2月4日、木曜日の夕方、Criterion Channelで見ました。英語題は”Repast”。原作は林芙美子の未完の遺作。
Netflixで成瀬巳喜男の5本が配信されると聞いて、そういえばCriterion Channelで見たのを書いていなかった、って。 成瀬のはBFI Playerでも3本配信されていて、CriterionではNetflixでかかるのに加えて他にもいっぱい見ることができる。これまでも『生さぬ仲』 (1932) - “No Blood Relation”とか、『妻』 (1953) - “Wife”とか、『晩菊』(1954) - “Late Chrysanthemums”とかを見た。日本にいた頃から見てきたものでも、何度見てもおもしろいわ。
戦後間もない頃の大阪の南の方に結婚して5年になる岡本初之輔(上原謙)と三千代(原節子)の夫婦と猫のゆーり(尻尾が短くて最初に屋根の上にいるのは別の猫よね?)が暮らしていて、ふたりは大阪に来て3年になるのだが三千代は既に疲れきっていてうんざりで、冒頭の独り言ではこんなふうに;
With a life restricted to the kitchen and the family room, must every woman grow old and die feeling empty..
なのに夫は顔を見れば「おなかがすいた」「めしまだか?」ばかりで、株屋なのに株をやっていない真面目さくらいが取り柄らしい。 そんなふたりの家に東京から初之輔の姪の里子(島崎雪子)二十歳が家出してきて、つまんない・結婚したい・したくないとか好き放題に撒き散らして、近所の遊び人(大泉滉)や向かいの二号さん(音羽久米子)と遊んだり、初之輔に大阪のバスツアーに連れてって貰ってべたべたして鼻血をだしたりする。里子の滞在はそれなりに手間もお金もかかるので、三千代はおもしろくない。
三千代は同窓会に出て昔の友人と会って毎日なにしてるの? って聞かれても猫かってる、くらいなのに、幸せそうとか言われてなんかすっきりしなくて、里子のことであれこれむしゃくしゃして「疲れちゃったんですわ」と、彼女を東京に帰すついでに自分も実家に帰ることにしてお金を借りてくる。で、実家に帰る、って言っても特に反対しないし見送りにも来ない初之輔に改めてがっかりする。
実家(矢向ってとこ)に帰った三千代はずっとごろごろ寝たり職安に行ってみたり友達(中北千枝子)と会ったり、これまでとは別の世界をゆったり楽しむのだが、母親からも父親からもそんなつもりないのに「帰れば」ばかり言われて「不幸な奥さん」とか言われるとそれはそれで頭にきたり、手紙を書くけど出さなかったりいろいろあるのだが、嵐が過ぎたある日に初之輔が現れて帰ろうっていうので、帰るの。たぶん猫のために。 ふたりで一緒に帰るときに、三千代の独り言で『わたしのそばに夫がいる - ひとりの男 - わたしの本当の幸福とはそんなものではないだろうか?』 とか言うのだが、そんなものではないと思うよ、って思った。
夫婦の修羅場のような場面も喧嘩の暴力もなく、日々のいろんな繰り返しや会話の積み上げがイライラを重ねていったり、反対にちょっとしたお出かけやチンドン屋や嵐やお祭りがそういう鬱憤を少しはらってくれたり、そんな潮の満ち引きとか月の満ち欠けみたいな描写がスリリングで、何度見てもあれはそういうことだったのか、のような発見があったりする。
「めし」っていうのは男性が女性に対して食卓でのご飯を要求するときに使う言葉で、女性が男性に「めし」いかがなさいます?とか「めし」できたよ、とかは言わない(たぶん)。そんなふうにサーブされて当然のものとして男性から女性に強いてくるあれこれの総体が(この頃の)結婚生活というもので、だから結婚の幸せ(するしないも含めて)問題がテーブルの上にあがるのは常に女性の側 - この映画でも上原謙はどこまでも無表情を貫く - なのだが、そういうことでよいのか? 「めし」って使うの禁止にするくらいじゃないとこの問題は解消していかないのではないか、とか。あとこれとセットになっている気がする「嫁」っていう呼び方とかも。
これが小津における「秋刀魚」や「お茶漬け」と同じ位置にあるものなのかそうでないのかは、たぶんとっくにどこかで誰かが論じているのだと思うが、基本はなめんなよ、っていうことに尽きるのではないか。 小津の映画の場合、日々緩やかに積み重なっていくなにか、ってだいたい画面の外で起こっていることで、それらは決定事項のようなかたちで会話のあいだに突然噴出してきたりする、そういう別の種類の面白さ。
「うなぎ」まむしの看板が字幕では”EELS - Pit Viper”ってなってた(わかるのかしら?)。「くいだおれ」は”Eat till you drop” だって。 今の大阪は世界でいちばん行きたくない土地だけど、この頃の大阪はおもしろそうだな。東京もおなじかー。
これは猫映画だけど、『晩菊』は犬映画だよね。
東京でやっていたGuy Gilles特集、見たかったよう。
2.28.2021
[film] めし (1951)
2.27.2021
[film] La folie Almayer (2011)
2月21日、日曜日の昼、MUBIで見ました。
Chantal Akermanのフィクション映画の最後となった作品で、原作はJoseph Conradのデビュー作 ”Almayer's Folly” (1895) - 『オルメイヤーの阿房宮』(未読だった)。英語題も”Almayer's Folly”。
冒頭、アジアのどこかのバーのステージ上で男Daïn (Zac Andianas)が歌っていて、そこにフロアから男が寄っていって歌っている男を刺したらバックダンサーとかみんな逃げるのだが、ひとりだけ残って歌って踊り続ける女性 – Nina (Aurora Marion)がいて、彼女に誰かが「Daïnは死んだよ」っていうと彼女は少しだけ微笑む(気がした)。
そこから時間を遡って、Capitaine Lingard (Marc Barbé)が子供の頃のNinaをジャングルの奥地で暮らすAlmayer (Stanislas Merhar) – Ninaは彼と現地人の妻の間の娘らしい - の住処から寄宿学校に入れてきちんとした教育を受けさせるから、って無理やり連れ出すところが描かれる。
そこからまた時間が過ぎて、Capitaine Lingardが亡くなり、そのまま自動で寄宿学校から追い出されたNinaはAlmayerのところに戻ってくる。彼女は「混血」である自分は寄宿学校には馴染めないし、このままヨーロッパに連れていって貰っても真っ当には生きていけないことを充分自覚していて、それでも「外」に出ていこうとする彼女を不良のDaïnが背後でたぶらかしている。
そういうことをわかっているのかそれどころではないのか、Almayerは湿地帯の繁みや廃屋の奥や夜の河に向きあって止まない虫の音に囲まれて灰色〜真っ白になって宙を睨んで佇んでいるばかり、そんなに喋るわけではないから彼がなにをどう思っているのか、正気なのか狂ってしまったのかもよくわからない。彼は熱帯の湿地にいる生き物とは明らかに別のモードとトーンで、でもはっきりとそこに生きていることは確か。
ふつうに考えればそこにほぼひとりで暮らしていたってどうなるものでもないので、諦めて故郷のヨーロッパに帰ったほうが、なのだが、すでに十分ふつうでなくなっているようだし、明確に帰る理由があるわけでもないし、Ninaのこともあるし – でも最後にNinaとDaïnが出て行ってしまうと…
Chantal Akerman作品で、同じStanislas Merharが主演した“La Captive” (2000) - プルーストの『失われた時を求めて』の『囚われの女』の翻案 - でガールフレンドのAriane (Sylvie Testud) =アルベルチーヌ - を自意識の内外で「囚われ」にして悶々としていたのと同じ彼が、少し老けてカンボジアに現れたのではないか。原作がコンラッドなので『闇の奥』の方かと思ったけど、どちらかというとプルースト的な粘着と諦念が螺旋を描いて結局なんにもならない・どこにもいけないドラマが。
もういっこはChantal Akermanが後期のドキュメンタリー作品 - “D'Est” (1993), “South” (1999), “Là-bas” (2006), “No Home Movie” (2015) あたり - で追っていった見知らぬ異国の土地を前にして、なんで自分はここにいるのか、なぜここに留まってカメラをまわしているのか、その反対側で、こことあそこではなにが違うのか、自分にとってのホームとは? などなどの問いでがんじがらめに縛られて立ちすくんでいる姿と同じなにかが現れているような。 ここではないどこか、が現れるとしたらそれはどんな場所であり時間なのか、それぞれの場所で圧倒的に生きている人々の隅の方に、(彼女の像が)幽霊のように映りこんでいる - 彼女のドキュメンタリーのもつ強さってなんなのか。
(同じように世界のいろんな土地に向かうAgnès Vardaのドキュメンタリーとの比較もいつかやってみたい。彼女の場合、”Faces Places”で、まず顔とか貌が来て、それら(彼ら)と一緒に動いていく。Chantal Akermanの土地は - 彼女の世界は建物も道も夜の川辺も彼女の「部屋」の延長としてあって、その部屋から出るか篭るか壁を壊すかを考えながら撮っているような)
それかあるいは、”Jeanne Dielman, 23, quai du commerce, 1080 Bruxelles” (1975)で描かれた果てのない家庭内労働の反復から遠く離れたところで、どうしようもない無産者の男はこんなふうにみっともなく朽ちていくのだ、とか。 さらには”Saute ma ville” (1968)で自分のアパートを爆破しようとしてひとりじたばたもがいていたChantal Akermanそのひととの距離とか、あそこから40年後とか..
ぜんぜん動きのない一見地味な作品なのだが、ものすごくおもしろかったの。
2.26.2021
[film] I Care A Lot (2020)
2月20日、土曜日の晩、Amazon Primeで見ました。
英国ではAmazonでAmazon Originalと出るのだが、米国ではNetflixで見れるそうで、どっちなのかしらん。
Marla (Rosamund Pike)が介護施設に入れられた自分の母親と面会できない、と文句を言っている男と法廷で対決するシーンが冒頭。歳を取ってすごく衰弱しているわけではないが、認知症の兆候が見られる老人を病院が指名して、裁判所がそれを受けて法定後見人をアサインすると、それ以降は老人は後見人の許可なしには、家族であっても面会することすらできない。このケースでは後見人がちゃんと面倒を見ているから問題ないはず、とその息子は退けられる。
Marlaはそんな後見人を抱える会社のエージェントで、オフィスの壁には彼女が「後見」している老人の写真が並べて貼ってある。彼女は病院の医師と介護施設とつるんで、ターゲットになりそうな老人 - 経済的に裕福で、独り暮らしで家族や身寄りが余りいない – をピックアップすると医師に診断書を書いてもらって裁判所に持っていって、ターゲットを自分の保護下にするCourt Orderを出してもらって施設に収容する(携帯も家の鍵も全部没収)と、空いた家に入っていって財産を横流しする、そういうビジネスをやっていて、これだけで震撼する。リスクは被後見人が高齢なので亡くなってしまうこととか。
彼女が新たなターゲットとして見つけたのがJennifer Peterson (Dianne Wiest)で、金融機関に勤めていた独身の女性で一軒家に暮らして身寄りもないらしい。早速医師が痴呆の兆候が見られる、って嘘.. とも言い切れない診断書を用意して、Marlaと相棒のFran (Eiza González)が彼女の家を訪ねて、半信半疑の彼女を半ば強引に施設に連れて行って一丁あがり。没収した鍵でその家を捜索すると絵画 – トレチャコフ美術館の『忘れえぬ女』がオークションに.. - や宝石類がじゃらじゃらで、更に銀行の貸金庫に行ってみたらダイヤモンドの粒粒が..
他方で、毎週Jenniferのところに高級車に乗ってマカロンを携えて面会にきていた男 - Roman Lunyov (Peter Dinklage)が彼女の不在と異変に気付いて、最初に弁護士 (Chris Messina)をMarlaのところに送って彼女をリリースしないと大変なことになるぞ、って脅迫して、それでも彼女たちが動かないと今度は介護施設に数人送りこんで強引に連れ出そうとして銃撃戦になる。
さすがにこれは.. ってなったMarlaはJenniferをより厳重な施設に移した上であれこれ調べてみるとRomanはアンタッチャブルなロシアマフィアの黒幕で、Jenniferは彼の母で、とうの昔に亡くなっている米国市民になりすましていた相当やばい母と息子であることがわかって、怒りに震えるRoman一家は当然MarlaとFranのところに押し寄せてくる。
悪いことをやっている連中が更に輪をかけて悪い連中を引っかけてしまって大変なことになる、という犯罪劇なのだが、彼らの悪さ以上に最初の方で明らかになるケア産業の構造のどす黒さに凍りついて以降の印象がやや薄まってしまったのが残念かも。
Steven Soderberghの”Unsane” (2018)とかもそうだったけど、いったんああいう施設に収容されちゃったら、あとは連中の思いのままで、騒げば騒ぐほど監視下に置かれてどうとでもされ放題で逃げられなくなる。”Unsane”は精神病(ではないケース)で病院側もおかしかったのだが、これは介護・ヘルスケア周辺で、一見だれもどこもおかしくない - 幸せになるんだから、ケアしてあげるんだから - ように見えてしまうところがこわい。 ビジネスとしても成功モデルだからこれからも伸びるよ、って。
I Care A Lot - because you have enough money and I want your money.
という標語の元で形成されていく社会格差のありようとか。
これって”Parasite” (2019)がやっているのと同じようなことを企業体が高齢化社会に向かってやっているのだと思った。 し、邪魔になった老親をこんなふうに体裁よく施設に捨てる話はじゅうぶん現実になっていると思うし。 今だと、不謹慎だけど、コロナ陽性を理由に施設に入れてしまうとか。
Rosamund Pikeの絶対めげない、つーんとした硬質の悪っぷりは - “Gone Girl” (2014)以来かしら? - 見事でかっこいいのだが、あのラストはどうなのかなあ。なんか中途半端だよねえ。
あと、ふだんはふんわりしたお婆さん役が多い気がするDianne Wiestが一瞬凄まじい殺気を見せるのだが、できれば彼女とRosamund Pikeの直接対決が見たかったかも。
スウエーデンの女性画家 - Hilma af Klint (1862-1944)のCatalogue Raisonnéの7冊本のうちの一冊 - The Blue Books (1906-1915) が届いてぱらぱら見ている。素敵ったらないわ。
2.25.2021
[film] Mildred Pierce (2011)
2月16日から20日まで、Amazon Primeで全5話(5時間36分)を1日1話ずつ見ていった。
James M. Cainによる1941年原作の翻訳が出ると聞いて、そういえば2011年のHBOで放映されたこのドラマは見ていなかった、と。
邦題は『ミルドレッド・ピアース 幸せの代償』.. 代償がどう、っていう話ではないんだけどぶつぶつ… 全部を見終わった後にMichael Curtiz監督による”Mildred Pierce” (1945) - 『ミルドレッド・ピアース 深夜の銃声』 - も再見したのでそこも含めて書く。
監督はTodd Haynesで、撮影はEd Lachmanで、この後の“Carol” (2015)で完成される1930 - 50年代アメリカの色味への探求が始まったというか – どちらもArriflexの16mmで撮っていて、この後の“Wonderstruck” (2017)では35mmに戻るので、これと”Carol”は女性映画のセットとして見てもよいのかも。
カリフォルニアのグレンデールに暮らす主婦のMildred Pierce (Kate Winslet)がパイを作っているところが冒頭で、横でふたりの娘 - Veda (Morgan Turner)とRay (Quinn McColgan) - が遊んでいて、そこに夫の Bert (Brían F. O'Byrne)が帰ってきて、もう嫌になったって付きあっていた女のところに出て行ってしまう。友人のLucy (Melissa Leo)に相談したり夫の仕事仲間だったWally (James Le Gros)に助けてもらったり(寝ちゃったりも)しつつ、生活のために職探しを始めるのだが大恐慌の時代に入っていて、彼女のプライドが許さないような仕事ばかりで悔しくて泣いて、でもやむにやまれずダイナーでウェイトレスを始める – のだがウェイトレスの仕事を見下しているVedaとの衝突もあったり。
それをやっているうちにチキンとワッフルの定食メニューと自分の得意なパイをサーブするレストランのアイデアを思いつき、客として知り合った遊び人の小金持ちMonty Beragon (Guy Pearce)やWallyの助けを借りて自分のレストランをオープンする計画を立てて着々と実行していくのだが、計画が軌道に乗り始めた頃にMontyと海辺でデートをしていて、夜に戻ってきたらRayが突然高熱を出して亡くなってしまう。この件でこの後もずっと「どこにいたのよ」とVedaからは責められ続ける。
失意のなかオープンしたレストランは繁盛して、そのやりくりで多忙すぎて構っていられないうちにVedaはハリウッドの金持ちの息子を偽装妊娠で脅迫しようとしたり手がつけられないモンスターと化していて、Montyが彼女にピアノの教師を紹介しても焼け石なので頭がいたい。
数年が過ぎて、彼女のレストランは店舗も増やして順調なのだが、家を飛び出したきりのVeda (Evan Rachel Wood)のことがずっと気掛かりで、でもある日オペラ歌手として活動していることを知ってびっくり、再会を喜んで彼女の活動を支えていくことにして、Montyとも結婚して彼の旧邸をリフォームして、すべては順調に見えたのだがこれらが彼女の店の経営を圧迫していることがわかって、そうやって頭を抱えていたらVedaとMontyが…
突然夫に去られてしまった女性が子供を養うために、プライドをずたずたにされながらも独りで生きていけるようになるまでのお話しと、その裏側でモンスターになってしまった娘への愛を貫こうとするお話しと。彼女は母として娘のためになんでもやろうとしたし、なんでもやれるようになるためにがむしゃらに働いたのだし、でもその回転数をあげればあげるほど娘は手の届かないところに行ってしまった、という悲劇。ただそれはピュアな正直者がバカを、というのとも違って、彼女は彼女で男性を巡っていろいろあったりする(いけないこと、として描いていないが、それが結果的にVedaとの溝を深くしてしまう)。
1945年版の”Mildred Pierce”は冒頭で深夜の殺人が起こって、その家から出てきたMildred (Joan Crawford)に当然スポットがあたって、我々は彼女の告白や記憶を「この女が..」という目で見ていくことになるし、ストーリー展開はその謎を紐解いていくノワール仕様だったわけだが、2011年版は30年代に若くして結婚してすぐに妊娠したひとりの女性/母親が、あの時代を生きる・生き抜くというのはどういうことだったのか、をなんのノワールもなしにストレートに描いているように思った。 Ida Lupinoの“Not Wanted” (1949)ほど過酷ではないが、男たちの都合で翻弄されていく女性たち - そこにはMildredもVedaもLucyもいる - の歩み。
そういうのとは別に、Mildredがレストランのオープン準備で買い物をしたりチキンを捌いたりパイを捏ねたり作ったりのシーンは見ていて楽しい。”Carol”でTherese (Rooney Mara)が写真を始めたときと同じようなかんじの、手仕事の歓び。
あのラストで、Mildredから吐かれる呪いの言葉、この呪いは未だにずっと続いているのだと思った。そしてこのエンディングは1945年版の夜が明けていくイメージとは全く異なる。
Kate Winsletってこういうクラシックなメロドラマのなかで、本当にすごい。”Revolutionary Road” (2008)とかも。1945年版のJoan Crawfordの娘のために自らモンスターになろうとする強さとは別の、ぐだぐだに崩れつつどうにか立ちあがろうとするかんじとか。
Carter Burwellのウッドベースで始まる音楽も素敵。
役名で、2011年版はMonty Beragonで1945年版はMonte Beragonだったのはなんか理由があるのかしら?
2.24.2021
[film] 重慶森林 (1994)
2月13日、土曜日の晩、BFI Playerで見ました。
4KリストアされたWong Kar-Waiを見ていくシリーズ。『花様年華』の次にくるのはやはりこれではないか、と。 英語題は“Chungking Express”、 邦題は『恋する惑星』。
香港の九龍、雑居ビルの重慶大厦を舞台に描かれる2つの恋にならない恋のエピソード。
手痛い失恋(どんなのだかはわからない)をして期限切れ間近のパイナップルの缶詰を集めて食いまくったり留守電のメッセージを置いたり聞いたり雨の中を走り回ったり青春している警官223(金城武)がいて、そこらのおっさん達を組織してドラッグの密輸を淡々と進めていたブロンド鬘の女(Brigitte Lin)がいて、空港のカウンター手前で裏切られた彼女は逃走(&どんぱち)の途中で警官223とぶつかって、ホテルの部屋で一緒に過ごすことになる。でも彼女はずっとがーがー寝ていて朝になったら出ていってそれきりなの。
一緒に住んでいたスチュワーデスの彼女(Valerie Chow)にフラれた警官663 (Tony Chiu-Wai Leung)が毎晩通っているファストフード屋(ケバブもバーガーも)のカウンターにいるFaye (Faye Wong)と出会って、Fayeは663のことをだんだん意識するようになって、スチュワーデスが置いていった彼の部屋の鍵を手に入れたFayeは、663が勤務中の昼間に彼の部屋を訪れて勝手に掃除したりするようになって..
最初に恋に破れた警官たちがいて、ひとりは犯罪を犯して逃走中の女に思い込みで恋をして、ひとりはやっぱし犯罪だと思う住居侵入を繰り返している女から思い込みで恋をされて、このふたつの恋は決してハッピーエンディングには向かわない、キスにもいかないし、名前すらもわかっていないし、彼女たちの「犯罪」を摘発することすらできない – 役立たず! で、やがて女性たちはみんな飛行機でどこかに飛んでいってしまうだろう。 それが森林の恋の掟なのか。
何度もかかるThe Mamas and the Papasの“California Dreamin'”やFaye Wongの歌うThe Cranberriesのカバーで繰り返し歌われる”Dream”は決して伝播したり共有されたりすることはないし、バーや屋台のカウンターを介してすれ違いを繰り返してばかりなのだが、時計のクローズアップや、缶詰の賞味期限や、0.01cmの距離だとか、流れてくる“What a Difference a Day Makes”とか、ストップモーションがそれを噴きあげて煽って、ごちゃごちゃしたただの雑居ビルを極彩色のパラダイス(ただし一方通行。それが見えるのであれば)に変えてしまう。
こうしてグランジの泥沼にもいいかげん飽きて、恋に恋をし始めていた若者たち(じゃないかも。中年だったかも)を大量にだまして崖底に落っことしたのではないか。そしてこの実らずにえんえんすれ違わせて炒ったり炙ったりしていくやり口は『花様年華』(2000)まで維持されていくことになる(or もっと先まで?)。べつに愛なんていらないんじゃないか、とか。
この辺の恋愛に対する接し方というか目線て、タランティーノの犯罪に対するそれととても近い気がして、それはつまり生殺しをテーマとした終わりのないゲームであり、そこへの囲い込みであるというー。 ある意味とっても過酷で残酷で「そういうもの」として見ておけばよいやつ。
この映画はたしか劇場では見ていなくて、その頃はまだNYに居て、日本で話題になっているらしい、と確か日系のビデオレンタル屋でVHSを借りたのだった(昔はそういう商売があって、日本の人気TV番組とかドラマを一揃い録画したのをお弁当を売るところで貸し出したりしていたの)。 で、これって渋谷系とかと関係あるの? とか思ったことを思い出す(わたしは渋谷系も知らない。NYに渡ってから渋谷のHMVが.. とか聞いてふーん、て)。 渋谷系とはたぶん関係ないのだろうけど、感触として同じようなカテゴリに入れていた。 インターナショナルにはオルタナの流れのなかに割とはまっていた気がする。
今回見返してみて、やっぱり綺麗だし素敵だしFaye Wongすばらしいし、いいよね、って。
今の時代にリメイクしたらBrigitte Linは223と一緒に蜂の巣にされてしまうのだろうし、663はFaye Wongにケバブにされちゃうのだと思う。
The Cranberriesいいな、って思ったのもこの映画が最初だったかも。
そして、今の香港ではもちろんこんなの撮ることはできないよね…
2.23.2021
[film] Pieces of a Woman (2020)
2月15日、月曜日の晩、Netflixで見ました。
監督は”White God” (2014)のKornél Mundruczó。脚本はこれまでも彼の作品の脚本を担当してきたKata Wéber。ふたりは夫婦で、ここで中心のテーマとなる悲劇はふたりの間に起こったことだという。 邦題は『私というパズル』 ?.. がっかりうんざり。謎解きものでもなんでもないし、タイトルに「女性」を入れなくてどうするのよ。
9月のある日、港湾で働くSean (Shia LaBeouf)の難しそうな仕事の描写に続いて、ベビーシャワーの送別の後に出産一時休暇の荷物を持って職場を出るMartha (Vanessa Kirby)がいる。ふたりが自宅に着いたらすぐに出産が始まって、最初から自宅出産の予定だったので助産婦 - 最初に頼んでいた人が来れなくなったので替わりのEva (Molly Parker) – がやってきて、準備もなにもすぐに生まれそうであることがわかり、途中心音が.. とかいろいろ恐ろしいのだが、なんとか子供は出てきて産声をあげて、その歓びもつかの間、すぐに子供の容態はおかしくなって救急車を呼ぶことになり…
以降、ほぼ一ヶ月ごとに辛い日々のある一日が断面のように描かれていって、彼らの子の死因は結局特定できなかったのだが、Marthaの母のElizabeth (Ellen Burstyn)と妹夫婦は彼女のいとこで法律事務所にいるSuzanne (Sarah Snook)に依頼して助産婦に対する訴訟(懲役と巨額の慰謝料)を起こそうとしている。その横で焦燥しきったMarthaは職場に戻っても幽霊のようで、Seanとの間もお互い歩み寄ろうとするものの徐々に壊れていって(SeanはSuzanneと浮気している)、ふたりの家の中も植木は萎れて荒れたままに放置されている。
亡くなった子の葬儀の準備でも遺体を病院に寄付しようとするMarthaにElizabethたちが反発したり、墓石の字体をMarthaのいないところで勝手に決めたりしていたことで揉めて、Martha vs. Elizabeth, Seanのような構図(ただ、ElizabethはSeanのことをよく思っていない)ができあがっていって、年末にElizabethの家(とても裕福であることがわかる)に家族全員が集まったところで訴訟の件を巡る対立 - もういいかげんにして - が顕在化する。
終盤は助産婦のEvaを被告とする法廷ドラマになるのだが、ここの箇所、法律の技術観点でMarthaが納得していないのに、死因が特定できていないのに法廷に持ち込むことって可能なのか、とか。この映画の論点、というか一番言いたいことは、あなたとあなたの子のためにも法廷で戦わなきゃだめだ、と強く主張するElizabeth(とSean)に対して、これはわたしのBodyのことなのになんで? なにそれ? とぶち切れるMarthaのやりとりに集約されていると思うのだが、この件を通してすべての悲しみと辛さを背負いこんだMarthaがここから(彼女のBody, 彼女のPieceから)どうやって立ち直るのか、ラストのリンゴの木のところまで行けるのか、というストーリーとElizabethやSeanとの関係と法廷の件とがうまく噛みあっていないような気がした。
それくらいに、細かいことに構っていられないくらいの喪失感で消耗していたのだとしても、感情的なしこりのようなものしか残っていないのだとしても、いや、だとしたら余計になんで? とか。 同じ事情で苦しんだ/苦しんでいる夫婦は少なくないのだろうから、時間が掛かってもきちんと丁寧に積みあげるべきだったのではないか。
それに加えて、ハンガリーのユダヤ人としてナチの迫害を生き延びたElizabethの母(Marthaの祖母)のエピソードを掲げて、だからこそあなたにも強くあってほしいのだ、というElizabethの説得とMarthaの対話も噛み合わないであろうことは十分にわかって、だからこそもう少し掘り下げてほしかったかなあ、とか。
あとはこの件における夫Seanとか車のディーラーをしている義弟のChris (Benny Safdie)といった男性 – 彼らはいつの間にか画面から消えているよう - の居場所とか立ち位置ってどういうものなのか。 きちんとした答えなんてあるものではないけど、あんなふうに画面からいなくなったままでそれでいいの? とか。
Vanessa Kirbyさんというと、元気いっぱいだった“Fast & Furious Presents: Hobbs & Shaw” (2019)が記憶に新しいが、こんなふうに崩れていくメロドラマもすばらしいのね。あと、Safdie兄弟のひとりがいかにも、なかんじで出ていたり。
英国のロックダウン緩和のステップと日程が発表になった。いろいろ遅すぎて絶望しかない… あーあ。
2.22.2021
[film] Once Upon a Time in America (1984)
2月6日、土曜日の昼にMUBIで見ました。もう2週間前か..
本当であれば、昨年12月のBFIで予定されていたEnnio Morricone特集で、でっかいスクリーンで見る予定だったやつ(見たかった..)。 監督Sergio Leone、原作はロシア系のアメリカ移民であるHarry Greyの1952年の小説”The Hoods”。 229分のやつ。
冒頭、ギャングに脅されてぼこぼこにされている別のギャングがいて、そこからNYのチャイナタウンのシアターの中にある阿片窟でラリってるNoodles (Robert De Niro)のところに伝令が飛んで、そこから彼が動きだすのと並行して、彼の少年時代のお話がゆったりと起動される。 1918年頃のブルックリンのユダヤ系移民の町で、そこの近隣のガキ共 - Max, Patsy, Cockeye, Dominicとつるんで悪いことしたり地元のボスBugsyとやりあったり、鷹揚な女友達のPeggyとセックスしたり、食堂のFat MoeのとこのDeborah (Jennifer Connelly → Elizabeth McGovern)に憧れたり、そうやってNoodlesを中心とした仲間たちの話が描かれる。
Bugsyに殺されたDominicの復讐でBugsyと警官を殺したNoodlesは刑務所に服役して出てきたのが1930年 - 禁酒法の時代で、かつての連中と一緒に闇商売で稼いで、でもそれも禁酒法解禁とともに終わると、Max (ames Woods)はよりでっかいヤマを狙ってニューヨーク連邦準備銀行襲撃の話を持ちかけるがNoodlesはそれを拒否して、それが運命の別れみちで、こんなふうに話は1968年まで繋がっていく大河ドラマで、ただしお話は時間に沿ってリニアに流れていくわけではなくてラストまで行ったり来たりを繰り返す - それらはほぼNoodlesの頭のなかで起こる。
彼らは基本はニックネームで呼びあって、別の名前を使ったり、別の人物とか別の死体になりすましたりもするのだが、いくらそういうのをやっていっても顔と目を見ればそうとわかる絆の元に生きていて、しくじっても裏切られても裏切っても逃げて隠れても許される/許されない、そういう関係の間柄にあって、それは”The Godfather”みたいに家族の血や系図を巡るドラマでも、Martin ScorseseのギャングものみたいにXXを巡る確執や憎悪や葛藤を前提としたドラマになっているわけでもない。 ドラマというよりは「やったろうぜ」みたいな共通の夢や野望と共にあった仲間たちの成長譚みたいなところ中心にとりとめなく描いた「失われた時を求めて」のちんぴらやくざ版、のようなかんじもする。
息詰まる展開とか思わぬどんでん返しに驚愕とか「あっという間でした」の濃さとは少しちがう、時間軸が伸びたり縮んだり時代があっちに飛んだり戻ったりで慌しくて、気がついたら3時間半が過ぎていた。
Federico Felliniが男 - 女を、都市を舞台に描こうとした終わりのない物語をすべてが若いアメリカ東海岸都市の不屈のガキ共の物語としてゆるく適用してみること、そのタイトルに”America”ってぺたっと貼ってしまうこととか、とてもヨーロッパ的な目線を感じた。 彼らの夢も現実も思い込みもブルックリンのユダヤ系移民の世界とチャイナタウンの阿片窟のなかに収まってしまうような、そんな目線。 開拓精神、みたいのは、なにそれ? になりそうなー。
他方で、これはもちろん西部劇の時代から延々と作られてきた典型的な男たちによる男たちのためのバディ映画であることも確かで、これをPeggyやDeborahやCarol (Tuesday Weld)の目線で再構成させたようなものが見たい。 いまの映画監督でそれができるのはJames GrayかTodd Haynesか。それかあの阿片窟のなかで全てが過ぎ去っていく”Flowers of Shanghai” (1998)みたいなやつ。
他方で、橋のたもとを野郎共になった彼らが行進していくとことか、バカみたいだけど「これが映画だ!」みたいにゴージャスなシーンが満載であることも確かで、この辺は文化財のように見てうわー、って唸っていればよいのかしら。 今後のデジタルがいくらがんばっても無理そうなやつ。
2.21.2021
[film] Un amour de Swann (1984)
2月13日、土曜日の昼にCriterion Channelで見ました。英語題は”Swann in Love”。
ここでは先に亡くなられたJean-Claude Carrièreの追悼選集が組まれていて、そこにあったので。
で、ここには彼が活動初期に共同監督をしていたPierre Étaixの作品もあったので、短編とかも見たりして、たまんないかんじになる。Pierre Étaix、いいよねえ。
プルーストの『失われた時を求めて』の『スワン家のほうへ』の第二部『スワンの恋』の映画化。
大昔、90年代の中頃にNYにいた時、地下鉄とかバスの中とか待っている時間に長編小説を読むのにはまっていたことがあって(移動中の時のみ読む、ていうのがルール)、あんなうるさくてごちゃごちゃしてて夏は暑いし冬は寒いしの中で読めるのか、と思うかもしれないが、実はものすごく集中してさくさく読める。そうやってドフトエフスキーもトルストイもゲーテも文庫で出ているのはほぼ読んで、これもちくま文庫のを読んだ。とってもはまって読み終えるのがもったいなくて、最後まで読み終えた瞬間にUnion Squareの駅に着いたことを思い出す。
それ以来この小説はなんか好きでたまらず、集英社文庫のが出た時も、岩波文庫のが出た時も、光文社古典新訳文庫のが出た時も全巻じゃないけど好きなところを買って、気が向いたときに適当なところを開いて読んでる。読んで数ページ行ったところで薬が効いてくるみたいに向こうの世界が開けてくるかんじがよくて、これはどの訳本でもそうなるので、たぶんそういうやばい効果をもたらす小説なのだと思う。こないだもBFIの前にいつも出ている古本市で、ペンギンの”Swann’s Way”の1921年の英訳本を買った。英語だとこの辺のかんじはどうなるのかしら。
この小説を読むことそれ自体が(よくできた)映画のように完成されたひとつの世界の中に入っていくような痺れる経験をさせてくれるので、これの映画化に求められるのは、これと同じような経験をさせてくれるのかどうか、それができていればストーリーなんてどうでもいいの(とまでは言わない)。
他の映画化作品だとChantal Akermanの”La Captive” (2000)は昔に日仏で見ていて大好きなやつで、Raúl Ruizのはまだ見れていない。
監督はVolker Schlöndorff。元はPeter Brookの企画で脚本も彼が一部書いていたものを彼が引き継いだと。撮影はIngmar Bergmanの”Persona” (1966)や”Fanny and Alexander” (1982)を手がけているSven Nykvist。
原作ではこのパートは、主人公である語り手の一家の友人であるSwannの若い頃 - 当然語り手が生まれるずっと前 - の恋を描いたもので、ここだけ独立した変な位置にある - ただこのパートがなぜ導入に近いところに置かれているのかは読み進めていくとわかってくる - のだが、映画では、老いてよれよれになったCharles Swann (Jeremy Irons)が、若い頃の自分の恋を回想する、という構成に変わっている。 小説の語り手はどこでどのような状態にあるSwannからこの話を聞いたのか、というのがちょっと気になるのだが、映画に浸る上で特にもんだいはない。
Swannはユダヤ人の仲買人なので当時の社交界のなかでは変な位置にいるのだが、裕福なヴェルデュラン夫人 (Marie-Christine Barrault)のサロンに出入りしているうちに高級娼婦のOdette de Crecy (Ornella Muti)に出会ってめろめろになって、というか、めろめろになるというのはこういうことだよ、っていうようなぐでぐでとだらしない(どこにも行かない行けない)恋模様が描かれる。 この他に重要な登場人物となるゲルマント公爵夫人 (Fanny Ardant)とか同性愛者のシャルリュス男爵 (Alain Delon)とかも出てきて、小説全体の基調底音となるヴァントゥイユのソナタが若い頃のSwannに与えたドラッギーな効果とかも映像になっている。
この後の小説全体において重要な位置を占めることになる主要な人物や要素が網羅されているので、今のフランチャイズ映画でいうとprequelと呼ばれるパートになるのだろうが、そんなことを気にしなくても十分に楽しめる。 ある部屋の調度や棚の奥や調光やそこに流れてくる音楽やそこに佇んでいる(たんにクスリでラリっている)女性にやられて溺れてそこに囚われるという経験ってどういうものなのか、そうなる過程で世界はどんなふうにゆるりとひっくり返るものなのか、などがきちんと描かれてその横でしたり顔のシャルリュス男爵がふむふむ、とか言っている。変態ばんざい、みんなでストーンしよう、っていうだけなのだが、それのどこが悪いというのか、って。 ここに乗れないひとにはものすごくつまんないやつかもしれない。
安っぽい嘘っぽい、っていうのとは違う、あやしくてマイナーで、でも確かに目の前にぶら下がっていてどうするどうしようかってなる世界と、その網にまんまと引っかかって絡まってじたばたしている人々の悲喜劇を描いてきたのがJean-Claude Carrièreさんだったのだなあ、って。
少しだけ暖かくなってきたのだが、粉らしきものが飛んでいるようなのでちっとも嬉しくない。
2.20.2021
[theatre] Roman Tragedies (2007)
2月14日、日曜日の14:00-20:00、オランダのThe International Theater Amsterdamのストリーミングで見ました。
初演は2007年で、シェイクスピアのローマ悲劇三部作 - “Coriolanus” - “Julius Caesar” - “Antony and Cleopatra” を一編の作品のように流しで一挙上演するやつ。演出はIvo van Hove。シェイクスピアも演劇もそんなに詳しいとは言えないのだが見てみる。6時間のオンライン視聴というのがどんなもんかも含めて。
Ivo van Hove演出の舞台はこちらに来ていくつかライブで見ていて、ストリーミングだと先月1月10日にあったDavid Bowieの"Lazarus”も見ている。これ、感想を書くのを忘れていたがIvo van Hove作品としてはやや物足りなかったかも。”The Man Who Fell to Earth” (1976) の後日譚とか、Bowieの歌を配置するとかいろいろ制約もあったのかもしれないけど、スクリーンもひとつだしカメラは動くけど舞台も一方向だし、Bowieの多面性とその表裏にある孤独を見せるにはもっといろんなやり方があったのではないか、とか。
これまでに見たIvo van Hoveの舞台で圧巻だったのは2019年の6月にBarbicanで見たComédie-Françaiseの”The Damned (Les Damnés)” - 『地獄に堕ちた勇者ども』で、今度の三部作はあれに近いのを感じた – 現代史劇/悲劇、でもあるというところも。
舞台は全体が大きなTVスタジオのような仕様になっていて、モニターが全方位で置かれていて、奥や両脇に音響やコンソールを見て操作するスタッフが常に控えてカメラを抱えてうろうろしていて、楽屋や控室のようなものもなくて着替えやメイクアップも同じ舞台上で、これらがリアルタイムで進行していくさまが画面にそのまま映り込んでいて、それを実況するニュースキャスターがいて、劇中にも”Breaking”のテロップが流れてきたりする。
歴史上の出来事をコスチュームから言葉遣いまで含めてステージの上に忠実に再現することの欺瞞、とまでは言わないが、それに伴う嘘っぽさやギャップに十分自覚的であること。それを言うならシェイクスピアが紀元前の出来事を劇作として悲劇として創作した時点で起こっていたのではないか、なのだが、それも含めて現代の劇として、「悲」劇として、現代の「アート」を見にきた「観客」の前にがんがんブロードキャストしまくること、そうやって放たれたいろんな矢が我々にどんなふうに刺さるのか、それはSNSやニュースが毎日のように突きつけてくる世界のひどいありさまとどれくらい近いのか同じなのか、などなど。このへんは彼の舞台を見ていつも思うこと。 現代演劇、というのは古典を扱っていてもこういうふうに見て見られてなんぼではないか、とか。
これと同じことを映画でやろうとしてもそんなにおもしろいものにはならない気がする。 全体を見渡すというときの「全体」が可変で、そこから自分で細部に分け入っていくのって、演劇ならではの楽しみ、なのではないか。
演目のサイトには開始時間00から分単位でのタイムテーブルがあって、その通りに進行していってセットチェンジ(この5分とか10分で数百年が経過していく)の時間になるとキャスターであるMCがここまでの進行状況やそれに対する周辺諸国や国内での反応 - 彼の支持率はxx%です - や今後の展望をニュースの形で伝え、xxxの暗殺まであとxxx分とか出たりする。劇中も背後のモニターには今の時代のニュース - トランプと北朝鮮とかメルケルとかオリンピックとか日本のアニメ? を流している。
登場人物はローマ時代の服装ではなくて、ふつうにシャープなスーツとかドレスを着ていて、彼らが議会、ではなくてリビングとか会議室のようなところで罵ったり組み合ったりキスしたり、そういうやりとりの中で政治が行われ - 後継が決まったり死んだり消えたりする。
悲劇なので最後は主人公が暗殺されて終わるのだが、ガラス板に挟まれた通路のような隙間(帝国のゲート、って言ってた)に殺される人が運ばれると、上から粗い粒度のモノクロ写真が撮られて、その固定ショットと共にご臨終(生年 - 没年の表示)。あーめん。 戦争のシーンはセットチェンジと並行していることが多くて、パーカッション奏者ひとりがいろんな太鼓をどしゃばしゃ叩きまくるだけ。戦争というよりは演説とか人気の煽り煽られで動いていく世の中。
最初の“Coriolanus”はCoriolanus (Gijs Scholten van Aschat)と母Volumnia (Frieda Pittoors)のドライな確執を中心に公私混同甚だしい政治ショーのようなどさくさが描かれ、次の”Julius Caesar”はBrutus (Roeland Fernhout)の夫婦とJulius Caesar (Hugo Koolschijn)の夫婦のごたごたに女性政治家が出てきて、トーンはやや落ち着いてきて、最後の”Antony & Cleopatra”はAntony (Hans Kesting)とCleopatra (Chris Nietvelt)の関係を中心にもっとも扇情的でヒステリックな修羅場が描かれ、劇場の外に出て叫びまくるEnobarbus (Bart Slegers) - 寒そう - なんかもいたりして、最後は束に折り重なってみんな死んじゃうの。
当時のローマの政治のありようやシェイクスピアの戯曲のなかの登場人物の立ち位置を踏まえて(それと比べてどう、とか)見た方がおもしろいに決まっているのだが、どちらかというとポピュリズムとか現代の政治のありようと対比する(そっちに寄せる)ような描きかたをしていることについては、賛否あるのだろうな。 わたしはおもしろいと思ったけど。
”The Damned (Les Damnés)”との対比でいうと、残虐さ・惨さ(血みどろ)みたいなところには踏み込んでいなくて、知名度のある政治家の狡猾さ・破廉恥さ、それに動かされて右往左往する民(どっちもどっち)のようなところにフォーカスがあたっていて、それが三段跳びの厚さと長さ(6時間)でやってくるその執拗さねちっこさ、というか。
あと、みんなでよってたかって服を着せたり脱がせたり、っていうのは割と共有するIvo Van Hove印。
劇中にニュースキャスターがいたように、同時進行で流れていくTwitterの実況もいろいろとおもしろかった。ストリーミングだとこういうこともできるんだよね。
2.19.2021
[film] 花樣年華 (2000)
2月9日、火曜日の晩、BFI Playerで見ました。
アメリカでやっていたWong Kar Waiの4Kリストア版の回顧上映がBFIとICAに来ていて、ああでっかい画面で見たらどんなにか.. って嘆きつつも、とにかく見る。英語題は”In the Mood for Love”。原題をそのまま訳すと”Golden Years” – でも”In the Mood for Love”の方がはまると思う。今回の特集のなかでは誰もがまず最初にピックするであろう1本。
1962年の香港のアパートに越してきたMrs. Chan (Maggie Cheung)がいて、その隣の部屋に同じようなタイミングで越してきたChow (Tony Chiu-Wai Leung)がいる。Mrs. Chanは商社で秘書の仕事をしていて夫は日本に長期出張中で、Chowは雑誌記者をしていて、妻はやはり仕事でずっといないらしい。アパートには共用スペースのようなところがあって住人たちが麻雀していたり始終ざわついていて、噂話のようなところで誰が何をしているどんな人なのかは筒抜けだったりする。
仕事からの行き帰りで路地や階段ですれ違っているだけでも互いにどんなかんじの人なのかはわかって、そのうちMrs. Chanのハンドバッグが自分の妻のと似たやつであることに、Chowのネクタイが自分の夫のと似たやつであることにそれぞれが気付いて、もちろんだからと言ってそんなこと言えるわけでもないし、ただなにかの予感というか勘みたいのがふんわり被さってそれらがふたりの互いを見る目を少しづつ変えていく。決して恋と呼べるような何かではないがそうではないという確信も持てない。あの人は隣の部屋でひとりで何かを待っている - 自分と同じような何かを知って感じている – そういう意識というか感覚が、階段ですれ違ったり、廊下に佇んでいる姿を見たり、挨拶を交わしたりする毎にゆっくり膨らんだり、綿毛が服にくっつくみたいに引っ掛かってきて、どちらからともなく言葉を交わすようになって、外で一緒に食事をするようになって..
世界の外れのいつもの場所、いつもの時間で必ず起こる、「ただの」偶然のすれ違いや横並びをそうでないように思わせる – そうやって生じるちょっとしたズレをそうじゃない方に矯正させようとする意識の揺れ、眼差しの傾斜が、疲れた日常の繰り返しのなかでいかに”In the Mood for Love”を形作ってそこに人を囲って囚われの彼らにしていくのか。 時間のアートである映画はそのさまをどんなふうに表現するのか、って。 演劇では現すことが難しそうなやつ - 小説は得意そうだけど。
愛を求めているということとか、それぞれの連れ合いがなにをしているのかについては決して語られないし、そんなこと思いもよらない、報いも償いもなにそれ? そういう顔をしながら同じフレーム、同じ部屋に入って映り込んでいたりする。カメラとふたりを見つめる我々はふたりの間にどういうことが起ころうとしているのか、わかる。でも決定的な瞬間とか動作が映りこむことはなくて、どこまでも精巧な人形のようになっているふたりが食器とかランプシェードとか壁とか電話とかタバコまで入念にスタイリングされた状態でモデルのように路地や室内やカフェのなかに立ったり座ったりしているだけなの。
で、そこから1963年のシンガポールに飛んで、そこにいるふたりを見ると、ああやっぱり.. って思うのだが、そこでもまた”In the Mood for Love”が変奏されて。更に最後には1966年のカンボジアにいって、この三段跳びはそういうことなのか、になるのだが、あそこで封印されたものがなんなのかについては語りようがないのだ、って。 生きていたのだからよかったわ、って(← 年寄りの感想) あーでも、1966年のとこはMrs. Chanの方が真ん中に来たほうがよかったのでは、とか。
あと、最初に見たときにも思ったけど、1962年の東京を舞台にMrs. Chanの夫とChowの妻の恋物語が撮られたらおもしかっただろうなー、って。 英語題は”In the Another Mood for Love”。
こういう画面にビロードのように厚くてお菓子みたいに甘くて汁気たっぷりの南国歌謡とかNat King Coleの歌声が被さってくると頭の後ろが痺れてきて、もうなんでもどうでもよくなる。あれらが流れているカフェで1日寝て過ごしたい。
こういう絵巻物みたいな世界だと、この作品もすばらしいけど、この他に(監督は違うけど)“Flowers of Shanghai” (1998)とか“Millennium Mambo” (2001)とか、李屏賓すごい! があって、これらの作品ってなんでどれも世紀の変わり目に作られたのかしらね?
2.18.2021
[film] Barb and Star Go to Vista Del Mar (2021)
2月12日、金曜日の晩、Curzon Home Cinemaで見ました。
雨ばっかり雪ばっかり低気圧とロックダウンがずっと渦を巻いてでどんよりしているところに南の方からぽっかり湧いてでた、みんながこういうのを見たかったっていうどたばたコメディ。
脚本は”Bridesmaids” (2011)を書いて演じたふたり - Kristen Wiig & Annie Mumolo。 プロデュースにはこのふたりに加えてAdam McKay & Will Ferrell - Gloria Sanchez Productions - この連中が入っているのであれば無条件の最前列でなにがなんでも見るしかない、そういうやつ。
中西部の田舎にStar (Kristen Wiig)とBarb (Annie Mumolo)のふたりが幼馴染の仲良しのままそのまま大きくなっていて、定期のお茶会でも仲間(みんな程よく壊れている)からは散々の鼻つまみなのだが、まったく気にしていない - “Step Brothers” (2008) みたいに超然としている。このふたりが年金を使って生まれてはじめて一緒に遠出しよう! ってフロリダのリゾート - Vista Del Marに向かうべくうきうきとパッキングを始める。これは彼女たちにとっての夢と愛と希望に満ち満ちた歌と踊りとパラダイス満載の大冒険になるはずだった..
もういっこは、大きな木の根っこの下に秘密基地があって、そこで世界を壊滅させることができる遺伝子組み換え蚊を育てていて、真っ白な顔の悪の首領Sharon Gordon Fisherman (Kristen Wiig二役)とあと2〜3名と、彼女の愛人の凄腕エージェントEdgar (Jamie Dornan)がいて、でも彼はVista Del MarでStarと恋におちて、それに嫉妬したSharonが怒り狂って.. (こうしてスパイ活劇の要素も加わる)。こういう悪の組織に勝手に売られた喧嘩とか、それでふたりの友情が試されたりとか、あとはBusby Berkeleyふうのミュージカルダンスシーンまである。オールドファンが見たら激怒しそうなやつ。 あと、海があるので、海亀の精みたいのとかMorgan FreemondていうMorgan Freemanの口調で人生を語るカニとか、ディズニーの動物アニメみたいなところもある。
こういうのの筋書きは書けば書くほどおもしろさを削いでしまうので虚しいのだが、とにかく真面目で説得力のある会話や意味のあるアクションをしている画面なんてひとつもなくて、すべてがどこに向かうのかわからない小ネタの小爆発と畳み重ね(への熱中)に終始してて、その全体にはなんの意味も重みもないの。画面はただただ個別のギャグの意味のなさを認識させるために転換したり推移していく。なのでへらへら笑っているうちに、自分がなんで笑っているのかわからなくなってきて、全体としてあまりにくだんないのでそれを確かめる気にもならない。
旅にも買い物にもいけない映画館も美術館も本屋も閉まっている人とも会ってはいけない、でも働けリモートだオンランだお片付けだ成果をだせこれが新しいノーマルだなんだ - みんなが再定義 - 言い訳の言い訳みたいなのでぐるぐるの簀巻きにしてやりたくないことぜんぶにうっとおしい意味をおっ被せてなんとか納得しようとしている、自分も他人も死なないようにするためだけに生きている今日この頃、ひたすらどうでもいいことばかりやって迷惑と破壊の限りを尽くしていくふたりの大活躍がとっても眩しい。彼らはそんなこと意図していないし、こういう見方は正しくないに決まっているのだが、なんか見ていてじーんてうっとりする。
Kristen Wiigって、なにかを背負ったようなシリアスなのもいいけど、こういうおちゃらけたやつはアニメのが多くなっていたけど、やっぱりこういうけらけら笑いながら高速で回転していくようなのが一番だよねえ、って改めて思った。”Ghostbusters” (2016)ですらまだまだなの。彼女はあんなもんじゃないの。
それにしても”Bridesmaids”からすでに10年、というのが衝撃すぎる。
2.17.2021
[film] Normal People (2020)
2月8日の週にBBC iPlayerで見ました。
BBC制作のTVドラマシリーズで、各話30分くらい(エピソードによって長短あり)のが全12話。仕事を始める前とか会議の合間にちょこちょこ見たり。
昨年からずっと見なきゃと宿題になっていたやつをようやく見て、とっても感動した。
原作はこっちではベストセラーになったSally Rooneyの同名小説で、ドラマでの脚本化にも彼女自身の他に、Alice Birch - 映画だと”Lady Macbeth” (2016)を書いた人 – が加わっている。TV Scriptsの本も出ていたので買った。
アイルランドのスライゴっていう田舎で同じ高校に通うMarianne (Daisy Edgar-Jones)とConnell (Paul Mescal)がいて、Marianneは成績優秀なのだがつんとしていて教師にも突っかかったりしていつも一人でいて、Connellも成績優秀なのだが彼はラグビーもできるしみんなの人気者で、Marianneはそれを遠くから見ている。
Marianneのお家はお金持で立派な邸宅があって、Connellの母はMarianne宅の掃除婦をしているので、母を車で送り迎えするのにConnellはMarianneの家に行って彼女と顔を合わせたりしていて、そういうのもあってふたりは近くなっていく。Marianneの母は投資かなんかをやっているばりばりの仕事人で、彼女の兄は引き籠りでぶらぶらしていて、彼女は家庭からは切り離されている。Connellの母はこれとは正反対に誰に対しても優しくて暖かくて、こんなふうに家庭環境には差があって、どちらの家にも父親はいない。
こんなふたりがMarianneの”I like you”っていう小声の告白から付き合い始めて互いの家でセックスしたりするようになるのだが、友人たちの間では(みんなもう知っているのに)ふたりのことを大っぴらにはしていなくて、ConnellはDebs(アメリカのプロム)の相手に別の女性を選んだので、Marianneは傷ついてそれきりになる。
やがてダブリンのTrinity Collegeに進んだふたりは、それぞれにシェアハウスを借りて、それぞれに彼・彼女をもったりしているのだが、なんとなく空虚でお互いが気になりはじめてまた一緒になって、でも夏休みでバイト先がクローズするのでシェアのとこに居られなくなったConnellは一緒に暮らそうって言いだせなくて、ふたりはまた疎遠になって..
こんなふうに年代は明示されないものの原作だと2011年から2015年まで、くっついては何かの掛け違いで距離を置いて、それぞれに別の異性とくっついて、でもそこで(その時の相手とMarianneとConnellの両方を想って)また苦しむことになって、”It’s not like this with other people..”ってもとに戻って、を繰り返していく。 それは互いに不誠実だからとか不真面目だからとかではなくて、相手のことを真剣に思いすぎて直視したり真っ直ぐに言うのが怖くて(その強弱の度合いはふたりが育った環境にもよっていて)離れてしまう、でもそうやって離れても、いつも戻ってくるのはMarianneと過ごした時の、Connellと過ごした時のあのかんじと息遣いと眼差しで、で我慢できなくておかしくなってぐるぐる… になるばかりで。
好きなのに離れることになった時の傷の、傷口のそれぞれの痛み - 剥きだしのそれをじーっと見つめることになるので恋愛の歓び、みたいのはあまりなくて、どちらかというとセックスのぴったり貼りつくかんじがカサブタのような痛みや痒みを思い起こさせて、SMに近いなにかのよう(後半でMarianneはそっちの方に)だが、そういうのとも違うのだって気づくまでに何度かのクリスマスや新年が過ぎて、イタリアでの休暇を過ごし、スカラシップを得て卒業して..
どこまでも暗くて地味な演出で、ふたりが楽しそうに笑ってデートしたりするシーンはあまり出てこない。ぼーっとキッチンシンク(流れている水、壊れたグラス)を見つめたり、深夜に思いつめてスマホを握っていたり、虚ろな目でぼーっと泣いていたり、あとはセックスしているか、それくらい。恋愛ドラマのコードからすると相当に規格外なふうで、それでも画面に引き寄せられてしまうのは彼らが引き摺っているものを我々もどこかできっと引き摺っているからで、それは青春の回顧みたいなのも違う、未だに生々しくあるやつだからだ。
“Normal People”とは何か? みたいな話ではなくて、どちらかというと”Other People”というのが出てくる。ぼくらはなんでOther Peopleとだとだめなんだろうか? って。そういう形で一回転して再定義される”Normal”について。 Normalであれ、という教条的にマウントしてくるあれらとも、変態であれ、という居直りとも程遠い、これがNormalでないというのならなにをそう呼ぶのだろう? っていう小さな問い。 そして現実はというと、Normal Peopleのものではないので、どこまで行っても辛いし苦しいしやってらんない。
あのラストはハッピーエンディングなのだろうか? あれで安心するのはややNormalすぎやしないだろうか、って周囲を見回してしまったり。 シーズン2がNYで撮られますように。
音楽は主題歌みたいなのがいちいちじゃーん、て鳴るわけではなくて、各エピソードの途中やエンディングにNick Drakeの”Horn”とか、Elliott Smithの”Angeles”とか、Yazooの”Only You”とか、Hope Sandovalとか、”Love Will Tear Us Apart”のNerina Pallotによるカバーとか、静かに控えめに聞こえてきて、素敵ったらない。
こんなにも明るくない、ぼそぼそめそめそしながらセックスしてばかりの若者ふたりのドラマを作ったBBCは偉いなあ、って。
もちろん、主演のふたりのすばらしいこと。Daisy Edgar-Jonesさんは確かにAnne Hathawayさんに似過ぎているかもしれない。イズリントンのお生れなのね。
2.16.2021
[film] Malina (1991)
2月7日、日曜日の昼間にMUBIで見ました。
Adaptation、というカテゴリで、原作はオーストリアのIngeborg Bachmannの同名小説(未読)、脚本は2004年にノーベル文学賞を受賞しているElfriede Jelinek、監督はWerner Schroeter。既に明確かつ強固な世界観ができあがっている(と思われる)小説の映画化作品に未読まっしろの状態で臨むのはどうか、というのはもっともだと思うのだが、でもだからといって見ないでおくのは勿体ないので見る。Isabelle Huppertが出ていることでもあるし。 おもしろかったら原作を読みにいくでもいいし。
冒頭、赤いドレスを着た女性(Isabelle Huppert)が父親と思われる男性に叱責されて少女の頃の彼女をビルの上から落っことす。地上で血まみれになっているのは若い男性で、つまり父親によって大人の女性としての彼女以外のすべては殺されてないものにされていることがわかる。
彼女は作家で、彼女の机の傍には武器博物館にいるMalina (Mathieu Carrière)という男 - アナグラムで”Animal”になる- が現れていろんなことを指示したり警告したり話を聞いて落ち着かせてくれたりする(彼女が自分を生かしておくために作りあげたオルターエゴと思われる)。もうひとりIvan (Can Togay)という若い男もいて、彼は彼女と会って情事したり癒しやJoy、永遠の命を与えてくれる。
最初の方で、ウィトゲンシュタインの「沈黙」について聴衆を前に講義していて、終わると大拍手なので人気のある作家のようなのだが、机がある仕事場では(タイプライターがあるのに)手で殴り書きをした紙や手紙をそこらじゅうにまき散らす、本棚の本をぐしゃぐしゃにする、いろんなものを引っ掻く引き裂く、タバコに酒、猫(すばらしいのが2匹)を追いまわす、泣いて叫んで怒って走って酩酊して、Ivanと一緒に行った映画館では上映する映画の中にまで現れて、日常のあらゆる局面におけるIsabelle Huppert百態を見ることができて、その度にMalinaやIvanや秘書(名前がJellinek嬢 - 脚本家と同じ - 原作がそうらしい)がきりきり舞いさせられて大変そう。
ウィーンの古い建物やカフェ – Café Centralがでてくる - オペラや映画や絵画や博物館を通して、女性の表現者としての彼女が直面する内面外面の危機を夢も悪夢も現実も、生物も剥製(猫の剥製すごい)も横並びでぶちまけていて、その洪水にわけわかんない、ってお手あげの人もいるかもしれないが、合間に映しだされるシンプルな水辺や路地(大きな建物に入っていくイメージ)や夕陽の像の美しいこと。
終盤、自分はこれまで“model role”から”mortal role”へと言葉を歪めてきたのだ、と事態をのみ込み始めた彼女が暴力的な父親との過去、その記憶 - 彼はナチスの制服を着ている - について、その先で殺されてしまったかいなくなってしまった友人を呼び起こした後、目ざめに向けて暴れだす終わりの40分くらいはとてつもない。お屋敷での正装のダンスで手袋を落としてはMalinaが拾い、ロウソクだらけの部屋に転がって、切り裂いた服や手紙に火をつけ、ドアに血が出るまで額を打ち付け、Ivanに別れを告げてところどころがぼうぼう燃えている部屋に戻ってのたうち回る。(Malinaは彼女の傍に付いて片付けないと、とか言いつつ暴力を振るったり、彼も錯乱しはじめる)一連の動きは混沌に向かって花びらを撒き散らしていくPina Bauschのダンスを見ているよう。
股間から血を流しながらこの館 - 自分の身体から離れること、「彼」を殺すこと、Ivanとも別れること、等々を巡って手紙や書類が部屋のあちこちで燃えている館でのMalinaと彼女のやりとり、それを通して明らかになっていくあれこれ。壁の割れ目に貼ってあるテープを剥がしてもそこに割れ目はなくて、彼女の鏡像がゆっくり(炎のように)4つに解れていくシーンがすごい。タイプライターを燃やしても電話を燃やしても鳴り続ける電話の音。
Malinaが最後に館を出ていく時に手にした一冊は何だったのだろう?
最後に”Für Jean Eustache”とでる。
やっぱり原作(とできれば脚本)も読みたくなるねえ。
Isabelle Huppertさまの最高傑作はこれ、に更新された。
2.15.2021
[film] Perdrix (2019)
2月7日、日曜日の晩、有料のYouTubeで見ました。
これも”Burning Ghost”同様、日仏で紹介されているのになんでこっちでは見れないのかしら、って探してみたらあった。 英語題は”The Bare Necessity”。 2019年のカンヌ批評家週間で上映されている。なかなかおもしろかった。
冒頭、オレンジ色の車でJuliette (Maud Wyler)が走っていて、車から降りた一瞬に素っ裸の女性が車に乗って走り去ってしまう。そこはヌーディストが暮らしている村だと後から知るのだが、彼女は怒り狂って地元の警察に向かう。 そこの署長がPierre Perdrix (Swann Arlaud) で、車に積んでいた彼女が子供の頃からずっと書いて来た日誌(ジャーナル)が全部盗られてしまったどうしてくれる、と嘆くのだがPierreは普段のお仕事としてふつうの官僚的な対応しかしてくれない。
Pierreの家で、母のThérèse (Fanny Ardant)は自宅ローカルラジオで”Love Is Real”っていうトーク番組をやって自分ちの部屋から視聴者の恋愛相談を受けたりしていて(冒頭、Julietteのカーラジオからも流れてくる)、でもそんなに人気があるわけでもないので、気を使った家族が交替で相談の電話をかけてあげたりしている。で、すべての人に愛は必要、っていう思想を実践すべく哀れな老人に愛を施してあげたり、彼女の亡夫はでっかい肖像画になってリビングに掛かっていて、たまに絵の向こうからこの世を眺めている。
Pierreの兄のJulien (Nicolaus Maury)はミミズの研究家で一人娘のMarion (Patience Munchenbach)からは鬱陶しいと思われ始めている。で、Pierreは子供の頃からずっとひとりでこの家に暮らしてきて、特に不満も困難もないように見える。
で、この家にすべてを失ってどこにも行けなくなったJulietteが現れて自分の身の上を語る。16歳で法的に親との縁を切って完全な独り身になり車で放浪(渡り)をしているのだと。そんなJulietteにとってこんな退屈な田舎にびっちり根を張って一家揃ってじーっと固まっているPerdrixの家なんてありえない! なのだが、することがない昼間にPierreといろんなこと - Pierreはドイツロマン派詩人のNovalisの”Hymns to the Night”を暗唱できるとか - を話しているうちに彼と彼女は親しくなっていく。
やがて村には戦勝記念日のイベントで戦車とか兵士のコスプレをした連中が集まってきて、通りでJulietteのジャーナルを持って歩いている男を見つけたふたりは追跡を始めたり、この他にも山の穴に落ちて動けなくなったJulienとMarionとか(だいじょうぶだこのミミズは食える)、ひとり家を出ることを決意するThérèseとか。
ずっと続いていくものなんてないし、家族なんていつかは失われて順番にお墓に入っていってしまうものなのに、毎日なにをやっているんだろう? っていう問いの反対側(じゃないけど)で日々をずっと記録してきたJulietteとか、戦争の1日をきっちり再現するイベントがあったり、でも肝心なのはそうやって残るもの(それを見るのは誰? なんのために?)ではなくて、突然理解不能ななにか/だれかとして目の前に現れてくるあなたなのだ、って。
突然の闖入者が平和にやってきた村や家族をかき乱す、というのは割とあるお話しだと思うのだが、ここでの闖入者は、冒頭で自身の過去を失った上に自分とは全く異なるやり方で過去や地面を見つめている人たちと出会って混乱し、自分自身の生を建て直すことを強いられることになっている。そんな局面で愛はどこでどんなふうに作用するものなのか。 喪失 → 再生なんて単純なものではなくてどっちの側にも爆発するようにして目と耳を塞いで混乱させる。 そういう倫理を欠いた爆発性可燃物としての恋を割と落ち着いたトーンで描いている、というか。
こういうのってAki Kaurismäkiとかが扱ってきたテーマかも、と思うし、前日の”Burning Ghost”の仕業のような気もするのだが、ラブストーリーとしてはよくできていて - もうちょっと暴れたり滅茶苦茶してもよい気も少しだけ - 悪くないかも。暖簾に腕押しみたいに透明なSwann Arlaudとなんでもかんでも威勢よく噛みついてくるMaud Wylerの相性は後半に向かって輝きを増していく。そしてじたばた青春しているふたりの上空で揺るぎなく愛と墓を見つめてひとり旅に発つFanny Ardantの圧倒的な正しさ(ああいう人になりたい)。
あと、村にはずれにいるヌーディストのコミュニティのなんともいえない存在感 - あのラストの光景のおもしろいこと。
今日は午後から雨だったし、14時から20時まで、アムステルダムのITA - Internationaal Theater Amsterdamのストリーミングでシェイクスピアの『ローマ悲劇』を見ていた。つまんなかったら抜けたり寝たりすればいいか、くらいで見始めたら止まらなくなった。 原作なんて学生の頃読んでほぼ覚えていなかったけど、まったく関係なかったし。演劇おそるべしだねえ。
2.14.2021
[film] Vif-argent (2019)
2月5日、金曜日の晩、有料のYouTubeで見ました。
こっちのMy French Film Festival 2021ではリストには出ているのに”Not Available”となっていて、なんでだよって探してみたらふつうに売ってた。 英語題は、“Burning Ghost”。 2019 年のジャン・ヴィゴ賞を受賞している。
ふつうの都会とか土地のかんじからするとアフリカのようなとこの町の雑踏を映した後で、パリの街中を彷徨う若者のJuste (Thimotée Robart)がいる。彼は鼻の付け根に小さな傷があって、普通の人には姿が見えないようなので、幽霊なんだな、って思う。 そんな彼を拾ったのがAlpha (Djolof Mbengue)で、彼はJusteに服と仕事を与える。 彼には彼にしか見えない人 - おそらく死んだばかりの人 - がいて、彼を見ることができるのもそういう人 - 特定の人だけらしい。 誰が生きているのか死んでいるのか、誰が誰からどう見えるのか見えないのか、生と死がその境目であるらしいのだが、その違いは画面上や会話からだと明確にされない。 Justeは自分の名前以外の過去の記憶を持っていない。 ここまでで、これって別に今の自分らが見ている世界と大きな差がないようにみえる。
そんなJusteはカフェで寝ていた女性Agathe (Judith Chemla)と出会う。彼女は生きている方の人らしいのだが、Justeの姿を認めることができて、彼とそっくりの少年と10年前に旅先のトルコで出会って、みんなで雑魚寝したりしたんだけどまた会いたいな、とか言う。ふたりが散策してから公園で抱き合ってダンスするシーンがすばらしくよくて、そこから「信じられない」とか言いながらキスしてバイクの二人乗りをして、Agatheの部屋に行って夜と共にして、朝になってみると(朝の光の美しいこと)Justeの姿はAgatheからは見えなくなっていた…
なんとしてもAgatheと再会したいJusteは夜にも彼女の部屋を訪れて片方に片方が見えない状態で愛を交わしたり、事故で亡くなった彼女の祖母と会ったり、Alphaのところにいた死神のようなKramarz (Saadia Bentaïeb)にもう一度だけでいいから、ってお願いしたりするのだが …
JusteとAgatheはどちら側の岸辺にいて、どこでどんなふうに再会することができるのか、そこには満たすべき条件とか期限とかあったりするのか、この辺ももちろん答えなんてない(ないものはないんだ)のだが、ふたりが橋の上から遠くを歩いていくふたりを見ているところが泣きたくなるくらいよくて。 一緒にいるふたりが幸せなら生死なんてどうでもいいんだ、って。これもそりゃそうだわ、としか言いようがない。「目を閉じてごらん。一緒だから」
生者と死者のセックスって怪談では定番なのかもだけど、ずっと続いてほしいし抱きしめていたいけど続かない - やがて終わって果てて消えてしまうことの刹那を赤と青の光、昼と夜の光を効果的に使いながら官能的に表現していて素敵ったらない。 その人に、その生に届く届かないについても、橋や車や電車や公園を、事故現場とかをうまく使って絶望的に届かない距離感を演出していて、そのすべてがJusteのAgateと一緒にいたい、だからもう一度生きたい、という思いに縒り合わさっていく。 この辺のうまさ、強さって、比べるのは変だけど、こないだの”Soul”なんかよか断然。
ジャンルとしては幽霊おとぎ話なのかもしれないけど、本来は冷たいはずのゴーストがなんで燃えているのか。幽霊が恋に燃えたら果たしてどんなことが起こるのか、っていうのを現実界のお話として全く無理なく破綻なくそこらに展開している。幽霊ストーリーというよりはどまんなかのラブストーリーだと思った。 『ベルリン・天使の詩』(1987)で歴史に寄り添っていた天使たちがみんないなくなって、替わりに幽霊が、という世界として見ることもできるかも。
その世界に坊主頭 - うん、お坊さんだわ - の抗わないでも流されない透明な面構えのThimotée Robartは幽霊と世界のありように見事にはまっているし、ちょっと輪郭が脆くて光によってはこの世の人に見えない複雑な笑顔を見せるJudith Chemla、このふたりの青と赤の対照が素敵でいつまでも追っていたくなるの。
音楽は、最後の方のラフマニノフのピアノ協奏曲No.2が堂々とうねって、あとは公園でのKinksの”I Go to Sleep”のJeanne Gorinによるカバーとか、”I’m Lost Without You" - Marlon Williams とか。素敵だよねえ。
地震の被災地がとても心配。 まだ被害の規模が十分にわかっていない状態で書いているけど、もし被災した地域にケアが必要な人がいて、海外にいる家族が緊急で帰国しなければいけないようなケースについて、政府は入国のところを(検疫安全は最低限守るとしても)できる限り配慮してあげてほしい。
2.13.2021
[film] One Night in Miami… (2020)
2月4日、金曜日の晩、Amazon Primeで見ました。
Kemp Powers – こないだの”Soul” (2020)の共同監督 - による同名の演劇 (2013)をRegina Kingが(初)監督したもの。”If Beale Street Could Talk” (2018)での彼女の演技に感動した人はMUST。
1964年2月25日、フロリダのマイアミビーチで、まだMuhammad Aliになる前のCassius Clay (Eli Goree)がSonny Listonとタイトルマッチを戦って、圧倒的強さを見せつけてTKO勝ちする。
で、その輝かしい勝利の晩であるから女性を大勢招いたどんちゃん騒ぎで朝まで延々盛りあがるかと思いきや、Malcolm X (Kingsley Ben-Adir)が取っていたモーテルの一室に来たのはCassiusとNFLのJim Brown (Aldis Hodge)とシンガーのSam Cooke (Leslie Odom Jr.)の4人だけで、みんな俺らだけ? こんなすごい俺らがせっかく集まってきてるのに、食べ物もなんもないの? って最初はぶーぶーなのだが、Malcolmは冷静で、ある意図をもってやったのだと。
プレゼンスも、パワーも、影響力も、当時のBlack Americanを代表する最強の4人がある晩、ひと部屋に集まって、彼らならFBIが来ても宇宙人が来ても蹴散らすことができる、そんなAvengersのような4人でもどうしても動かせなない壁とか重石があった。 それが(明確には語られないが)白人たちのアメリカ - 最初の方で、NFLのスーパースターのJimが白人の家を訪れて歓待されても、荷物を動かすの手伝おうか? と申し出ただけでニガーは家には入れない、ってさらっと言われるエピソードとか - こういうのはこの先自分たちがどれだけの名声や金を手にしても変えたり動かしたりしようのないなにかなのではないか? 彼らは、彼らの立っている位置故に、その見えない壁がはっきりと見えていて、そこをどうにかしたい、と思っているMalcomが彼の部屋に、彼の脳の内側に、他の3人を呼びこんで対話させてみようか、という舞台劇。 4人のことをそんなに知らなくても十分楽しめる(と思う)。
勿論、彼らは彼らなりの事情や葛藤を抱えていて、元気いっぱいのCassiusはMalcomのガイドによってイスラム教に改宗したばかりだし、スポーツ界でやれることの限界を感じているJimはハリウッドに転身しようとしているし、Samは白人の客に媚びてばかりのショウビズのありように限界を感じてはじめているし。 みんなCheerUpなんて必要ない。でもどっちに向かって走りだすべきなのか、なにを語りだすべきなのか、立ち止まって考えた方がいいかも、って。
実際にこの時点での彼らの(例えば公民権運動に対する)意識や関心がどの辺にあったのか、そもそもあんな喋り方や動きや着こなしをする彼らだったのか、なんでこの4人が選ばれたのか - 多少のリサーチはしているのだろうが – そういう懸念はあまり関係ないしそもそもこの4人が一堂に集まった記録があるわけでもないので、これは完全に練りあげられた架空の、密室の会話劇なのだが、それ故にそれがもたらす高揚感とある種の爽やかさはすばらしい。
本当にすぐそこまで来ているんだ – とMalcomは静かにいう。Rolling Stonesは弟子のBobby Womackが作った”It’s All Over Now”をカバーしているし、これを聴いてみろ、ってプレイヤーでBob Dylanの“Blowin’ in the Wind”をかけてみたり。この歌には世界を変える力があると思わないか? 君の歌にもそういう力があるんだと説く。Samはうん、そうかも! なんて方には勿論行かなくて、そうかもしれないそうじゃないかもしれない、と俯いて考えながらその年の12月に"A Change Is Gonna Come"をリリースすることになる。
この対話だけではなくて、それぞれがそれぞれの場所で静かに火を点けられ、あるいは自分で火を点けて、夜明けの町に足を踏み出そうとしていたひと夜の出来事があったんだ。って想像してみるのは悪くないの。
この約1年後にMalcomもSamも殺されてしまうことを我々は知っている。その事実故に、現時点にまで至るどこまでも終わらない正義の戦いを知っているが故に、ここで語られたこと - この一夜が灯台のように照らした光は正しかったのではないか。
ここでの女性の影は薄くて、彼らの妻も少しだけ出てくるけど、まだ客席の後ろの方にいる。それは勿論意図あってそうしているわけで、この数年後、どこかを舞台にした女性版が作られたらよいかも、と思う。
4人それぞれの、落ち着いた - というのとはちょっと違う、奥から溢れてかえってくるものを決壊しないように抑えこんでいる(ことがわかるようにする)演技 - 怪しくなる一歩手前の - がとてもよくて、それはRegina Kingの演出の力ではないか。彼らのパワーをマッシブにアイコニックに見せないようにしている、というか。
毎日のようにいろんな人々が亡くなっていてあーあー、の日々なのだが、自分を保たせるのに精一杯なので悼むとかお悔みとかそういう方になかなか向かわないのはよいことなのかどうなのか。 よくないよね。
2.12.2021
[film] The Prince of Tides (1991)
1月31日、日曜日の晩、Criterion Channelで見ました。
ここの1月末で見れなくなるリストから、Barbra Streisand監督作を見ていくシリーズの最後。彼女の監督キャリアのなかでは2作目。 邦題は『サウス・キャロライナ 愛と追憶の彼方』..
Pat Conroyの86年の同名小説が原作で彼自身が脚本にも加わっていて、はじめは映画化権をRobert Redfordが取得して自分の監督・主演で企画を進めていたがスクリプトに納得がいかなくて、熱意を示していたBarbra Streisandの方に譲った、とか。
サウスカロライナで教師とフットボールコーチをしているTom Wingo (Nick Nolte)は妻のSally (Blythe Danner)と子供達とほぼ幸せに暮らしていたが、母のLila (Kate Nelligan)から呼び出されて、NYで作家/詩人として暮らすTomの妹Savannah (Melinda Dillon)が自殺未遂をして入院したというので見てきてくれないか、と頼まれる。LilaはTomの父とは別れて地元のお金持と再婚しているので体裁とか気になるらしい。
Tomはぜんぜん好きじゃないというNYに飛んでSavannahのアパートに滞在して彼女の担当の精神科医Dr. Susan Lowenstein (Barbra Streisand)とのセッションを始める。大声で身振りも派手な南部男の典型Tomと地味クールな東部女の典型Susanはまったく噛み合わないのだが、Savannahの自殺(これが数度目)の原因を掘るためにWingo家の過去 – DV野郎だった海老漁師の父、それにうんざりして逃げようとしていた母、亡くなっている兄のLuke – と当然自分のことを話さざるを得なくなる。それと対面するSusanはSusanで著名なヴァイオリン奏者の夫(Jeroen Krabbé)がいつもツアーで不在で、放置されている息子のBernard (Jason Gould – BarbraとElliott Gouldの間にできた実子)の扱いに困っていたりする。
セッションばかりだと疲れるし、とSusanにも請われてTomはセントラルパークでBernardにフットボールのトレーニングを始めて、そういうのを通してTomとSusanの距離が少しずつ縮まっていく。 のだが、映画のキモはSavannahの自殺未遂の遠因近因になっている可能性があってTom自身をいまだに苦しめている(セッションを続けてもなかなか表に出てこない)Wingo家の呪われた血と運命のようなやつで、陰惨な過去の事件も含めてこれだけで1本の映画になりそうな重さなのだが、これと対照的に疎結合な家族からぽつんと切り離れているSusanがそういうのを聞いて南部の男に引き寄せられていく、というのもまたドラマとしてはある、のだろうか?
Tomが経験してきた – そして今もSallyから別れを切り出されたり - 苛酷な、逃れられない運命については説得力があるし、夫から疎遠にされたままBernardまでヴァイオリンの勉強のためTanglewoodに去られてしまうSusanがかわいそうなのもわかるし、そんな孤独なふたりが雑多で騒がしいNYで恋におちるのもわからなくはない、としよう。塊のでっかいロマンとしては背景もキャラクターもきちんと描きこまれてテンポも申し分ないのだが、でも、そもそものきっかけとしてあったSavannahのことは? 彼女が解離性障害で別の人格で本を書いていたこととか、最後に退院してよくなったことはわかるんだけど、自殺の本当の原因はどこの何だったのかってきちんと明らかにされたのかしら? そこがぼやけたままだとサウスカロライナに戻ったTomの家でまた同じようなことが繰り返されたりしない?
その辺の物語を積みあげる境界線が少しだけ気になったのだが、ストーリーの手ごたえ見ごたえみたいなのははっきりとあって、”Yentl” (1983)と同じように主人公の内面に丁寧に向き合おうとする画面の造りはとっても映画っぽいので、厚めの本を読むみたいに見るのがよいと思った。
Nick Nolteはわかるけど、身近にいたらうざそうだなー、ああいう大振りな野郎が好きなひともいるんだろうなー、とか。南部の人ってやっぱしちょっと苦手かも、とか。 これが英国の方に来ると(土地の物語に収斂させようとしたら)スコットランドとかウェールズになるのかなあ、とか。
一瞬、Balducci's(マンハッタンのグローサリーストア)の昔の紙袋が映ったとき、きゅんとした。
Chick Coreaが亡くなった。 レコードはあまり持っていないのだが、NYにいた時、彼(といろんな人々)のライブはほんとによく行った。彼とGary Burtonのデュオのは調べたら2001年だった。 もう20年前かあ… ありがとうございました。 ご冥福をお祈りします。
2.11.2021
[film] L'arbre, le maire et la médiathèque (1993)
2月3日、水曜日の晩、アメリカのMUBIで見ました。MUBIでÉric Rohmerを見ていくシリーズ。
英語題は”The Tree, the Mayor and the Mediatheque”、邦題は『木と市長と文化会館/または七つの偶然』。Rohmerの政治劇とか言われているが本当にそうなのか?
冒頭、小学校でMarc (Fabrice Luchini)が子供達に”If”で代表される従属副詞節の使い方について教えている。自転車に乗りたいというとき - “If” 天気がよければー、みたいなやつ。 そこから、”If”で始まる7章 – 「七つの偶然」-「もしxxがyyだったら…」が織りなす物語がさらさら流れていく。
フランスの田舎の市長Julien (Pascal Greggory)が恋人の小説家Bérénice (Arielle Dombasle)を連れて村を案内している。七面鳥がいて、りんごとか梨とかレタスが生えて、牛にはパセリをあげたり羊もいるし。とても素敵なところで彼はこの村をとても愛していることがわかるのだが、あと10年もすればみんな家で働くようになって職人の数は減っていくだろう、でもいろんな人に出会ったり話すことは大切だし、パリよりもこういう土地の方がそういう可能性に溢れている。だから – ここ=原っぱの真ん中に文化施設(メディアテーク) - ライブラリがあってギャラリーがあってフェスとかもできるような - を建てようと思うんだ、って。
そこには国政選挙の結果を受けた政治家Julienの思惑とかアピールもあるわけだが、Julienが建築家と進めていくその計画に対して、この風景 - 建築現場には大きな一本の白柳の木がある - を壊すなんてありえないとNO! を表明したのがMarc (Fabrice Luchini)で、そこにパリのジャーナリストのBlandine (Clémentine Amouroux)も加わってこの計画について、村の将来についての議論がドキュメンタリーのような画面構成でなされていく。
そこには男性と男性の対話で共和制の時代からの歴史を踏まえた革新と保守、リアリズムを巡る堂々巡りがあり、女性と女性の対話でチェルノブイリやエコロジーやCO2問題も含めた環境に関する懸念が表明され、市民に対するインタビュー - この村はよくなってきているか、これからどうなっていくと思うか、等があり、そう簡単に「結論」なんて出そうにないことが見えたところで、Julienの計画を批判するBlandineの記事が雑誌に出て..
それでも計画は計画で市長として粛々とやっていくから、と進んでいくところで自転車に乗ってきたMarcの娘とボールで遊んでいたJulienの娘が出会って – ここ『レネットとミラベル 四つの冒険』 (1987)のふたりの出会いのよう – 翌日Julienに紹介されたMarcの娘はメディアテークなんていらない、あるものを使えばいいし、ここを町にしたいのならまずは人が寄り集まる公園を作るべき、ってよいことを言うのだが、Julienはやらしい大人の態度たっぷりのやなかんじで相手をする。
結局計画は資金不足で頓挫してしまうのだが、これについての教訓とか格言は特になくて、学校のMarcやJulienやBéréniceや村の合唱団がそれぞれの立場で歓喜の歌や反省の歌を朗々と歌って、歴史っていうのはそれらの歌が重なってできていったもので、それがちゃんとしたハーモニーになっていたらメディアテークはできていたかもしれないねー、くらい。 結局なるようにしかならない、みたいなことしか言っていないのかもしれないけど、どんなもんでも振り返ってみればその程度のもんで、だからといって政治から遠ざかるのは別で、あるべき姿や理想について語ったり貼ったりしておくことって絶対に大切だし必要なのではないか、って。
で、ここまでくるとこのお話って彼の恋物語の語り口と似ていることに気付かないだろうか。『美しき結婚』(1982)とか『友だちの恋人』(1987)にあったような割と自信のある女性が永遠かつ最適のなにかを求めながらもいろんな条件とかタイミングで手元からするりと逃してしまうあれらの。
これはもちろんフィクションだし、役者たちもそういう動きをするのだが、編集しなおしたらFrederick Wisemanのドキュメンタリーみたいになりそうな気がする。
あと、こういう政治とか決定の場における男女の役割差みたいなところは割と意図的に(戯画化して)描いている気がする。
いまアメリカのMUBIでは“Bérénice” (1954)や“La sonate à Kreutzer” (1956)といったRohmerの初期の短編も見ることができる。 前者はEdgar Allan Poeの、後者はLeo Tolstoyの原作で、Rohmer自身が主演していて、結構怖いの。 サイコホラーの主人公で、最後に屋根裏で半狂乱状態で発見されていたりしそうな。
怖いといえば、昨日から始まったトランプの弾劾裁判を横目で見たりしているのだが、証拠として提出されてくる暴動現場の映像が本当に恐ろしい。 そして、これを壇上やTwitterから煽っている(ように見せているのだとしても、あのタイミングであんなことを言っている)元大統領はさらに恐ろしい。こんなの弾劾どころかはっきりと牢獄行きではないのか。 あと、直接の関係はないけどTwitter社の対応の遅さもー。 人が何人も亡くなっているんだよ。
2.10.2021
[film] Énorme (2019)
2月2日の火曜日、MUBIで見ました。
My French Film FestivalでBFIでも見れるし日本でも見ることができる。英語題は”Enourmous”。邦題は『Énorme 奥様は妊娠中』。2020年のジャン・ヴィゴ賞を受賞している。 前日の”Baby Done”に続けての妊娠コメディ(?)。笑えるところもあるが、それだけじゃなくて、いろんな見方や議論ができる(と思う)映画。
国際的な評価を得ているクラシックのピアニストのClaire (Marina Foïs)はツアーで世界中をまわる(日本にも来るシーンがある)日々を送っていて、夫の Frédéric (Jonathan Cohen)が付き人でマネージャーで、彼がツアーの手配は勿論、ホテルから飛行機からボディガードからメイクアップからバースピルまで、ピアノを弾く以外の彼女の生活全ての世話を付きっきりでしていて(Clairに対する質問も全て彼が答えたり)、彼女はそれで自分の音楽に集中できているようだし、結果ふたりは幸せそうに見える。
ある日、飛行機で移動中の機内で、CPRの資格があるFrédéricが緊急出産する場面に遭遇して、産まれてほかほかの赤子を抱きあげたら感動してぼーっとなり、あたしも子供がほしい!ってそればかり思うようになる。 でもClaireとは子供を作らないことで合意しているし、そうなる気配もなさそうだし、でもある日(自分の母親との会話のあとで)、彼女に毎日与えているビルを細工したら.. という悪魔の考えが浮かんでしまい、階下に暮らすスピリチュアル野郎の儀式を受け、彼女にはこっそり別の錠剤を飲ませて、所かまわず何度もやりまくり、夜中には自宅やホテルのトイレの水洗を都度止めて妊娠してるしてないをチェックして、それを確認した後はClaireが体調不良を訴えても医者は予約でいっぱいとかごまかして中絶できなくなる12週間待たせて…
もちろんこんなの本当にやったら犯罪なのだが、これはコメディ映画なので、その証拠に彼女のお腹はひと目でフェイクとわかるくらいにでっかく膨らんで彼女のあらゆる自由を奪うことになって、恨めしい目でFrédéricを睨むことしかできない。こんなふうにどこからかやってきて一定期間、彼女の全てを奪ったり妨害したりする妊娠という事態、それを企んだのはFrédéricなのだが、でもそうなる前のFrédéricの生活は(合意の上とは言え)すべてClaireの「活動」のために捧げられていたのではなかったっけ?
映画のなかで妊娠後の役割や権利を巡るどっちが悪いどっちのせいだの議論や喧嘩は(画面の上では)起こらないのだが、妊娠という(物理的には)女性の身体のみに起こる現象がいかに巨大で(= Énorme)アンバランスで非合理的な役割期待とその配合の上に無反省に乗っかったものなのかを露わにする。 先の”Baby Done”にあったような親になることへの不安や恐怖なんて俎上にもあがらない。ひとつだけ、これまでソロ公演ばかりやってきたClaireが次の挑戦として取り組もうとしていたラヴェルのピアノ協奏曲のコンサートが予定日の近くなのでできるかどうか、くらい。
あとは赤子を待ちきれないFrédéricが嬉々として妊活のワークショップにでたり、Claireに合わせてお腹をでっかくしたり、いろんな育児グッズを買ってきたりする滑稽さと、実際にお産が始まってからの絶望的に前に進まずに(時間の経過と共に担当の医師だけが回転していって)ふたり揃って死にそうになりながら共有していく時間のこととか。
これも前の日の”Baby Done”と同様、仕事を持った男女に突然立ちはだかる妊娠という出来事に懐疑と驚嘆の目でぶつかって(ぶつけられて)、女性はお腹が膨れたからといって出産を歓迎するとは思うなよ、って不機嫌になり、男性はその様子にひたすら右往左往する、というコメディで、とにかく安易に子供を持つことはすばらしい〜に直結していかない(むしろFrédéricの大騒ぎで醒める)のはよいかも。ラスト、Claireは産後でよれよれの状態のまま、ふざけんじゃねえぞおら、の目と表情でたった一人で演奏会場に向かい、ラヴェルの演奏会のステージに立つところなんてかっこいいったらない。
フェミニズムの観点からいろんなことを議論できそうな風通しのよさがありながらも、建てつけはあくまでもバディのコメディになっていて、凸凹なふたりが目の前に立ちはだかる難題にどう立ち向かっていくのか、がひたすらおかしい。おもしろがってよいことなのではないか。だめ?
こういうの(あと、生理をテーマにしたのとか)もっと作られるべきよね。
監督のSophie Letourneurさんの他の作品は、いまアメリカのMUBIで見れるので、もう少し見てみる。
NYでやっていてぎりぎりしていた4Kリストアされた王家衛の選集がBFIにもやってきた。とりあえず1本見て、そのすばらしさに悶えている。公開当時、なにを見て聞いていたのだろうか、って。 今月はCriterionにもいろいろ入ってきているのだが、時間がぜんぜんないわ。
2.09.2021
[film] Baby Done (2020)
2月1日、月曜日の晩、BFI Playerで見ました。
ニュージーランドのコメディで、Taika Waititiがプロデュースしている。脚本は女優のSophie Hendersonさん。
樹木医のZoe (Rose Matafeo)はパートナーのTim (Matthew Lewis)と一緒にトラックに乗って木々の間を飛び回っている日々で、Zoeは木登りの世界大会に出ることを目指していて、友人のBaby Showerのパーティとかに行っても子供持つなんてありえねえわー、って言っているのだが、ある日木から落ちて、検査してみたら自分が妊娠していることがわかって、どうしよう… になる。
子供は欲しくない、いらない(断定)のではなく、子供の出現によって自分の描いていた夢とか計画がどうなってしまうのか、更には、親になった自分というものが想像つかない、わからない、という恐怖と、とりあえず木登りの世界大会にはなんとしても出たいし、という思惑でひたすら行動が怪しくなっていくZoeと、そんな彼女の様子から妊娠に気付いてパニックして、輪をかけておかしくなっていくTimの姿を描く。
キャラクターとしてはZoeが豪快なお姐さん肌なのに対してTimはぼんくらナイーブで、Zoeが無謀に適当に彼方にぶん投げてしまうあれこれを必死で拾ってくっついていこうとして却って墓穴を掘って嵌って、一緒に出なければいけないもうじき親になるふたりのためのワークショップもTimひとりで出て浮きまくったり。
タイトルは冒頭のパーティに出た時に彼らがいう“Married, House, Baby, Done.”から来ていて、要するに、結婚して - 家もって - 子供もって - おわり(あがり)になってしまうような人生のお決まりコースをあーやだやだよう、って嘆き畏れる目線と態度なのだが、それが洒落じゃなくなってきて、それでもとにかくバンクーバーの世界大会だけは出たい、出るからな、の方に想いが突っ走っていって、Timは置いていかれて、ひとりで航空券を手に空港に向かったZoeはチェックインカウンターで「お客様失礼ですが..?」って訊かれて「失礼な(怒)!」って突破して機内までいくのだがそこで動けなくなって…
思いもよらなかった妊娠が(どちらかというと)男の側にもたらす衝撃とじたばたを描いたコメディとしては”Knocked Up” (2007)があって、あれは数々の無計画と思考停止が組み合わさって引き起こされる笑いが中心で、女性の側からのだと”Juno” (2007)があって(どちらも2007年というのは偶然?)、これはまだ高校生だしどうするよ? っていうお話しで、今作はどちらも共通の仕事(樹木医)と目的をもってなんとかやってきた彼女と彼に突然降ってきた妊娠、というより彼方よりやってくるであろう子供がふたりの今後になにをもたらすことになるのか、を結構具体的に – 妊婦グッズとかワークショップとか、所謂妊活のなんだそれ? も含めて - 描いている。子供ができたらこんなことやる/こんなふうになるのか、みたいにいちいちぶつかってくるあれこれが驚嘆と共に綴られていて、なんじゃこれは? っていうお笑い が。
こういうのって、なんだかんだいっても赤ちゃんがやってくることはすばらしいよありがとうー(泣)みたいな方に行きがちな気がするのだが、この作品はそれはそれ、のように軽く流して、あくまでもふたりが想像もしていなかった溝に嵌ってじたばたする様に集中していて、それが結果的に“Married, House, Baby, Done.”のお決まりを転覆しようとする、その絶妙な軽さがすばらしい。
Lena DunhamやAmy Schumerの「それがなにか?」のふてぶてしさと重心を湛えてのしのし堂々と歩きまわるRose Matafeoのぶっとさと、Harry Potterの最後のやつで横から出てきてVoldemortの蛇をぶった切ってしまう(あのシーン好き)Neville - Matthew Lewisのコンビの楽しいことったらない。
この分野のコメディとしてはJohn Hughesの”She's Having a Baby” (1988)が大好きで、公開された時に2回くらい見たのだけど、これ、今見たらどう思うだろうなー、って。
日本に来たら不謹慎ではないか、ってコメントが吹きそうな気がする(偏見)。
2.08.2021
[film] Blind Alley (1939)
1月30日、土曜日の晩にCriterion Channelで見ました。1月末で見れなくなるリストから。
James Warwickの同名ブロードウェイ劇をベースにしたもの。
大学で心理学を教えているDr. Shelby (Ralph Bellamy)がいて、刑務所から凶悪犯Hal Wilson (Chester Morris)が脱獄したニュースが流れた晩、彼の湖畔の山荘で友人達を呼んだパーティを開こうとしている。 脱獄したHalは看守を人質に仲間たちと車で逃げていて、翌朝の別の仲間がボートでやってくる迄に湖畔のどこかの家に逃げこもう、って。
そのターゲットになったのがShelbyの家で、非情にも看守を殺して捨てた一味 - Halとその情婦Mary (Ann Dvorak)と仲間3人くらいが、夜中にShelbyの家に押し入る。 Shelbyの家には彼ら夫婦と男の子と友人の作家夫妻と銀行屋とメイドがふたり、人数としてはほぼ互角なのだが、Hal達は銃を持っているし電話線は切っちゃうし、孤立した森の中の一軒家での夜を徹した戦いが始まる。
夜明けにボートがやってくるまで、この状態で警察に見つからないようにじっとしている必要があるし、人質は別々の部屋に隔離されて監視されているのですることもなくて、その状態にいらつくHalがShelbyの本棚にある犯罪心理学の本の背を見たりしているのとか、彼の指が不自然に動かないことに気づいて、少しづづ話かけてみる。最初はうるせえ、しか返ってこなかったのだが、夜は長いから横になっていれば、ってソファで寝かせている間に、Maryから彼がずっと悪夢にうなされていることを聞いて、実際にうなされているのを見ると、彼が起きた時に自分ならその悪夢と苦痛を取り除くことができるかもしれないよ、と持ちかけてみる。
こうして頑ななHalを解しながら(本当のことを言ってくれないと治療できないよ、とか)少しづつ話を引き出して誘導して、その悪夢が幼少期の母親と父親と自分の関係とある出来事にあることが見えてくる。彼の夢の起源は思い出せない箇所も多くてそんなに簡単にいかないのだが、そうしているうちに昼間に少し話をしたShelbyの大学の生徒が訪ねてきて、様子を怪しんで暴れたら殺されたり、Halの手下とShelbyの友人が小競り合いをしたり、メイドは高い窓から抜け出して助けを探しに行ったり。
最後は結構あっさり、警察に囲まれたHal一家との銃撃戦になるのだが、過去のトラウマと苦痛を解かれたHalは他人に銃を向けることができなくてやられてしまうのだった..
“Blind Alley” - 袋小路って、封印されたままHalを縛って苦しめていた過去の暗い記憶のことであり、脱獄犯が逃げ込んだ夜の山荘のことでもある。どっちも逃げ場はなくて、明るいところに出たらすべて解決する、って。 お話として69分にうまくまとめてあると思った。
The Dark Past (1948)
1月31日、日曜日の晩にCriterion Channelで見ました。これもこの日で見れなくなるリストにあって、↑ のリメイクだというので、この際一緒に見ておくか、って。 こちらは73分。
原作は↑ と同じ劇作を役名も含めて少しだけ変えている。監督はRudolph Maté。
冒頭、語り手のDr. Andrew Collins (Lee J. Cobb)は大学ではなくて警察に勤めていて、街の通勤の光景を映し出しながら、こうやって毎日電車に乗って規則正しく通勤している市民も、ちょっと道を踏み外しただけでここ(警察)に来ることになってしまう、と毎日警察に搬送されてくる被疑者たちの様子を映し出し、やたら乱暴で自棄になっているかに見える彼らだって、小さい頃に起こった過去の何かが要因である可能性があるんだよ、例えば.. と回想に入る。
ここからは脱獄してきたAl Walker (William Holden)とDr. Collinsの山荘の攻防は同じようなかんじで展開して、↑ で殺されてしまう学生の役はDr. Collinsの同僚のおじさんで、こっちは殺されずに怪我だけとか、Alの終わりもちょっとだけ違う。 ここは冒頭の市民に呼びかける内容であることへの配慮 - 最初から性悪の子なんていない、過去にどこかで受けた傷が原因だったりするのだ - だから自分のような心理学も必要なのだ - って少し希望を持たせる - というのもあるのかもしれない。
キャストではWilliam Holdenの凄みたっぷりの石頭な悪っぽさがすごい(往復ビンタとか)のと、彼の前に立つLee J. Cobbの揺るがない幅広なかんじも見事なの。 ↑ のDr. Shelby = Ralph Bellamyも素敵だったのだが、こっちの二人は、本もんのワルと本もんの医者に見えるかも。
でもこの件、あの短時間のインタビューでHalやAlの過去の傷を明らかにできたからいいけど、あんまり心理学すごいぞ、って印象づけるのもどんなもんかしら、って。あれなら寝ている間に催眠術かけたって同じかもだし。心理学もこないだ片隅で話題になっていた社会学もそうだけど、あくまでも科学としてきちんと使わないとね、とか。
今日の雪はちょこちょこしみったれて吹きあげてくるやつで、死ぬほどつまんない週末だったのでBBCでSuper Bowlを見ている。CMごとやってほしいのにな。
2.07.2021
[film] The Mirror Has Two Faces (1996)
1月31日、日曜日の昼間にCriterion Channelで見ました。1月末で見れなくなるBarbra Streisand監督作品の2つめ。彼女の監督としては今のところ最後の1本。 邦題は『マンハッタン・ラプソディ』… 2時間超えのRom-com。
フランス映画 - “Le Miroir à deux faces” (1958) - 未見 - を緩く翻案したものであるそう。
コロンビア大学の数学の教授Greg (Jeff Bridges)は、業績は立派で講義にも生徒は集まってくるのだが、女性が苦手で自著の出版記念講演でも元カノが現れただけで動揺してパニックになって、いいかげんそういうのを克服すべく、TVでやってるエスコートサービスに電話してどうしたらいいのか相談してみると、広告でも出してみたら? って言われたので、こちらコロンビアの教授(男) - 共通の関心とゴールを共にできる女性求む - Ph.D.持ちで35歳以上で外見は問わない(.. おいおい)、とかいう広告を出す。
同じくコロンビアの英文学の教授Rose (Barbra Streisand)は、マンハッタンのウェストエンドのアパートに母のHannah (Lauren Bacall)と暮らしていて、妹のClaire (Mimi Rogers)とAlex (Pierce Brosnan)の結婚式に出席した際、自分はもうこのまま結婚しなくてもいいのかも、って言いながらも、自分のことを本当に理解してくれるパートナーがいたらねえ、とも思っている。
Gregの広告を見たClaireがRoseに無断で返事を出して、それを受けたGregは気になってRoseの講義に出てみたら、生徒でいっぱいの会場で、なんでも肉体的な関係が優先されるのなんて間違っている!とかやっているので感銘を受けて(彼はここまでで講義から出てしまうのだが、この講義の結論はそうではない、というのが後で効いてくるの)、彼女を食事に誘って、キスをするのすらぎこちないデートが始まるのだが、会話は楽しく盛りあがるし、実際に一緒にいて楽しいからGregはプロポーズして、ふたりはCity Hallで地味に結婚する。
尊敬と友情に基づいた肉体関係なしのふたりの結婚生活は円満で、そこそこ楽しく進んでいくのだが、ある日、自分はやっぱりセックスしたいので今晩しよう、とRoseが宣言して彼に覆いかぶさってきたのでGregは撥ね退けて、あきれたRoseは家に戻ってしまう。 会話が楽しいのはいいけど、やっぱり自分は愛したいし愛されたいし、そのために美しくありたいし、それがおかしいことだとは思えない - このテーマを巡って実家に戻ったRoseと母Hannahとの美を巡る対話がすばらしいの。Lauren Bacallがそのまま喋っているみたい - 食事の内容を変えてエクササイズをして髪型も体型も普段の服も変えて、ヨーロッパから戻ってきたGregを驚かせて…
なんだかんだ言っても間抜けで愚かなのは男Gregの方なので、あとは後悔して反省して彼女への愛に目覚めたGregがどう出るか、Roseがいかに勝利するかで、それは夜明けのマンハッタンの通りで、トゥーランドットの愛のテーマが高らかに鳴り響くなか..
愛とか美とか結婚についての極めて本質的な議論が為される教育的な内容 - それ自体はまったく間違っているとは思わない - の映画なのだが、そのやりとりをする二人がコロンビア大学の、それぞれに実績があるらしい教授ふたりで、いくら文系 vs. 理系だからと言っても喋ったり書いたりが仕事なんだから互いの知力を尽くして徹底的に議論すればよかったのに、とは思った。結局すべてを見越していちばん賢かったのはLauren Bacallだった、でいいのか。
下の”What Happened Was…” (1994)にもあったような互いの体に触れずにどこまでがんばれるのか、とか、恋愛か友情か、みたいな議論を、やっぱりセックスでいいんじゃないか、それのどこがいけないのか、って女性の側から思いっきり吹っきってしまったのが”Sex and the City” (1996-)で、SATCについては、リブートを機にこの角度から再考してみるのもおもしろいのではないか。
あと、この映画が扱っているテーマ、大半の「男」は自分には関係ないやって思ってしまう気がする。Barbraが全ての女性に対して贈るメッセージのようなところもあるので、それでいいのかもだけど、それじゃだめなのではないか。”What Happened Was…”もそうだったけど、男性が見るか女性が見るかによって受け取り方が異なるであろうテーマで、男性の方にしか響かない(or まったく響かない)なにかをどうやったら伝えたり変えたりしていけるのか、って。 ”The Mirror Has Two Faces”にも諸相ある。
あと、Gregの役って、キャラクターとして結構繊細さが要求されると思うんだけどJeff Bridgesってちょっと違うよね。彼って無反省に愚直に信念を貫く、みたいなタイプで、それよりは最初に名前が挙がっていたHarrison Ford とかの方がまだ.. とか。
ここで吹っきれてしまったBarbraは、性の求道者として“Meet the Fockers” (2004)に再登場することになるの。道としてまったくブレていない。
音楽はBarbra Streisand and Bryan AdamsのデュエットとかRichard Marxとか… 恐竜みたいな。
ロンドンのお天気は火曜日まで雪マークが付いているが、ちっとも信用していない。
2.06.2021
[film] What Happened Was… (1994)
1月30日、土曜日の午後、Film ForumのVirtualで見ました。
俳優として知られるTom Noonan(”RoboCop 2” (1990)とか”Synecdoche, New York” (2008)とか - 顔を見たらあああの人って)が自身の劇作を映画用に書き直して、自ら監督・主演したもの。
1994年のSundanceでGrand Jury Prizeを受賞している。日本公開はされていない模様。
登場人物はJackie (Karen Sillas)とMichael (Tom Noonan)のふたりだけ。場所はマンハッタンにあるJackieが一人で暮らしているアパートのなか。低層階にあるアパートの窓からは夜景というほどのものでもない近隣のアパートの様子やひっそりした街の灯が見える。冒頭の描写で彼女は朝にアラームで起きて(起こされて)会社に行って帰ってくる - それだけ、のような質素な生活をしていることがわかる。
時間はJackieが会社から帰ってきたある一晩のこと。ドアのとこのライトがちかちか壊れていることにイラっとしつつ中に入って留守電を聞いてお酒、ケーキを用意して片付けたり、クローゼットからいろんな服を出して合わせてをする。部屋に貼ってあるポスターはMartin Luther King JrとミュージカルのCatsの。自分で掛けた音楽は'Til Tuesdayの“Voices Carry” (1985)で、途中でヴォリュームをあげてなんとか気合を入れようとしているらしい。(ここで“Voices Carry”がかかったところで彼女がどんな女性(男性でも)なのかがわかる世代)
やがてインターホンが鳴ってMichaelが現れ、やはり玄関のライトは困ったやつで、彼も会社帰り(ネクタイをポケットに突っこんでいる)でぎこちなく挨拶して、飲み物はワインでいい? 食べ物はレンジでチンだけどホタテ貝でいい? という辺りから入り、食事をしながらいろんな話をしていく。ここに住んでどれくらい?(5年)どこで寝てるの?(ソファ)あなたはどこに住んでいるの?(Eastside)どこで育ったの?(ロングアイランド)どこの学校を出たの?(Jackieは技術学校、Michaelはハーバード)などなど。
ふたりはこれがFirst Dateで、同じ法律事務所に勤めていて、オフィスで顔を合わせたことがある程度で、JackieはMichaelのことをパートナーだと思っていた、云々。Michaelは本を出版する準備をしている、とかJackieも自分も昔書いたものがある、ってその一部を朗読したり、距離を探りながらも少しづつ互いの深いところに入りこめないか – できれば入りこみたい、会話を止めてはいけない - と確かめつつ掘っていく。
それなのにスムーズに弾んでいく会話、にはなかなか変わっていってくれなくて、話し出すタイミングもトピックも躓いたり譲りあったり、彼女はソファの方に移動して横になったり、それらしいモーションをかけたり、間に合わせのようなキスをするくらいまではいくのだが、これも何かがすれ違って、最後の切り札のように出してみたケーキ(← Jackieの誕生日だった)もそれを切るナイフも掠らなくて、やがてMichaelはごめん帰ることにするわ.. って。
「ずっといるんだと思っていたのに..」っていうJackieのがっかりがどちらに転ぶのか手に汗握るのだが、こういう緊張感が最後まで持続する - 自分はなにを期待しているのか惨劇か抱擁か - ので目が離せないことは確か。
最初のデートの出会いで、期待していた化学反応とか火花を引き起こすために、ふたりはどんな道具立てとか会話を使ってそのパスを切り開こうとするのか、それが思うようにいかないことがわかったとき、ふたりはそれをどうやって立て直そうとするのか – おつきあい&おしゃべり上手な人/慣れた人はこんなことで悩むなんてありえないって思うのかも知れないが、とにかく生々しく迫ってきて人によっては過去の痛い傷をえぐられたように感じるかもしれない。
もちろん、今の人達であれば出会いを求めるならマッチングサイトから、なのかも知れないし、そこまで行かなくても相手のプロファイルを事前に知ったり確かめたりする方法はいくらでもあるので彼らがやっているような手探りゲームみたいなのってなに? って思うかもしれない。けど、こんなもんだった時代もあったのよ(いきなり家でデートはないかもだけど)。
ていうこの時代の恋人たちの事情とそれがドラマとしてどう機能するのか、をミクロに刻んで追ってみた、その精度とリアリティはすごい、けどそれが映画としておもしろいかというと、またちょっと別の話かもしれない。 Jackieがケーキ用のナイフを手にしたところで流れが変わるかと思ったんだがなあー。 舞台でやったほうが生々しい殺気や徒労感みたいのは伝わったのではないかしら?
あとはこういうのをぜんぶすっ飛ばしたところで成立してしまう(ように見せる)ハリウッド映画の中の出会い〜恋愛がいかに魔法、というか爆発的ななにかであることか、って。
“WandaVision”、最初はおちゃらけ番外シットコムかと思っていたらEP3でUltronとかSokoviaとかの言葉が出てきて動揺し、EP4でKat DenningsとRandall Parkが現れてこれはいかん泣くやつかもになって、今日のラストのあれは… MCUの世界観、というか世界観を支える諸要素 - 世界はひとつではない、世界は時間と継承で成り立つ、それを動かすのはそれぞれの愛と正義である - というあたりが揺るがないのだな。すごいな。
2.05.2021
[film] 84 Charing Cross Road (1987)
1月30日、土曜日の昼、YouTubeで見ました。英国に来たのにこんな大事なのを未だ見ていなかった、って気付いて。レンタルで£3.49。
Helene Hanffの原作 - ”84, Charing Cross Road” (1970)をJames Roose-Evansが1981年に劇作にした脚本をベースに映画化したもの。他のアダプテーションだと、BBCが1975年に”Play for Today”で放映したり、同じくBBCでラジオドラマ化もされている - 2007年版はGillian Anderson & Denis Lawsonだって。
日本では劇場公開はされていなくて、ビデオスルーでの邦題は『チャーリング・クロス街84番地』。江藤淳訳の本の方は『チャリング・クロス街84番地』。どうでもよいかもだけど「チャーリング」ではない気がする。
わたしはずっと江藤淳訳の中公文庫の原作を愛してきたので、こっちにも当然持ってきて古本屋にも通うようになった。なので映画の中での会話や手紙の文章が自分の頭の中で江藤淳訳の日本語にほぼ自動で変換されていくのがおもしろかった。
冒頭、Helene Hanff (Anne Bancroft)が71年、ついに憧れのロンドンに来て観光地を抜けて、もう閉じていて一冊の本も置いていないがらんとした84 Charing Cross Roadのスペースに入るところから手紙のやりとりを中心に置いた回想が始まる。
映画はHeleneが暮らすNYで撮影されたパートと、彼女からの手紙を受け取る古本屋Marks & Co.のFrank Doel (Anthony Hopkins)、だんだんHeleneからの手紙や贈り物に集まってくる店員たち、Frankの妻のNora (Judi Dench)たちが暮らすロンドンで撮影されたパートに分かれて切り替わっていく。エンドロールのクレジットを見るとスタッフも両サイドできれいに分かれていて、衣装(どちら側のもすばらしいの!)も含めた両都市の空気や湿気の違いがよくわかる。彼らの往復書簡は1949年に始まって1969年まで続いた。戦争には勝ったものの戦後の困窮が続く英国と戦争による物理的なダメージを受けずに経済では圧倒的に優位にあった米国のギャップは手紙のやりとりだけでも十分窺えるものだったが、映像になることでところどころ、互いにとって泣きたくなるような距離感もうまく表現されている。
NYのアパートにひとりで暮らし、TVドラマの劇作家として生きていくHeleneがFrankとの文通を通してどれだけ英文学に、それを通してみた英国に、それを届けてくれる英国人に(自分の足下との対比で)惹かれていったのか、そこは本に収められている手紙を追っていった方がよくわかる気もするのだが、彼女が英国に行くことをどれだけ望んでいたか、旅行用に貯めていたお金が歯の治療費($2500.. わかる。軽くそれくらいいくの。それも突然)でふっとんで諦めた時のがっかりや、Heleneの贈り物がどれだけFrankたちの日々の暮らしを明るく照らすものだったか、等は(脚色が多いかもだけど)映画の方が伝わってくるものもある。
あとはロンドンに行ったHeleneの友人のMaxineがMarks & Co.を訪ねるところ。ここは本でもMaxineからの手紙として出てくるのだが、ちょっと敷居が高そうで気難しそうな古本屋の様子 – そこに入っていくかんじ – は映画ではよくとらえられていると思った。これらの小さな古本屋の店内って、ここ100年くらい、そんなに変わっていないのではないかしらん? (江藤淳が文庫の解説で触れているGreen Parkから少し歩いたところにある古本屋って、いくつか見当がついている)
Anthony HopkinsとJudi Denchの夫婦の、奥の方に静かに座っていて、でもちゃんと見ています・わかっていますよ、みたいな英国人の佇まいとその凄み(のように見えるあれ)。あのかんじってどうやったら出すことができるんだろうか。
Heleneの頃は手紙でオーダーするしかなかった古本も、いまはオンラインで探すことができる、というか(ロックダウンなので)オンラインで探すことしかできなくて、クリックしてぱたぱた叩けば本が届くんだから便利なもんだけど、これってやっぱり本屋の棚を眺めて手に取って、のそれとは全く異なる手続きと経験で、こっちで古本屋に入ると、まず「何をお探しですか?」って聞かれて「ちょっと見るだけ」って棚を追っていく - 最初は緊張してるし慣れないしの状態が何度か通ううちに目が馴染んできて、どこに何があるか新しいのはあるかが掴めるようになっていくあのかんじ(初めての輸入盤屋に入った時のもそう)って検索エンジンだと得られるのかしら? わかんないけど。
江藤淳は解説で、Heleneが英国の古本屋に向かったのはアメリカにいい古本屋がなかったからではないか、と書いていて、昨年のドキュメンタリー”The Booksellers” (2019)を見ると、そんなでもないのでは、って思ったのだが、当時はそうだったのかもなー、とか。でもどこの古本屋がすごいかなんて、その人がどういう本を求めるのか、によるよね。
原作の最初の方で、HeleneがFrankに探して、って頼むArthur Quiller-Couchの“Oxford Book of English Verse” (1905)の初版本、いまオンラインで同じもの(たぶん)を買おうとするとざっと数百倍の値段(Heleneは$2で買ってる..) そういう値段でも買う人がいるってことで、古本のマーケットってよくわかんないけど、なんかすごいの(なにかを狙っているらしい)。
こっちにきて彼女の“Apple of my Eye” - サンリオ文庫から出ていた『ニューヨーク、ニューヨーク ニューヨークっ子のN.Y.案内 』 - の古本を買った(The Second Shelfで)。サイン本で、“For xxxxxx – who cried at the end , as Patsy and I did – Helene Hanff” って献辞が書いてある。なんか彼女らしいよね。
最近ようやく見れるようになったCNN - これまではトランプの顔を見たくなかったので外してた - で、昨日今日はオリンピックの例のくそじじいの発言の件が絶賛ヘビロテしまくりで、その直後に日本政府が作成している日本すごい美しいCMが流れるのがおかしい(おかしくない)。なんかの冗談か放送事故かと思うよ。べつにその内容についてどうこう言うつもりはないけど(センスはさいてー。醜悪)、国のお金の使い方として絶対におかしい、間違っている、って誰か言わないのか。言わないんだろうな、あんなじじいを放流しているくらいだから。 自分の国が海外からどう見えるのか、もっときちんと意識したり勉強したりした方がいいよ。あの国にがんばって、なんてちっとも思わないけど、あの国の一員、って見られるのが嫌なの。
2.04.2021
[film] The Cobweb (1955)
1月27日、水曜日の晩、Criterion Channelで見ました。1月末でいなくなるリストから。
MGMによるVincente Minnelli監督作で、原作はWilliam Gibson(サイバーパンクの人とは別ね)の1954年の同名小説。邦題は『蜘蛛の巣』。
単純にこの頃のテクニカラーの映画が好き、というのと、ミュージカル・コメディからこういうメロドラマまで幅広くいろんな作品 - やや重め - をリリースし続けていた40-50年代のVincente Minnelliは機会があればできるだけ見ておきたい、というのと。
冒頭、田舎の施設のような建物から若者Steven (John Kerr)が駆け出してきて(脱走してきたかのよう)、Karen (Gloria Grahame)の運転してきた車に拾われて、その車はStevenが抜け出してきた建物に戻っていく。
そこは環境療法を取り入れている精神病院で、Stevenはそこにずっといる患者のひとりで自殺傾向があって、Karenはそこの院長Dr. Stewart McIver (Richard Widmark)の妻で、個性的な病人たちが院内を歩き回っている中、経営する側もワンマンぽい理事長のDr. Douglas N. Devanal (Charles Boyer)とかいつもぴりぴりしている職員のVictoria (Lillian Gish)とか、いろんな人達がいてそれぞれに家族がいるし子供もいるし、いろんな入り組んだ問題がある – ふつうの職場や家族とおなじ。
で、いまは図書室のカーテンを新調するのにどうするのかを決めようとしていて、患者たちにアート指導をやっているMeg Rinehart (Lauren Bacall)はStevenの描いた絵がすばらしいので、これを元にすればというアイデアにStewartが同意して患者たちも盛りあがるのだが、そこになぜかお呼びでないはずのKarenが割り込んできて勝手に業者に発注しちゃったりしたので、ひと騒動持ちあがる。
そこには多忙で家のことを構っていられないStuartと、それがつまんないKarenと、カーテンの件でよいかんじになっているMegとStewartと、それを見て反応したVictoriaと、それを聞いて嫉妬に燃え始めるKarenと、そういうのから置き去りにされて権力を揮いたい理事長にKarenが寄っていったり、そういう内輪もめのぎすぎすでいいかげんうんざりしたStevenは再び院を飛び出して…
最後は病院に火が放たれて.. というようなことにも、Stevenとか患者の誰かが犠牲になることもないのだが、患者たちも医者たちも経営者たちも見えない蜘蛛の糸に絡めとられているかのようにずっと動けなくて(or その糸の上しか移動できなくて)、みんなそういう状態については苛立って強ばっていて、そりゃ患者が快癒していなくなったら病院いらなくなっちゃって、それはそれで困るもんねえ、みたいに停滞したありようが微細かつシリアスな壁画のように描かれていてすごい。
冒頭の字幕で"The trouble began."と出て、エンディングの字幕で"The trouble was over."と出るのだが、それでああよかったね、になる印象は全くないしすっきりしないし。 蜘蛛の巣の中心にいるのは/あるのは何なのか? って。 今だと簡単にディストピアと絡めた格子の向こうのサスペンスホラーになりそう。Steven SoderberghがiPhoneで撮った“Unsane“ (2018) みたいなやつ。
“Meet Me in St. Louis” (1944)なんかもそうだけど、Minnelliという作家は、無垢であること、素朴な生への信頼が大人たちの事情によって残酷に踏みにじられてしまう様をスペクタクルのように描くことができる人だと思っていて、この作品でもStevenと患者仲間のSue (Susan Strasberg)がふたりで映画に行ってデートして、いろんなことを語り合うシーンなんて夢のように素敵なのにな.. なんであんな仕打ちを平気でするんだろうか? - そういうことを平気でするのが大人であり社会というものなのだよ、って。
あとは役者それぞれのすばらしさよ。Richard WidmarkとLauren Bacallの静かにうつむいているだけでサスペンスが走ってしまうふたりの姿とか、まるで今の”Karen”みたいなKarenになっているGloria Grahameとか、フランスとしか言いようがない不敵な重厚さをもたらすCharles Boyerとか、ずうっと患者としか言いようがないOscar Levantとか、アメリカのおばちゃんとしか言いようがないLillian Gishとか。
最初にアナウンスされていたというキャストRobert Taylor (→ Richard Widmark), Lana Turner (→Lauren Bacall), Grace Kelly (→ Gloria Grahame), James Dean (→ John Kerr) もすごいなー。とっても見たい。
昨日のニュースだけど、Captain Sir Tom Mooreが亡くなった。昨年の最初のロックダウンの時、NHSへの募金のために話題になっていた頃は、毎朝のようにBBCで今日も歩いています、って中継があったので、いなくなっちゃったのが寂しい。ただお金を集めよう、って黙って歩いていっただけだった。そしていなくなってしまった。かっこいいな。 ご冥福をお祈りします。
2.03.2021
[film] Yentl (1983)
1月26日、火曜日の晩、Criterion Channelで見ました。
Barbra Streisandの監督作3本 - どれもひどい邦題だわ - がここに来ていて1月末で見れなくなるというので31日までになんとか全部見た。 邦題は『愛のイエントル』。だけどこの映画って、イエントルが学問のために愛と性別を捨てる話だよね..
原作はIsaac Bashevis Singerの短編 - "Yentl the Yeshiva Boy"で、これを読んだStreisand は1969年に映画化権を買って、71年にはIvan Passerの監督で立ちあがるのだが、主演の彼女が歳を取りすぎているって文句つけて降りたのでBarbraが自分で監督・主演することにして、途中でミュージカルになったので歌うことにして、そんなこんなで実現迄に軽く10年以上かかっている。
音楽はMichel Legrand、撮影はDavid Watkinで、とってもゴージャスで王道でクラシックの豊かさにどっぷり浸かってうっとりできる。
この映画、英国ではなんか人気があって、2019年のHyde ParkでのBarbraのコンサートでもこの映画のことに話が及ぶと「きゃー」ってうっとりする人が周りに結構いたし(曲はやらなかったけど)、BFIでかかる時も売り切れるし、昨年BBC2で放映された際にも少し話題になった。
今回見てみて、全体としてものすごく荒唐無稽な、まったく想像の及ばない世界のお話しであるはずなのに前のめりで持っていかれてしまう、不思議な熱と普遍性を持った作品だと思った。とっても好き。
20世紀初の東欧の小さな村で、Yentl (Barbra Streisand)は本と学問が大好きな少女で、村に本屋がくると駆け寄っていくのだが、本屋からは女の子は絵本な、って決めつけられるのでむかついてて、でも大好きな父からはタルムードの講義を受けて勉強している。その父が亡くなると意を決して髪を切り男の子の服を来て、弟の名前Anshelを貰って、これが旅の途中でYentlになり、乗り合い馬車で野を越え村を越えて、(当然男子ばかりの)ユダヤ教の神学校に入学を許される。
ずっと本の虫だったので勉強はできるけど男っぽい遊びやスポーツは不可で、そのうち豪快なAvigdor (Mandy Patinkin)と親友になり更にちょっと好きになって、彼の恋人のHadass (Amy Irving)とも仲良くなるのだが、AvigdorとHadassの結婚がHadassの親からダメを出される(自殺しているAvigdorの弟の血のことで)とAvigdorは狂ったようになり、それならYentl - おまえ親友だよな、ってHadassとYentlは結婚することになって..
ユダヤ教の厳しい戒律の世界があって、それによって形成されているコミュニティとその規範があって、それに反して(女は男ではない)男Yentlとして生きること、それに反して(男のはずなのに)Avigdorを好きになること、それに反して(女のはずなのに)Hadassと結婚して結婚生活を送ること、それでもなおユダヤの神と世界観を信じること、これらの間をはらはらどきどき綱渡りしていく、全体としてはコメディなのだが、それをコメディたらしめているのはYentlの純朴な生と神への信頼と信仰があるからだと思った。 ふつうのドラマだとこのふたつが両立することはあまりなくて、信仰に殉じて全てを捨てるか、信仰を捨てて野良として生きるか、の悲劇的な方に向かう気がするのだが、ここではそうはならずに先に踏みこもうとする。映画の最後にYentlは彼らから離れるのだが、その向かう先がアメリカ大陸である、というのはおもしろい。
ナチスの迫害を逃れるように20世紀初にアメリカ大陸にやってきたユダヤ系移民も含めると大きな広がりを見せることになるJewish-Americanとしての果てしない冒険を目の前に、船の甲板で思いっきり羽を広げて歌いまくるYentlの姿がすばらしいったら。何かから解放されるお話しとなるその手前で、まず自分を解放しようと自問自答し続けた彼女/彼のトランスのお話し。ラストはトランス・アトランティックへと。
原作を無視してよくて、今リメイクできるとしたら、もういっこ、YentlとHadassが女性同士の恋におちる、というエピソードもありかもしれない - 画面を見ていると実際におちているのかな? そっちに行くのかな? って思えるところもあるし、そしたらRom-Comとしても厚みがでておもしろくなったかも。
男装ものコメディとしてはKatharine Hepburnの“Sylvia Scarlett“ (1935) - 『男装』があって、これ、失敗作と言われているみたいだけど、わたしは結構好きで、こういうのを嫌って貶す層って一定数いるかんじがするねえ。
今ってWebもあるので、性別によって勉強の機会を禁じられるようなことって(医大入試の性差別みたいのは論外として)昔よりはなくなっているのかしら? でもその分、執拗なマウントとかクソリプとか地獄の釜というか穴はそこらじゅうにあって、続けていくのはしんどい気がする。海を渡ろう。
今日はGroundhog Dayで、Philのお告げによると冬はあと6週間続くのだって。ロックダウン期間=冬と見ると結構いいとこをついているのではないか。 映画の”Groundhog Day” (1993)もTVでやっているので当然見るのだが、家で起きて同じようなWeb会議に入ったり退いたりの繰り返しって、この映画にあるのとおなじような日々だねえ。
2.02.2021
[film] 風の中の牝雞 (1948)
1月23日、土曜日の午後、Criterion Channelで見ました。英語題は”A Hen in the Wind”。
細々と見続けている小津作品。細々と成瀬作品も見始めているのだが、成瀬はなんか書くのが難しい(なんでだろ?)。
太平洋戦争に敗けて国全体が貧困で苦しんでいた頃、東京の下町の、でっかいガスタンクの枠(?)が建っていて土管が転がったり瓦礫があちこちに積まれたり、木造の家屋が並んでいる一角の、そこの2階を間借りしてミシンの下請けをしながら息子の浩とふたりで暮らしている時子(田中絹代)がいる。夫の修一(佐野周二)はまだ戦争から戻っていないので区役所にずっと問合せをしたりしている(ことが冒頭の警官の巡回で明らかになる)。
時子は浩を連れて親友の秋子(村田知英子)のアパートに着物を売りに行ったりしてて、思い出の着物だけど物価が上がっているし浩のこともあるので最後の一枚を買って貰えないかと。秋子ももう全部売ってしまった、って。 秋子はその着物を同じアパートの織江(水上令子)のところに持ち込んで買ってほしいと頼むのだが、織江は時子さんはきれいなんだからその気になれば稼げるのに、という。秋子がムッとして彼女には旦那さんがいるのよ、というと、帰ってくるかわかったもんじゃない、苦労するだけバカバカしい、と。売ってくれって頼まれたという勲章についても帯留めにでもするか ー こんなの買う人なんているもんか、って。秋子は…(こいつヤな奴、って無言)。
そこから戻ると浩がぐったりしているので医者に連れていくと大腸カタルで、必死に看病してなんとか乗り切るのだが、高額の治療費を請求されて、憔悴しきった時子の頭に浮かんだのは … 次の場面はそれらしい夜の安宿で、終わったらしい男の客と横で麻雀をしている女たちのいやらしい会話で何が起こったのかわかる。翌日に織江から話を聞いた秋子が時子のところにやってきて、どうして相談してくれなかったのか、って責めるのだが、頼めなかったし必死だったのだ、と。 貯えのない女の身でそういうことになったとき、どうやってお金を工面するのか、って。そう言いながらもやっぱりわたしはバカだった、でももう遅い.. って泣くの。
続けて時子と秋子が原っぱで学生の頃に語り合った理想の家のことー 郊外で芝生があってエアデールテリアがいて旦那さんが「ファックスマクタ―」のコンパクトを買ってくるの.. でもくたびれちゃったな、って横になって空を眺める。そうして家に帰るとおとうちゃん - 修一が戻っていて再会を喜ぶのだが、留守中に浩になにもなかったか? って聞かれて、嘘を言えない時子が入院の際のお金のことについて詰問されて泣いてしまうと…
翌日秋子と会った時子が彼に言っちゃったことを話すと、そんなことをしても旦那が苦しむだけだ、ってまた秋子に叱られて、その晩遅くに帰宅した夫はまだ怒っていて、警察のように織江とはどう知り合ったとか、その場所はどこだったとか経緯の仔細を聞いてくる - そこは「さくらい」という家で、8時過ぎで、その時男は先にいたのかとか、どんな男だったとか、答えないとひっぱたいてモノを投げて腕を捻じ曲げて、茶筒が階段を落ちていって、やがて修一は家を出て行って、朝になると「さくらい」に行って織江さんから聞いてきた、と告げると部屋に通されて、時子のことも聞いてみる。
やがて房子(文谷千代子)という女が現れて、隣の小学校の「夏は来ぬ」が聞こえてくる部屋で、修一は彼女にこんなことをしている事情について聞いて - 「しょうがないのよ」 - 金を置いて部屋をでて、河原でぼうっとしているとそこに房子が来て一緒にお弁当を食べると、更にふたりの問答は続く - 「21でなんでそんなことをしているんだ?」「嫌ならやめればいいじゃないか」「まじめに働かないのか? その気になれば」「バカにしてかかっているじゃないの」「まだ若いんだ幸せになれるんだ」などなど。 修一は2~3日したら勤め口を探してきてあげるから、という。
修一は職場の同僚の笠智衆から、「房子は許せてなんで時子のことは許してあげられないのか?」って聞かれて「いらいらする 〜 脂汗がでてくる 〜 寝られない 〜 自分ながらどうにもならない」って。笠智衆からは”Control Yourself”って言われる(まあ、そうじゃな)。
そうやって言われて家に帰っても、やはり修一は頑なで(こいつほんと大馬鹿だな、って思う)、また出て行ったりしないでください、ってすがる時子を階段から落っことしてしまう。スタントを使っているらしいが派手に転がり落ちる時子。 立ったまま名前を呼んで「だいじょうぶか」というだけで触ろうともしない修一。そのままなんとか立ちあがってひとりで足を引き摺ってよろよろ階段を昇っていく時子(ここだけ溝口の世界)。
そうやって戻っても「あなたの気の済むようにようにして 〜 あなたが泣いちゃ嫌です 〜 わたしは我慢します」と訴える時子に、「叱りはしない 〜 かわいそうだと思っている 〜 そうするより他なかったこともよくわかる 〜 忘れよう 〜 おれは忘れるからお前も忘れろ」と修一。 で、立たせて歩かせてみて「本当の夫婦になれるんだ」とか家訓らしいことを言って「わかったな」ってわからせる。 こんなの「和解」でもなんでもない。 ごめんなさいくらい言えないのか。
最後に逃げるように歩いていく野良犬いっぴき。犬も喰わないやつね。
戦後の復員兵だからと言え、貧困とかいろんな事情を背負っているとは言え、きっついDV丸出しで結構ひいた。 作品の評判がよくなかったのはわからないでもないが、それは身近にあったこういう暴力を見たくない意識も働いていたのではないか。 当時こんなのが「身近にあった」なんて言えるのか? 言えるよ。今も薄汚れた教師とか乱暴者が使うやり口や(悪いのは自分なんですに追いこんでいく)ロジックとほぼおんなじなんだもの。 そういうのの典型を極めてわかりやすく描いている、という点は評価してよいのでは。
ここに出てくる登場人物たちは、時子のとこの一階に暮らす家主を除いてほぼ「家」から離れたり「家」がなくなったりしてそれぞれ生活のために苦闘している。いやそんなことはないのだと、そうではない「家」、夢や幻かも知れないけどそういうことをさせないにっぽんの「家」を描くべく次作の『晩春』以降の小津は、野田高梧と共に、(特に女が)ひとりでいると不幸になる、って散々恫喝しまくることで維持されていく伝統的な「家」のありようを描いていくことになる。 この呪縛の紐はいまだに延々、「道徳」だのカルトのなんとか会議だのにも使われている気がする。
何度か映るガスタンクの威容がかっこよくて、これってHackneyのライブハウスの横にも遺されているのがあって見上げてしまうのだが、日本にもまだ遺ったりしているのかしら。
2.01.2021
[film] The Dig (2021)
1月29日、金曜日の晩、Netflixで見ました。
邦題はどこかで見た気がしたが恥ずかしいかんじので、調べるのも面倒なので書かない。 『発掘』とか『掘ること』でいいじゃん。 史実に基づいたJohn Prestonの同名小説(未読)の映画化。
1939年、第二次大戦前夜の英国Suffolk州の原野で、地主のEdith Pretty (Carey Mulligan)のところにIpswich Museumから紹介されてきたBasil Brown (Ralph Fiennes)が訪ねてくる。彼女の土地にある遺跡のようにに盛りあがった丘のようなところを発掘すべく、料金の交渉をしてからBasilは掘り始める。彼はこれまで独学でやってきた考古学者/掘り師で、少し掘って自分も埋まって死にそうになったりした後に、ここには何かある、と匂いを感じたらしく黙々と掘り始める。
Edithは夫を亡くして息子のRobert (Archie Barnes)と暮らしていて、RobertとBasilは仲良くなって、やがて小さな発見をきっかけにケンブリッジからCharles Phillips (Ken Stott)を頭とする大規模な調査隊がやってきて、Basilはお呼びでなくなるかと思ったけどそうはならず、写真担当のRory (Johnny Flynn)とか夫婦でやってきたPeggy (Lily James)とStuart (Ben Chaplin)とかも加わって、みんなで掘り進めていくうちに、メロヴィング朝の金貨とかが出てきて、6世紀にアングロ・サクソンがここに来ていた - 考古学上の大発見であることがわかって大騒ぎになって…
そうしている間にロンドンに出かけたEdithが病を検査したらシリアスなものであることがわかったり、いよいよ戦争が始まりそうでRoryは英国空軍に志願して行くことになったり、Roryが想いを寄せるPeggyとStuartの夫婦仲が悪くなったり、いろんなことがある。 考古学上の発見に向かっての一進一退の攻防とか困難とか試練とか、ミイラや聖櫃が出てきて呪いが、とかそういうお話ではないの。 発掘〜発見のところは結構あっさりじゃらじゃら出てきて、その所有権はとか発見者の名前はとかどこの博物館に、とかそういう損得の話の方が大きかったり。
これが歴史的な大発見であることはめでたいし、1500年前の彼らの痕跡を見つけることができたことも喜ばしいけど、今のぼくらは世紀の大戦に向かっていてみんな爆撃で死んじゃうかもだし、飛行機が落ちたらすぐ死んじゃうようだし、自分の健康だってままならないし、夫婦の仲だって危ういし、なーにやっているんだろうね.. っていう小さな溜息が、だだっぴろい原っぱにぽつぽつと吐きだされる。 そんなややしょんぼりした話で、それでも掘るんだよ、ってぶつぶつ黙々と地面を掘り続けていくあたりがなんだか英国しているのかも。 見ているとなんだか地面を掘りたくなってくるの。 これが米国だとゴールドラッシュとか石油とか、みんな腕まくりしてぐいぐい掘るよね(これ系のだと英国・アイルランドは炭鉱とかより辛い方の「掘る」があるか)。
“We all fail every day”とか”We die and we decay”といった無常を嘆く言葉に対して、Basilは”part of something continuous, we don’t really die”と返す。そうかもしれない。死んだことないからわかんないし、慰めになるとも思えないけど。 でもみんながそんな想いで地面を見つめていた戦争前の夏のお話。
RoryとPeggyの会話に出てきた、チェロ奏者Beatrice Harrisonとナイチンゲールがデュエットした件の録音はここで聞くことができる。デュエットしているかしらん?
https://www.bbc.com/historyofthebbc/anniversaries/may/cello-and-nightingale-duet
Rory - 彼は架空の人物らしい - が撮っていたのがPeggyの肖像ばかりだったことをPeggyが発見して泣いちゃうところは”Love Actually”のあれのようで、ああいうのってみんな結構やったりするもんなの?
病気でひょろひょろですぐに倒れちゃいそうなCarey Mulliganの脆さと寡黙で頑固な職人ふうのRalph Fiennesの真ん中のふたりとか、お茶の水博士みたいなKen Stottとか、アンサンブルも素敵なの。
大英博物館が開いたらすぐにブツを見にいきたい。
どうでもいいことだけど、舞台となったSutton Hooって鶏の産地として知ってた。ここの鶏肉はでっかくて重くてものすごくおいしいの。ここのどっしりした旨味って日本のにもアメリカのにもないかんじの。
https://www.suttonhoochicken.co.uk/
もう我慢できない、ってライブのストリーミングを見始めることにしたのだが、これの問題はオーダーしたあとに開始日時を忘れて見逃しちゃうことで(予定表に入れとけ)、つい数日前もPortisheadのを逃した - 逃したので彼らが本当にライブやったのかも不明のまま。
今日は晩の20:00からLaura Marlingさんのを見た。2011年にWebster Hallで見て以来。ロンドンだとチケットはすぐに売り切れてしまうので見れていない。 IslingtonのUnion Chapelで、たったひとりで約1時間。あの会場もなつかしいし、彼女相変わらず素敵だし、うっとりだったけど、カメラとかあんまり動いてほしくないな。