10.07.2021

[film] La Flor (2018)

10月2日から3日の週末をほぼぜんぶ使ったやつ、イメージフォーラム・フェスティバルをやっていたスパイラル・ホールで見ました。ここに来るのはすごく久しぶり。大昔にDrummers Of Burundiとか見たねえ。

全部で14時間超えの大作で、ロックダウン中にMUBIでもやっていたが総時間数を見てびっくりして諦めていた。これは暗闇に入らないと無理だと。しかし、ホールに並べられた(折り畳みじゃないけど)パイプ椅子とぺたんこのフロア.. 新宿でやっていた頃からそうだけど、有楽町のでもそうだけど、東京って施設の観点では映画祭を開催する資格なんかないよね、ずーっと。

作・監督はアルゼンチンのMariano Llinas。全6エピソードから出来ていて、でもチケットの区切りとしては三部に分かれていて、第一部(210分)でEP1と2、第二部(313分)でEP3、翌日の第三部(290分)でEP4, 5,6が上映される。

時間のかかるやつなので疲れたけど、おもしろいおもしろくないでいうと、シネマヴェーラのサイレント特集にはまって、9/28に”Reminiscence”を見て、9/30にBarbara Rudinを見て、10/1の初日に”No Time to Die”を見にいくような年寄りにはおもしろかった。とってもへろへろにはなったけど。

最初に道路わきのような屋外でテーブルに向かう監督本人 – たぶん。Kevin Smithみある – がノートに手書きしながら全体の構成を説明してくれる(口は開いていない。音声だけ別被せ)。最初の四つのエピソードは終わりを持たないやつで、次のは終わりも始まりも持たないやつで、最後のは始まりを持たないやつ - 図にすると花のような絵になる。EP1はアメリカのB級映画ふう、EP2はミュージカルふうのやつ、EP3はスパイ映画、EP4はうまく説明できない、EP5はクラシックへのオマージュ、EP6は – などなど。

中心にいるのはElisa Carricajo, Valeria Correa, Pilar Gamboa, Laura Paredesの4名の女性たち(他にもEPを跨いで出てくる女性はいる)、EPによって役割も名前もがらりと変わっていく。彼女たちは2003年に立ちあげられたアルゼンチンの前衛劇団のメンバーだそう。並んだ佇まいはパンクバンドのそれで、かっこいいったら。

EP1は冒頭にルネ・シャールの引用が入る。大学の研究室に勝手に送り付けられてきた目隠しされた小さな女性のミイラと、目隠しの包帯の裏に嵌めてあった目玉を外してしまったことから起こる猫同士の殺傷事件がヒトにも及びそうになる.. というスリラーで、ラストについにミイラの正体が.. (と思ったらそこまでで切れる)

EP2の冒頭はVelvet Undergroundの”Sunday Morning”のライン”Watch out, the world’s behind you..”が。 5年前に中年男性と未成年女性として出会ってデュオとしてデビューして、その後別れた男女が再びレコーディングしてリユニオンしようとするところに新人歌手が絡んで、というストーリーに、サソリの毒とヒトを使った技術で永遠の命を得ようとする秘密結社が絡んでくる。

いちばん長いEP3はネルヴァルの「宇宙は夜のなかにある」の一行が。チャプターが10くらい連なる。南米の平原で女性エージェント5人が科学者Dreyfussを拉致して運びだそうとする。その途中で潜入スパイ1名を消して、ブリュッセルにいる雇い主Castermanと連絡を取りながら移送していくのだが、敵側も対抗して4人の女性スパイを立てて両者の衝突の時が近づいていく。という大きな流れのなかにベルリン、ロンドン、モスクワ等、国を跨いだ女性スパイたちそれぞれの過去の物語が展開 – と言っても女性たちは殆ど喋らないまま、男性のナレーションによって彼女たちが曝され、彼女たちを動かしていく。終わりの方の最後まで愛することを許されなかった男女スパイの出会いと別れの話がすてきだった - マネの絵巡りのとことか。

EP4は、冒頭に出てきた映画監督が6年越しの映画を作ろうとして苦しんでいる。「蜘蛛」というタイトルなのかコンセプトなのか、の映画で、でも4人の女優に割り当てられた役割は練られていないので現場から文句が出ているし、新しい女性のプロデューサーがやってくるし、でもいまは春なので樹を撮りたいんだ、って監督を含む5人の撮影クルーと犬は外に出ていっちゃって、いろんな樹を撮りまくって、そこに魔女が襲いかかって車が樹の上に引っ掛かけられ、北イタリアの言葉を話す好色老人がどこからか現れ、クルーは頭らりらりで監督はどこかに消えてしまう。
これを捜査すべくやってきた男が、監督がネタ探しのために買い漁っていた古書の山 - 『オトラント城奇譚』とか『サラゴサ手稿』とか、ゴシックロマン系中心 - そのなかでアーサー・マッケン訳の『カサノヴァ回顧録』(から抜け落ちたパート)に何かありそうだって掴んで…  でもここでも、それがなんだったのか、なんでこれだったのかはあんま明らかにされない。 
映画撮影の映画でもあって、Miguel Gomesの”Our Beloved Month of August” (2008)のような底のぬけたかんじも。 冒頭に流れていくヴィヴァルディ、ラストのラヴェルが気持ちよい。

EP5には主演の4人の女性は出てこない。シャープなモノクロ映像、飛行機アトラクションの部分を除いて一切音のない世界で、ルノワールの『ピクニック』(1936)の世界が現代の田舎で展開される。女性二人組、男性二人組、父と息子、それぞれが出会ってなんとなく別れる郊外の休日。ルノワールというよりてきとーなジャック・ロジェの短編のような。

EP6は、スクリーン全体に靄がかかったラルティーグの写真のような世界で、かつて英国からやってきて現地民に囚われて逃げ出した英国人女性(途中で「コーンウォール」の地名が聞こえてはっとする)の手記を元にしたテキストと声、が流れていく。確かに始まりのない、視界も含めてどん詰まりの世界がここにはあって、この「幽囚」はいまだにー。

どのエピソードも周到に練りあげられ組みあげられて互いにぶつかり合う、引用やオマージュの織物として編みあげる、というよりはそれぞれの宇宙からてきとーに放たれた小惑星のようにランダムに大らかに動いてぶつかったり埋もれたり。いつもカメラの焦点は浅くて各キャラクターは遠くのぼやけた状態からゆっくりこちらの射程に入ってくるように世界に寄ってきたり現れたりするし、音に関しても同様で、入っちゃったものは入るね、くらいの緩さと大らかさと。

この辺の、寄る辺ないものたちの怪しい動きと、その向こうでより大きな物語や時間を紡ぐものたちとの攻防、というとってもラテンアメリカぽい渦とか地層の真ん中で、これらを貫いて中指を突きたててやってくる4人の女性たち - スパイだったり魔女だったり - の絵になるかんじがよくて。かっこいいー、で終わらせちゃっていいのか。いいのかも。

映画史的なところはよくわかんないのだが、例えば、Jacques Rivetteが”Out 1 : Noli me tangere” (1971)で紡いだ壮大な革命と陰謀の物語の後に、女の子たちのアナーキー - ”Céline and Julie Go Boating” (1974)を撮って、その後に企画して結局半分しか実現しなかったネルヴァルの『炎の娘たち』を基にしたシリーズ – これも4つの物語だった – のありように近いかんじはした。ちょっとはったりじみてて、でも風通しがよくて。 「革命」ではなく、常に侵略と服従に曝されてきた南米の地でのー。

やろうと思えば血生臭い、鮮血とバイオレンスに満ちたものにもできたはずだが、血とかまったく流れないのはよいと思った。銃声もぽんぽんと乾いて穏やかだし。

続編では、今回あっさり無視された空洞 - USAを舞台に4人がチャーリーズ・エンジェルとかタランティーノみたいなのをぐさぐさやってあれこれ脱構築してほしい。

ひとつ、少しうんざりしたのがエンドロールで、だらだら20分以上流していたのではないか。ここまでつきあってくれてありがとうー、じゃん♪ で終わればかっこよいのに、バンドのトラックが終わってもギターの弾き語りでえんえんがなって繋いで、画面では出演者やスタッフが全員車でいなくなった原っぱにひとり黄昏ている男と犬が。 あの音楽がこの後3日くらいずっと頭のなかで廻っていたわ..


揺れたねえ。丁度LFFでドキュメンタリーを見てた。本の山がひとつぶん.. だけじゃなさそうかも。

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