土曜日のにほんめ。武蔵野館で。
311以前の週末だったら、こんなサイコ系の2本を同じ日に見るのは疲れそうだしちょっと、だったはずだ。 でもいまは、ぜんぜんへでもねえ。
これもデジタル上映だった。渋谷のもそうだったから、フィルムでは入ってきていないのだろう。
しかもぼかしアリ。「公的機関による適正な指導により」云々。
く~だらない く~だらない。
一人息子の事故死をきっかけに悲しみと狂気の果てをさまよってしまう夫婦、て、いまNGじゃないのか? とか、それいうなら大切な家族を死の国に送る「ブンミおじさん」だってNGじゃないの? とか、それいうなら「王様のスピーチ」だって、焦点の定まらないへたくそなスピーチは国民を困惑させるだけだということをわからせてしまうからNGじゃないの? とか。
全部で4章、"Grief", "Pain (Chaos Reigns)", "Despair (Gynocide)", "The Three Beggars"、そしてプロローグにエピローグ。
登場するのは妻(Charlotte Gainsbourg)と夫(Willem Dafoe)、彼らの息子、鹿さん(Grief)、狐さん(Pain)、鴉さん(Despair)、これらレッツゴー三匹で"The Three Beggars"、あとは森とか木とかドングリとか。
息子を失った後、悲嘆に暮れてそのまま病んでしまった妻を治療するため、セラピストの夫は妻を"Eden"という森に連れ出す。 妻の悲嘆の根源にある恐怖はその場所にある、と妻が言ったから。 行かなきゃよかったのに。
妻と夫は名前を持たない。というかお互いを名前で呼ぶことはなく、治療以外の会話をすることも、食事を取ることもない。ふたりがお互いを男と女として認識するのは、セックス - 交尾のようなそれ - をするときだけのよう。
Edenの山小屋で、夫は妻の恐怖の根源を探り当てたかに見えたのだが、そのとき既に妻は ー
SMホラー、と言おうと思えば言えないこともないが、恐怖の正体は結局なんだったのか、あんましよくわからない。見えない、わからないからこそ怖い、ということもあるのだろうが、この映画の核心はそこにはない気がする。
受苦とはどういうものか、我々はなぜ苦しみを受け入れるのか、その果てに救いはありうるのか... というのを動物と人間、とか性差とか、そういうレイヤーで抉り、16世紀の昔から夫婦、森、宇宙まででっかい風呂敷を拡げてみせる。
のだが、映像が圧倒的なので、とんでも感はぜんぜんなく、むしろひとつの固化しながら闇に向かってゆっくりと閉じていく世界、を静かに描く。
その静けさ故に、どんぐりの音も狐のあのひとことも、シャルロットの「どこぉにおるんじゃわれー!」というドスのきいた絶叫も、やたらおっかなく響いて、どこまでも追いかけてくる。
タイトルの"Antichrist"については、その重さをストレートに受け止めてもよいが、もっと軽く、女は男ではない、キリストとはちがう、その程度でもよいのかも。
Lars von Trierって、これまで方法論とか作法とか、そういうところばかりが物語から浮きあがってみえた気がしたが、今回のこれについては、落ちついてて見事だとおもった。
でも、このひと、過去の作品からずっとそうだけど、よっぽど女性に屈折した何かを抱いているのか、こわくて聞けない、それくらい今回のは陰惨、でもある。
ブンミおじさんとFantastic Mr.Foxをあわせてダークに染めあげたかんじ、というか。 一人息子を事故で失って悲嘆に暮れる夫婦を描く、というところではニコールの"Rabbit Hole"にも似ている。あのなかで兎穴の本が妻にとって救いの光となったのに対して、ここでは16世紀のサタンの書が災厄を運んでくる。
それかー、『ダリアの帯』の暗黒反転版とかー。
ただ、こわいのいたいのがだめなひとにとって、Chapter3以降はとにかくきつかった。
あんなの、思いだしただけで気が遠くなる。画面上で泣いたり叫んだり、が無いと、その分かえって痛さが際立つのだなあ、とおもった。
あと、くそったれのぼかしね。あそこで彼女はいったいなにをちょんぎったのか、それがわからないなんて、ありえない。
あと、『なまいきシャルロット』 (1985)と『ぼくの妻はシャルロット・ゲンズブール』(2001)しか見てこなかったひとが、いきなりこれみたらけっこう衝撃だろうなー、とか。
でも作品はほんとにすごいですから、見ませう。
3.28.2011
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