9.11.2011

[log] Sept 11, 2001

ある時期、ある時代の東京の人たち、東京に憧れていた人たちにとっての東京タワーが特別なものであったのと同じような意味で、WTCというのは自分にとっての東京タワーだったのだと思う。
エンパイアステートでも自由の女神でもなく、理由はわからないが、WTCこそがNYを象徴するものだった。
「だった」としか言えないことが、いまだに信じられないし、納得がいかない。

10年前のこの日から、ここは"Ground Zero"と呼ばれ、忌まわしい記憶を封じ込める場所、その象徴として歴史のなかで機能することになってしまった。
その転換を強行したのがテロリストと呼ばれる人たちと、彼らをテロリストと呼んでおきたい政治家たちで、でもあの場所は、やはりワールド・トレード・センター(WTC)で、それ以外の呼び方を知らないの、だってほんとうに素敵な場所だったんだから、と、そういうことを書いておきたい。

深夜に仕事を終えてEquitable Building(一時期ここに職場があった)から出ると、目の前にはいっつも彼らがでーんと建っていた。午前2時でも3時でもずうっと明るく建っていてくれた。 

クリスマスになると、その視線の間にある小さなZuccotti Parkにはイルミネーションが置かれ、その光の線と渦がWTCのてっぺんまで上っていく様は誰がなんといおうと世界一で、あれに勝るものにはまだ出会えていない。 ロックフェラーの100倍美しいものだった、と今でも断言できる。

あるいは、BAMから帰るバスの途中、Manhattan Bridgeから見ることができる彼らもほんとうに美しいものだった。
当時のBrooklynはまだ危ないと言われていて、バスでマンハッタンに戻ってくると少しだけほっとした。ほっとさせてくれたのはやはり彼らの棟が放つ柔らかい光だった。

あるいは、ランチスポットとしてのWTC。 Church st側から入って、少し地下に降りると、SbarroがあってMenchankoがあって、なんといってもEcce Panisがあった。当時、マンハッタンでおいしいパンが食べられるのはここだけだった。BordersのCafeも後からできた。 
これらが無くなってしまった後、ランチ探しがどんなに困難になったか、誰に文句を言ったらよいものか、どれだけ途方に暮れてしまったか、わかるひとにしかわかるまい。

Church st側のエントランスの広場にはよくグリーンマーケットが出ていて、アプリコットやチェリーを買ったりした。
2001年5月、約3年ぶりに復帰したとき、プエルトリカンの相棒とここで再会して、ここ特有のビル風に吹かれながら彼らを見上げ、戻って来たんだねえ、さてどうしたものかー、と思ったことを憶えている。

最初に赴任して、3ヶ月が経った93年2月、North Towerの地下ガレージで爆破があった。
2回目に赴任して、4ヶ月が経った01年9月、こんどはビル全体が倒壊してしまった。

それはよくある9月の始めの、日射しだけがくっきりしたよい天気の日で、そういうのが数日続いていたこともあって気分はだれだれだった。 こんなお天気の朝に仕事する気になんかなれないよ、というよくあるー

まず、Equitableのオフィスで働いている同僚から電話があって、WTCが燃えている、といわれた。
なにそれ? ということで南側の窓に行ってみると、たしかに。 
上の方に穴が空いて煙が昇っている。
なんかの爆発? とおもった。 だれか死んじゃったのだろうか? 修理に時間かかるだろうな、などなど。 

しばらく見ていて、そうしていても仕方ないので、デスクに戻る。 
そしたら日本からメールがどかどか落ちてきて、みんなだいじょうぶか?とか聞いてくる。 みんな早いな、でもなんか変かも、と思い始めたころに、もう1棟も燃えてる! と言われた。  
これはどうみてもおかしいし、ありえないし。 このへんでビル全体に避難命令が出たのでぞろぞろエレベーターのほうに向かう。  
誰かが「飛行機が・・・」とか言っているのが聞こえた。 

で、ちゃんと聞いてみると、飛行機がつっこんだのだという。 
そんなのぜったいおかしいし、なんでふたつともなのよ? とか困惑しているうちに下に降りたら、とにかく一刻も早く逃げるべし、ということになっていた。
地下鉄が動いているとは思えなかったので、バス! と決めてMadisonを走ってた一台に飛び乗る。

バスはそんなに混んでいなくて、乗客はみんな下を向いていた。泣いているひとも何人かいた。
北の方に向かうバスの窓から、人たちがみんな南を向いて口を抑えて叫んでいるのが見えた。
怖くて恐ろしくて、後ろを振り返ることができなかった。

バスを降りた後、食料が枯渇することが目に見えていたので、スーパーで数日分の水と食料を買った。
レジには長い行列ができていたが、ここでもみんな下を向いてしょんぼりしていた。
買い物するのがなんだかとっても辛かった。

アパートに着いたら、ドアマンが放心した表情でタワーが崩れおちた、と言った。
うそでしょ、と部屋に戻ってTVを見たら、ほんとうだった。
どのチャンネルもぜんぶそうで、そのうちに気持ち悪くなってきたのでスイッチを切った。

部屋にいても滅入るだけだったので南のほうの血液センターに献血に行くことにした。
10ブロックくらい歩いて着いてみると、献血希望者が殺到してて既にCloseしていた。
2nd Aveから南のほうを向いてみると、奥のほうは煙で黄色く濁っていた。
たまに戦闘機が上空を飛んでいって、その響きで怯えてビルの下に駆け込む人たちが沢山いた。

部屋に戻ってからは、することもないので職場の人たちの安否を確認をした。
確認が取れて直接話しができて、NJに渡った、という人もいれば、河に飛びこんで船に助けられているのを見た、という人づてに聞く情報だけの人もいた。 連絡の取りようもない、どこにいるのかぜんぜんわからないひともいた。
仕事を再開できる目途なんてまったくないのに、仕事場の人たちのことを心配するなんて変だな、と少し思った。

音楽は聴くことができなかった。これっぽっちも聴きたいと思わなかった。
なんで聴けなかったんだろう、必要としなかったのだろう、と今でもおもう。

ようやく聴くことができたのは、9/20、何かから何かを無理やりひっぺがすようにして足を向けた、Lincoln CenterでのMemorial Concertでブラームスのレクイエムを聴いたときだった。
なにかがそうっと触れて、ふんわりと撫でてくれたような気がした。

その一週間後の9/27、Town HallでWilcoを聴いた。
聴く側は疲れきっていて、バンド側はわれわれを煽ろうとも盛り上げようともせず、静かに、しかしがたがたとなにかを揺らしていった。
その音に揺られながら、"Jesus, Etc."  のあたりでちょっとだけ泣いて、ようやく戻ることができる、と思った。
だからWilcoは今でも、ほんとうに特別なバンドなの。

で、音楽を聴けない、本も読めない状態になっていたあの日、電話機に向いあいながら、いろんなことを考えたはずだ。
その内容は殆ど憶えていないのだが、ひとつだけ、10年後に自分はどこでなにをしているんだろう、と思ったことは憶えている。 
死んでいなかったら、もし憶えていたら、それについてなんか書いてみろ、と思ったことも。

だから書いてみた。
でも、10年経っても、あれらがどういうことだったのか、ちゃんと整理がついていない。
だからとりあえず時系列で並べてみたのだが、だめだわ。

ひとつだけ。  世界はあいかわらずくそで、嫌なことばっかしだ。
ほれ、じゅうぶん予想がついたことだろ、と10年前のバカに言っとく。

そして、あの日の空に昇っていった数千人の魂の横に、あの日の地に向かって崩れていったタワーの横に、ずっと彷徨っていろ、そこにいろ、とおもう。 

 

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