BAMの後でマンハッタンに戻って、IFCでMiranda Julyの"The Future"をみる。
1日1回の上映になってしまっていたが、見れていかった。
むかしむかし、IFCに始めて行ったのが、彼女の"Me and You and Everyone We Know" (2005)の公開初日で、Q&Aとかがあったのだった。
シェルターで引き取り手を待っている壊れ猫Paw-Pawの独白からはじまる。
子供相手にダンスの先生をしているMiranda Julyと同居している恋人が、Paw-Pawをひきとることにして、Paw-Pawがくるまでの30日間にいろんなことをやってみよう、と彼女はおもうのだが、あんまうまくいかない。
The Future。 Paw-Pawにとっては外にでられるようになる時間、彼女にとっては、彼にとっては-
共有されえない未来、永遠のDay1、どこか遠くの、声が聞こえない、届かない場所。
未来 - The Future - と呼ばれる不確かな時間とその時間が導く、かもしれない不確かな場所に、いろんなひとが、猫までもが、ごにょごにょ言ったりやったりするし、裏切られたりもする。
未来という概念に、言葉に、そこにこめられたいろんな思いが交錯する様を、他方でそんなのがあるが故に途方に暮れてしまう、情けなくて変なかんじを、時と場合によっては愛と呼んでも許されてしまうようななにかを、ほんわかと描く。
彼も彼女も、内面をがーがー吐いて大騒ぎするようなことはせず、つい踊ってしまったり、ついエコの変な団体に入って木を売ったりとか、その「未来」からひっぱられてひょっこりやってしまう「つい」なかんじがものすごくよくわかって泣ける。
だいじょうぶ、未来はぼくらのものだ。 たぶん。 でも。
それはかつて黒沢清が「アカルイミライ」(2003)で切り取ってみせたような、ざらっとしたコンクリートむきだしの、でも手応えありそうな「ミライ」とは別の、月のように、卵のようにまるくてしろくて危ういなにか、殻のむこう側でなにが動いているのかわからないようななにか、としての、"The Future"。
前作もそうだったように、そこらの映画の空気とはやはりちょっとちがう、アートのひとの作った工作、のかんじはするが、でもこれはやっぱり映画だし、なによりもMiranda Julyだねえ、としか言いようがないのだった。
冷たいところとあったかいところがだんだらの三毛模様になっているところが。
でもほんとに、未来ってなんなんだろうねえ。
どうでもいいけど。
と、ふたたび滞在が延びて、でも風邪ひいて動かなくなった頭でおもうのだった。
9.30.2011
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