11日、日曜日の昼間、熱波をごーごー浴びながら渋谷の坂をのぼって「熱波」をみました。
映画のプロのひとたちが言及するF.W.ムルナウを巡るあれこれは、ムルナウ見ていないので知らない。
(「群像」の蓮實重彦さんの評はおもしろく読んだ。 百年はえーわガキ、ていうことよね?)
「自分に見合った顔」と同じくこれも二部構成で、第一部はピラールていう寂しいおばさんが同じように寂しくて半ば狂ったような老女アウロラ(とその傍に使える不気味なサンタ)の面倒を見たりしてて、やがて危篤になったアウロラはヴェントゥーラという男に会いたい、といってそのまま亡くなってしまう。施設にいて、もう正気ではないかもしれないヴェントゥーラに会いに行ったピラールとサンタにヴェントゥーラが語り始めた50年前、まだポルトガル領だった頃のアフリカでのお話 -
彼の語りに導かれ、夢のように立ち上がる第二部の入り口がすばらしいのだが、ここまでの第一部で登場したまともな人はピラールくらいで、そんな彼女もひとりぼっちで、要はみんなアウトサイダーなの。
で、第二部はヴェントゥーラの語りが全てで、劇中の会話の声はぜんぶ消されてて、でてくる音はヴェントゥーラの語る声、虫や鳥の声、手紙を読み上げる声、音楽、それくらいなの。
つまり、とっくに狂っているかもしれない、たんなる法螺かもしれないヴェントゥーラの記憶の声が第二部の骨格にあって、それが正しいのか正しくないのかとか、そんなに美しいわけあるもんかとか、いろいろあるのはわかるけど、とにかく流れてくる画面、吹いてくる画面はうっとりするくらい美しい。 ポルトガルの植民地だった頃のアフリカの土地、そこに暮らす裕福な白人階級の女とどこかから流れてきたバンドマンの男の、熱病のように浮かんで消えた恋のおはなし。
アウロラは紅茶農園を経営する男の妻で何一つ不自由ないのにヴェントゥーラと恋に落ちて、身重の状態で駆け落ちしようとして失敗して引き離される。それだけなのだが、なんでこんなに、夢のように美しいのか - それは夢だったからだ、と。
『自分に見合った顔』もこれも、居心地のよくない現在を描く第一部から少しだけ離れた時空にある、くっついているんだかいないんだかの世界を映しだす第二部を通して、そう簡単には納まってくれない世の中の面倒くささというか、どっちみち大変なんだわこれ、という地点に還ってくる。
"Be My Baby"はThe Ronettesではなく、Les Surfsの“Tu Seras Mi Baby”だし、“Baby, I Love You”はRamonesのだし、要はオリジナルではないの。
ふたりの情事のシーンの美しいこと。 サイレント映画でああいうのを見たことがない(そりゃそうね)のだが、サイレントでポルノやったらあんなふうになるのね、きっと。
あとはワニ。 第一部の前に、頭からこびりついて離れない亡妻のイメージから逃れるために自身をワニに捧げものする男のはなしが出てくるが、この映画の中心にいるのはアフリカの奥に噴きだまる情念を食らうべく溜め池でじーっと待ち続けるワニなのかも。
"Our Beloved Month of August" (2008)では鶏ときつねだったなー。
8.14.2013
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