1月24日の木曜日の晩、ICAで見ました。
76分のドキュメンタリーで、なぜかオスカーにノミネートされていて、ICAのおにいさんもイントロで「なんでこんなことになったのかわかんないけど.. まあ見てみてね」とやや困惑していた。
アメリカのアラバマ州のHale Countyが舞台、ということでWisemanの”Monrovia, Indiana” (2018) みたいの – その土地の特異・非特異性を丹念に微細に追ってポートレートを描く - をイメージしていたらぜんぜん違うやつだった。
ナレーションはなくて、たまに字幕がぽつぽつ出るだけ、冒頭に“What is the orbit of our dreaming?” と出て、その「夢の軌道」のイメージ通りに最後までぐるーっと周回していく。
Hale Countyという土地、その土地の名所旧跡とか特産品とかが出てくるわけではない。その場所の今朝という時間、あるいは今宵という時間。そのなかで暮す何人かの人々や家族の日常が映しだされる。最後まで白人はひとりもフレームに入ってこない、何人かの登場人物は名前つきで紹介されるが、彼らを中心にドキュメントされるような出来事、事故、事件が起こるわけでも、貧困や苦難に直面したどん底生活の様子が浮かびあがるわけでもない。 道路、学校、教会、キッチン、朝、晩、晴れた日、雨の日、笑っている顔もあればむっつりの顔、歌っている顔もある。子供はどこまでも延々意味なく走り回り、若者は自分が王であるかのように我が物顔で動き回り、老人は蝸牛でゆっくりと動いていく。自分もいつかどこかで見てきた気がする光景が何層にも渡って重ねられていって、自分はこの場所を知っているのか知らないのか知っていたとしてどうなるのか、のような問いが反響していく。 もちろん行ったことはないし見たこともない。のだが、そういうかんじにさせてしまうなにか、とは何なのか? というところまで考えざるを得ないようなところまで、カメラが頭の裏側に入ってくる。気がする。
即物的なものの反対側にある詩的ななにか – つい見入ったりうっとりしてしまうようななにか、を狙っているかんじもしない。映りこんでしまった何かが勝手になんかを喋りだしずるずると糸や枝を伝って増えたり埋めたりしているような、見たら湧いてくるからどうすることもできない、近いところにあるものなのか遠くのそれなのか、気付いたら引っかかっている蜘蛛の糸のような。
もういっこ、“How do we not frame someone?”という字幕も出てきて、これはカメラに映りこんでくるものこないものをどうやって選り分けたりすることができるのか、と自問しながらカメラを回していって、そこと冒頭の(夢の)軌道が交わる場所はどこかにあるのか、現れるのか、と。そしてこれは神(々)とか、少なくともこの世のものではないモノの目線からくるものだよね、とか思う。
映画が終わったとこで、クレジットにcreative adviserとして Apichatpong Weerasethakulの名前が出てきたので、あーって。
これ、ブンミおじさんの目線だよね。 彼のアジアを撮った短編のいくつかにとても近い感触の。 彼、どんなアドバイスしたのだろうか。
そしてこういうのが現れるのはアジアの森とかHale Countyの道端とかなのね。
日本で公開されるとしたら、イメージフォーラムのフェスティバル(だっけ?)とか、かしら。
2.08.2019
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