6月24日、金曜日の晩に109シネマズの二子玉川で見ました。少し前に”The Lost City of Z” (2016)っていうのがあったけど、これは”The Lost City of D”のようで、でもまったく関係はないの。
どれだけこういうバカみたいに空っぽで安っぽい(ほめてる)コメディーを見たかったことだろう。なんかさー、B級ジャンルってカリコレとか、そういう枠で適当に束ねてほれ(餌)って処理されているかんじがとってもあって - ホラー系B級ならまだいいけど、コメディなんかぜんぜんこないし、すごくやだ。
大衆ロマンス小説作家のLoretta (Sandra Bullock)は長髪の筋肉野郎と魔境を冒険して悪の結社とやりあって危機一髪をくぐりぬけてしっとり .. みたいな本を書き続けるのにいい加減疲れていて、新作のブックツアーにもぜんぜん乗ることができずに担当編集者Beth (Da’Vine Joy Randolph)の言われるまま、ぴっちり赤ラメの衣装を着せられて、直前に知らされたトークの相手は長年表紙のモデルをつとめてきたAlan (Channing Tatum)だったのでやる気が海抜以下に下降し、Alanと絡ませられてうるせーってやったら彼のカツラが取れたりさんざんで、自分はこんなんでいいのか? ってなったその傍で英国の富豪のどら息子Abigail Fairfax (Daniel Radcliffe)に拉致されてしまう。
彼女が本のなかでどこかの古代文字を解読していて - 彼女と彼女の亡夫は世界の遺跡を旅する元学者だった - その文字が南海の火山島に眠る宝物を探すカギになるはずだから、手がかりっぽいぼろ布のメッセージを解読して探せ、って迫る。仮想だろうが架空だろうが自分のパブリック・イメージを作ったのは彼女だし、彼女を救うことができるのは自分に決まってるし彼女もそう思っているはずだ、って確信したAlanは元軍人のトレイナーJack Trainer (Brad Pitt)を雇って彼女の足跡を追っかけるのだが、椅子に縛り付けられた彼女を持ちだした直後にJackはやられちゃって、アドベンチャーにもロマンスにもまったく興味のないふたりがAbigailの追っ手をかわしてジャングルを抜けて川を渡ってヒルまみれの半裸の薄着になりながら文句を言いあって、そのうち宝物にも…
Lorettaが書いていたような小説もAlanが体現していたようなマッチョなモデル(Fabio?)も結末が見えみえの“Romancing the Stone” (1984)みたいな冒険活劇も、ひと昔前のあの時代にはまじでどーでもいいプラスティックな暇つぶしとしてあったわけだが、この映画ではそれらが歳を重ねて自分の声を持ったり回顧らしきモードに入り始め、それらのやや切実な声が失われた都市(の財宝)を捜すスクリューボールの旅に重ねられることで不思議なリアリティをもって転がり始める。マルチヴァースに飛ばされて玉突きされて覚醒したあれ、に近いなにかなのかも?
そして”Speed” (1994)の頃から巻き込まれたら天下一品の延焼パニックぶりを見せてくれたSandra Bullockも、実はただの筋肉バカじゃない演技だってできるんだぞのChanning Tatumも、それぞれの十八番をメタになぞるようでいて、そこからするりと抜けてぶっとばす芸当をこの逃亡劇のなかでやっているように見えて、驚くべきことにそれは前世紀末のしがらみを超えてWorkしているようにみえた。気がした。"The Lost City"は見つからなかったかもしれんが。
これが80年代のアクション映画だったらブラピはもっと忍者のような神出鬼没の活躍を見せたはずだし、悪漢Daniel Radcliffeは火山の溶岩でどろどろに焼かれてしまったはずだし、Sandra Bullockには亡き夫の声が聞こえてくるはずだし、Channing Tatumは本当の自分を見つけられたはず。でもこの映画ではどの連中もそうはならない。 ただ、たぶん真ん中のふたりは永遠の愛を.. その背後でファンファーレのように流れてくる”The Final Countdown”がまた…
ほんとうはSandra BullockはF.B.I. Agentだったし、Channing Tatumは警官だったりG.I. Joeだったりしたのだし、Brad Pittだってエージェントだったのだ、って二段重ね構造にして互いに殺し合いを始めたりしてもおもしろかったのに。そうすると木の棒で戦うしかないDaniel Radcliffeがちょっとかわいそうかも。しかし彼って南の島、ぜんぜん似合わないよね。
The Fallの鈍器本がきた。もっと重くてもよかったのにな。
6.29.2022
[film] The Lost City (2022)
6.27.2022
[film] 三姉妹 (2020)
6月21日、火曜日の晩、ヒューマントラストシネマ有楽町で見ました。
“Three Sisters”がオリジナルタイトルで、邦題は『三姉妹』。 Seung-Won Leeが脚本・監督を務めた韓国映画。 ネタばれとか気にしなくてよい気もするけどいちおうー。
おそらく昔の記憶 - 2人の少女が背を向けて走っていく映像の後に、三姉妹のそれぞれの現在が描かれていく。ここだけでも十分におもしろいものになっているかも。
次女ミヨン(Moon So-ri)が一見、一番きちんとした成功者ふうで、宗教団体の聖歌隊を指揮しながら夫も同じ団体の幹部で教師をしていて、子供ふたりの四人家族できれいな家に住んできれいな服を着て神様がいるので不安もなく、悩みといえば食事の時に娘がなかなかお祈りをしないことくらい。それでも、なにがあっても神に寄り添えば神は救ってくださるはずだから、ってきらきらしている。
作家をしている三女ミオク(Yoon-ju Jang)は髪を染めて奇天烈かつどーでもいい恰好をしてジャンクフードを食い散らかしつついつも不平不満たらたらのおらおらで、ミヨンのところにどうでもいいことで電話をかけて困らせたってちっとも気にしない。年上の夫と彼の連れ子がいるが彼らも彼女の圧と威嚇には頭があがらないし継子ははっきりと距離を置いている。
地味に花屋をしている長女ヒスク(Kim Sun-young)は自分がガンで調子がよくないことを周囲に言いたいけど誰も聞いていないようだからいいやー大丈夫―、って部屋の灯りも点けずにぼーっとしてばかりで、元夫からは金をたかられ、ゴス&ゴミパンク&メタルぽい一人娘のボミ(Ga-hee Kim)の癇癪には頭があがらないけど、彼女が愛しくてたまらないみたい。
上の二人は彼女たちなりのやり方で自足していて、その安定した立ちっぷりがなんか気にさわるので絡みたい下の子のミオクも絡みたいときに絡んで吐きだせればそれでよし、だったので宇宙の均衡は保たれていたのだが、ミヨンの夫が合唱隊の生徒と浮気していることがわかって家を出てしまってから、旦那だけでなくあんなに崇めていた神への信頼からなにからぜんぶ揺らいでしまったところにあとの上と下のふたりの生活に触ってみると、なんだかみんなぼろぼろじゃんー ってなったところで実家の父の誕生日に三姉妹で出かけようって過去に向かってドライブする。
そこで明らかになる三姉妹(ともうひとりいた)の過去、そこには彼女たちがどうしてこんなになってしまったのか、のおおもと - 家(父長)の理不尽かつ暴力的な縛りと呪いがはっきりと現れて。
物語の前半では彼女たちの立っている/立てるところまできたこんがらかった場所と時間を照らしだそうとして、終盤でそうやって明かされた現在の表裏のようにしてあった過去からの闇がどこから来たものだったのかをえぐり出す。(終盤の流れがやや性急で唐突なかんじになってしまったとこだけやや残念)
それは個々の家庭の修羅場の絡まり具合の数段深いところ - ほぐせば、話せばなんとかなるようなものではなくて、えぐって表に引きづりだして晒して叩くしかないような、彼女たち三姉妹を三姉妹として隅っこに固まらせてあんなふうにしてしまった化け物がふたたび現れて彼女たちをすくませたところで、ざっけんじゃねーぞおら!って。 ここはやや唐突で少しだけびっくりしたのだが、後から考えればそうだよな、って納得できる。そしてそのあまりの勢いと共にいろんなものが噴出してくる(のが見える)ので泣いてしまう。おいしいけど辛すぎて笑いながら泣いてやけどする韓国のお鍋のような。
『ハチドリ』(2019)にもあったテーマ。あの作品は1994年に14歳だった彼女を描いていたが、彼女があのまま大きくなって今にいたら.. この三姉妹のようになっていたのかしら、とか。大きくなれてよかった、なんて言えないくらいに暗く深い闇だと思うけど、ラストの3人の立ち姿を見るとああーって。
まんなかの3人がなんともいえずかっこいい - 彼女たちはかっこよくあってほしいな、って思うそのままに素敵に浜辺に立っているので、よいの。また会いたくなるような。
梅雨、しれっと勝手にいなくなってんじゃねえよ。そんなの許されるとおもってんのかおら。
6.26.2022
[film] 銀座の恋人たち (1961)
6月19日の午後、『春の夜の出来事』の後に神保町シアターの銀座・銀ぶら特集で見ました。
監督は千葉泰樹で脚本は井手俊郎。 英語題は”Lovers of Ginza”。
銀座の片隅に津川八重(東郷晴子)と民子(団令子)の母娘が経営する和風居酒屋「菊の家」とその隣に光夫(宝田明)と君江(原知佐子)の夫婦と君江の父親(有島一郎)の3人が経営する喫茶店「ヴォランシェ」があって、少し離れたところにある「大原洋装店」には民子の姉の由子(草笛光子)が嫁いでいて夫で若旦那の圭一(三橋達也)はふらふら遊び人で、そこの店員の弘子(北あけみ)と民子と君江は親友同士で、ある晩弘子が話したいことがあるというので3人で集まると、妻のいる男を好きになってしまった、と。その相手が由子の旦那であることがわかり、由子は三橋達也と離縁して居酒屋の方に戻ってくる。
登場人物たち - みんなスター顔できらきらしっとり - の位置関係や矢印の方角を把握するだけでも結構大変なのだが、銀座の3軒のお店とその周辺に点在する弘子のアパート、光夫と君江のアパート、八重や民子の実家(おばあちゃんは飯田蝶子)を舞台に、女性たちが誰を想ったり嫌になったり、いまの関係に絶望したりしているのか、結果として家を出て新たな生活を - 出られた側は新たな相手を探し始めて、など、玉突きのようにすんなり落ちたり流れたりしていって、そのスピード感というか思い切りのよさとか恋の止まんないかんじが「銀座の恋人たち」なのかもしれない。生活? なるようになるわよ、って。
三橋達也を奪って一緒に暮らし始めたと思ったら彼を養うためにキャバレーで働き始める弘子も、「ヴォランシェ」に現れる謎の女性(島崎雪子)や店のドアガールをやってて中絶したという浜美枝と宝田明の仲を疑って不安になり闇の世界の歌手ハリー米山(水原弘)の車に乗ってしまう君江も、宝田明をぼんやり想っていて求愛してきた中尾(小泉博)の件を保留にしているうちに姉に宝田明をとられてしまってぜんぶを失う民子も、それぞれにかわいそうで不幸に見えてしまうのかも知れないけど、そんなに辛そうには見えない。ほんとは辛いのかもだけどそんな暇はないのだ、のようにスクリーンの上ではすいすい動いていく。
おなじ恋人でも、おなじ銀座でも、同じ井手俊郎脚本、千葉泰樹監督による『東京の恋人』(1952) - 英語題は”Tokyo Sweetheart” - が「みんなの恋人」的な - みんなの、なのでどうにもならん - 原節子を真ん中に置いて描こうとした汎用的な - 誰もがが惚れてしまう主人公の女性とその反対にいて誰もが嫌いそうな欲深い森繁との対置で示そうとしたわかりやすい構図はここにはない。弘子のところに行く三橋達也も君江を連れ去る水原弘も、ひとり勝手に潰れてしまう宝田明も、ものすごく悪い暗い情念に導かれて動いているわけではないし、女性たちも都度動揺したり傷ついたりしながら次の恋に向かおうとしていて、その引き出しというか選択の幅のありようが銀座 - この映画の舞台になるお店とアパートで衣・食・住のぜんぶは網羅されてて、あとは恋だけ、そこに生きるだけ - なのだと思った。こんな街が東京の他のどこかにあったのだろうか?
全体として登場する男どもはどれもほぼしょうもないろくでなしのくずばっかしで、最後、全てを失った民子のところに現れるのがご飯のことしか考えていないわかりやすくシンプルな木下(加山雄三)- これはこれでこわい一日五食野郎 - で、彼と夜中の路地でバドミントン - 羽が生えててどこに飛んでいくのか知らん - を始めるところが素敵でー。
この40年早かったSATCみたいな内容のが100分で収まってしまっているのはすごいと思って、この世界の2年後、10年後くらいを続編で見たかったかも。加山雄三以外は全滅している世界とか。
Glastonbury 2022、BBCのiPlayerに繋いだら見れたのであとで見よう。現地で見たかったのにさあー。
6.25.2022
[film] 春の夜の出来事 (1955)
6月19日、日曜日の昼、シネマヴェーラの特集『才気と洒脱 中平康の世界』で見ました。
監督は西川克巳で、尾崎浩の原案を河夢吉(だれ?)と中平康が共同で脚本を。
大企業の大内産業の社長大内郷太郎(若原雅夫)は出先では執事吉岡(伊藤雄之助)とお付きの車がびっちり大名行列をなして、家のなかでは女中頭のまつ(東山千栄子)がぜんぶ仕切っていて、あとは18歳の娘百合子(芦川いづみ)がいる。郷太郎は道楽で自分の系列の製菓会社の懸賞に匿名で応募したら二等に当選して賞品の赤倉のグランドホテルへ招待されて、よい機会なので身分を隠して旅行してみたい、ってお付きを断るのだが、心配性の吉岡がついてきたので、それならわしの気分になってみろ、って彼を社長ってことにしてしまう。
懸賞で一等を獲ったのがいろんな懸賞に当たりまくっているのに自分の就職だけはずっと振られ続けている二宮真一(三島耕)で、母子家庭のよいこなので母ふさ江(夏川静江)のことを気遣って、母も荷造りをこまこまやって旅に出て、ホテルに着いてみると、ホテル側は百合子からの匿名の電話でお忍びでやってくるという大金持ちにびびって大内と二宮を取り違え、二宮をものすごく豪華な部屋に通して大内は粗末な座敷牢のようなところに閉じこめてしまう。事前に大内の好みを聞いていたホテル側はサンマとかオウムとかキャンティとかを用意していて、サンマが好物、は二宮も同じだったりするからややこしい。(でもクリスマスの頃のサンマ?)
こうしてびっくり破格の待遇に加えて噂を聞いていろんな方角から言い寄ってくる御夫人(宮城千賀子)や恋人(岡田真澄)連れのマリ子(東谷暎子)にあたふたする二宮と、社長らしく振る舞わないと社長に怒られるので死にそうになる吉岡と下層民として蔑まれるMの快楽に目覚めてしまったかのような大内 - これまでと全く異なる椅子に座って(座らされ)冠を被った(被らされた)トリオがクリスマスの仮装の宴に向かって橇で遊んだり雪だるまを作ったりしているうちに仲良くなっていって、そこに父を心配してやってきた百合子とまつが加わり、二宮と百合子も互いに意識するようになって.. (でもあのふたり、互いの素性をいっさい知らないままなのに)
あとはニセ黛敏郎(黛敏郎)がいて変てこな音楽 - 変なのでニセって言われる - を披露したり、大内は下働きのお爺さん(左卜全)と仲良くなったり。 階段の手すりの飾りとか、タバコケースのオルゴールとか細かいところもいろいろ考えられている。
冬の雪山の出来事なのになんで「春の夜の..」なのかというとキャプラの『或る夜の出来事』(1934)にひっかけようとしたものらしく、でもキャプラの映画にあるような一連の出来事や会話が互いの懐を探りながらびっくりの化学反応を引き起こして戸惑いながらも終盤に押し寄せてきて納得させられるあの感覚は来ないかも - せいぜい男たちみんなが目を合わせてうむ、ってにっこりするくらいで。 どちらかと言えば安泰のラストを想像しやすい水戸黄門みたいなかんじかしら。
ラストで登場人物が素で現れて、すべてが明らかになるところはきらきらして説明の言葉はなくて、だれもずっこけず、怒ったりもしないのでおとぎ話だねえ、って。懸賞からの芋づるで就職と彼女と将来のあれこれぜんぶを手に入れることができそうな二宮はラッキーすぎないか。
戦後の復興に向かって富や権力や性役割のありようなど、みんなが意識や思いをひとつにしようとして誰もがそれを疑わずに連なって輪になろうとしていた良くも悪くも幸福な時代だから成立したコメディで、今はその枠だけ - 会社の偉いじじいはぜったい偉く、お金持ちはなったもん勝ち、女性は彼らを傍で支える - が無思考のままに残されているので見る人によってはSFか時代劇のように見えてしまって笑えないかも。
アメリカ、無念と恐怖しかないが、ほんとに2016年の大統領選挙がああでなかったら、っていまだに思う。だから選挙は行かないとこうなるんだ、って。 これよりひどいことがこの国にもくるからぜったい。
6.23.2022
[film] Elizabeth: A Portrait in Part(s) (2022)
6月18日、土曜日の午後、ル・シネマで見ました。午前に世田谷美術館でピーター・ラビット展を見て、ぴょんぴょん跳ねながら。ピータ・ラビット展よかったけど、併設のフレンチ、ウサギ肉のパイは面倒だろうけどテリーヌくらい出せばよかったのに。
監督はついこないだ”The Duke” (2020) - 『ゴヤの名画と優しい泥棒』が公開されたばかりのRoger Michellで、これが彼の遺作となった。邦題は『エリザベス 女王陛下の微笑み』。
こないだPlatinum Jubileeを迎えたQueen Elizabeth II - エリザベス女王のドキュメンタリーなのだが、なにしろ相手は在位70年の女王陛下なので、アーカイブ映像なんて山のように死ぬほどあるだろうし、Platinumじゃなくても彼女の誕生日にはBBC Oneとかで当然のように特番が組まれて随分いろんな女王の「素顔」や「イメージ」は見てきた気がする – 実際ロックダウンの頃ってそんなのばかりだったかも - ので、今更、この上になにを? って思ったりもしたのだが、結構楽しく見ることができたかも。
わたしは中学生のときにシングルの”God Save the Queen”で”No Future”を摺りこまれて叩きこまれてこんなぼろ切れになってしまった者だが、このジャケットのJamie Reidによるアイコンとあのコーギーに囲まれて幸せそうなおばあさんとは別のものとして見てきた気がするし、割と英国の平均的な民(という言い方には注意が必要だけど)もそんなかんじで、ものすごく忌み嫌う必要はないし、あんなふうに生きている人がいてもよいのでは、くらいの感覚なのではないか。もちろんこれが100年後に巧妙に仕組まれたプロパガンダでした、ってなる可能性もないことはないかもだけど、いいや。
もちろんこんなことが例外的に適用されるのはあの女王様だけで、フィリップはどうでもよかったし次の王になる(たぶん)チャールズなんかふん、だし他の王族連中も揃って堕落した変態ばかりでしょうもないし、な印象はある – ただの印象だけど。
そういうわけで、Platinum Jubileeの記念品はBiscuiteersの缶からからFortnum & Masonの紅茶からRoyal Collection(これはまだ未着)まで円安と送料に泣きながらクリックして、届いてからちぇーっ(しょぼい)とか言っていたり、この映画もそんなムダ道楽の一部として見ておいてよいの。(言い訳ばっかり)
タイトルにもあるように女王のこれまでをいろんなパーツ - “The Queen’s Speech”とか”Ma’am”とか”Close-up”とか”At home”とか”In the saddle”とか”At sea”とか”Dream come true”とか”Horribles”とか - で切り取って繋げて、その塊りに当時の音楽とか映像を被せて、その切り口が時代・歴史上の出来事に結ばれるのでもなく(戦争とかでっかいのは当然ある)、家族王族の出来事に重ねられるのでもなく(結婚とか出産とかは当然ある)、どちらかというとどうでもよさそうでくすっとしてしまうようなポートレイトが中心で、最近の王室周辺の不穏かつ不吉なあれこれもほんの少しは。
馬に乗ってぱっぱか黙々と走っていくとことか、競馬で勝ちそうなときに小躍りしてたりとか、なかなか楽しいし、音楽だと”At home”のパートでMadnessの”Our House” (1982)が結構長く流れる(Suggsの顔もちゃんとでるの)ところできゅんとなったり。音楽のセンスはよくて、Fred Astaireの”Cheek to Cheek”とか、Guy Mitchellの“Look at That Girl”とか、Noel Coward の”Don't Let's Be Beastly To The Germans”なんかまで流れて、最後はもちろん”Her Majesty”で。”God Save the Queen”も”The Queen is Dead”もやっぱり流れなかったわ。
不敬とまでは言わないけど、これではパディントンと同じではないか、かもしれないけど、別にパディントンで上等ではないか – ひとをほんわか幸せにしてくれるのであれば、とか。
本当はRoger Michellの少し前のドキュメンタリー - “Nothing Like a Dame” (2018)のようなやりかた – 女優Eileen Atkins、Judi Dench、Maggie Smith、Joan Plowrightたちが庭でお茶を飲んだりしつついろんなこと - なんで女優になったか、女優であることはどういうことだったか - などを喋る – ができたらすばらしかったかも、って思ったのだが、そもそもあんなふうにリラックスして語る女王の絵、ってないか?
おめでとう、長生きしてね、って言いつつ、”The Crown”の次のシーズンはまだか。 (11月かあ..)
6.22.2022
[film] Pis'ma myortvogo cheloveka (1986)
6月17日の金曜日、まじであれこれやってられなくなって会社を休み、シネマヴェーラのウクライナ特集で2本見ました。
邦題は『死者からの手紙』、英語題は”Dead Man's Letters”。気圧など諸々で死んでいる今にふさわしいったらない。
監督のKonstantin Lopushansky はタルコフスキーの”Stalker” (1979)にプロダクション・アシスタントとして参加していて、これの原作者のボリス・ストルガツキーは、この作品ではシナリオ(共同)を書いて参加している。
核戦争が起こったあと、放射能汚染のため誰も地上に出られず、実質軍が支配していてどこが安全でなにがどうなっているのか誰もわからない地下世界でノーベル物理学賞受賞者のProfessor Larsen (Rolan Bykov)は博物館の地下収蔵庫だったシェルターに病で伏せっている妻と同僚の家族らと一緒に身を寄せあって暮らしていて、教授は食料や妻の薬を探すために防護服を纏って地下を這って地上を彷徨う。
その過程で政府が進めている嘘か本当かわからない中央のシェルターへの移送計画 - 健常者のみを選別 - のことや、生死も所在も不明な息子Ericに宛てた遺書のような手紙のなかで明らかになるこんな世界になってしまったきっかけとか、まったく先が見えない地下生活と「中央」のこと、表情を失って死んでいるような子供たちの様子などがなんの容赦も希望もない状態でこまこま描かれていてすごい。
画面にはセピアや青のサイレント映画のような彩色が為されていて、「かつてそこにあった世界」が描かれているような趣きもあるのだが、この地下世界から漂ってくる臭気や閉ざされた生活環境の生々しい細部の描写はAleksei Germanの『神々のたそがれ』(2013) - “Hard to Be a God” - これも原作はストルガツキー兄弟だった - の糞尿泥まみれのつらい地獄を遥かにしのぐしんどい、いまのリアルさで目の前に並べられていって、その構築に向けられたエネルギーときたらとんでもない。あのドアとか穴とか、どうやって作ったのか、あの世界は既にすぐ隣のどこかに実際にあって、子供たちはみんな死んだ目をしていて、あの手紙は我々に向けられた本物ではないのか、それを受け取る我々は彼岸のお話として読んでいられるのか、とか。
そうであったとしても驚くな、落ち着け、こんなもんだから、って死者は語っているのだと思って、落ち着く。どっちみち先はないのだ、誰も「ほんとうのこと」なんて語らないのだし、って。
Vnimanie, cherepakha! (1970)
これもシネマヴェーラのウクライナ特集から、↑のから2本あけて同じ日の夕方に。
邦題は『がんばれかめさん』、英語題は”Attention, Turtle!”。かめさんががんばる話しなのかと思っていたらそうではなくて、かめさんに注意せよ! 踏んじゃいかん! って戦車 - なぜいきなり戦車?- が注意する話しなの。亀目線のディストピア映画。監督は、俳優でもあるRolan Bykov。
亀のアップの後、学校に小学生低学年くらいの子供達がわらわら集まってきて、若い女性の先生の教室で亀を飼って愛でているのだが動物愛護強硬派の飼育係だった男の子が突然現れた自称祖母(監督が演じている?..)に栄養懸念があるって研究所に連れ去られて、ひとり残された亀さんを巡って虐待派のガキと穏健愛護派の女の子との間で争奪の抗争が勃発激化して戦車まで登場するのだが、最後はなんとか子供映画のようなかんじで終わる。
亀にしてみればほんと迷惑でしかないし、あんなガキ共を再教育しないでそのまま野放しにしておくから↑の核戦争みたいなことになっちゃうんだって、これはこれで亀さんの書いた「死者からの手紙」なんだわ、ってしみじみ思った。それか、そのまま巨大化してガメラになっちゃえばよかったんだわ。
子供達はみんな(一見、当然)かわいいし、なぜかいつも濡れている路面とか先生や子供達のファッションの色味も素敵で画面構成もきれいなのだが、とっても変てこな変態の映画だと思ったの。 どう変態なのかは下品すぎるので書きませんけど。
『死者からの手紙』もこれも、境界もくそもない抜けられない、どうすることもできない世界の地盤みたいなののありようを手紙とか亀とかに託して綴っていて、その足元の揺るがないかんじはそのままウクライナのいまに繋がっている気がした。行くところまで行くしかない、になってしまうもどかしさとか。
6.21.2022
[film] Oslo, 31. august (2011)
6月15日、水曜日の晩、MUBIで見ました。
Joachim Trierによる「オスロ三部作」のふたつめ - ”Reprise” (2006) から始まり”The Worst Person in the World” (2021)へと至るまんなかの。最初のを見ていないので三部作としてのありようについて書くのはまだやらない。
『鬼火』っぽいかも、って見ていたら最後にドリュ=ラ=ロシェルの『ゆらめく炎』(1931) - つまりはルイ・マルの『鬼火』(1963)を緩めにベースにした、と出ておお、って。これをJoachim Trierと彼とずっと一緒に書いているEskil Vogtが脚色している。(このふたりって、“Louder Than Bombs” (2015)を作っているのかー)
2011年のカンヌのある視点部門で上映されていて、日本では「トーキョーノーザンライツフェスティバル2015」で公開されたのみ?
冒頭、古い色味のフィルムで昔のオスロの街、がらんとしてだれもいない街の景色とかでっかいビルが爆破されるところとか、主人公にとってのオスロの原風景のようなもの、がナレーションと共に映しだされる。そんなに暖かく懐かしいものでも、ひどく殺風景なものでもなさそう。
窓の向こうはただの道路、ホテルのような施設でAnders (Anders Danielsen Lie)が目覚めて、ベッドには誰かが寝ていたような影があり、湖の畔に立ってコートのポケットに水を満たして自殺しようとするのだができなくて、そのままリハビリ施設の集会に出て、でも自殺のことには触れずに回復しているような印象を持たせて - そんな印象持てないけど - 面接もあるので1日の外出許可をもらって外にでる - これが8月30日。
そうやって旧友の家族 – 夫とも妻とも知っていて子供たちもいて幸せそう – と再会して歳をとっていろいろしんどい、みたいな会話をして - でもその悩みはAndersのそれとはぜんぜん違うやつで、それからレジメを送っていた編集者と採用の件で面接をして – よいかんじだったのに経歴のブランクの箇所を訊かれてドラッグ依存症の治療をしていたから、って返して話しはなくなって - ここまでの会話 - アドルノやプルーストの名前がでてくる - で、彼が十分に思慮深いひとである(あった)ことはわかるのだが、いまはこんなふうに誰かと会うたびにその先の展開を自分から潰して、というかそうするために誰かと目を合わせて向かっていって、自分のなかのチェックシートを塗りつぶしているかのよう。
そしてそのノリのまま会おうとした妹からは避けられて - 替わりに彼女の恋人が現れて会いにこないでほしいと言われて売却予定の実家の鍵を貰い - さらに一番会いたいかつての恋人Iselinは何度電話をかけても出てくれない。そのままどうでもいい知り合いの誰かのパーティに出て、飲んではいけないお酒を飲み、隣り合っただれかとキスをして、コートをあさってお金を抜いてドラッグディーラーのところに行って薬を買ってー。
再びどこかのバーに流れてIselinが浮気していた男と会って、さっきのパーティにいた連中に合流して夏の終わりのプールサイドにたどり着く8月31日。酔っ払ったみんなはプールに入っていって抱きあったりしていて、Andersはその様子を眺めている。
途中からAndersは死のうとしている、というのはわかって、でもそれは死を選ぶというより生きることを止める、もうこの先はない、ということをひとつひとつ確信していくような動きとして現れて、そうやってなじみのオスロの街を歩き、自分もかつてはその一部としてあったパーティの人々を眺め、彼らにくっついて夜の時間を抜けてみれば8月31日 - 夏の最後の一日だったという、ただそれだけの場所と時間の交点のはなし。そこで電球が消えるかのようにすうっと彼は消える。それだけで、そこには暗さも明るさも、なにかが弾けとぶような瞬間もない。 という流れの納得できるかんじときたら。
退屈でつまんないパーティで決定的ななにかが起こる、そこで世界が止まるような時間の訪れとともに、世界がひっくり返る(ように見える) - という出来事は”The Worst Person in the World”のなかにも出てきて、さらにこの映画でのAnders Danielsen Lieの役どころも併せてみると、いろいろおもしろいと思ったのだが、三部作の最初のを見てから改めて。
ムンクが描こうとした時間、ていうのもこういうのだったかも、と確かめたいのだが山が。
『鬼火』も久々に見返したくなった。
6.20.2022
[film] An Cailín Ciúin (2022)
6月12日、日曜日の夕方、BFI Playerで見ました。
原題はアイルランド語のアイルランド映画で、登場人物たちもほぼアイルランド語を喋って英語字幕、たまに英語で喋ったりするシーンもあるのだが、こちらも字幕がないときついかんじ。英語題は”The Quiet Girl” - アイルランドだしJohn Fordになんか関係あるのかと思ったけど、なかったみたい。
原作はClaire Keeganの短編“Foster” (2010) - 未読 - 脚色/監督はこれが初長編作となるColm Bairéad。
とてつもなく地味で静かな映画なのだが、アイルランド/UKではヒットしているらしい。すばらしい。映画もほんとによくてー。
80年代初のアイルランド - ウォーターフォードの農村に暮らす9歳のCáit (Catherine Clinch)が遠くにある家のなかから家族に呼ばれて、彼女は草叢に転がったままであまり動かない - 動きたくないらしいし、呼ばれていってもほとんど喋らない。 家には姉妹の子供たちも大勢いるのだが相手にされていないようで、絶えず子供の泣き声が聞こえてて張り詰めた緊張があって、Cáitは単に喋らないというより喋れなくなっている/喋らなくされてしまったのだな、というのを彼女の張りつめた(無)表情からうかがうことができる。
やがてお腹が大きくてしんどそうにしている彼女の母親(Kate Nic Chonaigh)から剥がして追い払うかのように半ば酔っ払っているかのような父親(Michael Patric)の車に乗せられて - この車中での父親の粗暴な態度と一方的なやりとりからCáitがこんなふうに固まってしまったのは多分に彼のせいなのだ、というのもわかってくる - どこかに連れていかれるようだが、彼女に選択の自由なんて勿論なく、表情は凍りついたまま。
彼が車で連れてきたのはCáitの母親のいとこのEibhlín (Carrie Crowley) とSeán (Andrew Bennett)の夫婦の家で、酪農をやっている農家で子供はいないらしい。緊張ともともとの無口からがちがちに喋れなくなっているCáitをEibhlínはやさしく気遣ってくれて、緊張と混乱でおねしょをしてしまっても怒らずに服を買いにいってくれたり、寡黙なSeánも最初は怖そうなのだが黙っていろんなところに連れていってくれたりあれこれ見せてくれたりそっとお菓子を置いてくれたり、互いにゆっくり寄っていって気がつけば一緒に農作業をやるまでになっていたりする。
最初は見ているこちらもCáitと同じように恐々どきどきで、ここが元の家と同じように虐待と緊張を強いる家 → ホラーだったらどうしよう.. なのだがだんだんそうではなさそうなよい人たちっぽい、というのがわかってゆっくり解れていく過程がとてもよいのと、だからといっていきなり緩んで弾ける方にはいかないCáitの落ち着きと距離のとりかた - そこからうかがえる傷の深さにしんみりする。 そして夫妻にもかつては男の子がいたことがわかるとああそれで.. といろいろ見えるものがあったり。
日々のいろんなこと - 人工貯水池に水を汲みにいったり、一緒に牛舎を掃除したり、郵便箱に走って手紙を取りに行ったり(Seánがそのタイムを計測する) - すべてがだんだんに楽しく馴染んできた夏が終わると、母親の出産も終わったからと家に戻るときがやってきたらしく、嫌な父親が車でやってきて新しい服とか少し増えた荷物をつめてお別れをする時がきて、夫妻はCáitの家までついてきてくれて..
ここから先は書きませんけど、ラストはぼろぼろに泣いてしまった。 Cáitは最後の最後までQuiet Girlなんだけど、でも最後に.. 神さまお願い、って思いっきりー。 子供時代の終わり、楽しかった夏の終わり、それらとどこまでも輝いて見えたあの家の佇まい、暖かく迎えいれてくれた夫妻と。
最後までほとんど喋らずに凍りついて張りつめた目の動きと表情だけで訴えてくるCáit役のCatherine Clinchの驚異と彼女を取り囲んで束縛から解放に向けてゆっくりと色を変えていく(ように見える)夏の光、家屋に射しこむ光、いろんな緑の輝きをとらえていくカメラがすばらしいの。
ここ数日間のいろんな裁判の判決を見て、裁判所がああいう判断をする国にいる/いなければならないのって、あまりに酷いし耐えられないし、どれだけ不平等な、人を虐待してぜんぜん平気で澄ました顔の野蛮な国にいるのか、って唖然としている。選挙に行くしかないってみんな言うし、そうなのだろうけど、それにしたって最低すぎる。恥を知ろう。
6.19.2022
[film] Ballada o soldate (1959)
6月12日、日曜日の昼、シネマヴェーラのウクライナ映画特集でみました。
邦題は『誓いの休暇』、英語題は”Ballad of a Soldier”。監督のGrigory Chukhrayが『女狙撃兵マリュートカ』(1956)の次に撮った作品で、1960年のカンヌをはじめいろんな賞を貰っていて、「宮崎駿監督もお気に入り」とチラシにはあった。
冒頭、「母」と思われる女性がひとり、村の外れに立ってずっと遠くに続く一本道の向こうを見つめたまま動かなくて、この道を通って出ていってこの道を通って戻ってくるはずだった彼女の息子は帰ってこなかった、というナレーションが入る。
19歳で従軍している通信兵のAlyosha (Vladimir Ivashov)は前線で組んでいた狙撃兵が目の前でやられてしまった後、死にそうになりながら傍にあったライフル砲でドイツ軍の戦車を撃ったら2台に命中して撃破して、軍の上に呼ばれて誉められたので調子にのって、母のところに帰りたいですきちんとお別れ言えなかったし屋根の修理もしなきゃいけないし、と言うと偉い人はじゃあ行きで2日、現地で2日、帰りで2日の計6日間の休暇をやろう、っていうの。
こうして郷里に向かおうと駅に走っていく車が水溜まりで動けなくなったところを助けてもらった兵士Pavlovから途中の町で自分を待つ妻に石鹸2個を渡してくれ、って頼まれたり、駅では片脚を失った兵士の荷物を持ってあげたら、妻のところに戻ろうとしているけど彼女はもうこんな自分には、って沈んでいるので気になって列車を乗り過ごしたり - 彼女は迎えに来てくれててよかった - 遅れを取り戻すべく軍用列車の貨物室に肉缶の賄賂を渡して乗せてもらって、そしたらその貨車こっそり乗りこんできた女性Shura (Zhanna Prokhorenko) - 彼女は怪我をして入院している婚約者のところに行きたい - が怖がってぶつかってくるのに少しづつ打ち解けていって、でも停車時に水を汲みに行って戦況を聞いていたらまた列車に行かれちゃって、通りかかったおばちゃんのボロ車で次の駅に向かったら列車はとっくに発っていて、でもShuraはそこで待っていてくれたので抱きあって、そこからふたりで頼まれていたPavlovの石鹸を届けにいったら奧さんは別の男と一緒にいたので頭きて石鹸を病気で伏せっていたPavlovの父に渡したり、ようやく実家が近くなってきたと思ったら列車めがけて爆撃が…
こんなふうに思いついたように実家に帰りたい、ってお願いしたことから始まって、きょろきょろ周りの人たちの面倒をみたり気にかけたりしているうちに本来の用事や目的がどんどん後ろに倒れて遠くなってどうしよう… になっていく真面目な19歳Alyoshaの危なっかしい道行きを描いて、でも原因は彼の方だけじゃなくて、誰もが「ほんとうのこと」を言わないし、誰もがそれを信じていなかったりすることなの。片脚の兵士だってPavlovの妻だってShuraだってラジオから流れてくる戦況だって、そしてAlyoshaだって嘘をつくし。
戦争そのものがそういうみんな(国も軍も家族も個も)ではったりの大ウソの言いがかりをぶちまけて騙しあって殺し合うどうしようもないやつだって、『女狙撃兵マリュートカ』だってそうだったし、誰もが無事に、勝って戻ってくるとか言って戦地に行くのにそうなることなんてないし、ひどいったらないの。本人は死んじゃってばいばい、かもだけど残された、去られた側の後のことを考えてみてほしい。何千回言ったら気が済むのか、死ななきゃわかんないのか、などなど。
もちろんそういうのって、細かく切っていけば日々の暮らしや仕事の中にいくらでもあることなのだろうけど、でも日々のそれらの方で人はそんなに簡単に明白には死なない。誰もが横並びで死へと向かう可能性のある大きな渦のなかでこれが起こるのが戦争で、だから許されないの。昔のヒトラーがやったこともいまのプーチンがやっていることも、プロパガンダっていう名の大ウソ大会だからね。
映画だから、かもだけど反発しながら出会って時間の経過と共に恋におちていく真ん中のふたりが典型的な美男美女のそれなのって - 『女狙撃兵マリュートカ』もそうだけど - どうしたもんか、って少し思った。そうすることでおとぎ話みたいになってしまわないか、って。映画だからとか、アニメとかだったらそれでよいの?
6.17.2022
[film] 銀座カンカン娘 (1949)
6月11日、土曜日の昼、神保町シアターの特集『映画で銀ぶら―銀幕の銀座』で見ました。
いまの勤めているとこは銀座の近くで、オフィスにいたくないのでぶらぶらしていることも多くて、この街はなんかよいなあ、になりつつある。
監督は島耕二、脚本は中田晴康と山本嘉次郎。だれもが知っているヒット曲 - 映画の少し前にでた高峰秀子の - 笠置シヅ子のじゃないんだ? - シングルに連動した69分のプログラムピクチャーで、なかなかおもしろかった。
引退した落語家の新笑(五代目古今亭志ん生)、おだい(浦辺粂子)と娘のひよこ(服部早苗)が暮らす一軒家には会社員で会社の合唱サークルを指揮する甥の武助(灰田勝彦)がいて、2階には新笑の恩人の娘で絵描きになりたいお秋(高峰秀子)とその親友で声楽家になりたいお春(笠置シヅ子)のふたりが下宿していて、あと半ノラ犬のポチがいつでも勝手にあがってくる。
お春とお秋は朝起きるといきなり合唱したり、ちゃぶ台のとこにおりてくればご飯を仏前みたいに山盛りにしたり味噌汁にダイレクトにぶっこんだり元気いっぱいで、でもヒマすぎるしお金もないので職を探さなきゃ! って出かけようとしたら、おだいに犬のポチを捨ててきておくれよと頼まれて、断れないけどポチもなかなか別れてくれなくて、困ったなあ、になっていたら公園やってた映画の撮影に巻き込まれてギャラで1000円貰ってラッキー、になり、そこのエキストラで知り合った白井(岸井明)から銀座のお店で流しで歌えばもっとじゃんじゃか稼げるよ、って言われたので3人でまわって歌って、を始めて、更にそこに会社をクビになった武助も加わって、最後は再び高座にあがることにした新笑の家をなんとかすることもできそうでめでてえなあ、って。
カンカン娘の「カンカン」って、Wikiには山本嘉次郎の造語で、当時の売春婦の別称「パンパンガール」に対して「カンカンに怒っている」という意味が込められている、とか、中国からきた「かんかんのう」=「看看奴」、つまりみてみて娘、とか、たんに「フレンチ・カンカン」にひっかけただけかも知れん、とかいろいろあるみたいなのだが、とにかくあのメロとリズムにのったら勝手にまわりだしてとてつもなくご機嫌だし、つなぎパンツに丸メガネでまるで漫画みたいな高峰秀子と歌いだしたらなんでもヴギウギにしてしまう笠置シヅ子のふたり組は最強としか言いようがないので、このふたりこそ唯一無二の銀座カンカン娘なのだ、って言い切ってしまってもよいのではないか。
でも映画のなかにもあるように女子ふたりで盛り場でああいう歌を歌っていると、おうねえちゃんすてきじゃねえかよう、って酔っぱらいが山ほど絡んできそうなのが目にみえるようで辛くて、彼女たちふたりで腕にネコの刺青(フェイク)なんかしてイキってみてもやっぱり映画のなかのお話よね、ということにしたくなるのと、同様にここの「銀座」って新宿でも渋谷でも上野でも池袋でもなくて - 今の目線で見れば、だけど - やはり「銀座」で絶妙だったのかも、とか。 どんな町にだってそこで生きた人たちの影と光の両面あったりするものだが、銀座のありようって、映画での扱われ方も含めてそういうのとはやや違う位相 - 例えば「銀ぶら」の「ぶら」とか - にあるような気がして。
もうひと組のコンビというと、いつものぐちぐちぬたくり芸の浦辺粂子と、彼女に正面から絡んで引っ張ったり転がしたり、なにこのふたり夫婦なの? の自在なノリを見せてくれる志ん生で、このふたりが毎朝毎晩あんなやりとりをしてくれる下宿なら家賃倍払ってもいいわ。 ほんと、記録映像でもない志ん生があんなふうに落語の欠片でもさらさらって見せてくれるとは思わなかったので、とてもお得した気分になった。さいご、武助とお秋が一緒になるのはいくらなんでもご都合主義すぎないか、って思ったけど、あのセットの、あんな近いところで志ん生の落語をきけるなんていいなー、しかないわ。
6.16.2022
[film] a-ha: The Movie (2021)
6月9日、木曜日の夕方、ヒューマントラストシネマ渋谷で見ました。
これはもちろんSweden映画であるところの”ABBA: The Movie” (1977) – 大文字 - に対抗すべく作られたNorway映画 – 小文字、というふうに見るのが正しいのだろうか。
みんなが知っているようで知らなかったa-haの評伝ドキュメンタリー。1982年にオスロで結成された3人組については、1985年のメガヒット”Take on Me”(のPV)以外には知らないことも多かったかも。(曲のいくつか、知っているのもあったけど)
昔話: “Take on Me”がリリースされた頃は、まだ英国を中心とした洋楽(「洋楽」っていう呼び方なんてなかった気がするが)に朝から晩までどっぷり浸かっていて、はじめは当時ちょこちょこ出てきていたエレポップの亜種・変種として聴いた。みんなで歌ってたのしい”Karma Chameleon” (1983)の「カーマカマカマ〜」に匹敵する 「トゥルットゥールー ィー⤴️」みたいのは絶対でないのがおかしくてみんなが笑顔になった(おなじ高音でもBronski Beatはも少しまじめに聴いていた気が)。 今はどんな音楽がチャートの上の方にいるのか、さっぱりわかんない(怠慢)のだが、当時は英国チャート(ラジオの全英トップ20)を聴いていれば世界の動きを把握することができていた(傲慢)気になっていて、そうやって聴いていくとたまに珍獣みたいのが登場して楽しませてくれる - a-haというのはそういう分類に置いて適当に流していたのだが、ある日、ビデオ周辺を追っていた人から - これも当時は情報源は限られていて、VHSのデッキを持っていてそれを家庭内で自由に操作する権利を与えられていて、ザ・ポッパーズMTVとかを見る時間のある裕福な層 – から、このビデオをみてほしい、と言われて見たのが”Take on Me”のあれ - それがいまでは基礎文献のように誰もが押さえなくてはいけないSteve Barronのアニメーションので、当時誰もが(Twitterなんてなかったけど)呟いていたように、「あれはずるい..」しかなかった。みんな底なしにひねくれててクソ暗かったので「すき」なんて死んでも言えないし言わないのだが、あれは認めざるをえない、あんなふうに壁にがんがんぶちあたって崩れおちてみたい。やられた..と。以上がa-haの思い出ほぼぜんぶ。ちなみにこれと同様に後からひっくり返されてやられたー、になったのがBjörkのいたThe Sugarcubesであった。来日公演で完全に持っていかれた。
あーこういうのも年寄りの茶飲み話なんだろうねえ.. でもこういうのをえんえんだらだらやりたいなー
さて、冒頭は最近の彼らのライブ直前の楽屋で、ぜんぜん仲よさそうには見えない3人 - 顔も見たくない、って言ったりする – がステージに向かって”Take on Me”の演奏を始めるところから。オスロの、互いにそんなに離れていない住宅地で、それぞれに音楽に触れながら音楽家になる夢を見ていた3人が集まって、ロンドンに出たり戻ったりを繰り返しつつバンドの音を固めていって、84年の最初のバージョンの”Take on Me”ができて – ここにTony Mansfieldが関わっていたのかー - シングルもビデオも世界を支配する。”Take on Me”のいろんなバージョンをこの映画では聴くことができるのも素敵だった。
ドキュメンタリーとしてもうちょっと掘ってほしかったところは、終盤にa-haは友情で繋がったバンドではなかった - 音楽で繋がっていたのだ、ときりっと語るとこがあって、それが冒頭の「顔も見たくない」の発言にどう関わってくるのか。音楽の志向が決定的に異なっているのだとしたらどうしてバンドを続けているのか、音楽についてはOKだがそれ以外の関わりはもう一切持ちたくないという意味なのか。一度解散している、その辺の事情と今はこういう映画も作って再びツアーに出ている、その辺の理由と事情かも(やっぱしお金?)。
オスロっていう土地もなんか気になって、”The Worst Person in the World” (2021)の監督Joachim Trierのオスロ3部作を見始めたところ(ちなみに”Oslo, August 31st” (2011)では、a-haが少し流れる)なので、この街にはやはりなにかあるのかも、って思ったり - ムンクのいた土地でもあるし。
旅にでたいようー (完全に逃避モード)
6.14.2022
[film] The Hard Way (1943)
6月9日、木曜日の午後、Criterion Channelの女優としてのIda Lupino特集で見ました。
タイトルだけだとB級アクションものみたい。 Criterion Channelでは6月からJudy Garland特集も始まってしまったのでいろいろやばい。梅雨だし洋画の新作もあんましないし、映画館に通うこともないのでは、とも思うのだが、思うのだが。
邦題は『虚栄の花』 - 『虚栄の市』だとサッカレー。 監督はVincent Sherman、撮影はJames Wong Howe。 原作はIrwin ShawがGinger Rogersと彼女の最初の夫(結婚した時彼女は17だった)と彼女の母のことを書いたお話をJerry Waldらが脚色したもの。ShawはHoward HawksかWilliam Wylerに監督してもらいたかったって(あー William Wylerが監督したらどんなだったろうー)。 歌って踊るシーンも結構あって、バックステージものとしておもしろいのだが、それだけじゃなくて。
冒頭、波止場で女性がふらふらと身投げして、病院に運ばれたHelen (Ida Lupino)がどこから来たんだ? と問われてうわ言のように”Green Hill”って呟くと、お話しは製鉄の町のGreen Hillに移っていく。これに続くこの町のいくつかの描写がどっしり見事で、ここは別のドキュメンタリーの映像を持ってきているらしい。
夫と妹のKatie (Joan Leslie)とぼろ屋に暮らすHelenはKatieに卒業式の$8のドレスも買ってあげることができない貧困生活と甲斐性なしのダメ夫にうんざりしていて、そんなある日、町にどさまわりでやってきたボードビル芸人のPaul (Dennis Morgan)とAlbert (Jack Carson)が食堂のフロアで楽しそうに歌って踊っていたKatieに目をとめて、それだけじゃなくAlbertは彼女に惚れてしまったようで、僕たちと一緒にツアーに出ないか、って誘ってきて、はじめのうちHelenは慎重に突っぱねていたのだが、Albertの熱意と愛に折れてふたりは結婚してコンビでステージに出るようになり、Helenはそれを袖で見守ってマネージャーもこなすステージ・シスターになる。
やがてHelenの営業とKatieの努力が功を奏してひとりでブロードウェイの舞台に立てるようになるのだが、その時にはAlbertは少し厄介者になっていて、KatieにもHelenにも取りあって貰えず、彼女のステージネームもいつの間にか結婚前の旧姓に戻っていたりするので落ち込んで滅入ったままAlbertは自殺してしまう..
そういうのがあっても順調にスターへの階段を昇っていくKatieだったが、やはりどこか寂しくて不安定で、そこに昔を知るPaulが現れてふたりは恋におちるのだが、HelenにはそれがPaulの企みのように見えておもしろくなくて間に割って入るようになる。ちょうど演劇の主演女優として舞台にたつ勝負どころだったのでKatieの不安も最高潮のとき、HelenがPaulに会うことを邪魔したってkatieが取り乱した結果、初日の舞台はがたがたになって…
すべてはKatieのため、だったし、それでふたりでやってきて上手くいって彼女はスターの座を掴んで成功したのだし、自分こそが彼女の最大の理解者で庇護者のはず、だから自分のジャッジに従って、というのがHelenの理屈で、でもある時点からのKatieはそうではなくなって、もう自分の力で舞台も恋も掴めるようになっているのだ、だから―、と浮かびあがってくる溝のありよう、これって親子にも姉妹にも割と普遍のドラマのような。
そして、ステージや演劇という装置が育んでしまう欲望がでっかく肥大していろんなものを食い荒らして、そもそもそこにあった関係や思いを壊したり空振りさせたり、そして最後には.. というのもものすごくよくわかる。 ありそうな話をモンスターの悪役になる手前ぎりぎりのところに立ち、それでも自分が育てた妹の傍にいようとする - 故郷を捨てて再婚もせずに妹のためだけに奮闘してきたかわいそうな姉 – をIda Lupinoはその怖さ弱さも含めてすべてをさらけ出すような演技をしている。ラストの彼女の透けるような表情の白さと脆さ、儚さときたら。
元々Helenの役はBette DavisとGinger Rogersにオファーがいったそうだが、Bette Davisだったらここまで行けたかどうか。もうちょっと毒が出てしまったのではないか、とか。 それにしても、これを演じた時ってIdaはまだ25歳くらいなんだよ、すごくない?
London、Grace JonesのMeltdown、楽しそうだなー。 こっちは腐れ落ちていくだけだわー
6.13.2022
[film] Voskhozhdeniye (1977)
6月7日、火曜日の晩、シネマヴェーラのウクライナ映画特集で見ました。
邦題は『処刑の丘』、英語題は”The Ascent” - 原題をそのまま訳すとこれ。監督はウクライナ人の女性-Larisa Shepitkoでこれが彼女の遺作となった。原作はVasil Bykaŭの小説 - ”Sotnikov” - 劇中の主人公の片割れの名前。77年のベルリン国際映画祭で金熊を受賞している。
Mark Cousins - 彼の映画いま日本でやってるんだ - のドキュメンタリー”Women Make Film: A New Road Movie Through Cinema” (2018)でもこの作品は言及されていた。”Point of View”と”Close Ups”というチャプターで。
第二次大戦中のベラルーシのまっしろな雪原、こんなところに人がいるのか、ていうとこに実はパルチザンの一連隊が埋もれながら進んでいて、そこで突然銃撃戦が始まって、静まって、長期戦になるかもしれないのでどこかから食糧を調達してこないといかん、って、Rybak(Vladimir Gostyukhin)とSotnikov(Boris Plotnikov)のふたりが志願して雪のなかに出ていくことになる。Sotnikovはずっと咳をしていて具合が悪そう。
雪だらけで凍てつく原野で、人がいそうな家屋の扉を叩いて食べ物をよこせ、って言っても向こうは既に敵(ドイツ兵)と繋がっているかも知れないし、繋がっていなくてもこちらに恨みをもっているかも知れないし、食べ物なんてないかも知れないし、すごく危うい危険なことだと思うのだが、そんなこと言っていられないくらい切羽詰まっていて、急いで帰らなければ自分たちもみんなも死んでしまう、のでふたりは必死で、そうやって羊を一匹貰って担いで戻ろうとしたところでまた銃撃に見まわれて、Sotnikovは足を撃たれてしまったらしい。
もう死を覚悟したかに見えたSotnikovをRybakは死なせないからな、って担いで(羊はどこかに消えてる)歩いていくと見えてきたのが、Demchikha (Lyudmila Polyakova)と3人の子供がいる家で、そこで手当をして食べ物を貰おうとしたら向こうからドイツ兵がやってきて、屋根裏に隠れると向こうも怯えて銃をぶちかまそうとしてきたので降伏して、Demchikhaも含めた3人はドイツ兵の詰所に連行されてしまう。
詰所では見るからに冷酷そうな調査官Portnov (Anatoli Solonitsyn)がSotnikovを尋問に来て彼の揺るがない目と態度を見るとそうかそれなら.. とあっさり拷問(胸に焼きごて)をする。でもSotnikovの目は既に殉教者のそれでそんな苦難を超越していて、他方でRybakの方は、知りたいことは教えるからって、結果として彼はドイツ側の秘密警察の仕事を貰えるかもしれないことになる。そんなRybakをじっと見つめるSotnikov。
結果としてSotnikovとDemchikhaと村長のおじいさんと靴屋の少女は翌朝に(ゴルゴダの)丘の上にある処刑台まで引き回されてみんなが見ているところで絞首刑にされて、それを横で見ていたRybakはやがて..
書いているだけで息苦しくなってくる、少しもほっとできる場面のない、ずっと凍えて感覚が失われていく雪のなかで、自分がしたり、他人に強いられたりの選択ひとつひとつが自然の摂理のように自らの命を浚いにやってくる。戦争/戦場というのはそういう過酷な場所で、アメリカ映画みたいに誰かが救いに来たり何かがなだれこんできたり、なんてあるわけないのだ、と言われればその通りなのだが、それにしても過酷すぎで、でも同時に、これをこういう形で映画にしなければならなかった監督の強い意志と切迫感はまちがいなく感じられて、それが彼女の命を削るほどのものだった、ということを知るとやはり見てよかった、と思った。
Sotnikovの覚悟と決意 - 同胞を売るくらいなら死んだ方がまし、もRybakの姿勢 - とにかく死んでしまったら終わりなのだからまず自分が生きられる道を選ぶ、もどちらがどう、って比べられるものではなくて - それを比較したり裁定できる目線のおめでたいこと - どちらにしても彼らの先には地獄しかない。そこから俯瞰でとらえられる首吊りの紐が用意されたなだらかな丘 - The Ascent。
そしていまのロシアとウクライナの間で起こっていることも、100mとか200mのレンジで切ってみれば同じような非道 - ただの殺し合いではないか、と想像がつく。想像するのだ、ってSotnikovのあの目はずっと語っていた。
戦争もひどいが気圧もひどすぎ。
6.12.2022
[film] J'accuse (2019)
6月5日、日曜日の夕方、『リカルド・レイス…』の後にTOHOシネマズシャンテまで歩いていってみました。
原題はÉmile Zolaが新聞に事件を糾弾した際の大見出し「我告発す」なのだが邦題はなんであんなの? って思ったら、原作としたRobert Harrisの小説のタイトルが”An Officer and a Spy”なのだった。元は英語で英語圏の俳優で作ろうとしていたらしい。 同じくドレフェス事件をテーマにした英国映画 - ”I Accuse!” (1958)ていうのもあって、これはGore Vidalが脚本を書いたりしていて、ちょっと見たい。
Roman Polanskiの監督・共同脚本作(もうひとりは原作者のRobert Harris)なんてあんま見たくないのだが、『失われた時を求めて』の後半にも出てきたドレフュス事件がテーマだし、Louis Garrel とかJean Dujardin とかMathieu Amalric とかMelvil Poupaud とかVincent Perezとか、好きな俳優さんがいっぱい出ているので、やはりしょうがないか、って。
2019年のヴェネツィアで銀獅子・審査員大賞を受賞して、2020年のセザール賞ではなんと監督賞を獲ってしまったのでAdèle Haenelさんがふざけんな、って椅子を蹴って退場したのはまだ記憶に新しいところ。 音楽はAlexandre Desplat。
1894年、軍の機密をドイツ側に漏洩した大逆容疑でAlfred Dreyfus大尉(Louis Garrel)が軍法会議にかけられて有罪となって孤島 - いまのグアンタナモ湾収容キャンプと同じような地獄 - に流されて、その1年後、Dreyfusの上司でもあったGeorges Picquart大佐(Jean Dujardin)が軍の機密諜報部の部長となる。
彼はこの事件が軍内部や社会に蔓延する反ユダヤの傾向を巧みに使って乗っかったものであることに十分意識的で、彼自身にもその傾向があることを自覚しつつも、諜報部内部で現場を仕切るHenry (Grégory Gadebois)などから漂う腐った臭気を感じて - Picquartの前任部長は梅毒でやられてへろへろだった - Dreyfusの件や他の情報源についても別に人を雇って調べてみると証拠集めも証拠固めも極めて杜撰かつ恣意的で、Dreyfus有罪の決定的な証拠となった文書の筆跡を鑑定士Bertillon (Mathieu Amalric)に改めて見てもらうと別モノ - 怪しいって追っていた奴のにぴったりだったことがわかる。スパイは別にいたじゃん.. て。
こうして再審請求に向けてPicquartが動きだすと内部の腐敗を晒されたくない軍の上を含めてあらゆる方面から圧力だの嫌がらせだのが襲いかかって非国民扱いされて拘束までされて、最後の手段と国会議員にÉmile Zola (André Marcon)に弁護士のLeblois (Vincent Perez)、Labori (Melvil Poupaud)たちがメディアを使ってキャンペーンを張ると世論は二分されて大騒ぎになり、でも直後の裁判では負けて、PicquartとHenryの決闘を経ての二審では直前にLaboriが暗殺されたりどこまでも血生臭くて、このあとの結果はみんなご存じのとおり。
Picquartはパーフェクトな正義の味方というわけでもなくて人妻のPauline (Emmanuelle Seigner)と逢瀬を重ねていたりもして、それ故に痛い目にあったりもするのだが、告発された軍の将軍たち - Gonse (Hervé Pierre)とかBillot (Vincent Grass)の厚顔さ狡猾さのが断然やばそうで、なにかというと目配せして「じゃあ君はユダヤ人に..」ってなる。この辺、なにかというと共産党が.. っていううちの国の腐った政治家たちとほぼ同じ。百年遅れか。
日付の字幕とかほぼなしのまま過去と現在を行き来して繋いでぐいぐい見せていく語り口はすごいな、って思うもののどちらかというと俳優たちの力かも。Polanskiは裁判制度の「被害者」として個人的にドレフュス事件に興味を持っていたと語り、映画の中でもAlfred Dreyfusの弁護士役(..)として出たりもしているのだが、プロモーションの手前で過去の女性虐待を告発されたりしてしょうもない。こんな状態でセザール賞を受賞するもんだから椅子を蹴っ飛ばされるのも無理ない。映画祭関係者たちの感覚、だいじょうぶか? Dreyfusの頃みたいになっていないか?
うん、やっぱり俳優たちがすばらしくよくて、PicquartとHenryの決闘シーンの生々しさ(とても痛そう..)とか、軍の幹部たちのやーらしいかんじとか、無罪となって出てきたDreyfusとPicquartの対面シーンとか、見どころはこっちの方かも。
あとは改めて、国の傾向が司法も含めてああなっていっちゃうと絶望しかないよねえ、って。うちの国は既にじゅうぶん酷くなってて、メディアはそれに乗って偏った「まとめ」とか解説する機能しか果たしていない。だからÉmile Zolaのような知識人とか文化人は必要なんだよ。
6.11.2022
[film] O Ano da Morte de Ricardo Reis (2020)
6月5日、日曜日の昼、国立映画アーカイブの特集 -「EUフィルムデーズ2022」で見ました。
邦題は『リカルド・レイスの死の年』、英語題は”The Year of the Death of Ricardo Reis”。原作はジョゼ・サラマーゴの同名小説 (1983)。
IMDBを見ると同じ原作でTVシリーズの”1936 - O Ano da Morte de Ricardo Reis” (2022) - 3時間45分 - というのもあって、監督のJoão Botelho、Ricardo Reis役のChico Díaz、Fernando Pessoa役のLuís Lima Barretoなどはそのまま、どういう関係なのか - 映画で撮ったものを再構成、編集しなおしたものなのか - 見たい。
Fernando Pessoaが亡くなった1935年の終わり、16年間のブラジルへの亡命生活の後にポルトガル - リスボンに帰国した医師のRicardo Reis (Chico Díaz)がHotel Bragançaに滞在し、その後にアパートに移動して過ごした最後の8ヶ月間を描く。
言うまでもなくRicardo ReisはFernando Pessoaが生み出した「詩人」のキャラクターであり、映画にはFernando Pessoa (Luís Lima Barreto)も幽霊として登場してRicardo Reisと対話したりするので、これもマルチヴァース - もっとシンプルにはパラレルワールドもの、だと思うのだが、Pessoaからは70以上のキャラクターが分裂しているので、やはりこれはマルチヴァース的ななにか、と見てもよいのかも。
ただ、ここのマルチヴァース or パラレルワールド設定がリアルワールドになんらかの影響とか混乱とか作用をもたらしたり及ぼしたりするのかというとまったくそんなことはなく - ひとつ前の映画にならっていうと”Nothing Nowhere over 8 month of time”だろうか - Pessoaの幽霊がこの状態で出てこれるのはあと8ヶ月くらいとか言っているので、消えたらそのまま世界も薄っすらと消えてしまうのではないかと思われる、いつもモノクロの雨がざあざあ降って暗くのしかかってくる夜のリスボンがアイリスイン-アウトで浮かんでくるばかり、それは誰もが思い浮かべるリスボンの陽光や赤茶の屋根たちとはぜんぜんちがう。
そういうまるでノワールみたいなノワールのリスボンの夜、ほぼ篭ってばかりのホテルやアパートの部屋やロビーで、ホテルの部屋のメイドとして現れたLídia (Catarina Wallenstein)となんとなくの関係を続けるようになり、やや離れたところで見かけたMarcenda (Victoria Guerra)とはファム・ファタールのような絆を感じて視界の中の彼女を追うようになり、その合間のあんたいったいなにしにリスボンに還ってきたの? っていう時に現れるFernando Pessoaと会話をしたりする。
1936年のヨーロッパは、ムッソリーニのファシズムにヒトラーのナチズムにスペインの内戦にポルトガルにもサラザールによる新国家が来ていて、ポルトガルが王政から共和制に移行した時に何かを予感してブラジルに渡ったRicardo Reisが戻ってくるとPessoaが死んでいた、のか、Pessoaが死んだのでここに戻ってきたのか。どちらにしても世界はどうしようもない闇に覆われようとしていて、マルチヴァースだって歯がたつものではなかった。
原作は『ここに海終わり、陸地が始まる』で始まって『ここに海終わり陸地が待つ』で終わる。
そしてPessoaの別キャラのÁlvaro de Camposにはこんな一節があり、
砂漠は偉大であり、すべてが砂漠である。
人生は素晴らしいが、人生に価値はない。
Ricardo Reisの詩にはこんな一節もあって;
偉大になるには、全体であること - “To be great, be whole”
そしてこれは偉大なる砂漠ではなくて海のお話が終わるところから始まり、海は終わってしまったので向こう岸に逃げることはできなくて、その海が終わったところではずっと雨が降っていて暗くて.. という冗談みたいにしみったれたトホホのお話で、でもPessoa的にはだいたいそんなもんなのかも、ってとてもしっくりくる - きた。 終わってから色が変わったりするし。
これまでPessoaの本はずっと枕元に置いていたのに、気がついたら積まれた山のどこかに消えてなくなっていて、いくつか確かめたかったフレーズがあったので2時間くらいかけて山を崩したり掘ったりしてみたけどどこにも見つからない。いまの山の状態はかつてない規模でやばくひどくなっていることを改めて思いしったのだが、Pessoaだったらなんもしなかっただろうなー、って思ったのでなーんもしないことにした。
Fernando Pessoaを主人公にしたマルチヴァースもの、誰か - José Luis Guerínあたり? - 作らないかしら。”The Hours” (2002)みたいになるの。
6.10.2022
[film] Everything Everywhere All at Once (2022)
6月7日、火曜日の昼、A24のScreening Roomでみました。視聴ウィンドウはこの日の午前10時からの4時間のみ。しょうがない(なにが?)ので自分のPCとヘッドセットもって静かに消えて都内某スタバに籠るしかない。劇場公開されたらまた見るだろうしな、くらい。
監督はDaniel KwanとDaniel Scheinert の”DANIELS”。プロデューサーにはRusso兄弟の名前がある。
ストーリーの設定や成り立ちを説明したらそれはそのままネタばれになってしまう気がするのでよろしゅう。
ポスターでも予告でもMichelle Yeoh曼荼羅が展開されていて、ベースの世界は”Doctor Strange in the Multiverse of Madness” (2022)とおなじ、あれはマルチヴァースを貫いて勃発するSFホラー仕立てだったが、こっちはB級ぜんぶ乗せどたばた活劇になっている。全部で3パートからできてて、Part 1: Everything、Part 2: Everywhere、Part 3: All at Once - の全139分。
Evelyn (Michelle Yeoh)は中国系移民で夫のWaymond (Ke Huy Quan)とコインランドリーを経営していて、彼からは離婚を切り出されていて、ひとり娘のJoy (Stephanie Hsu)は恋人のBeckyを受け容れてほしいのにEvelynが逃げようとするのでうまくいっていないし、中国からやってきた父Gong Gong (James Hong)は車椅子でぼけはじめているし、IRS(国税庁)の監査にあたって膨大な領収書を前に陰険な査察官Deirdre Beaubeirdra (Jamie Lee Curtis)にぐいぐい詰められてどうしよう、ってなっていると..
普段は朗らかでへなへなのWaymondがなにかに乗っ取られたように突然きりっとなって、Evelyn覚醒せよ、って起源のアルファ・ヴァースから始まったマルチヴァースとかヴァースジャンプのこととか説明して、この世界でのEvelynは生まれた時からずっとだめだめの最低だけど、アルファのEvelynはすごい最強のエースで、でも更にとんでもなかったのは彼女の娘のJobu Tupakiで、期待を込めて育てていったらある時点でブチ切れて制御が効かなくなってしまった彼女はものすご勢いで暴走して周辺のヴァースを食いつぶして全宇宙をベーグル化する"everything bagel" – ベーグル屋の名前みたい - 計画を進めようとしている。
いきなりそんなこと言われてもEvelynには何が何だかわからなくて、なにをどうしろって言うのよ、なのだが向こうから勝手に乗り移られたり止むに止まれず集中したりしているうちにヴァースジャンプの仕方とか別ヴァースに偏在している自分 - 映画スターだったり歌手だったり鉄板焼きシェフだったりカンフーマスターだったりピザ屋だったり指がソーセージになっていたり石ころだったりいろいろ - やWaymond - 同様にいろんな彼がいる - のこと、Jobu Tupakiになって狂暴化してしまったJoyとかを見て、自分の使命はなんなのか、ベーグルの円の方に行って円を閉じようとしている娘を引き留めないと - って覚醒していくの。
基本はクリーニング屋でぼろぼろだった主婦のMichelle Yeohが世界を、宇宙を – everything - を救う、その背景をマルチヴァースのどこにでも - everywhere - なんでもありにして、B級カンフー映画の小刻みなリズムとしなやかに小爆発を繰り返す身体の動きのなかに描きだして、そのめくるめく曼荼羅のぐじゃぐじゃにくらくらしながらよくこんなの作ったものだな、って思った。これって当初はJackie Chanを想定していたらしいが、なんといってもMichelle Yeohがすさまじくかっこよくて素敵。そこだけでもあと3回は見てもいい。
かっこいいだけじゃなくて、妻として母として娘として、あるべきところにぜんぶ持っていってしまう。彼女がそれをやれてしまうことにまったく異論はないけど、そんな彼女ひとりに世界を救わせてしまう世界って、とか少しだけ。
でも構成上はものすごく刻んだみじん切りが高速のAll at Onceでやってくるので、せわしないこと落ち着きないこと果てしなくてやや疲れるかも。モチーフはStanley KubrickだったりMichel Gondryだったり、映画好きには楽しめるのかもだけど。もっと見たい!そこで切って飛ばさないで、チャンネル変えないで、が多すぎる。ストーリーが必要、ストーリーを作らなければ、っていうのはわかるけど。“Ratatouille” (2007)のアライグマ実写版 - “Raccacoonie”なんてふつうに最初から見たいし。
あとは、MCUのDr. Strangeの時にも思ったけど、マルチヴァースのありようを壊して壊滅の危機をもたらそうとするのって、必ず移民(Wandaは難民)だったり女性だったり、なのよね。「あらゆる拒絶、あらゆる失望がこの状態をもたらした」って、マイノリティが揺さぶりをかける宇宙の均衡 - なにをそんなに恐れているのか、そんなに可視化されないと嫌なのか。”Be Kind”とか”You are not unlovable”とか、誰が誰に向かっていうべき言葉なのかー。 などなど。
あと、中国の思想とかエキゾチシズムに寄りすぎなんじゃないの、とか。寄せたいのはわかるけど。
コインランドリーのぐるぐる、毎年巡ってくるTax Returnの既視感、ベーグルの輪っか、すべては円環のなかにあるの。
音楽はSon Lux。Son Lux + Mitski + David Byrneによる”This Is A Life”が美しいったら。
こういうのって、世界のEverywhereでAll at Onceで公開されてほしいのに、なんでこの国だけ、いつもながら..
RIP Julee Cruise.. 彼女がいたときのThe B-52'sのライブは、ほんとにぶっとんでいてすごかったの。
ありがとうございました。
6.08.2022
[film] Dolgie provody (1971)
6月4日、土曜日の午後にシネマヴェーラのウクライナ特集で見た、ウクライナ出身のKira Muratova監督による2本。
彼女の監督作品は、英国にいたときに見た“The Asthenic Syndrome” (1989)がとにかくとんでもなくて、なので今回の特集でも必須だったの。ストーリーとか技術的にどうとか、そんなに考える必要ない(考えてもいいけど)。なんで木々の隙間にあんなものが映りこんでいるのか、これがこんなふうに見えている自分が立っているのはどこ… とかそんなのばかりが押し寄せてきて静かにパニックになるかんじ。
英語題は”The Long Farewell”、邦題は『長い見送り』。 これは英国で見たことあった。
モノクロで、英語翻訳の仕事をしている母 - Yevgenia (Zinaida Sharko)と16歳の息子のSasha (Oleg Vladimirsky)の互いにどこにも行けないデッドロック状態にはまってぐじゃぐじゃになった関係のありようを描きだす。
父は母と別れてとうに家を出ていて母は日々の仕事や社交場でのうっ憤をみっしりたんまり抱えつつ、Sashaのこれからが心配でたまらないのだが過干渉で嫌がられることはわかっているのになんかちょっかい出したいし出ていかれるのが怖くてたまらない、Sashaは母の干渉とか介入がうざくて、父のところに行きたいものの、それを実行した時に母がどうなるかが見えるので動けなくて(それはそれで面倒だしどうてもいいし)、それが彼の不満を雪だるまにする。コメディやcoming of age filmに転がる手前で、それをやっちゃったらどうなる? を寧ろホラーに近い肌触りとコマ送り - 父と再会して嬉しそうなSashaのスライドをひとりで繰り返し見る母とか - で互いの恐怖とスリルをあぶり出していって止まらない。Sashaがなでなでする女の子の髪、犬、その時に彼のなかで何が生起しているのか、の触感と異物感、他者を - 母親を見る(見ずにそらす)その目線。
そんななのに近くに寄ってじっと眺めていると彼らがぜんぜん変に見えなくなっていく不思議な遠近。
最後に職場の懇親会で取り乱してしまう母の様子をみたSashaは父のところにはいかないよ、離れない、と母に告げるのだがそれはたぶん嘘だ、ってみんな思う。 この後の幸せ、などについて考えるのは不要なあっさり感はなんなのだろう。
Sredi serykh kamney (1983)
前のに続けて見ました。 邦題は『灰色の石の中で』(1983)。 英語題は”Among Grey Stones”。
原作はロシアのウラジミール・コロレンコの小説『悪い仲間』(1885)。 1988年のカンヌのある視点部門に出品されている。撮影はあの”Orlando” (1992)を撮ることになるAleksey Rodionov。
『長い見送り』は母を捨てようとする子/子にしがみつく母の話だったが、これは子供を捨てる父/捨てられた子供たちのお話。どちらの糸も強くて脆くて、だれにもどうすることもできやしない。
こちらは緑が素敵なカラー。ハゲの判事(Stanislav Govorukhin)が長年連れ添った妻を失って頭を抱えて悲嘆にくれていて、屋敷はやけくその荒れ放題で、まだ6歳のVasya (Igor Sharapov)はそのまま放置された状態になって、街にでて打ち捨てられた礼拝堂に暮らす兄妹 - Valyok (Roman Levchenko)とMarusya (Oksana Shlapak) - と出会って、その礼拝堂には浮浪者とか近所の変なひとたちがゾンビのように集結していて、親のない子供たちの前ですべてがゆっくりと均衡を失って朽ちていく。
果物が木から落ちて腐るように、主を失った屋敷とか神を失った礼拝堂が廃墟になっていって、人々は廃人の途をたどる。そのわかりやすい、あたりまえの道行きを兄と妹のふたりの目 – だけとは言えない屋敷の灰色の石の目も含めて重ねていって、その時間感覚、彼らが宙を睨んだりぼーっとしたりするその姿が、そのまま石に固化していくような姿の怖さ。MarusyaはVasyaが家から持ってきた人形を抱えて、そのまま動かない人形になっていく。
だれにも止めることができないまま狂ってしまった、そうして朽ちて腐っていく世界をなぜ?どうして? の倫理的な問いのなかで詰めていくのではなく、そこに放り出された子供たちの目で静かに描きだす。こんな世界なのに、それでも生きなければならないのだとしたら、そこで生きるというのは例えばこんなふうな。それは社会の病理の告発なんかよりも数段鮮烈に、見せるものを見せて、そこで止まる。ソ連が上映禁止にしたわけがよくわかる。 天国も地獄もぜんぶおなじ床面に、灰色の石の上とか壁にぶちまけられている。
こういう映画って、とにかく見るしかない、そういう強さのー。
英国からの古本で、1987年にNYのSotheby’sで行われたDiana Vreelandのファッションジュエリーコレクションのオークションカタログが届いた。表紙はCecil Beatonが描いた彼女の肖像。当時の新聞の切り抜きとかいっぱい挟みこんである。いくらくらいで落札されたのかしらんけど、どれも3桁台なの。富豪だったらぜんぶ買ったな。
6.07.2022
[film] Sorok pervyy (1956)
6月4日、土曜日の昼、シネマヴェーラの特集『ウクライナの大地から』で見ました。
いまウクライナがこんなだから、というのはもちろんあるが、それだけでももちろんない。ロシアの映画だって見たいけど、それにしても戦争という名の人殺しはなくならないねえ。
邦題は『女狙撃兵マリュートカ』。英語題は原題をそのまま英語にした”The Forty-First”。監督はウクライナ生まれのGrigori Chukhrai、これが監督デビュー作で、原作はBoris Lavrenyovの同名小説、これを元にして1927年に作られた映画のリメイクでもある。
冒頭、青い海がうねっているところを上から。ここだけでご飯10杯、1時間はいける。
1919年のロシア内戦で、カラクム砂漠を敗走していく赤軍の小隊がいて、みんなへろへろになっているなか狙撃手のMaria - 'Maryutka‘-(Izolda Izvitskaya)は38人目 − 39人目 - とか撃って倒した敵の数をカウントしてて、ぼろぼろの状態だけどラクダを連れた白軍の小隊を襲って、41人目 – これが原題の由来 -を狙って撃ったらこれが失敗して、でも狙った中尉Govorukha-Otrok (Oleg Strizhenov)が機密情報(でも肝心なところは彼の頭のなか)を運んでいることがわかったので彼を一緒に捕虜として連れていくことにして、Maryutkaが彼と自分を紐でつないで監視して面倒を見ていくことになる。
砂漠を横断していくのは大変で、途中でラクダを盗まれてからは倒れてしまってそれきりの兵士も続出で、でもMaryutkaと中尉は互いに張り合うかのようにタフに睨みあってて、そうやってアラル海沿いの親切な原住民が暮らす村について一息つき、話をする余裕が出てくると、中尉は貴族の出で、Maryutkaは漁師の孤児で、でも彼女は革命に燃えて詩を書いてみようとがんばっていたり少し敵味方の関係が緩んでくる。
休んだ後に船で捕虜を運んでいこうとしたら途中で嵐に襲われてふたりを除く兵士たちは海のどこかに放り出されて消えちゃって、ふたりだけ孤島のようなところに打ち上げられて、小屋があったのでそこで一緒に暮らし始めて、彼は彼女をロビンソン・クルーソーにならって「フライデー」って呼んで、彼女が「フライデー」って何? と訊くので、ロビンソン・クルーソーを語って聞かせたりする(彼女はとっても喜ぶ)。
そんなふうに仲良くなっていったある日、沖合に船が見えて、彼が手を振って波打ち際を走りながら寄っていって、現れたのが白軍の船であることがわかると彼女は..
砂漠をえんえん渡っていく苦行のなか、敵も味方もどうでもよくなっていって、彼女は彼の青い瞳と貴族的な優しさに、彼は彼女の猛々しいけどどこか柔らかいかんじに惹かれて寝床を共にしてごろごろするところまでいった - ふたりが仲良くなっていくところはとても素敵に描かれている - のに、沖から第三者が現れてそこでお互いの赤と白が改めて浮かびあがると彼女は赤軍の兵士としての行動を取ってしまう。
ふたりの間に詩とかロビンソンクルーソーとかがあって、タバコやキスで互いを好きになっていたとしても、兵士として狙撃した敵兵の数を数えることで認められてのしあがってきた彼女は、その任務をオートマチックに全うしてしまうのだなあ - それが戦争というもの、なのかなあ、とか。 たぶん、中尉の方はそうなるとは思っていなくて、でも彼女をあの状況下ではっきりと「フライデー」にしてしまったのその無意識な貴族の、男性の目線(思いあがり)があの一撃をもたらしたのだ、ということを最期に思い知ったのではないだろうか。思い知ったときには遅かったけど。
これ、男女の役割とか出自が逆だったらどうなっていただろうか、とか。男子が孤児の叩き上げの狙撃手で、女子が貴族出で学もある捕虜だったとしたら.. 『流されて…』(1974)みたいにはならないかな。
冒頭の海の描写もだけど、砂漠と海の撮り方がその過酷さも含めて見事にとらえられていて見入ってしまうのだが、あんなところをえんえん彷徨いたくない、3時間で置き去りでさようなら(でいいや)になった。
6.06.2022
[film] Out of the Fog (1941)
6月1日の午後、Criterion ChannelのIda Lupino(役者)特集で見ました。
監督はAnatole Litvak。撮影はJames Wong Howe。原作はIrwin Shawの戯曲”Gentle People” (1939)で、お芝居はブロードウェイで結構当たったそう。脚色にはJerry WaldやRobert Rossenの名前がある。日本では公開されていない?
ブルックリンの波止場 - Sheepshead Bayの辺りだって - で、小舟に火を点けて燃やしたりしている見るからにやばそうなやくざ - Harold Goff (John Garfield)がいて、彼がそのままひとり波止場のバーに入っていって、ふんぞり返ってカモを探しはじめる。 そこからGoodwin (Thomas Mitchell)とOlaf (John Qualen)の地場の労働者ふたりがもっと年をとったら釣り舟でも買って毎日釣りをして楽しく暮らそうぜ、とか話しているとこにGoffが現れて、いまのボロ舟が火事にならないように見張ってやるから週に$5だせ – 出さないと知らんぞ火ぃつけるぞ - って脅してきて、気の弱いふたりは言われるままに払ってよくわからない紙にサインしてしまう(しちゃだめ)。
GoffはGoodwinの娘で電話交換手をしているStella (Ida Lupino)にも目をつけて、彼女にはまじめなよい彼のGeorge (Eddie Albert)がいるし、Goffがあまりに強引に迫ってくるので初めはなによあんた? なのだが、ふつうの暮らしとつまんない仕事にうんざりでこんな霧の町からとっとと出たくてたまんなくて、でも一緒にいられればそれで幸せそうな堅気のGeorgeに物足りなさを感じていた彼女はなめんなよの態度を崩さないまま絡みとられて近づいていくようになり、GoffがStellaに贈り物攻勢をするようになるとふたりで飲んでダンスして朝帰り、するようになっていく。
更にGoffは舟の件で勝手にローン組んでGoodwinたちに法外な金を要求するようになって、Stellaを人質のように使って脅したり、彼女をキューバに遊びに連れだそうとして更に金をせびったり、彼らへの暴力も酷くなってきたので警察を呼んで簡易裁判もしてもらうのだが、君たちこの書類にサインしちゃってるよね、であっさり負けてしまう。
ここまできたらもう我慢できないGoffを消すしかないな、ってGoodwinとOlafが計画をたててどっちがなにをどうする、をコイントスで決めて、おっかなびっくりなんとかGoffを舟に乗せて沖に漕ぎだして..
少しネタばれするとGoffを海に沈めることに成功するのだが、この後にまだひと悶着あってハラハラする。
めちゃくちゃ強気だし実際に強くて金のある奴が勝つのさ、のGoffにいいようにカモにされていくかわいそうなGoodwinとOlaf、Goffに迫られてあんたなんか冗談じゃないなめんな、って言いつつ別世界に惹かれていくStella、それぞれに暗くて明日のないかんじ - ドラマはほぼずっと夜の間に起こる - って、定番だと彼らを救ってくれるヒーローぽい人物が現れてもおかしくないのだが、そういう役柄のひとは最後まで現れない。暗い夜と霧の波止場で起こる生々しくてちょっとおかしくて、でも全体としてはノワールの湿気で覆われている。
時勢的にはGoffの挙動や考えは明らかにナチスのそれを想起させて、原作もその辺が強調されていたようだがHays Officeの検閲はその辺を許さなかったらしく、Goffは揉み合ったあとに偶然海に落ちて死んだ、ようになっている、って。確かに泳げないって言っていたけど、海に落ちたらそのままあっさり沈みすぎ。もしこれがヨーロッパで撮られたら、もっと救いようのないものになったのではないか。
あと、Goff役は最初Humphrey Bogartがキャスティングされていたけど、すでに”They Drive by Night” (1940)と”High Sierra” (1941)で共演していたIda Lupinoが彼とは嫌だってJohn Garfieldに変えちゃった、って。この頃はIda Lupinoの方が格上だったのね。 確かにぎんぎんのJohn Garfieldに嫌々絡みとられていくIda Lupinoの生々しい絵は怖くてすごいかも。
このIda Lupinoのシリーズ、見れるだけ見ていきたいのだが、どれ見てもすごいなー、しか出てこない。単純な悪い娘、傷を負った娘、なんてどこにも出てこない。いつもいろんな過去や背景や要素を背負ってぜんぶが入り混じって複雑で、だからあんなふうにもこんなふうにも動くし動けるし、最後まであがき続けて止まることがない。これが役を生きるということで、それってそのまま彼女が監督する映画の女性にも繋がるような。
梅雨が来てしまったので今年はもう終わりにして夏だけど冬眠したい。仕事いきたくない。
6.05.2022
[film] Tromperie (2021)
5月26日、木曜日の午後、MUBIで見ました。 英語題は”Deception”。
原作はPhilip Rothの”Deception” (1990) - 『いつわり』(未読)。この小説の主人公は”Philip Roth”という名のユダヤ系アメリカ人小説家なので、原作を読んでいないと - なのかもだが監督と共同脚本がArnaud Desplechin(脚本のもうひとりはJulie Peyr)なので見てみよう、と。 2021年のカンヌに出品されている。
タイトルバックにはやや古びた写真で左にNYのツインタワー、右にロンドンのタワーブリッジが並べられて”1987 London”、とでる。
それが真ん中から開いて広い楽屋のようなスペースに女性(Léa Seydoux)がひとり、カメラの方を向いてイギリス人、33歳、名前はいわない4歳の娘がいてPhilipには1.5年前にあった、とフランス語で自己紹介する。
続いて今度は舞台のようなところでPhilip Roth (Denis Podalydès)と女性がふたり向かいあって、女性が彼の仕事場のイメージ - カーテンのない窓、そこから見える庭の緑、机の上に散らばるメモや書類、タイプライター、本棚の本をナレーションで - ハイネ、アーレント『パーリアとしてのユダヤ人』(でも本棚に見えるのは『全体主義の起源』だよ)など、ユダヤ人によるユダヤ人の本ばかり、そこがふたりの逢瀬の場で、この物語の中心となる。
こういうメタフィクションを狙った(と思われる)室内劇のなかで、ふたりの関係以外にもアメリカにいて癌を治療中の友人 (Emmanuelle Devos)、若い頃の1968年のプラハの春で出会ったチェコの女性、そこの映画監督とのいざこざ、女性との関係を綴ったメモを妻に発見されてじたばた、などがランダムに置かれていって、最後はそれらを総括しているであろう”Deception”という本の出版イベントをするホテルのロビーで終わる。本当にあったことなのか創作なのか、どのエピソードもそんなのどうでもよい程度に無理のない生々しさで撮られている。
ユダヤ系移民としてのアイデンティティを背負って育ったアメリカ人がヨーロッパ - チェコから英国に渡り、反ユダヤの土壌(ヨーロッパ)で生まれ育った英国人の女性と関係を持ち、彼女とのピロートークや対話を通してこれまでの自分の経歴や過去の人間関係や著作を振り返って反省したり - あまりしてない - 正当化したり盛ったり、そういう身振りを通して自身の(アメリカ人としての?)ありようを総括する - そんでそこに”Deception”ていうでっかい貼り紙をしてみる。それが「いつわり」なのだとしたら誰にとっての? なんのための?
Philip Rothが”Philip Roth”を主人公とする小説でやろうとしたのはこういうこと - ”Deception”ラベルに対する真偽判定とか態度決定のような - で、それを通して主に男女関係の普遍性とか特異性とかのだんだら模様を晒してみることだったのかな、と思いつつ、これをこの映画にはめてみるとやっぱり相当無理がある気がして、とにかく真ん中に配されたふたりがずっとフランス語とそれをフェンシングの剣のように操るフランス人のやりとりのアクションで押していくところとか。もちろん、どんな芝居だってこのような別言語での表現はできるわけだが、この原作が描きだそうとした関係のありようとか主人公たちのアイデンティティにおいて、彼らがアメリカ人(or イギリス人)であることって結構重要な要素だと思うのだが、どうかしら?
少し譲って、例えば贖罪とか救済とか、これまでのArnaud Desplechinの作品が扱ってきたようなテーマに寄ったりフォーカスしたり、あるいはうんと譲って、”Comment je me suis disputé... (ma vie sexuelle)” (1996) - 『そして僕は恋をする』の前半部分 - Dedalusが亡くなるまでのところをやろうとしているのか、って見ようとしても、なんかやはり違う.. ずれている気がする。今作において最初からずうっと強気でべらべらまくしたてては女性と交わってばかりの”Philip Roth” = Denis Podalydèsの態度の強弱ってちっともそんな情とか思い入れを許すものにはなっていないような。
そう、ちっともここの”Philip Roth”にはちっとも思い入れすることができず、なんかうざいじじいだなあ、しか出てこなくて、それを寄せるのに例えば「アメリカ人」「ユダヤ人」のような人種を持ちだすのも違う気がして、けっか、ただただうざいだけになってしまっていて、それでその結果、まんなかのふたり - Denis Podalydès & Léa Seydoux - 既婚の彼と彼女が出会ってセックスをしていろんなことを語って - も、単にやりたくてやってるだけなんじゃないのか? - べつにそれでもいいんだけど、それだけではない何かを見せようとしてこの舞台は置かれたはずなのに、それが見えてこないもどかしさがー。
音楽ではひとつだけ、部屋にいるところでThe Railway Childrenの”Another Town” (1987)が聴こえてくるので、ううーってなって、彼の選曲かはわからないけど、こういうところが憎めないのよね。
わたしはあのおばあさんが好きなのでPlatinum Jubileeはお祝いしたくて、通販でビスケットとかTea Towelとか買ったり、週末はあたまの中でずっと旗をふったり架空のコーギーを撫でたりしていた。前回のJubileeの週末は出張でロンドンにいたんだよなー、10年かあー…
6.04.2022
[film] Les choses qu'on dit, les choses qu'on fait (2020)
5月28日、土曜日の夕方、国立映画アーカイブの「EUフィルムデーズ2022」で見ました。史上最低最悪だった - ほんとあそこまでひどいの見たことない恥を知れ - のチケッティング・システムがなくなったのはめでたい。あの手数料返してほしい。
邦題は『言葉と行動』 。英語題は”The Things We Say, the Things We Do”、米国でのタイトルは”Love Affair(s)”。 作&監督はEmmanuel Mouret。
これの前に - ロメールぽいっていうので - 渋谷でロメールの”Conte de printemps” (1990) - 『春のソナタ』を見てから行った。 このシリーズは何回みても、どこから見ても、よいの。 これを一緒に見て、こんなのどこがおもしろいの? っていう相手とは(ぜったいつまんなくなるから)付き合わないほうがよいし、めちゃくちゃおもしろいよ! ってはしゃぎまわる人も(ぜったいふりまわされるから)ちょっとやばいし、相手を知るためのデートムーヴィーとして最適だと思うの。
駅でDaphné (Camélia Jordana)が待ち合わせしていたMaxime (Niels Schneider)を見つけて山あいにあるカントリーハウスに連れていく。妊娠3ヶ月のDaphnéは夫のFrançois (Vincent Macaigne)とここで数日間過ごす予定で、そこにMaximeも呼ばれたのだが、Françoisは仕事で暫く帰れなくなってしまった、という。
そんなにすることもないし、お互いそんなに知っているわけでもないし、と作家志望のMaximeとDaphnéはふたりでそろぞれの過去の恋バナについておしゃべりしていく。
Maximeは既婚者のVictoire (Julia Piaton)となんとなく付き合っていて、でも彼女の妹のSandra (Jenna Thiam)と会ってからは彼女こそ自分の運命の人かも、って意識し始めるのだが彼女に会う時に親友のGaspard (Guillaume Gouix)を連れていったらSandraはGaspardに急接近してそのままするすると結婚してしまい、ふたりの新居 - 豪邸 - で一緒に暮らさないかって誘われたのでなんとなく暮らし始めたらふたりの仲が悪くなっていくのを目の当たりにして、その流れでSandraと寝てしまってどうしよう… って。
Daphnéは尊敬するドキュメンタリー映画監督のところで編集の仕事をしていたら彼に褒められてぼーっとして、そんな時に既婚者のFrançoisに声をかけられて、でも余り興味を持てないでいたら、好きだった映画監督からは彼女が紹介した女性と恋におちて結婚すると言われ、なんてこった、でもFrançoisには妻Louise (Émilie Dequenne)がいるし - だったのにLouiseから突然恋人ができたので別れたいと言われたというので - DaphnéはFrançoisと一緒になる。
互いにそんな身の上話をしながら山や谷を歩きまわっているうちにふたりは近づいていってなんとなく寝てしまうのだが、その翌朝、Françoisが予定より早く帰ってきて - のでベッドにいたふたりは大慌て - 彼が出先でLouiseの恋人だった男から驚くべき事実を知って…
結婚していようがいまいが、自分にとってこの人だ! っていうのが現れてつきあいたいと思ってあれこれ言ったり尽くしてみたりしても結果としてはこんなもん … になってよかったのか悪かったのか幸せっていったいどこに湧いてくるなんなのか、みたいな話は割とどこにでもありそうで、でもフランスだからか、そういうのが至るところで勃発していそうなのと、この話だとMaximeの方がどちらかといえば言い寄って空振りする方で、Daphnéの方がどちらかといえば言い寄られて空回りする方で、そんなふたりが一緒に寝ちゃってあらら.. と思っていると最後にもう一回転くらいあって、こんなふうに恋する人は死ぬまで転がり続けて止まらない、って。
話としておもしろくなくはないしわかんなくもないのだが、定番クラシック多めの音楽も含めてなんか抽象化をしすぎてそこらにありがちの寓話のようなところに落ち着いてしまいそうなとこがなんか。これが例えばロメールだったらもうちょっと「キャラクター」みたいのが頑としてあって - 恋愛なんてしらん、も、恋とセックスは別、も、恋はしたいけど結婚はまた別.. も、いろんな人たちが年齢とか職業とか階層とかでぐしゃぐしゃに散りばめられて入り乱れていて、その数光年の彼方で - 緑の光とか満月の夜とかに起こるものが起こったりするし、起こらないものはもちろん起こらない。あるいは、例えばリヴェットだったら「陰謀」とか「復讐」みたいなのが皮膚の裏に埋め込まれたチップみたいにしてあって、登場人物たちを操っていたりもする。
それぞれの語彙と責任範囲のなかでみんな勝手に恋をしたまえ、って大学の教科書のタイトルみたいな邦題は言っているようで、そういう教科書ってあんましおもしろくなかった、かなあ。
でも俳優さんはそれぞれにありそうでいそうなかんじがとってもよかったかも。相変わらずぐにゃぐにゃした熊みたいに伸縮するVincent Macaigneとか。
6.03.2022
[film] Laurel Canyon (2020)
アメリカ西海岸の60〜70年代の音楽をテーマとしたドキュメンタリーを何本か見たのでまとめて書いておく。
Laurel Canyon (2020)
5月21日、土曜日の夕方、ヒューマントラストシネマ渋谷で見ました。
元は”Laurel Canyon: A Place in Time”というタイトルで2回に分けて、2020年の2週間に渡って放映されたもの、なので1時間 x 2の120分の作品。
Laurel Canyonのミュージシャンたちの肖像を60年代から撮ってきたふたりの写真家 - 彼ら自身も同じタイミングでここに移ってきた - Henry DiltzとNurit Wilde、彼らのアーカイブを紐解くかたちで、1965年から1975年くらいまでで、このなだらかな山とくねった道にくくられた一帯でどんな音楽が創られていったのかを追う。
フッテージも含めて登場するのはCrosby, Stills, Nash & Young, Joni Mitchell, The Doors, The Byrds, Buffalo Springfield, The Mamas and the Papas, Love, The Eagles, Jackson Browne, Linda Ronstadt, Gram Parsons などなど。まだ生きている人たちはこの映画用のインタビューも。
初めはとにかく安い家賃で広めの家が借りられて、でっかい音を出してもだいじょうぶだったので貧乏ミュージシャンたちがやってきて、音を出しているとだれかが顔を出したり出されたり、酒やドラッグも入ってパーティになり、東海岸からやってくる、英国からもやってくる、そうやっていろんな人が出会って曲ができて、フォークはフォークロックになり、エレクトリックが入り、カントリーもブルースもまじってサイケデリックもできあがる。この新しいうねりにウッドストックがぶつかって音楽産業としても膨らんで、貧乏だったミュージシャンは成金になり、一帯は金を産む鉱山のようになって、でもそのうちCharles Mansonが現れて..
もちろんムーブメントなんて言ってもひとりひとりのすばらしいミュージシャンたちがいたから、というだけなのだが、今ふうにいうとオープンでコラボレーティブなスペースがダイバーシティ&インクルージョンな空気を呼びこみイノベーションをもたらした(けっ)、そんな時代への甘い憧れみたいのもあるのか。
でもなんかわかんないけど、白人ヘテロ中心のヒッピーのありようを無条件に肯定して歓迎して、そういうのがやがてCharles Mansonのカルトやオルタモントになだれこむ、というダークサイドは(あんま見たくないけど)もうちょっとフォーカスされてもよかったのでは。
CSN&Yが道のすれ違いのとこでなんとか結成されたこととか、The Mamas and the PapasがNYからここに移ってくるところとか、どこまでも孤高のJoni Mitchellとか、おもしろいエピソードはいろいろ。
Echo in the Canyon (2018)
6月1日、水曜日の夕方、ヒューマントラストシネマ渋谷で見ました。
これは↑の”Laurel Canyon”のフッテージとインタビューを中心とした包括的な回顧とはちょっと違って、監督のAndrew SlaterとJakob Dylanが中心にいて、Jakob Dylanがホストとなって2015年10月12日、LAのOrpheum Theatreで行われた同名のコンサート - 参加したのはBeck, Fiona Apple, Norah Jones, Cat Power, Regina Spektor, Jadeなど - でのライブ演奏とこの後にリリースされる同タイトルのレコードの録音風景が繋がったり、そこで取りあげられた楽曲の背景や魅力などについて、Jakobが当時の関係者やミュージシャンに話を聞いていったり。相手はTom Petty, Roger McGuinn, David Crosby, Stephen Stills, Lou Adler, Michelle Phillips, Brian Wilson, Ringo Starr, Eric Clapton, John Sebastian などなど。
元のコンサートのテーマがThe Byrdsのデビュー盤"Mr. Tambourine Man”のリリース50周年、というものだったので、フォークがロックになったところとか、そこにBritish Invasionがどう絡んできたのかとか、”Laurel Canyon”で語られたエピソードもいくつか、そこにはBeatlesもあったけど、Beach Boysもいたぞ - Brian Wilsonはバッハ並み、とか、結構視点があっち行ったりこっち来たり、今のミュージシャンから見た西海岸の話になっていて、だからこっちにはJoni MitchellもLoveもDoorsも出てこない。海の音楽のBeach Boysは山の谷間のLaurel Canyonにも””Echo”したのだろうか? とか。
監督のAndrew SlaterがCapitol Recordsの元CEOだった、というのもあるのかしらと思っていたら最後の方で、Jacques Demyの”Model Shop” (1969)を見たらすごくよくて、当時の音楽を探ってみたくなった、とかあっさり言ってて、それなら最初からそう言え..(最後の方はこの映画からの抜粋映像ばかりに)
でもJakob Dylanがピックアップした曲はどれも好きなのばかりで “Just Wasn't Made for These Times”とか、The Associationの”Never My Love"とか、“Monday, Monday”とか、”Expecting to Fly"とか - 最後にガラスの檻のなかでひとり狂ったようにギターをがぎがぎやっているNeil Youngさまがー。
そして映画はTom Pettyに捧げられている。当然かも。
Linda Ronstadt: The Sound of My Voice (2019)
5月4日の午前、シネマカリテで見ました。
タイトル通りLinda Ronstadtの評伝ドキュメンタリーで、監督は”The Times of Harvey Milk” (1984)を撮ったRob Epstein。映画としてはこれが一番しっかり作られていてグラミーの Best Music Filmを獲っている。
アリゾナのツーソンに生まれてメキシコの歌を歌って育って、60年代の終わりにLAに出てthe Stone Poneysを結成して、Troubadourで歌いながら、ここにGlenn FreyやDon Henleyが加わって、というあたりは”Laurel Canyon”で語られていたそれとは別の王道のウェストコーストの伝説のようなかんじで、でもとにかく彼女の歌声がなに聴いてもよいったらなくて。
そして後半のDolly PartonとEmmylou Harrisとのトリオ、その並びのとてつもないすごさ。ライブ見たかったなー。
もうライブで歌声は聴けないのかもしれないけど、彼女の歌声を聴いてみ、しかない。
どうでもいいけど自分がどうしようもなくだめなときって、だいたい頭の奥で“You're No Good”か”Loser”が流れている。流れない?
6.02.2022
[film] Made in Bangladesh (2019)
5月24日、火曜日の午後、岩波ホールで見ました。
岩波ホールでの最後から2番目の上映作品、最後のブルース・チャトウィンのは、英国で見ているのでこれがお別れの1本かも。アクセスもよくないし音もわるいし、商売として成り立たないのかもしれないが、岩波文庫がなくなるくらいよくないことのような気がする。
ベンガル語の原題は”Shimu” - 主人公の女性の名前、邦題は『メイド・イン・バングラデシュ』。
監督はこれが3作目となるRubaiyat Hossain、すばらしいカメラはManoel de Oliveiraの『ブロンド少女は過激に美しく』(2009)とか『アンジェリカの微笑み』(2010) - どちらも大好き - を撮ってきたSabine Lancelin。
冒頭、いろんな布があふれてミシンががたがた動いている衣料品工場で火事が出て、みんなで避難するのだが同僚が亡くなって、それでもそういうことが起きた職場環境が改善される様子はなく、工場の幹部らしい男たちはお悔やみのひとつもなく変わらず横柄なので、働いている23歳のShimu (Rikita Nandini Shimu)はこれはおかしいだろ、ってなる。
こんなふうに工場の環境は酷いし、火事で工場が稼働していなかった時の給料も未払いのままだったり、文句を言っても聞いて貰えるどころかクビにされたり上の男たちがやりたい放題で女性はずっと奴隷状態なので、ざけんな、ってなっているとNasima (Shahana Goswami)という女性が声をかけてきて、彼女のオフィスに行ってみると話を聞いてくれて、この場合は組合を作るべきだ、と言われる。当然の権利だ、職場で署名を集めて役所に提出すればいいから、って。
Nasimaとの会話で、Shimuは13くらいの時に親が勝手に決めた40過ぎの男と結婚させられそうになったので家出して町に出てきたことがわかり、でも今結婚しているShimuの旦那は無職のまま家でごろごろしていたりする。
こうして国の労働法を勉強したりしながら仲間に呼びかけて署名を集めていくと当然妨害が入って、それは職場の幹部たちばかりではなくて、同僚の女性たちからも、夫からも - 自分が働きに出るからそんなことやめろ - とか言われ続ける。同僚は休日は休みたいし運動みたいのに関わると家族も嫌がるし結婚も転職もできなくなる(と脅される)し、とか、夫は他の男から甲斐性なしって言われるのを恐れているらしい – これこそが構造的なんとか、っていうやつだわ、格差も昔からの偏見も差別も蔑視も、ぜんぶのレイヤーで四方八方からがんじがらめに縛りにきて抜けなくなる - じっとしてるに尽きるとかいうやつ。さらに国策とか宗教とか歴史までが乗っかってくる。
最後、署名を出しても最後の手続きに許可がおりない役所に向かおうとするShimuに夫は外から鍵をかけて、それを突破して仲間たちと役所に向かい、団交はだめというのでひとりで偉い人の部屋に乗りこんで立ち向かう、それでもその役人は首を縦には振らなくて.. (なんでや?)
この話は10代からバングラデシュの労働闘争に関わってきたDaliya Akter Doliさん -大阪の映画祭に来てトークしたりしていたのね - の実話をもとにしていて、ShimuがNasimaに話す身の上話はほぼ彼女のものでもあるって。
みんながありがたいって手に取るファストファッションの裏事情なんて、だいたいこんなものなんだろうな、ってみんなが納得するし、薄々わかっていたし、でもどうしようもなくやめられなくて、ようやくビジネスと人権とかサプライチェーンマネジメントとかサステナビリティとか言われだしてきたけど、これにしたってみんながそうするし、そうしないと今後の(人権じゃなく、まず)ビジネスが.. ってそういう話でしかない。そしてこれはバングラデシュだけの話ではなくて、労働環境と貧困、というところで自分たちの身の回りで生々しく出てきている気がするし。
これってSDGsをみごとに都合よく曲解している”Made in Japan”においても全く同様で、50年前の製品とサービスのクオリティ神話にとらわれたまま & お金払ってんだ奉仕しろや、の薄汚れた老人たちが、自分達の見栄やムラでの地位を満足させるために社会的弱者を寄ってたかって虐待して搾取する - 根は違うけど構造はまったくおなじ。日本のが衰退に向かっている自覚がない分、やばいと思う。
クローズアップでShimuの表情や怒りを捕えるシーンはそんなになくて、常に彼女がいる部屋とか路上、誰かといる光景のなかのやりとりとして示される。路上をうろつく野良犬とか野良鶏、役人の雑然とした部屋に射しこむ光、そこに交わってくる商品たちのカラフルな色、などと一緒に。ここからやるんだ、って。
こうして最初はヒジャブを被っている彼女の髪はだんだんほぐれていって、夫との喧嘩でそれを脱ぎ捨てていくところもよくて、それで最後の、ほんの数ミリの微かなにんまり、に、我々もにんまりする。これからだよ、って。
6.01.2022
[film] Top Gun: Maverick (2022)
5月27日、金曜日の晩、二子玉川の109シネマズのIMAXで見ました。
第一作の”Top Gun” (1986)は見ていない。まわりはみんな見ていたけど誰があんなの見るか、という季節だった。これと、あとは”Rambo” (1982)なんかも、レーガンの時代のアメリカのプロパガンダ映画、という位置づけで、あんなの見るお金があるなら本とかレコード買うし、他に見るべき映画だっていっぱいあったし.. だった。今度のだって製作が始まったのはトランプ政権下 - 企画は2010年で、Tony Scottの死で止まっていた - だし、公開直前にウクライナ侵攻が始まっているし、この情勢でふつうに公開するのか? って思ったらびっくりするくらい普通にプレミアしてお祭りしているので驚いた。そうか内容が結構ちがっているのか、と思ったら割とどまんなかでアメリカ万歳なのだった。 ならずもの国家の不審な動きには毅然として対応する – いきなり空爆どーん、って。でもみんな喜んで賞賛しているので、いいのかな、こわいなー、って思いつつ。 以下、ふつうにネタバレする。
冒頭、いきなり”Danger Zone”とか鳴り出すので萎える。この曲しぬほど嫌いだったし。最初は明らかに前作から老いて、昇進も引退も拒んでいるというPete "Maverick" Mitchell (Tom Cruise) - 誰もが”Pete”じゃなくて”Tom”って見る - がバイクを飛ばして空軍基地に行って、飛行機でマッハ10に挑戦する話で、直前にEd Harrisの鬼軍曹が現れて、なんでそんなことやっているんだ? 中止しろ、っていうのだが、強行してマッハ10まで行ったところで機は飛び散っちゃって - 飛び散るイメージきれい - でもTomは死なないのですごい。あの爆風を受けて吹き飛ばないEd Harrisもすごいが。
こんなのふつうであれば首になるところを偉くなっていたIceman (Val Kilmer)が拾ってくれて、エリートパイロット養成所Top Gunの教官に任命されて、その立場にあったCyclone (Jon Hamm)とかに嫌味を言われたり衝突したりしつつ、生意気な若者たちを鍛えあげていく - というより最初から誰もTomには勝てなくて、バツの腕立て伏せばかりさせられる若者たち。
任務は明確にあって、数週間後、ならずもの国家が建設中のプラントにウランが運びこまれる前にそこを壊滅させて悪いのを阻止すること。向こうは第五世代の戦闘機とかミサイルとか山奥の要塞にいっぱい備えて待ち構えているので、奇襲して奇跡を2回起こして9以上のGに耐えて大急ぎで戻ってくること。Cycloneはこれだけの任務と超難の敵地突破なので多少の犠牲はやむなし、と思っているがTomは全員生還させるから、って、特訓を施すのだが若者たちにはきつくて、更に突然運びこむ予定が早まったので襲撃も早まるとか言ってきて。
あとは若者たちとの対立 - 前作で亡くなった”Goose”の息子の"Rooster" (Miles Teller) - 鵞鳥の子は雄鶏 - に恨まれているとか、威勢よくて自信たっぷりのHangman (Glen Powell)とか、バーのカウンターに立っているにしてはお金持ちできらきらしすぎのPenny (Jennifer Connelly)との間で燃えあがる恋とか。教官としての資質に悩んだりしても、結局自分で飛んじゃうんだから世話ないし、どうせそのうち無人で飛ぶようになるのなら好きにやるし。
敵陣に入って爆弾を落とすネタというか仕掛けは、”Star Wars”のEP4でルークがデス・スターのケツの穴を攻めるところと同じようなあれで、敵陣に落っこちてそこから抜けだすところは”Mission Impossible”としか言いようがなくて、最後にもういっかいEP4のあれみたいなのがくる(簡単に予測できて、ここはまさかやんないよね、と思っていたらやった.. )。銀河系の遥か彼方のお話しだと思っておけばよいのか… (よいの?)
これは主にTomと戦闘機の大活躍を見せるファンタジーなので、軍の施設で働く人たちとか敵側がどんなならずものなのかとか、隊員の家族の心配とか、余計なものは一切見せない。ビーチで遊んでチームビルディングをして特訓も笑顔で汗かいてがんばって、最後に歯をくいしばって突撃して勝利して笑って仲直りする、そういう肉体から何からぴかぴかでパーフェクトな世界がどこかにあって、それらによって爆撃されてしまう世界もある、でよいのだ、たぶん。
同じJoseph Kosinski監督による”Oblivion” (2013)を思い出して、あそこでのTomも地球を防衛していたけど、記憶をコントロールされていくらでもリプレースがきくクローンとしてどこかから統制管理されていた。今回のもそれに近い、と思えばわかんなくもない。あまりに死ななさすぎる。次の”Top Gun: Oblivion”では、”Top Gun: 10”の撮影に入ったTomがおかしなところに気付くところから始まるはず..
そんなTomですらチャーミングに見せてしまう、というか、そんなの関係ないかのような輝きを見せてしまうTomがとんでもないというか、そんなスターの映画、ということなのだろう。みんな褒めてるし。
流れてくる音楽のどこかの時点で化石になってしまったかのような、モダンの欠片もないような頑固さも狙ったんだろうなー。
オリンピックの時のブルーインパルスとかも、けっ、とか思っていたので、ここにはずっと馴染めないな、って。