3月15日、火曜日の晩、日比谷シャンテで見ました。邦題は『アンネ・フランクと旅する日記』。
「アンネ・フランク基金」が『アンネの日記』出版75周年を記念して企画した作品で、監督は“Waltz with Bashir” (2008) 『戦場でワルツを』や”The Congress” (2013) - 『コングレス未来学会議』のAri Folman。
屋根裏に閉じ込められ、やがて収容所のガス室に送られる - 日記の世界で夢や希望を紡いでいくしかなかったかわいそうなアンネの悲劇を思い起こして涙することは簡単で、実際にそうして75年間、この本はクラシックとして世界中で読まれてきた。けど、なのに、いまがこんなふうなのはどういうことなのか? なんでまだ戦争とか紛争とかずっと続いているままなの? ってアンネなら文句を言いそうなところにまで踏み込んでいる。
現代のアムステルダム、アンネ・フランクが捕まるまで潜んで暮らしていたアパート/記念館 -Anne Frank Huis で嵐の晩に、そこに陳列保管されているアンネの日記の原本に書き込まれた文字たちが踊りだして、その渦から赤毛のKitty (Ruby Stokes)が出てくる。彼女はしばらく本が置いてある部屋にいるのだが、そこを訪れる人たちにKittyの姿は見えないらしい - ずっと本のなかにいる/いたのに。
思い切って記念館の外に出てみると彼女の姿はそこにいる人たちに見えるようになるのだが、今度は日記の原本が傍にないとパワーを失って消えてしまうことがわかる。 そこで考えた彼女は、出会った難民のスリの少年に原本を盗んでもらって、それをリュックに背負って街に出ていくことにする。
こうして今がどういう時代なのか、自分が(すらも)よくわかっていないKitty - アンネが日記を書く際に”Dear Kitty,”って呼びかけたイマジナリーフレンド- が自分の存在の鍵を握っているはずのアンネの姿を探して - 本はあるけどアンネは今どこに?- アムステルダムの街中を彷徨うのだが、アンネ・フランクの「名前」は学校とか病院とか劇場とか至るところにでっかくあるのに、Kittyの知っている彼女はどこにもいない。 そして日記の原本がなくなってしまったので街は大騒ぎになってしまう。
これと並行して作者であるアンネ自身も登場して、狭い部屋 - クラーク・ゲーブルやエリザベス女王(若い頃)の写真が貼ってある - のなか & 想像の世界で彼女が繰り広げた冒険も描かれる。ただこちらのエンディングは、誰もが知る通り苦くて辛い。(アンネはあの日記を出版を前提として書いたわけではない、という点も含めて)
Kittyが現代の方で繰り広げる冒険は、アムステルダムで(Kittyの姿と同様に)とるに足らない見えないことにされていて、そこから知り合った友達 = 母国への強制送還に直面する難民(含.スリの子を含む子供たち)をなんとかしなきゃ、って”I AM HERE”とボディに大書きされた赤い飛行船を浮かべて、原本現物と引き換えに彼らの滞在許可を求める大ばくちに出ていく。
当時アンネの置かれた状況と現代の難民のありよう - 収容所に連れていかれるアンネと母国に強制送還される難民 - を同じような目線、繋がりのあることのように単純化してしまうことには注意が必要だろうが、でもだからと言ってすぐそこにある彼らの苦難を見捨ててよいわけがあるだろうか。そんな線をひく/そんな線に気づくためにKittyは現代に現れたのではないか。
咀嚼しやすいお涙頂戴のところだけ拾ってしまえば、それこそ特攻隊の家族への手紙だろうがなんだろうがなんでもありになって、「それぞれの正義」だの幼稚なコメントを垂れ流すことになる。アンネをあんなふうにしたのも難民をあんなふうにしたのもウクライナがあんなことになっているのも、ぜんぶ今を生きる自分たちの世界との関わりのなかで起こったこと - 我々ひとりひとりのせいなんだ、ってば。いいかげんに目覚めて。学んで、と。
もうひとつ、Kittyはアンネが書いて、「アンネの日記」が読まれたことで初めて我々の前に現れたのだ、ということ。だから、ひとりひとりのKittyを呼び覚ますためにも、本をガラスケースの奥から解き放って。本は積まれて読まれてなんぼで、本を子供たちの手の届かないところに置いて偉そうにふんぞりかえる建築家なんてさいてーのくそくらえだわ。
Ari Folmanの映画で音楽は重要な役割を担ってきたが、今度のはMGMTのBen GoldwasserとKaren O。
最後にKaren Oの声が被ってくるところはわああー、ってなった。
25日、金曜日の夕方、国立映画アーカイブでアリス・ギイを見ようとした手前で青山真治さんの訃報を知った。
映画創成期の映像あれこれを見ながら、もう彼の新作を見ることはできないのかー、と思うと悲しくて絶望的になってアリス・ギイが(半分くらい見たことあるやつだったのでまだ)。
わたしにとって彼はルースターズと『カオスの緑』のChris Cutlerのひとだった(他にも沢山。でもまず音楽)。なにを見ても読んでも全てがものすごくすんなり入ってくるので時間をかけてゆっくり見ていこう、って。だから最新作もまだ見ていない。
最初に姿をみたのはNYのJapan Societyでの”WiLd LIFe” (1997)の上映の時のトークで、最後は『はるねこ』(2016)の上映後のライブだったかも。こんなふうに世界のどこでも風のように現れる人、見せて読ませてくれる人、だと思っていた。そしていつも「生きること」について「生きろ」って、ダイレクトに語る人だった。(なんか、どんとみたいに突然消えてしまったかんじ)
ご冥福をお祈りします。ありがとうございました。
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