1日の金曜日の昼、新宿で見ました。 『マチルド、翼を広げ』。
シネマカリテも久々で、小さい方のシアターだったがいつも座っていたところが空いていたのでそこに座り、Dean & Delucaで買ってきたDonut Plantのバニラのを頬張ってごきげんになる。ロンドンにもおいしいドーナツ屋はあるのだが、大陸間の粉文化の違いだろうか、Donut Plantのを頬張った瞬間に口いっぱいに充満するもわっとしたあれがロンドンのにはこないのよね。
英語題は”Tomorrow and Thereafter”だが、英国ではリリースされていない。日本で公開されるフランス映画と英国で公開されるフランス映画って、明らかに傾向も含めて違っていて、この辺、おもしろいねえ。 昨年日本に行ったときに見た『ライオンは今夜死ぬ』も英国ではやっていないし。
パリに暮らす9歳の女の子マチルド (Luce Rodriguez)がいて、あまり友達が出来ていないみたいだから、とママ(Noémie Lvovsky - 監督も兼ねる)が学校に呼びだされるのだが、ママと先生の受け応えは明らかに変で、そのうち彼女は心を病んでいること、パパ(Mathieu Amalric)とは別れてマチルドと二人で暮らしていることがわかってくる。
マチルド、だいじょうぶかしら、とはらはらしているとそのうちママが家に飛びこんできた、というフクロウを連れてきて、部屋で相手をしているとそいつがフランス語で話しかけてくる。 ママこいつ喋るよ! って騒いでも、彼(男性らしい)の声が聞こえるのはマチルドだけらしい。
学校でヒトの骨格標本を見たマチルドはフクロウの助言に従って、骨になっている彼(♂)を学校から盗みだして森に穴を掘ってきちんと埋葬してあげる - その際、掘った穴に自分も横たわってみる、とか、ひいひいひいおばあちゃんと池のなかに囚われて動けなくなっている娘の話とか、マチルドのちょっと変わった世界とその傾向が描かれるのだが、フクロウの件も含めてストーリーのなかで突飛なかんじはしない。
そのうち、学校の発表会でマチルドが歌ってもママが入ってきて変なことになるし、ママのおかしな挙動が彼女を圧迫し、彼女の精神がママのいる向こう側に囚われの身となっていることはフクロウも指摘するのだが、それでも健気にクリスマスの準備をして待っていると母親はどこか遠くにいって連絡もしてこなくて、ブチ切れたマチルドは部屋に火をつけて(フクロウが大火事から救ってくれる)、その後もママは手書きの契約書で引越しをしようとして警察沙汰になり、パパも出てきてママは暫く施設に入ることになる。
単に病んだ母親とその看護を通して成長する娘、よくなっていくふたりの関係、のような単純な話にはなっていなくて、互いが互いを縛って束縛していること、そこから逃れられないこと、それでも愛さないわけにはいかないし、愛しているのだということ、だからこそこんなにこじれてしまっていることを十分にわかっている。パパが前に出てこないのも(母子の会話に出てくるけど)互いに悲しむだけになってしまうからだと。そしてそれはふたりが親子である以上ずっと続いていく、終わらない日々(原題にあるように)で、そういう痛ましい状況のなか、彼女は物語をつくり、死者と向きあい、フクロウと会話する。そしてママの側にもそういうことは絶えず起こっているに違いない。それってどうやって解決するのか、時間が経てばなんとかなるのか、明確な答えは示されないし、ケセラセラにもならないのだが、でもきっと。
こじれてよじれて一筋縄ではいかない家族のありようをドラマとして描く、というとこでArnaud Desplechinの映画を思いだして - Mathieu Amalricも出ている”Rois et reine” (2004) - 『キングス&クイーン』とか、でも今作は監督自身の母との経験がベースであるというところで、よりそれらが折り重なって重くて辛いところもいっぱい出てくる。 生きづらいってこういう -
でもというかだからというかラストの瑞々しさは素敵にしみてきて、なんでだかよくわからないのだが、それは起こる。
これって、わからなくてもよいなにか、としておいてよい気がした。
とにかくフクロウがよくて、あれ、犬猫でもふつうの鳥でもなくて、あのサイズのフクロウだからできることかもねえ、って。
そしてもちろん、なんでフクロウなのか、と。
2.04.2019
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