3.28.2022

[film] Ballad of a White Cow (2020)

3月18日、金曜日の午後、MUBIで見ました。邦題は『白い牛のバラッド』。
まだ日比谷シャンテで見ることもできたのだが、下の『アンネ・フランク』も同様、こういう真面目な映画を見る時はなおのこと、TohoシネマズのあまりにばかばかしいCMが嫌で嫌で耐えられなくなっているので、こっちの方にした。

イラン映画で、監督はこれがドラマ2作目となるBehtash Sanaeehaと本作の主演女優でもあるMaryam Moqadamの共同。本国イランでは上映禁止となったそう。

冒頭、四方を壁と人に囲まれた広場(刑場?)に白い牛が横を向いて一匹立っている。その姿がMina (Maryam Moqadam)の脳裏に浮かぶ。この白い牛はコーランの古い寓話に基づくもので、死を宣告された無実の人のメタファーである、と。そしてこの牛はこの後も何度か彼女のなかに登場する。

Minaが刑務所に収監されている夫のBabakに面会に行って、対応時間外だけど、と追い返されそうになるのだが、夫はもうじき死刑になってしまうのです、と訴えると許されて、一瞬開いた扉からふたりが抱擁して泣き嘆くところが見える。

牛乳工場に勤めるMinaは耳の聞こえない幼い娘のBita (Avin Poor Raoufi)を養いながら母娘だけで暮らしていて、家賃は滞納しているし裁判で仕事にも十分行けなかったので収入も不安定で先は暗くて、それを見越した夫の弟(Pourya Rahimisam)や義父は娘をだしにいろいろ言ってくる。

刑の執行から1年して、夫の死刑執行が誤った情報に基づいたものだったかも、とお役所が言ってきてどうしてくれるんだ、になるのがどれだけ泣いてもどうしようもなくて、そんなある日、少し暗い目をした中年のReza (Alireza Sanifar)が声を掛けてきて、丁度借り家を追い出されて新居探しで困っていた(男親がいないと制約が多い)Minaに家を世話してくれたり、車で送り迎えしてくれたりBitaとも手話を学んで仲良くなろうとしてくれたり。

実は(そうだろうな、とすぐわかるのだが)RezaがMinaの夫の裁判を担当して、彼に死刑を宣告した裁判官で、それが冤罪であったことがわかった後に彼なりに苦しんでMinaの世話をするようになったのだが、Minaはもちろんそんなことは知らないまま、彼に好意を抱いていく。

やがて父親のいないBitaの親権をめぐって亡夫の親族が裁判を起こしてきて、そんなバカなことあるか、って退けるのだが、その結果に苛立った義弟がMinaにRezaってどういう奴だか知っているのか? って告げると…

カメラはあまり動かずにほとんど固定で、生活を追い詰められて親族からも孤立していくMinaの姿と、それを後ろから見つめるRezaの姿、ふたりが近寄れば近寄るほどあってはならなかった、誰も望んでいなかった真実が露わになる、その緊張を静かに - 音楽はほとんど流れない - サスペンスのように描いていて、その結末はまったく容赦ない。あんなふうに壁際に囲い込まれていったMinaに、他に取りうる道があったのか? - ない。くらいの強さで迫ってくる。

罪を負うべきひとは誰も、どこにも、はじめからいなかった。なのに白い牛が現れる。どこにでも現れる可能性はある。Minaの無表情な横顔に牛の横顔がそのまま被さる。

目には目を歯には歯を、力には力を、が認められている社会であるが故に死刑のような極刑も許されていて、でもどんな司法であろうとどこかに冤罪を引き起こす可能性はあるので、ここに描かれたような取り返しのつかない悲劇も起こりうる。だから死刑はいけないの(とまでは映画では言わないけど)。これは敵討ち文化 - 暴力の連鎖 - が大っぴらに認められて未だに死刑大賛成のど野蛮なこの国でもまったく同じこと、なので余計に笑えない。野蛮ていうのは他者の生死を他者である権力がコントロールすることを許されている状態のこと。

もうひとつはこの悲劇が障害をもった娘を抱え、夫を失ったひとりの女性 - 社会のなかでいちばん弱い立場になりうる彼女のところに起こってしまった、ということ。彼女のようなひとが見えて、手を差し伸べて救えるような場所のない社会って、どんなに経済が潤っていようと、しみじみ、ぜんぶだめよね。

 

0 件のコメント:

コメントを投稿

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。