2.16.2021

[film] Malina (1991)

2月7日、日曜日の昼間にMUBIで見ました。

Adaptation、というカテゴリで、原作はオーストリアのIngeborg Bachmannの同名小説(未読)、脚本は2004年にノーベル文学賞を受賞しているElfriede Jelinek、監督はWerner Schroeter。既に明確かつ強固な世界観ができあがっている(と思われる)小説の映画化作品に未読まっしろの状態で臨むのはどうか、というのはもっともだと思うのだが、でもだからといって見ないでおくのは勿体ないので見る。Isabelle Huppertが出ていることでもあるし。 おもしろかったら原作を読みにいくでもいいし。

冒頭、赤いドレスを着た女性(Isabelle Huppert)が父親と思われる男性に叱責されて少女の頃の彼女をビルの上から落っことす。地上で血まみれになっているのは若い男性で、つまり父親によって大人の女性としての彼女以外のすべては殺されてないものにされていることがわかる。

彼女は作家で、彼女の机の傍には武器博物館にいるMalina (Mathieu Carrière)という男 - アナグラムで”Animal”になる- が現れていろんなことを指示したり警告したり話を聞いて落ち着かせてくれたりする(彼女が自分を生かしておくために作りあげたオルターエゴと思われる)。もうひとりIvan (Can Togay)という若い男もいて、彼は彼女と会って情事したり癒しやJoy、永遠の命を与えてくれる。

最初の方で、ウィトゲンシュタインの「沈黙」について聴衆を前に講義していて、終わると大拍手なので人気のある作家のようなのだが、机がある仕事場では(タイプライターがあるのに)手で殴り書きをした紙や手紙をそこらじゅうにまき散らす、本棚の本をぐしゃぐしゃにする、いろんなものを引っ掻く引き裂く、タバコに酒、猫(すばらしいのが2匹)を追いまわす、泣いて叫んで怒って走って酩酊して、Ivanと一緒に行った映画館では上映する映画の中にまで現れて、日常のあらゆる局面におけるIsabelle Huppert百態を見ることができて、その度にMalinaやIvanや秘書(名前がJellinek嬢 - 脚本家と同じ - 原作がそうらしい)がきりきり舞いさせられて大変そう。

ウィーンの古い建物やカフェ – Café Centralがでてくる - オペラや映画や絵画や博物館を通して、女性の表現者としての彼女が直面する内面外面の危機を夢も悪夢も現実も、生物も剥製(猫の剥製すごい)も横並びでぶちまけていて、その洪水にわけわかんない、ってお手あげの人もいるかもしれないが、合間に映しだされるシンプルな水辺や路地(大きな建物に入っていくイメージ)や夕陽の像の美しいこと。

終盤、自分はこれまで“model role”から”mortal role”へと言葉を歪めてきたのだ、と事態をのみ込み始めた彼女が暴力的な父親との過去、その記憶 - 彼はナチスの制服を着ている - について、その先で殺されてしまったかいなくなってしまった友人を呼び起こした後、目ざめに向けて暴れだす終わりの40分くらいはとてつもない。お屋敷での正装のダンスで手袋を落としてはMalinaが拾い、ロウソクだらけの部屋に転がって、切り裂いた服や手紙に火をつけ、ドアに血が出るまで額を打ち付け、Ivanに別れを告げてところどころがぼうぼう燃えている部屋に戻ってのたうち回る。(Malinaは彼女の傍に付いて片付けないと、とか言いつつ暴力を振るったり、彼も錯乱しはじめる)一連の動きは混沌に向かって花びらを撒き散らしていくPina Bauschのダンスを見ているよう。

股間から血を流しながらこの館 - 自分の身体から離れること、「彼」を殺すこと、Ivanとも別れること、等々を巡って手紙や書類が部屋のあちこちで燃えている館でのMalinaと彼女のやりとり、それを通して明らかになっていくあれこれ。壁の割れ目に貼ってあるテープを剥がしてもそこに割れ目はなくて、彼女の鏡像がゆっくり(炎のように)4つに解れていくシーンがすごい。タイプライターを燃やしても電話を燃やしても鳴り続ける電話の音。

Malinaが最後に館を出ていく時に手にした一冊は何だったのだろう?

最後に”Für Jean Eustache”とでる。

やっぱり原作(とできれば脚本)も読みたくなるねえ。

Isabelle Huppertさまの最高傑作はこれ、に更新された。

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