
11.09.2022
[theatre] Les Fourberies de Scapin
アンスティチュ・フランセ東京による「モリエール生誕400年記念 スクリーンで見るコメディ・フランセーズ」という企画で、Comédie-Françaiseによるモリエールの古典2本、Pathé Live(National Theatre Liveみたいなの)で配信されたものをル・シネマで見る。週末の2晩がとんでしまったけど、よかった。 モリエールも含めてほんとにおもしろいのだからもっと値段下げて上映回数増やしてくれればよいのにー。
Comédie-Françaiseは90年代にBAMに来た時に生の舞台を見て(その時はマリヴォーの『二重の不実』だったかモリエールの「ドン・ジュアン」だったか..)、それまでは古典演劇なんて見たことなかったのにこれがものすごくおもしろくて衝撃で、それ以降シェイクスピアとかもライブで見たほうがいいのかな、になった。
Les Fourberies de Scapin
10月22日、土曜日の晩に見ました。上演されたのは2017年10月26日。『スカパンの悪だくみ』。舞台の演出はDenis Podalydès。 本編が始まる前の映像で衣装がChristian Lacroixであることを知る。こんなところにいたのね。
港町ナポリの青年オクターヴ(Julien Frison)は、父アルガント(Gilles David)がいない隙に恋人イアサント(Pauline Clément)と結婚していたのだが、父はオクターヴを仕事仲間のジェロント(Didier Sandre)の娘と結婚させようと思っていて、彼の息子レアンドル(Gaël Kamilindi)もジプシーの娘ゼルビネット(Adeline D'Hermy)と結婚しようと思っているのだが大金の身請け金が必要で、困ったふたりはレアンドルの使用人スカパン(Benjamin Lavernhe)に相談すると悪賢い彼の極めててきとーな悪だくみが..
親たちをだまして金を巻きあげるのと、話をでっちあげて言いくるめようとするのと、どれもぎりぎりでなんとかなりそうで、ジェロントを袋叩きにしたりしてざまあみろ、になったところでぜんぶばれて、てめええ.. ってなったところで冗談みたいなどんでん返しですべて落着してよかったねえ、になる。こんなのでいいのか? という乱暴さ軽薄さも含めての「悪だくみ」、なのね。
元はテレンティウスの戯曲に着想を得たものなので、スカパンの粗野ではったりに満ちた振舞いは道化のそれでよいと思うのだが、これらがLacroixのクラシックな衣装(すてき)を纏って演じられるといいのか..に少しなったけど、これでよいのだと思った。
スカパン役のBenjamin Lavernheは、こないだ見た“Délicieux” (2021)にも出ていたけど、べらべら小狡そうで叩き売りとか宗教の勧誘とかやったら巧そうだねえ。
Le Madalie imaginaire
10月23日、日曜日の晩に見ました。上演されたのは2020年11月5日。モリエールの遺作でもある『病は気から』。舞台の演出はClaude Stratz。
17世紀のパリで、医者の言いつけを愚直に信じて病床に自分で自分を縛りつけて薬とか浣腸づけになって不幸であることの幸せを噛みしめているアルガン(Guillaume Gallienn)がいて、娘のアンジェリック(Claire de La Rüe du Can)は恋人クレアント(Yoann Gasiorowski)と一緒になりたいのだがアルガンは崇めているお医者さまの異様にキモい息子のトマ(Clément Bresson)とアンジェリックを一緒にしようとしていて、アルガンの若い後妻のベリーヌ(Coraly Zahonero)は、病で死んじまうであろう(死んでほしい)父と娘を仲違いさせて遺産をひとりじめしようとしていて、そういうのを見かねた女中のトワネット(Julie Sicard)がアルガンの弟のべラルド(Alain Lenglet)に手伝ってもらってひと芝居 - アルガンに一回死んでもらおう – うつことにして、やってみると …
他にこれ以上のオチなんてないじゃろう、の落語にもあったようなどたばた風刺喜劇で、死にたくない願望といんちき医術と遺産さえあればあとはいらないの悪だくみを「病は気から」- ほーら問題ない、って乱暴に丸ごとぜんぶ蹴散らしてなにか問題でも? って。スカパンの袋叩きもそうだけど、これで本当にショックで死んじゃったらどうしたのだろう、とか。
結局、どいつもこいつも自分のことしか考えてない半病人みたいのばっかりじゃん、しっかりしようよ! っていうただそれだけなのだが、ややゴスがかった荘厳なセットと臭ってきそうな(お尻まるだし)アルガンの体よりも頭のなかを見て貰ったほうが - のやばい挙動を見ていると当時はこんなふうだったのかもしれないし、カルトやゲーム(妄想)や健康(商売)への執拗な宣伝に溢れかえる今の世の中を見るとたいして変わっていないのかもしれないねえ、とか。
Comédie-Françaiseのコメディって、舞台セットや衣装も含めて、作劇をできる限り厳格にオリジナル – 本来上演されていたであろう様式を活人画のように忠実に再現することで、露わになるであろう段差やあらあら(なんてひどい!) - も含めて見せようとしている気がして、それなら歌舞伎や浄瑠璃でも同じではないか、なのかもしれないのだが、いまの自分がコネクトできてしまうのはシェイクスピアなども含めて西洋の方なので、しばらくはこちらを追いかけたいかも。あと描かれる人の欲とか業の普遍性とか、これは劇に限られることではない古典の小説や戯曲を読むときのベースでもあって、何度でも上塗りされてよいの。
アメリカの中間選挙、アメリカのは過去何度も死ぬほどひどい目にあってきたし今度も覚悟していたのだが思っていたほど… だったかも。 でもなんであんなのが.. は相変わらず、ある。
11.08.2022
[film] After Yang (2021)
10月23日、日曜日の午前、Tohoシネマズ日比谷のシャンテで見ました。
これの翌日に『エドワード・ヤンの恋愛時代』を見たので、この後に見ておけば本当に”After Yang”になったのにな、とか。(”After Edward Yang” - で主題として繋がらないこともないかも)
“Columbus” (2017)がとてもよいと思ったKogonada監督のA24制作による新作。近未来SFである、と。原作はAlexander Weinsteinによる短編"Saying Goodbye to Yang"(未読)、テーマ音楽は坂本龍一。
Jake (Colin Farrell)とKyra (Jodie Turner-Smith)の共働き夫婦には養子の一人娘Mika (Malea Emma Tjandrawidjaja)と彼女の養育・ケア用に買ったロボットのYang (Justin H Min)がいて、4人家族として幸せに暮らしていたのだが、家族みんなで参加したオンラインのダンスバトルの後にYangは突然動かなくなってしまう。
機械の故障停止のようなので、ふつうであれば分解して返品交換破棄なのだが、Mikaが悲しんでまた会いたいっていうので、できればYangをそのままの状態で再起動できないか、とJakeはYangの履歴などを探り始めて、製造元の保証はあるものの新品ではない中古として購入したので修理できる範囲には限界があるし、そのままだと腐蝕が始まってしまうよ、となったところで、Yangにスパイウェアに使われるカメラが埋め込まれていること、これがそのままメモリバンクに繋がっていることがわかって、ここに収められたデータや映像を見ていけばなんかわかるかも、になる。
もうひとつ、Yangが動かなくなった後に窓越しに彼の様子を見にきた若い女性がいて、彼女はAda (Haley Lu Richardson)というクローンであることがわかって、Jakeたち家族の前の持ち主に関係があって、Yangの映像のなかに彼女が紛れていることがわかってきて。
Yangが動かなくなってしまった原因をYangの内部の機構とかバグなんかではなく、彼がこれまでに見てきた情報とか記憶(自分たちとかMikaとのこととか)にあるのでは、という推測にまっすぐ行ったのが興味深くて、そこにJakeがはまって、Kyraが少し呆れながら見ている。ずっと自分たちの傍で自分たちの行動を見ていたロボットに、自分たちのなにが記録されているのか、その記録(活動)が原因で停止したのであれば、その理由はなんなのか絶対に知りたい、になるし、そのロボットあるいは製造元が利用者にとって不利益をもたらすなにかを実行していた可能性もないとは言えないし、などなど。そんなColin Farrellの動きから”Minority Report” (2002)での彼を思い出したり。
でも後半、物語は陰謀論に繋がってもおかしくない記憶の迷宮に立ち入って混沌として … なんてことはなく、メモリバンクから投影された映像を通してYangが見ていたものとは? を巡る少し抽象的な話に入る。
Yangのメモリバンクにあったのは記録された映像でしかなくて、でもそれをバンクに格納したのは誰のどういう意思や意識によるものだったのか? それらの映像がそれを見た人によって記憶や思い出に変わることを意図したものだったのだとしたら、その目的はなに? その記憶っていったい誰のものと言えるのか? それが停止の原因なのだとしたら、これって自殺のようなものといえるのか? などなど。
ひとの生は有限で、時間が来ると途絶えてその記憶もどこかに消えてしまうのに対して、Yang内にあるそれ(記憶と呼べるものなのか)は、Mikaのも、その前のAdaのもずっとある状態を維持して残っていく。Adaが事故で亡くなってもMikaが老いても、Yang=自分が動いている限りは。YangはMikaの成長を見ていくうちにこういう人と機械との間のギャップをはっきり認識するようになって、それが辛く苦しいものである(になる)ことを知って、その辛さを自分が停止することで回避できるのだとしたら - 機械の考えることなんてわかんないけど/機械は辛さをどういうふうに認識するようになるものだろう? 等。
こうして最後、Yangのメモリ上の映像は博物館に展示されることになる … というのはちょっとつまんないオチだったかも。別媒体に移そうとした途端に自爆装置が働いて… とかの方がまだ。それか、Mikaは人間ではないYang以上に精巧に作られたロボットで、彼女が自走できるようになったのを見届けて停止した、とか、プラットフォーム上にアップされた複数の、大量の映像を管理するAIが同様に暴走したり停止したり、やがて内紛を起こすようになる、とか。
できればもう一回見て確認してみたいのだが、“Columbus”で特徴的に描かれていた建造物、というのも同じような役割を担ったりしていなかっただろうか? そしてこれは父親がコーマになる話だった…
人が作りだす奇怪なでっかいものとか精巧なもの、それに相対する人そのものの脆さとか弱さ、その狭間でくよくよしながら生きていくしかない、って変だけどそういうありように対するやさしさはあってよいもの、とか。(力こぶ握られるよりぜんぜんよい)
あと、YangもMikaも中国系である、ということの意味も(たぶん)ある。Kogonadaは十分に意識しているはず。
11.07.2022
[film] 獨立時代 (1994)
10月24日、月曜日の晩、東京国際映画祭の1本め、シネスイッチ銀座で見ました。
4Kデジタルリマスター版。 邦題は『エドワード・ヤンの恋愛時代』、英語題は“A Confucian Confusion” – 儒教的混乱 – 孔子曰く云々から始まって延々問いと答えが止まらないやつ。
90年代、好景気で盛りあがる台北で、文化系事業のバブルの端っこで勃発する恋愛のとったとられたとか結婚するしないとかお金とか安定とかを巡るコメディ。日本が配給に関わったりしていることもあり、当時の雰囲気などはとてもよくわかる。
カルチャーイベント等を企画する会社を経営するモーリー(倪淑君)がいて、彼女の学生時代からの親友で同じ会社で一緒に働いてきたチチ(陳湘琪)がいて、チチには学生時代からの友人で恋人のミン(王維明)がいて、モーリーには大財閥の御曹司で親が決めた婚約者のアキン(王柏森)がいて、でもモーリーの様子が変なので戻ってきたアキンはコンサルタントで友人のラリー(鄧安寧)に相談する。ラリーはモーリーの会社にいる若いフォン(李芹)と不倫関係にあり、モーリーとの間も会社の状態もよくなさそうなので、チチは会社を抜けることを考え始めていたり。
あと、モーリーの姉(陳立美)は人気キャスターの有名人で、別居状態の彼女の夫(閻鴻亜)は世捨て人のようになってしまっている元人気恋愛小説家で、彼の小説の盗作疑惑をかけられた舞台演出家バーディ(王也民)は同級生でもあるモーリーに泣きついてきて…
とこんなふうに登場人物すべてがかつての/進行形の友人関係、恋人関係、利害関係(頭があがるあがらない)、などの網の目のなかにあって、これらの関係の深い浅いなどを会話のなかから把握していくのは始めのうちは大変なのだが、個々の会話のなかで取りあげられる今後あんたとはやっていけるとかやっていけないとか一緒になるとかヨリを戻せないかとかの寒暖の差や負っている傷の深さなどはわかるし、これら会話劇の合間に差しこまれる紙芝居のような字幕で大局的にどういう状況にあってどっちに向かいそうなのか、などはなんとなくわかったりもする。
台北の、生計面の苦労はあまりしなくてよいまま、学生時代からの友人関係を持ちあげるかたちで会社生活に入った若者たちが直面する仕事上の、というよりは地上から少し浮きあがった恋愛とか結婚とか別れとか、あんま考えたくない今後の人生あれこれについて正解なんてない水面上をじたばたしたりしんみりしたりの2日間と3日目の始まりを描いて、それだけなのにすばらしくおもしろいの。
登場人物それぞれが下す決断とか挙動について、ものすごく自信があったり熟慮の末にやったりしているわけではなく、誰かの入れ知恵だったり噂話だったり、あるいは考えすぎの思いこみだったり、でも起こってしまうことは起こってしまうもので、そうやってアクションはオフィスからバーから車からエレベーターから、どこでだって起こるしその結果がどう転がるのかはちっとも予測がつかない。そんな「獨立時代」のカラーとか明暗とか。
例えばロメールが「喜劇と格言劇」シリーズで古くからある格言に集約できそうなじたばたを一本の映画(コメディ)を通して(なんとなく)語ろうとした騒動を、あるいは最近だとホン・サンスがあれこれむき出しの「起こっちゃったこと」を並べて示すその先にあるよくわからない「あなた」のこととかを、エドワード・ヤンはコント集のような短い会話の連なりのなかに凝縮して見せているかのよう – 登場人物ひとりひとりの困惑したり混乱したり立ち尽くしてあーあ、になるその顔やどつきあうそのシルエットだけで十分に何かが語られていて、そこには見る側の思い入れとかみんなが納得できるオチだのオトシドコロだのはまったく必要ないの。
見ていてとにかく楽しくて、これってなんなのかしら、って。文化系サークルの延長みたいに躓いては悩んでばかりの連中と金持ち系サークルにいある鼻もちならない連中の衝突とか囲い込み合戦のようで、実は全く人と人との繋がりとか一緒になることなんて求めていないかのような潔さ – こちらのキャラクターへの思い入れなどを一切弾き飛ばす - があって、これって最近のなんでも「ステークホルダー」みたいに繋いで結んで可視化してみよう(けっ)みたいなのとは真逆の、やっぱし「獨立時代」としか言いようがないというか。『恐怖分子』(1986) - “The Terrorizers”にあった後ろ頭の分子たちが巻き起こす恐怖をそのままコメディの方に倒しただけというか、のとてつもないスリルときたら。
エドワード・ヤンの他のも全部、一気に見せてほしい。見たい。
RIP Mimi Parker.. 大好きだったよう。ありがとうございました。
11.03.2022
[film] White Noise (2022)
10月29日、土曜日の晩、東京国際映画祭をやっているよみうりホールで見ました。
国立映画アーカイブで『太陽を盗んだ男』(1979)を見たあとに(上映後のトークはとばして)。
Noah Baumbachの新作で、原作はDon DeLilloの1985年の同名小説(未読)。Noah Baumbachはこれまでほぼオリジナルの作品(or Greta Gerwigとの共作)を撮ってきたので、原作ありは珍しい。
冒頭、大学教授であるらしいSiskind (Don Cheadle)がアメリカ映画で描かれるカークラッシュがどんどん軽快な快楽をもたらすものに変わっていった、その歴史について解説する。
Jack Gladney (Adam Driver)は彼の同僚の大学教授で、アメリカのヒトラー研究の第一人者(なのにドイツ語会話ができないってあるの?)らしく、人気はあるようだが体はやや不健康にたるんでむくんで、不穏な夢とか幻覚のようなものにうなされたりもしている。
妻のBabette (Greta Gerwig)とは互いに何度目かの結婚で、間には過去のパートナーとの間の子供たち - Denise (Raffey Cassidy)、Heinrich (Sam Nivola)、Steffie (May Nivola) - もいて賑やかで、ものすごくハッピーなかんじでもないが、そんなに不幸でもない。そこらにいくらでもいそうなアメリカ中西部の白人中産階級のファミリー。(監督の前作 - ”Marriage Story” (2019)の家族の人たちと比べてみよう)
でも最近Babette はなんとなくぼーっとして物忘れが.. とか言っていて、Deniseによるとこそこそなんかの錠剤をのんでいた - ”Dylar”というその錠剤はググっても出てこないしなんか怪しい、と。
そして運転手がウイスキーを飲みながらよれよれ走っていた有害化学物質満載のトラックがながーい貨物列車と衝突して大爆発事故を巻き起こし、見るからに有毒そうな黒煙が立ち上り、それは真っ黒い雲となって空を覆ってGladney家の暮らす一帯にも緊急避難命令が出て、一家は車に荷物を積んで指示されるままに走り出す。
放出されてしまった化学物質がどういうもので、どれくらい有害でよくなくて、どこまでいつまで拡がっていくのか、どうなったら収束するのか、責任者は誰なのか、全く情報がなくて、避難所では錯綜する情報を巡って憶測も飛びかうのだが、Jackは車にガソリン給油するときに浴びた雨がだいじょうぶなやつだったのか - 浴びたらあと2年半とか聞いた - が引っかかっている。
こんなふうに「死」がはっきり目の前に現れるのではなく、漠然とたまに気になるシコリみたいにちらちら鼓膜を透過していくのがWhite Noiseで、その反対側には子供達が夢中になる航空ショーでのクラッシュとか、サーフィンなんてやりそうにない体格なのにサーフしていきなり亡くなってしまったJackの同僚とか、Jackの専門のヒトラー、Siskindの専門のエルヴィスの死に向かう衝動とか、よりくっきりしたのがある。
Toxicな黒雲は微生物を撒いたらなんとかなったとか、Babetteのドラッグもそれがなんなのか明らかにならないけどなんか生きてるしとか、なにはともあれスーパーマーケットの精肉売場がオープンしたからいいじゃん、みたいになる。それでいいのか…
ベルイマン的な死や闇、邪悪さへの畏れを散らつかせつつも、どうしても向こう側には行けない - こちら側がブレーキをかけているのか向こう側が届かないのか - そこに挟まってくる、囲いこんでくるWhite Noise、とは。事故が起こったから/家族が仕事がどうなったから/歳をとったから/こんなことになっちゃってどうする、という形で描かれてきたNoah Baumbachのコメディが初めて登場人物たちを外部環境、のような不可解なものに向かわせている、というか。 よくわからない陰謀に右往左往しながらも立ち向かうWes Andersonをソフトにしたような。
Jack役ってはたしてAdam Driverでよかったのか? “While We're Young” (2014)のBen Stillerとかの方がうまくはまったのではないかしら? とか。
ラスト、モスクのようなスーパーマーケットに全員集合して、これまでずっとWhite Noise的ななにかを業のように背負ってきたLCD Soundsystem - 久々の新曲。どまんなか! - の主題歌に乗って、ゆるーく踊るの(ちょっと緩すぎ)。ここだけSpike Jonzeあたりに演出させてもよかったのに。
これって実は次の”Barbie” - 監督はGreta Gerwigだけど - の布石なのではないか、と。
この国のノイズのほとんどは”White”ではなくて、ずっとToxic Noiseで、今朝のアラートとか、ほんとに邪悪で愚かなのばっかしなの。しみじみやだ。
11.02.2022
[film] Irma Vep (2022)
いろいろ溜まってきたので書きたいのから書いていく。
10月30日、土曜日の午前から午後にかけてep.1~4を、31日(会社休んで)月曜日の午前から午後にかけてep.5~8を、東京国際映画祭で見ました。場所はよみうりホール。
この映画祭で一番見たかったやつなので発売日に突撃して、でもぜんぜん繋がらなくて泣きそうになったやつで、なのに当日の会場はどちらもかわいそうなくらいにがらがらで、前の方の真ん中に移動してとってもだらしない恰好でみた。
今年の6〜7月にHBO Maxで放映された8エピソードからなるTVミニシリーズで、製作にはA24も関わっている。
上映前、ビデオで監督・脚本のOlivier Assayasがメッセージを。この作品は本来このサイズと音量で、一本の作品として一気に見られるべきものであり云々。 彼、”Carlos” (2010)の時にもNYFFでまったく同じことを言っていたよね。
彼が1996年に撮った”Irma Vep” – 当時監督の妻だったMaggie Cheungを主演に据えた愛すべき(としか言いようがない)インディー作品のセルフリメイク、という以上に、そもそもここでやろうとしていたLouis Feuilladeのサイレント“Les vampires” (1915 -16)シリーズのリメイク、というよりモダンなリブートで、これらの製作を通してAssayasの映画愛というか、それ以上に映画活劇とはどういうものか、なぜそれが社会に必要とされるのか、を考察するものにもなっている。
全8エピソードのタイトルはFeuilladeのオリジナル版の10エピソードから8つをそのまま転用している。以下順番に”The Severed Head” - “The Ring That Kills” - “Dead Man's Escape” - “The Poisoner” - “Hypnotic Eyes” - “The Thunder Master” - “The Spectre” - “The Terrible Wedding”。
アメリカからIrma Vepを演じるMira Harberg (Alicia Vikander) – MiraはIrmaのアナグラム – がパリにやってきてアシスタントのRegina (Devon Ross)と合流する。Miraは主演していたジャンクSF超大作 - "Doomsday"のプレミアへの参加もあるのだが、それの監督でかつて恋人だったHerman (Byron Bowers)と更におなじくMiraの恋人だったLaurie (Adria Arjona) – しかもHermanとLaurieは結婚間近 - もパリにいると聞いてげろげろ、ってなる。
それとは別にMiraは”Irma Vep”の監督のRené Vidal (Vincent Macaigne) - 96年版と役名は同じでJean-Pierre LéaudからVincent Macaigneに – やコスチューム担当のZoe (Jeanne Balibar) - 96年版のNathalie RichardからJeanne Balibarに、頭を抱えてばかりのプロデューサーGregory (Alex Descas)は96年版から変わらず – たちと会って、最初の衣装合わせでIrma Vepのスーツ - 96年版のぴっちりとしたラテックスからよりしなやかな柔らかい素材に変わって、これを着て動き出した瞬間のMira = Irma Vepの見事さに全員がほーってなる。
エピソードのサブタイトルをきちんと反映してストーリーが展開していくものではなくて、①現代の製作現場のスタッフ側、キャスト側それぞれの苦労に不満に困難、②オリジナルからの該当場面の抜粋、③場合によってはそれが撮られた時の主演女優Musidoraの回顧録を映像化したもの、④実際に撮られた画面の抜粋、⑤場合によってはそれが1996年版ではどう撮られていたか、などがランダムに繋げられていく。なんでそんなやり方をするのか、というと映画の撮影はそう簡単に運ぶものではなくて、それは100年以上前の吸血ギャング団が社会に向かって仕掛けようとしていたあれこれとか、主演のMusidoraやMiraが直面する女性に向けられた蔑視の目とか、前作の後の妻との別離が監督にもたらした衰弱と疲弊と、幾重にも重層化された困難に溢れていたから。
でも、映画は複雑にこんがらかったメイキング、に留まることなく、それでも映画とは、映画だから、というところに踏みとどまって強く何かを訴えようとしている気がするし、これは冒頭にAssayasが語ったようにコメディなの。 吸血鬼団の話なのに誰ひとり死なないんだから。
監督やMiraによるFeuillade版の解釈だけでなく、Reginaがずっと抱えているドゥルーズの「シネマ2」や、そうやって勉強中の彼女が監督不在の隙間を埋めることになった時に持ち出してくるKenneth Anger - ルシファーが召喚する白魔術としての映画とか、もちろんハリウッドのフランチャイズものとか配信プラットフォームとか昨今の「コンテンツ」の変容とか、現代にこのクラシック「映画」を再生させることの意義にまで踏みこもうとする。
Miraは見るからに大金持ちのGautier (Pascal Greggory)からグローバルに展開する香水のメインキャラクターに指名されたり、LAのエージェントZelda (Carrie Brownstein!)からは女性のSilver Surfer役のオファーが来ていたりの順風満帆で、これに対してRené Vidalは96年版でもとっても不安定だったが、今回もパニック障害を起こして現場を放り出して失踪してしまう。
96年版では代行監督としてLou Castelがやってきたが、今回はよりによってハリウッドからHerman(とLaurie)が現れてやり方をぜんぶ変えたい、とかわめくのと、失踪してしまったRenéの魂の彷徨いもきちんと描かれる。 セラピストとの対話とか、96年版で主演した後に別れたJade Lee (Vivian Wu) - 96年版は役名もMaggie Cheungだったけど – が突然目の前に現れて – どうも彼女は幽霊っぽい – Renéとしんみり話すシーンはとっても沁みたり。
あとはMira以外にキャスティングされた俳優も – 高慢ちきで待遇に文句を言い続ける共和党野郎のEdmond (Vincent Lacoste)とか、Miraの元カレの俳優で、いまの恋人 – ティーン向け歌手のLianna (Kristen Stewart)が流産しちゃって辛いようって泣きながらMiraのとこにヨリを戻しにくるEamonn (Tom Sturridge)とのエピソードとか。でも極めつけはドイツからきたコカイン中毒で大暴れする大男のGottfried (Lars Eidinger)が底抜けにすばらしい。彼が自分のパートの撮影を終えたあとのパーティ(Thurston Mooreがギター抱えて登場)でぶちあげるスピーチなんて立ち上がって拍手したくなった。
GottfriedがR.W. Fassbinderに言及したりするところもあり、なんか“Warnung vor einer heiligen Nutte“ (1971) - 『聖なるパン助に注意』みたいなことをやりたかったのかしら? Lou Castelもいたし。
あと、特筆すべきなのはAlicia Vikanderのダンスも含めた動きのしなやかさと軽さ、そしてVincent Macaigneの懐の深さというか、ジブリみたいに伸び縮み自在のふてぶてしいかんじがたまんない。
とにかくいろんな場面や局面が最後までとっ散らかり続けるので、見ていて飽きないしあっという間に終わってしまうし、こんなふうに感想とかいくらでも書いていけるのが楽しい。
あと音楽は、Thurston Mooreで、加えてAssayasの映画なので次から次へといろんなのが流れてくるのでたまんない。今回印象に残ったのはTelexの“Moscow Diskow”とかNenaの”99 Luftballons”とか。欲を言えば、96年版でのSonic Youthのささくれだったギターが刺さってきて空気がざらっと変わるあのかんじがほしかったかも。
あと、Tシャツとかトートとか、いちいち全部おしゃれ過ぎてほしいのばっかし。
そして、なんといっても、René Vidalが完成させたはずの”Irma Vep”の最終形がどうなったのかを見たい。あれだけ撮っていったのだからあとは編集するだけではないのか。絶対傑作に決まっているし。
そしてそして、そこまで行って最後に浮かびあがる(はずの)Irma Vepとは何者なのか?
11.01.2022
[film] Bros (2022)
10月21日、金曜日の晩、米国のYouTubeで見ました。
Judd Apatowのプロダクションで、監督はNicholas Stoller、脚本はNicholas Stollerと主演のBilly Eichnerの共同、New Yorkに暮らす白人ゲイ男性の王道rom-com、ということででは王道とはなんぞや? というところも含めて必見なの。
40歳で独身New YorkerのBobby (Billy Eichner)は、クィアヒストリーをテーマにしたポッドキャストのホストをしてて、LGBTQコミュニティで賞を貰ったりして、そこから国立のLGBTQ歴史博物館の設立メンバーになって資金獲得などで日々走り回るようになる。
Bobbyは自分がNYの白人のゲイとして置かれている状況についてずっと自覚的でシニカルでひねくれてて、”Queer Eye for the Straight Guy”みたいな人気者になれるわけでもないし、運命の人や糸が現れたり垂れてくるわけでもないことはわかっていて、だから十分に毒舌にも辛辣にもなれて、今の自分の人気はそれ故のものであることもわかっているし、周囲もそれを受け容れてくれているようなので、それでいいや、っていう自意識で武装して毎日を過ごしている。
でもそんな彼がクラブでAaron (Luke Macfarlane)と出会って、自分と同じように無口で運命とか結婚とかふつーの幸せをあまり信じていない透明度の彼だったので、デートしてセックスしてそれぞれの友達や家族と会ったり夢を語ったり – Aaronの夢はショコラティエになること - していくうちにだんだん互いの思いが予期しなかった方に変わっていって、こんなはずじゃなかったかも - これじゃふつうのrom-comの関係みたいじゃんか、ってなって、そうかそういうのが嫌なら別れようか、ってあっさりいったん別れて – この流れ自体が既にじゅうぶんrom-comなのだが - 要するにそういう展開で、従来あった“When Harry Met Sally”(1989) みたいなドラマを中年のシニカルなゲイふたりの上に展開させるとこんなふうになるのでは、と。
もういっこ、併行して動いていくLGBTQ歴史博物館の設立の件については、ゲイだけじゃないレズビアンもトランスもクィアもいろんな人たちが関わっていて、彼らが受けてきた偏見や迫害や差別はゲイのそれとは温度も厚みも違って、Bobbyひとりで抱えて決めきれるものではない、という難しさが見えてきて、このプロジェクトの進展もふたりの関係に微妙に影響を及ぼしたりする。
Judd Apatowのコメディって、”The 40-Year-Old Virgin” (2005) -童貞-にしても、”Knocked Up” (2007)-妊娠- にしても、”This Is 40” (2012)-ミドルエイジ危機- にしても、一見ふつうに面白おかしく暮らしていた人々が、想定していなかった危機とかイベントにぶつかってあたふたパニックしてより狂って自爆していく、そういうドラマだったと思うのだが、今回のは起点となる登場人物たちの意識がすでに「ふつうの」人たちからずれている(と本人たちは思っているし思わされてきた)ので、これまでのふつうの市民が大騒ぎを経て一回転してふつうに復帰する、のとは別の、ふつうじゃないところに立っていた市民が少し騒いで、でも一回転してみたら割とふつうだった? あれ? のようなかんじなのかも。でも最後はなんだかんだやっぱり愛じゃろ、みたいなところに気づきがあって落ちる – このあたりがつまんない人にはつまんないのかも。
でも今回のについては、一見着地点(ってなに?というとこも含めて) が難しそうなゲイの人々をセンターに置いたときにどこがどんなふうに捩れて拗れるのか、がシリアスでなく淡々と描かれていて、それが結果的にrom-comのメタのようになっているところがおもしろいのではないか。ただ、この形式がこれまでに作られたり語られたりしてきたいろんなゲイの恋物語や映画たちとどう違うのか、というとちょっと微妙かも(主人公がずっとフロントに立っているだけで、そんなに違っていないのでは?)。
というのと、このメタな恋物語を語る基準/補助線のような役割を担うはずだった(たぶん)LGBTQ博物館の件も、メンバーの動きや言動がちょっと戯画化・単純化されすぎているところが少し.. ここも加えて転がしていったら収拾がつかなくなる、という判断だったのかも知れないけど、でもこれはNYのお話しでもあるのだからさあー って。
たぶんゲイ・レズビアン映画祭のようなところで数回上映されて終わり、になってしまうのだろうが、できればちゃんとした形で上映されてほしいなー。
[film] RRR (2022)
10月22日、土曜日の昼、109シネマズの二子玉川で見ました。IMAXレーザーで。179分。
RRRっていうのは、Rise - Roar - Revoltの3つのRである、と。同じ監督による『バーフバリ』シリーズは見ていない。
1920年、英国植民地時代のインドで冷酷非道な総督スコット(Ray Stevenson)と妻キャサリン(Alison Doody)によって村の娘を連れ去られてしまった「羊飼い」 - 村の民を守って救うことに命をかける - ビーム(N.T. Rama Rao Jr. )と英国軍の警察官として頑強不屈の忠犬ぶりを発揮するラーマ(Ajay Devgn)が運命的な出会いと課せられた使命の捩れを経て救出と植民地からの解放をいっぺんにぶちあげる豪快なお話。
予告篇にも出てきた出会いのところから、暴走機関車(= 英国)から力を合わせて子供を救う2人の対照が、火と水、馬とオートバイ、橋の下からの放る-受ける、などによって象徴的かつわかりやすく示された後、村娘を救うべくなんとか宮殿内部に潜入しようとするビームと、亡父と許嫁シータ(Alia Bhatt)との約束を果たすべく英国軍の内部に潜入していたラーマ、彼を「兄貴」なんて呼んで義兄弟のようになったところで、実は追って追われる危険な関係であったことがわかり、でもこのままだとどっちみち死ぬだけだよどうするんだ? になるまでに兄貴のラーマがどうしてそういうことになってしまったのか、を描く。
それらの背景、因果とか動機とか、掘ろうと思えばインドの民間伝承からヒンドゥーの死生観や自然観から植民地主義への恨みまでいくらでも起源とか鉱脈とかありそうだし実際あるのだろうが、画面はそれらを全部ふっ飛ばしてもびくともしないでっかさと過剰さで、アクションからダンスから群衆(規模!)からリアルな物量でぶちあげて、ついてこい! しか言わない。赤ん坊でもわかるから、とりあえずこい、浸って浴びろ、話はそれからだ、ってだいぶ経ってからタイトルが、まるで昔の(最近のは知らないから)少年ジャンプみたいにどかーん、て出る。
とにかく主人公たちはぜったいに死なない。群集からリンチのようにぼこぼこにされても、毒蛇に噛まれても、多少撃たれたり斬られたり刺されたりしたくらいでは死なない、というか死ねない。こんなことで、このくらいの傷で、あんな敵(英国)に、いま殺られるわけにはいかないのだ、なぜなら! と煮えたぎる血と涙が何度も告げる。誇り高きラーマの父だって、決してその最期を英国にやられた、という風にはしなかった。
そしてそんな奴らは獣にでも喰われてしまえ! って敵に向けて放たれる虎、豹、狼、熊、鹿、他にもいた? などの動物たち。インドに生息していたのかどうやって飼っていたのかなんて問題ではないの。連中(英国)こそなんでわざわざ他所の国にやってきて偉そうにやりたい放題するのか? って。V&Aの名物木彫り(大好き) - 虎に食われる英国人 - が浮かぶ。 あのイメージのもつ普遍性ときたら。
そしてそんな獣たちと横並びして獣以上に危険で死なない主演のふたり - 現地では大スターというのも納得・当然の貫禄と目力 - は、炎と水をほとばしる血=ガソリンに替えて踏ん張ってとにかく強い。ふつうにAvengersに入れるレベルだと思うし、ひょっとしたらミュータントなのかもしれない、とか。しかも歌って踊れる – 彼らに対抗できるのはHugh Jackmanくらいではないか。
こんな娯楽アクション - 歌も踊りもたっぷりの - 大作であればあるほど、植民地支配されていた時代の記憶というのはどす黒く残って消えないものなのか、と - これはかつて植民地支配をしていた側の国としては思うしかない。できるのであればこれを受けるかたちで森から出てきた二人組に統治機構をずたずたにされていく恐怖を英国軍側の視点でホラーとして描いてほしい。できればDanny BoyleかMatthew VaughnかSam Mendesあたりに。出したければKing’s Manとかを出したっていいよ。
とにかく3時間、緩むことなく次々とお皿を出して回して、じゅうぶんお腹いっぱいなのにいいから、って出してきて踊らせてしまう強引さはすごいわ、しかない。