たぶんそういうひとは少なくないと思うのだが、することがなくてWebみたりTVみたり、エレベータが止まっているので外にでていくのは面倒で、でもやっぱし落ち着かなくて動物園の熊みたいになっている。
とりあえずなんか書いてみよう。
まずは自分とこのお片づけしろよ、ていう話なのだが、沿岸の自動車とか家とか船とかがぐじゃーっとなってしまった映像とか見てしまうと、こんなお片付けなんてちいせえよな、いつでもやれるし(じゃあ、やれよ)、と変に納得してしまうので、よくない(自分が、ね)。
ほんとうは昨日と今日は、久々にちゃんとチケット買っていくライブ、があったのだった。 それは今年に入って日本での最初のライブになるはずだったのに。
それから土曜日からはシネマヴェーラ漬けになるはずだったのに。
もちろん、MelvinsとGaslight Anthem、そしてJohnnie To、ですね。
地震にぶつかって地下から閉めだされたときに最初に思ったのが、今晩のライブだいじょうぶかしら、歩いて帰れば開演には間にあうかしら、だったのだが、歩いているうちに、これはありえないな、に変わっていった。
でもMelvinsなら、あの連中ならひょっとして、と少しだけ思ったのだが、やっぱしむりだったか。
みんなが大変な思いをしているときに不謹慎な、という声があるのはわかるが、でもこれ、自然災害だし。 節電とか、できることはやるけど、ひっかぶらなかった幸運な人たちは意地でも普段の生活態度を崩さず、慌てず、ごく普通に外にでる、ていうのも、そういう志を貫く魂もぜったい必要だとおもうし、それはそれで立派な心意気だとおもうの。
みんなで元気になろう、とかそういうメッセージは嫌いだが、普段が不元気で不健康で変態だったら、そういうのでいいから、それを維持しておけ、とりあえず。
というようなことを、わたしはNYで、911と大停電のときに学んだ。
ひとつはものすごく滅入ることだったし、ひとつは変に楽しかったのだが、そこにはみんな大変であっぷあっぷしているに決まっているのに、絶対まけるもんか、つん! みたいに普通に買い物してお食事して、意地っぱりだけど、クールな人たちがいっぱいいて、そういう人たちを見ているだけでなんか救われた気がしたの。
自分になにができるだろう、と考える。
自分がなにかをすることで、今の異常な事態の中のなにかが変わる、なにかを変えられる可能性がある、とおもう。
そのなにかのなかには、今と違うことも今と同じことも等しいなにかとしてあるのではないか、「正常」な状況下でそれらが等しくそうであるのと同じように。
どっちがどう、ということではない。どちらも尊重されるべきなのだ。
もちろん、犯罪とか、他者に迷惑をかける行為は論外として。
日本人て、ほんとに真面目でみんながみんなのことを思いやる民で、それは世界に誇ってよいことだと思う反面、このままだとみんながみんな喪章追悼ボランティアモードになってしまいそうなのがこわい。
あとね、海外にいる日本人の人たちのなかには(or 日本にいる海外のひとを家族としてもつ人のなかには)心配で胸が張り裂けそうなひとがいっぱいいるはずで、心配しないで、というのは無理だけど、でも、物理的な隔たりを苦にすることはないのよ。 それは日本にいたって同じよ、と。
阪神大震災のときにもNYにいて、あの頃はWebもTwitterもなくて、今はもうない旭屋書店の店頭に貼りだされる被災者名簿を毎日見てはらはらするしかなかった、かつてそういう境遇にいたものとして、あえてその土地の生活を送ってください、て。
それからねえ、正しい情報に基づいた正しい行動とか、ふつーの生活とか、ってなんなんだろうね? てしみじみ考えてしまうの。
それって歳と共に変わるし、季節とか日々の天気によっても変わるし、じゃあ変わらない部分がそうかというとそれは違うし。 それにいまは花粉だって。
そんなの余裕のあるぐうたらの言い草だ、て怒られることは十分わかっている。
でも、そもそもここはそういうのを書き散らす場所だから、ね。
3.12.2011
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿
注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。