1月15日の午前、新文芸坐の飯田蝶子特集 - 『没後50年 飯田蝶子 “婆優”一代』で見ました。
のむみちさんの今回の企画は本当にすばらしいと思った。例えば自分で2週間、好きにプログラムをキュレーションできるとしたら.. とか割と夢想したりするのだが、端から追っていくとものすごく大変な仕事だと思うわ。
飯田蝶子さまに関しては、こんなの世のすべてのおばあちゃん子にとって全部は無理としてもお参りして拝んでおかないとバチがあたるぞ、なやつだと思って。見れたのはこの2本だけだったけど。
をぢさん (1943)
監督は澁谷実と原研吉の共同。60分。
鉛筆工場で若者の工員たちを指導する立場のをぢさん - 近藤徳二郎 (河村黎吉) - でも誰も名前では呼ばないしおそらく誰も本名知らない - がいて、お節介やきの度が過ぎてなんでも首突っ込んでなんか言ったりやったりしないと/してあげないと/相手してもらえないと気がすまない世話好きと首つっこみに日々燃えるをぢさんが、おかみの飯田蝶子とか、近所のお気に入りの坊やとか、をぢさん踊ってよ、って寄ってくる若衆とか、町内のいろんなのをひとりで相手していくさま(2人3人もいたらうざいだろうなあ)を落語家の淀みない語りとしぐさで一筆書きのようにさらさらと引っ張っていく魔法の界隈のお話。
一瞬、饅頭を食べさせた坊やの具合が悪くなった時だけしゅん、となって、桑野通子の母親とみんなで蒼くなり、坊やを元気づけるためにをぢさんが顔をひきつらせて踊るところとかこれはやばいぞ、になるのだが、蝶子おばさんの全能の輸血 - すごく効きそう - で回復して、をぢさんの徘徊は頭の後ろを掻きながら再び始まってまったく懲りることを知らない。
これ、相手が坊やじゃなくてお嬢ちゃんだったらどうなったかしら? とか。
あとこれって『朧夜の女』(1936)で坂本武が演じた甥のために一肌脱ぐおじさんとほとんど同じようなことをやっていて、こっちのでは割とよいおじさん役なのだが、実際にこういう人が今の会社とかにいたら(少し前までいたよね)なかなかやばい気もする。
戦時下だったから、と言えば言い過ぎかもだけど、今のなんとか会議が狙っている家族とか社会の像って案外こんな、万能&全能のおばさんたちの献身的なバックアップ(隷属ともいう)で成り立つ身勝手で無反省なをぢさんらがでかい顔をしたやつなんだろうな、とか。 これはそのダークじゃないほのぼのバージョン。
客席はみごとにおじさん/おじいさんばっかしだったねえ。つまりさー。
むすめ (1943)
監督は大庭秀雄で、これも飯田蝶子というよりは河村黎吉もの、というよりはロマコメ。でも問題ない。
自宅で洋裁屋をしている文子(高峰三枝子)と日々ぷらぷら過ごしている新六(河村黎吉)の父娘がいて、新六は近所のお面屋の飯田蝶子と坂本武の家にしょっちゅう遊びに行っては煙たがられていて、そんなある日、文子にメリヤス工場の御曹司からの縁談が舞いこむのだが、文子は電車のなかでの足の踏みあい(おもしろい)で知り合った歯医者の向井(上原謙)のことが気になってて、でも向井のことは幼馴染でお面屋の娘の富江(三浦光子)が入れ込んでいて..
新六は縁談を呑気に喜んで、遊んでばかりはいられんし、って自分の仕事の口を見つけてきたり、仲人を頼まれた飯田蝶子と坂本武も意気込んで、でも文子の様子に気づいた富江があんたらなにやってんのよ! って親たちを叱って、蝶子おばさんが切腹覚悟で縁談をぶち壊しにメリヤス工場に向かうところが痛快なの。
ここでの三浦光子はちょっとかわいそうなのだが、この少し後の『伊豆の娘たち』(1945)で桑野通子を味方につけて鈍い中高年連中に逆襲を果たすのでだいじょうぶだから。
「をぢさん」も大変だけど「むすめ」も楽じゃなくて、でもそもそもはさあ..(以下略)。 で、飯田蝶子的な「をゔぁさん」のありようは彼らを縛るしょうもない価値規範を貫いて叩きつぶす可能性に満ち満ちたものであったことが窺えてあー見てよかった、って思ったのだった。
この界隈の人々、MCUみたいなユニバースにできるよね。 “Eternals”でもよいし。
1.23.2022
[film] をぢさん (1943)
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