3.03.2022

[film] もう頬づえはつかない (1979)

2月23日の休日、神保町シアターの特集『小悪魔的女優論―可愛いだけじゃダメかしら』から2本みました。可愛いだけでいいんだよ、って言いそうなおやじ共(偏見です)がハエのように集っている..

女体 (1969)

監督は増村保造。「じょたい」って読む。英語題は”Vixen”。

茶髪で豹みたいな浜ミチ(浅丘ルリ子)が大学に乗りこんできて、理事長のドラ息子にレイプされたどうしてくれる? と。理事長秘書で娘婿の信之(岡田英二)が応対して、学生運動でどつかれている学校側に更に泥が塗られたら困るので言われるがままに賠償金を払ってやると、ミチは信之にくっついてきて彼の妻の昌江(岸田今日子)を払い落とすと、信之はミチの方に黙って寄ってきて彼女が付き合っていたちんぴら画家の五郎(川津祐介)と手を切らせようとしたら誤って五郎を殺しちゃったので服役して、出所後にふたりで場末のバーを始めるのだが、ミチはすぐに満足できなくなって、今度は信之の妹の雪子(梓英子)の婚約者一郎(伊藤孝雄)になびいて、彼じゃなきゃいや、になる。親代わりに育ててきた妹を悲しませることだけは許せない信之はもう嫌になって離れて、ミチは一郎と無理心中しようと車で..  

ところどころロボットのように見える岡田英二がー、っていうのは割とどうでもよいかんじで、「体当たり」で「大胆」な演技を見せる浅丘ルリ子の後ろで男が死んだり血まみれになっていったり、でもそれによってかえって際立つのが「余生としての戦後」を体現しているらしい岡田の硬さ強さだったり。こうして結局生き延びたのが岡田みたいな空っぽのエロおやじばっかりだったのか、とか。

一郎の血を舐めたりするところでもっと彼女の猟奇性にフォーカスしてLars von Trierみたいにやっちゃえばまだわかりやすくなったのに。 ミチのセリフまわしとオーバーアクトなところがややしんどかったかも。ぜんぶ意図されたつくりものであることはわかるのだが。


もう頬づえはつかない (1979)

原作は見延典子の卒論の同名小説(1978)。東陽一が監督してATGが製作・配給した。
英語題は”No More Easy Life”.. 主題歌は作詞:寺山修司、作曲:田中未知、編曲:J. A.シーザーの天井桟敷組。
シアターの宣伝文にあるように「70年代の“シラケ世代”の若者たちを描いた青春群像」で、80年代のシラケ世代としては当時しらーっとこんなの見るもんかー、だったので今回初めて見る。原作も未読。

早大生のまり子(桃井かおり)はバイト先で知り合った橋本(奥田瑛二)と彼女のアパートでずるずる同棲を始めて、でもその前は売れないルポライターの恒雄(森本レオ)と付き合っていて彼の方にもまだ未練があって.. というどんより頬づえついた日々を描く。 恒雄とのことで親から仕送りを止められてアパートの大家(伊丹十三)の妻(加茂さくら)がやっている美容院でバイトをしたり、そのうち田舎に帰るので一緒に、という小真面目そうな橋本とそのうちにでっかい仕事をやるからと吹いてばかりの恒雄のちっともさっぱりしない二匹の小競り合いとか、でもなんとなく妊娠してしまったりとか、などを経てどうでもよいのを捨てて頬づえつかなくなっていくまり子なのだった。 おもしろかったのは伊丹十三がハサミで刺されるとこだったかも。

全体に白っぽい画面 - ATGっぽい闇やどろどろはそんなにないかんじで、でも確かに当時あんな人たちはいっぱいいた - と言うほど世の中に染まっていなかったのでわかんないけど、もうどーでもいいやあんなの、になって吹っ切って断捨離してしまう瞬間の殺意にも似た挙動、みたいのは桃井かおりが見事に映しだしていると思った。彼女がいまもあんなふうなのってすごいな、とか。

当時、ポストパンクの音たちがくだんねー、って葬り去ろうとしていたのが一通り揃っているかんじ、もある。

ここで描かれたような一緒に暮らしていくふたり - 花束みたいななんとかみたいなの - って、ミニシアターでいっぱいかかっている邦画の予告を見ているとほんとにどれも刹那に真剣に一生懸命、添いとげようとしているみたいで体が痒くなるのだが、ほんとにいまのみんなってあんなふうなのかしら? えらいー。(誉めて.. る)
 

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