10.25.2021

[film] The Last Duel (2021)

10月17日、日曜日の午後、神保町から移動してTohoシネマズの日比谷で見ました。

邦題は『最後の決闘裁判』。確かに裁判のシーンは重要ではあるが、法廷ドラマではないし、思い知ってほしいのはバカな男2名(+女1名)の命をかけた決闘なので、原題通りの『最後の決闘』でよいのではないか。

監督はRidley Scott、脚本は3名の共同で、Chapter OneをMatt Damonが、Chapter TwoをBen Affleckが、Chapter ThreeをNicole Holofcenerが書いているのでは、と思ったのだが、実際にはMatt & Benで書いていたものに女性視点を入れる必要がある、ということでBenがNicole Holofcenerさんを招いた、ということらしい(彼女が入る前の初稿がどんなだったか、見てみたい)。

Nicole Holofcenerさんは監督としてすばらしいアンサンブルドラマ - “Friends with Money” (2006)とか素敵なrom-con -”Enough Said” (2013)とか、TVだと最初の頃(98年~00年頃)のおもしろかった”Sex And The City”とか”Six Feet Under”とか。最近のだと共同脚本の“Can You Ever Forgive Me?” (2018)とか。

史実ベースのお話だが原作は2004年のEric Jagerによる同名本(未読)で、この本は当時の裁判資料を相当読み込んで派生している諸説 - 真犯人は誰だったのか? や犯行当時の状況等についても検証しているようなので、単に安易に#MeTooに乗っかったものではない、らしい。 Webをざーっと見た範囲だけど。

1936年のフランス、冒頭は、観客に王様も見ている闘技場で、馬に乗ったJean de Carrouges (Matt Damon)とJacques Le Gris (Adam Driver)の決闘が始まろうとしているところで、両者が激突してがしっ、ってなった瞬間に三者の視点による三章の方に移る。

Jean de Carrouges視点の第一章では、戦闘では一生懸命がんばって功もあげているのに領主のCount Pierre d'Alençon (Ben Affleck)が評価しているのはLe Grisの方で、Marguerite (Jodie Comer)と出会って結婚しても彼女の家のことで更に土地を取りあげられたり報われない悶々とした日々が続いて、それが自分の留守中にレイプされたという妻の告白を受けて爆発して裁判~決闘になだれこむ。

Jacques Le Gris視点の第二章では、自分がいかに巧くd'Alençonに取り入って気に入られてのし上がっていったのか、そんなスマートな自分が宴の場でMargueriteと出会い、彼女と本の話をしたりすると彼女は目を輝かせたりしたので、彼女はあんな夫と一緒にいても不幸になるだけではないか、と思うようになって、彼女がひとりの時に屋敷に押し入ってやってしまった。でも悪気があったわけではなく好意によるものだから許せ …

Marguerite視点の第三章では、de Carrougesと結婚したのはよいが彼は自分のことばっかり嘆いたり愚痴ったり正しいと思いこんでいて、夜も動物みたいにやってひとり満足して寝ちゃうし、パーティの衣装で冒険してみたくらいで怒るし、舅は冷たいしあーあ、の日々に屋敷にひとりで残されて(舅が女中を連れて出ちゃって)、そしたらLe Grisが強引に入ってきて抵抗したのに…

見えなかった事実に光をあてたり隠されていた謎を暴く、そのために三つの視点を並べる、というよりは、Margueriteがレイプされた、という事実は明白な事実としてあり、それが裁判による裁きやその先の決闘を必要とするほどのものだったのか、ということを説明するために各章は用いられている。だからと言ってそのためにレイプの場面を映像として2回(Chapter 2と3で)見せる必要はあったのか、とか、実際の裁判の場でこの映像を見せて示すことができたわけではないよね(現代の裁判でも同様)とか、Web上で議論があることはわかる。それはこれに続く裁判のシーンでMargueriteに対して為される屈辱的な審問の数々 – これも現代に続くそれと同じ - にも繋がっていて、要は被害を受けた女性が自分の言葉で罪や人を告発することがどれだけ困難と苦痛を伴うことだったのか。ここで、昔はねえ.. になるのか、現代でもそうだよ! になるのか。(昔はねえ.. の人はそこでさよなら地獄におちろ)

なので、14世紀に#MeTooなんかあるかよ、の件も、ここに来るまでに約650年かかっているなんて、(男共の男社会は)どれだけバカで鈍くてしょうもなかったことか、そういう話として深刻に受け止めるべき。

こうして、最後の決闘のシーンは、どっちかがんばれ、というよりもどっちも死んじまえ、という目線で見るのであんなもんかも。ぐさぐさどろどろの迫力じゅうぶんで端折ったりしないでよかったけど、こんなのに巻きこまれたお馬さんはほんとうにかわいそうだわ、って思った。

当初のキャスティングでは決闘するのはMatt DamonとBen Affleckだった(Adam Driverは後から入った)そうで、彼らふたりのああいう死闘を見たいというのはあったかも。DVDのおまけでやってくれないかしら。

Jodie Comerさんがすばらしい、ことは確かなのだが、そういう言い方をしてしまってよいものかどうか。彼女の迫真の演技、真剣さ、かわいそうさ、(あるいは、男達がたまたま愚鈍で隙だらけだったから)故に彼女の訴えは通じたのだ、に落着させてはだめで、どんな事情であれ暴力もレイプもNOだし、それを力で隠蔽したりなかったことにしようとするのは許されないのだ、ということは何千回でも強調してよいと思った。歴史劇の学び(のひとつ)って、そういうものではないか。 いや映画ではそこまで… なんていうのはおかしくて、このテーマをいま取り上げる以上は、避けて通れないことなのだと思う。



23日の土曜日、東京国際映画祭のチケット発売日だったのでがんばってみた。
取りたかったのは日本映画クラシックスの田中絹代作品とガラの『メモリア』だけだったのだが、田中絹代は上映時間帯が平日の昼間ばかりなので1本だけ、平日午後だけど会社休み覚悟で突撃した『メモリア』は10分後にようやく繋がった時点で満席であった。この映画祭は5年ぶりくらいで毎年チケッティングのしょうもなさが指摘されてきたように思うが、今回も変わらず、スポンサーや関係者に事前にどれだけ配っているのか知らんけど、上映される機会はたったの1回だけ(ふつう数回はある)、当日は映画と関係のない見たくもないスポンサーのCMがじゃんじゃか流れ、今回はフェスティバルソングとかわけわかんない奴まで付いてくる。こんなの映画祭でもなんでもない、ただ外向けにやってますよ、ってアピールしているだけで、中身は関係者向けのコンペ付き内覧会じゃないか。本当に新しい映画を見たいと願う真摯な映画ファンに対するこういう態度って、公開タイミングの絶望的な後ろ倒しにDVDスルーとか、くだんない邦題とか、くそくだんない応援キャンペーンとか、ポスターのトーン修正とかにぜんぶ繋がっている気がする。客をバカにしているよね。そして、本来こういうことを批判してよい方向に変えていってほしい「映画関係者」は試写とかパンフとかコメントとかで業界側と持ちつ持たれつの「関係」にあるのでなんも期待できない。今の政治とメディアの関係とそっくりのミラーじゃないか。 あーくだんない。

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