8.26.2013

[film] Yi Yi (2000)

24日、髪を切ってから日仏に行って、『ヤンヤン 夏の想い出』をみました。「映画批評=現在と並走すること」というイベントで。

結婚式で始まってお葬式で終わる映画。

結婚式をあげるのは、ヤンヤンのママの弟で、運勢とかお金のことばかり気にしてて、お父さんにも借金があって、既にお腹が膨らんでいる結婚相手もお金にうるさそうで、おばあちゃんはそんな結婚式が嫌で気分が悪くなったので、ヤンヤンのお姉さんのティンティンにアパートに連れて帰って貰って、おばあちゃんを残して式に戻ったあと、家に帰ってみたらおばあちゃんは脳卒中で倒れて昏睡状態になっていた。

式の日取り選びは完璧だったからこんなことが起こったのはなんかの間違いか、起こったのだとしてもすぐ回復するはず、と叔父さんはいう。ティンティンは、おばあちゃんが外で倒れていたのは自分がちゃんとゴミ出しをしなかったからだ、と自分を責め、ママは、毎日おばあちゃんに話しかけなきゃいけないのに、わたしの毎日は同じことの繰り返しでそんなネタがないのと泣き崩れ、家族を置いて宗教の山籠りに出ていってしまう。

IT企業の社員であるパパは日本人の天才エンジニア(イッセー尾形)と契約しようとするが会社の方針と噛み合ずじりじりする一方、式の日に偶然再会した高校のときの恋人とやり直しがきくかきかないか、みたいなところを彷徨っている。

真面目で勉強もできるティンティンは、隣に越してきたリーリーとその彼の間の手紙の橋渡しをやっているうちに自分が彼と会うようになってしまい、こんなことやっていていいのか、と自問している。

ヤンヤンはいつも自分にあたってくる教師とその取り巻きの女の子たちに迷惑してて、なんでなんだよ、と眉をひそめてむくれている。

こんなふうに家族みんなが揃いも揃って、こんなはずじゃなかったのになんでこんなことに、なんであたしばっかり? ていうのを声に出さずに、声に出せずにひとりひとり佇んだり、走りまわったりしていて、せいぜいみんなが語りかけることができるのは寝たきりで聞いているのかもわからないおばあちゃんくらいで、で、そんな彼らを捕えるカメラはガラス越しだったり監視カメラ越しだったり、つまりはみんなから離れたところで見ているおばあちゃんの目、だったりするの。

イッセー尾形のエンジニアは伏せたトランプの目や場所を当てる手品をやってみせて、ここにはタネもシカケもなんにもない、一枚一枚がどこにあるかを完全にわかっているからだ、といい、なんで我々は初めてのことをそんなにおそれるのか? その一方で、毎日は常に新しく、同じ日を生きることは二度とないのになぜ平気で毎朝目覚めることができるのか? と問う。 同じようにヤンヤンは、わかっていないことを、見えていないことを、なんでわかっているように言えるのか? と問いかけ、自分には見えていない半分を見せてあげるんだ、とひとの後ろ頭ばかりを写真におさめるようになる。

そこに悟りがある、そういうものだから、という超越的な目線ではなく、知らないことは知ればよいのだし、間違ったことは正せばよいのだし、それができないのならできるようにすればいい、それすらもできない、というのはまだじゅうぶんに知らないからだよ、というようなことをおばあちゃんは言っていた、と最後の最後にヤンヤンが教えてくれる。 それを言っていたおばあちゃんがいなくなった後になって、あるいは最期におばあちゃんがヤンヤンを通してみんなに語ろうとした、というか。

だから、このとき - お葬式のとき - ヤンヤンのいう「おばあちゃん、会いたいよ」はほんとうに胸に刺さる。
ほんとうに、いつも、どんなときも、会いたいのに、いてほしいのに。 ごめんね、と。

後の討論会で安井さんが言っていたように、確かにこれはのちのちデプレシャンが作ることになる家族ドラマに似ているかもしれない。 もう家族の中心から離れてしまった、離れようとしている老人が、それでもその力を、その強さを持ち続け、子供たちと一緒になって家族を家族たらしめるお話し。 その現れ方に西欧的なかたち、アジア的なかたちの差異がある、のは当然としても。 とにかくみんなしぶとい。

「牯嶺街少年殺人事件」(英語題: "A Brighter Summer Day")を改めて、もういっかい見たい。 2011年、World Cinema Foundationが2009年にリストアしたこの大作を見たときの痺れるような衝撃がいまだに残っていて、あの、水槽に世界のすべてをぶちこんだような圧迫感と濃度(称賛です)、がこの"Yi Yi"ではどうして、どんなふうにして軽やかになったのか、死者の目を獲得したのか、を確かめたい。

それにしても、この作品を追悼上映に選んでしまうというのは、なんというか。 
死者を送る、追悼する映画としては世界最強としか言いようがない。

上映後の討論会は、個人的にはとってもおもしろかったが、ぴんと来ない若いひともいたかもしれないなー、くらい。
結局、批評の向かう先は、なぜ批評に向かうのか、というひとりひとりへの問いとか決意に落ちてこないわけにはいかなくて、それを「共闘」のようなかたちで今の時代にどうやって顕現させることができるのか、そこもまた人(場とか対象、メディアというよりは)なんだろうなー、むずかしいよねー、くらい。
でも、まず見たい映画がない、日本に来ない、そういう状況だと、批評云々以前のとこで、もうこんなにもクソだしゴミだし、どうでもいいやそんなの、見たいのは自分で見に行ってやらあ、とか、ぶつぶつ思っている今日このごろー。

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