2.28.2019

[log] Barcelonaいろいろ

24日の日曜日午前に入って26の晩に戻るというバルセロナ行きをやった。バルセロナ初めて。いちおう仕事。

初めてなのでふつうの、最低限の観光くらいはしたいな、ということでざーっと回った備忘。前々日くらいに風邪ひいて頭痛と熱冷ましでくらくらで、陽射しが強くて気温も20度くらいあってくらくらで、後半はなんかの花粉が飛んでいるのか涙で視界がボヤけて歪んでどうしようもなかった。けどまじで素敵なとこだった。 以下、ざーっと見て回ったやつらを。見た順で。

La Sagrada Família

タワーの上に行くチケットは取れず、時間指定のMuseumは間に合わなくて見れず、16時指定でお堂に入れただけ。でっかすぎてわかんないわ、でいいのか。でっかすぎ、というのは例えば『失われた時を求めて』のコンブレーの尖塔みたいに記憶と結びつけることが難しいよね、ってこと。 であるから「宇宙」なのかもしれないけど、宇宙でひとは生きられない。宇宙を造ったひとがえらいのはわかるけど。

Palau Güell

こっちのガウディの方がおもしろかったかも。インテリアとエクステリアをごっちゃにしてぶちこんでいて、屋上に出るとそれらが空に向かって放たれるイメージ。屋上はこないだ見た”The Passenger”でJack NicholsonとMaria Schneiderが出会っていたとこ(たしか)で、そんなに見晴らしがいいわけでもないのだが、そこがまたよいの。 暇そうなカモメがいっぱいいた。

イベント会場の近くのCaixaForum Barcelonaていうとこでいくつか展示をやっていた。
ここの横にはL'Academia del cinema catalàと書かれた壁があって、その下にあるスペイン語を訳すと“In memory of the first sound studios in Spain”って。 昔リンカーンセンターでカタルーニャ映画特集があって、聞いたことない作品ばかりだったけどどれもおもしろかったのを思いだした。

会場内はふつうのギャラリースペースのサイズの部屋がいくつかあって、それぞれでぜんぜん別の展示をやっている。 みっつぜんぶ見ても€5。安い。

Poéticas de la emoción

「感情の詩学(?)」 - ものすごく獏としたなんでもあり(そう)なテーマでコンテンポラリー系の作品を集めていて、知っているとこだとPipilotti Rist とかFrancesca Woodmanとか。やや女性に寄っているように見えたのは気のせい?

Max Beckmann. Leipzig, 1884 - Nueva York, 1950

いつもNYのNeue Galerieで会っているひとがBarcelonaにいるとちょっと変なかんじ。 初期の形や色に対する工夫や配慮が後半になるにつれて粗く野太くなって、顔の彫りも濃く深くなって凄味は増していくのだが、どちらかというと初期の柔らかめのをもう少し見たかったかも。

Velázquez y el Siglo de Oro

英語題は” Velázquez and the Golden Age”で、黄金時代としか言いようのないぎんぎんの、あの強い目でこっちに迫ってくる絵画たちがいっぱいで(Velázquezは4~5点)、こんなのも含めて€5ってありえないわ。メインビジュアルの『お馬に乗ったBaltasar Carlos王子』(1635)がすてき。子供の日の掛け軸に最適。

説明表示はだいたいスペイン語とカタルーニャ語の両方で、英語は別の紙のを見ろ、なのね。

建物関係だとMontaner によるPalau de la Música Catalana - カタルーニャ音楽堂も見たくて、でも見学ツアーで見るのはつまんないよね音が出てるところにいたいよね、と思っていたら25日の晩にピアノのValentina Lisitsaさんのコンサートがあったのでチケットを取った。 建物はお菓子の家か、みたいな どこからどうやって組んで建てていったのか謎の構造でとっても落ち着く - かんじとしては自由学園 明日館みたいな。ライブは最初のBeethovenが軽く、弱いといっていいくらいのタッチだったのでやや心配になったが、次の Glassでふわりと舞いあがり、休憩を挟んだ Mussorgsky - 「展覧会の絵」で地表にがーん、と叩き付けるかんじになってよかった。

26日の飛行機に乗る手前にMuseu Nacional d'Art de Catalunya – カタルーニャ美術館へ。
ほんとは24日の午後に行こうとしたのだが山道の途中で迷って時間切れになったやつのリベンジ。

LIBERXINA, Pop and New Artistic Behaviour, 1966-1971

66年から71年のスペインの現代芸術の流れ – どういう切り口でこの5年間にしたのかわからないし、この土地のアーティストばかりなので知らないことだらけなのだが、ヒッピーでサイケで自由、連帯、みたいなかんじは世界共通なのかも。なぜThe Fugsのレコードジャケットが貼ってあったのかは謎。

Bermejo. The 15th century rebel genius

一番見たかった展示。15世紀の奇想画家 - Bartolomé Bermejo (1440–1501) の特集企画。スペインにフレミッシュ絵画の技法を持ちこんだ人だが、描かれた人々の表情も姿態も見れば見るほどおかしいふうに変容していく。 今にも吹き出し付きで喋りだしたり変てこな踊りを始めたり空にびょーんて飛んでいったりしそうなかんじで、つまり生きているみたいなの(但し、変態とか妖怪として)。
時間があったらずっと見ていたかったわ、べるめほ。

Renaissance and Baroque

これ企画展示かなあ、それにしてはなんか豪勢だねえ、と思っていたら同美術館のルネサンスとバロックのコーナーをリニューアルしたものだった。ルネサンスとバロック、orではなくand条件で結んでいてスコープは相当にでっかい気がするが、どっから切り出してきたのかフレスコ画までじゅうぶんでっかくて、順番に見ていくと神とか天国に向かっているかのように高揚して羽がくっついている感じになる不思議。 とにかく時間がないのでざーっと走り抜けたがそれでも説得力喚起力じゅうぶん。あんなのが常設であるのだったら毎日通ってもいい。
Rubensのすごくよいのと、こないだDulwich Picture Galleryで見たJusepe de Riberaのがあった。

上のフロアの常設展示、モダンのところを走り抜けたがこちらもすごかった。FortunyもPicassoもいいのがわんさかあるし、痺れたのがHermen Anglada Camarasaの”Woman from Granada” (1914)とか。 スペインおそるべし。また来なきゃ。

お食事関係は、折角だからカタルーニャ料理を食べたいな、ということで、Agut(昼)、Ca L'Estevet(夜)、Cañete(昼)といったお店をひとり予約していただいた。どこもアンチョビが奥深く、お魚もお肉もすごくてお腹ぱんぱんになった。 とにかくおそるべし。

あと、乾物屋のCasa Gispertていうとこであれもこれも試食させられて買うことになって(←カモ)、結局荷物をチェックインすることになった。

帰りはラウンジでも飛行機でもかんぜんに白目むいて死んでて、着陸態勢に入ったところで耳の奥がものすごい音でばりばり鳴って、右のほうが聞こえなくなった。 まだ聞こえない。このまま聞こえなかったらちょっと困るねえ。

[film] No Man of Her Own (1950)

17日の日曜日、BFIのBarbara Stanwyck特集で見ました。監督はMitchell Leisen。

冒頭、Barbara Stanwyckの声が、この素敵なおうちは自分のものじゃないんだ、などなど独白していて、やがて玄関の呼び鈴が鳴ると彼女は男と目配せして出て行こうとする。

そこから時間を遡って、身重でやつれたHelen (Barbara Stanwyck)が その父親と思われるチンピラふう男のところに行くと、別の女と一緒にいるそいつは顔も出さずにとっとと田舎へ帰りな、って列車のチケットを差しだしてくる。

泣いててもしょうがないので、田舎に帰ろうと列車に乗っていると親切なカップルが席を譲ってくれて仲良くなって、夜行なので寝る前のケアをしている時にカップルの女性の指輪を一瞬持ってあげたそのとき突然事故が起こって天地がひっくり返って暗転し、気がつくと病院のベッドにいて、赤子は無事に産まれていて、他の乗客はみんな亡くなって自分はしていた指輪からカップルの女性の方 - Patrice Harkness - と識別されていることを知る。

やがてカップルの男の方の両親が現れて、Patrice(彼らは彼女と直接会ったことがなかったらしい)と赤子が助かっただけでもよかったよかった、とい義娘として手厚くケアしてくれて自分達の家に連れて帰り、ここをあなたのホームとして暮らしていのよ、という。 余りによい人達で自分はアカの他人ですとはとても言えないし、赤子を抱えて路頭に迷うわけにもいかないし、戸惑いながらも瀟洒なお屋敷で一緒に暮らし始めることにする。

でもやっぱり、だんだんおかしなところが出たり話合わせが苦しくなってきて、亡くなった男の弟のBill (John Lund)が彼女のことを好きになり、彼と一緒に行ったパーティで、Helen - Patriceは彼女を放りだしたチンピラ男と再会して、おや名前もナリも随分違うじゃねえかとか因縁つけてくるので動揺して、動揺するとみんなに怪しまれてそれが雪だるま式に膨らんで、チンピラ野郎はどこまでもゲスで、追い詰められた彼女はどうなっちゃうのか。で、冒頭のとこに繋がっていくの。

なりすまし、というとこないだ見た”The Passenger”にしても昔のリプリー君にしても、自分からなりすましてやれって企ててなりすますことが多い(そして自分で破滅する)気がするが、ここのは事故に巻き込まれた二次災害のようなもので、自分ひとりなら面倒だから人違い、って言っちゃうのだろうけど自分には赤ん坊がいてその横には善意の塊りのような人たちがまるまる信じこんでくれている(本当のことを告げるのはかえって残酷)、そうなったときは揺らぐよねえ。

こういう状態なので彼女がチンピラ男を殺してやりたくなるくらい憎んでしまうのも当然だし、かといってずっとこの状態を続けていくのが地獄であることも確かだし、という自分では手をくだせない宙吊り状態の設定とそこを狙ってでんぐり返ってくるドラマがすごい。 誰もが自分がこうなったら、を考えて悶絶してしまうはず。

これ、男女逆だったら成り立たないやつかも。女性であるがゆえにどうにもならないとこも含めて、彼女の冒頭のナレーションと時折見せる放心したような表情、そしてタイトル - がしみる。

あと、最後の引っ掛けはちょっとびっくりで、ここも含めるとすばらしい女性映画、と言ってよいのかも。

[film] Il deserto rosso (1964)

16日土曜日の晩、BFIのAntonioni特集で、”The Passenger”に続けて見ました。『赤い砂漠』。
これは以前日仏のなんかの特集で見た記憶がある。

上映前にAntonioniの生前最後のパートナーだったEnrica Fico Antonioniさんによるイントロがあった。 初めてのカラー作品 – 特に望んだわけではなく業界全体がカラーになっていったので仕方なく - ということでいろいろリサーチして、色使いに関してはモダンアートの、特にロスコに影響を受けていたとか、これまでの方向性とは違う何かを求めて考えに考えて、でこれの次は英国に行くことになるのだが、とにかく新しいなにかをやることについて非常に貪欲だった時期の作品である、とか。

ただまったく新しい、というよりは”L'eclisse” (1962)の最後の、建造物が視界を圧して侵入してくる感覚とか、初期のドキュメンタリーで撮っていた工場の人手を介さずとも勝手に動いていってどこまでも止まらない風景の延長にあるかんじは、なんとなくある。

Giuliana (Monica Vitti)が小さな男の子の手をひいていて、その脇では工場の労働争議でデモとかやっていて、大規模な工場からはいろいろ動いたり排出されていて、神でも人手でも手をつけられないような状態があって、夫はGiulianaのパニックを見ているだけ、夫の仕事仲間で南米でのオペレーションの人手を求めてやってきたCorrado Zeller (Richard Harris)と移動していくうちに親密になっていくのだが、なんか乗れないしひとり砂に埋もれていくかのような孤独感は増していくばかりでどうしようもなくて、狂ったり醒めたりを繰り返していて、自分も周囲も延々困惑し続けている。

途中で男の子の脚が動かなくなってどうしよう、って狂ったようになるのだがそのうちに治って、なんだったのかしら? なのだがそんなふうに環境に操られているかんじが常にあって、これもまたどうすることもできない。

というそれだけの映画で、若いひとは知らないだろうがかつて「公害」という呼び名で重大な社会問題として認知・対応されていた事象があって、それはひとの身体や感覚にどんな影響を与えるのか、逃げようはあるのか、ていうようなことを精緻に繊細に、終末感とか対処法とかとは異なる、国でも家族でも人間関係でもない実存のレベルで描いているかんじがある。そしてそれは結果的にGiulianaの生のありようをぞっとするコントラストで生々しく浮かびあがらせる。 赤い砂漠 - 砂漠にはありえない赤い色の。

昔は光化学スモッグ(ていうのがあった)が来ると放送があって外で遊ばないように、とか言われたりしたのだが、いまはPMなんとかにしても黄砂にしても数値で表して発表して終わり(あ、ミサイルの放送があるね)、温暖化にしてもCO2の数値とか指標の話になっていて、それってなーんかおかしくない? なかんじはある。パブリックがやるべきなのは数値が出てからその先のことのはずなのに、とにかく産業とそれがもたらす恩恵が優先で、だってそれがないと大変でしょ困るでしょ、ていうロジックで逆らってはいけない(or 逆らっても無視する)空気ができあがってしまっている。水俣病の頃からそのメンタリティってちっとも変っていないし、それは311以降のケアも同じで、要は上にはへつらえ下は耐えろ我慢しろって。その空気こそが諸悪の根源なのにさ。とかそういうことを考えてしまったり。

纏わりついてきて逃げようがない、そこで生きないわけにはいかない環境のありようを色のトーンとコントラストで描いてみる、という試みはそれなりに成功していると思う。けど一番目にしみていいなー、ってなるのはGiulianaの着る薄緑色のコートだったり。

これと関係ないともいえないWelcome Collectionで今やっている展示 - “Living with Buildings”、終わっちゃう前に行かなきゃ。

https://wellcomecollection.org/exhibitions/Wk4sPSQAACcANwrX

[film] A Private War (2018)

18日月曜日の晩、CurzonのMayfairで見ました。上映後にPaul ConroyさんとLindsey HilsumさんによるQ&Aつき。

シリアの惨状を綴った“City of Ghosts” (2017)など、これまでドキュメンタリーを中心に撮ってきたMatthew Heinemanが俳優を使って、2012年にシリアで取材中に亡くなったジャーナリストMarie Colvinの生涯を追った作品。 主人公が亡くなっていること、過去の各地の紛争のことも含まれるのでドキュメンタリーにするには無理があって、でもなんとしても撮りたかった人とテーマなのだろう。

The Sunday Times の記者Marie Colvin (Rosamund Pike)が2001年、スリランカの取材で銃撃を受けて左目を失い、それに起因するPTSD - 彼女は兵士ではなかったものの、実際の症状はPTSDで、PTSDの治療を受けていたのだそう- に悩まされながらもイラク等の紛争地域での取材活動は止めず行っては戻りを繰り返して最後にシリアに赴く。苛酷な取材の合間にはロンドンでの生活とかジャーナリストとして賞を貰ったりも挟まれるのだが、ずっと酒とタバコと男に荒れて溺れてなかなかしょうもない。ジャーナリストとしての使命、みたいな崇高さや正義感はあんま感じられなくて - 故の”A Private War”か - ドランカーとかジャンキーの強い目で紛争地域を求めて彷徨う姿が描かれている。確かにタガの外れためちゃくちゃな人じゃないとああいうことってやれないよね、という角度からの整合は取れているような。

ただ映画としてはやや冗長な構成で、Stanley Tucciとのエピソードなんかいらないんじゃないか、と思ったりもするのだが、たぶんMarie Colvinの実像を偽りなく、となるとこんなふうになってしまうのだろうか。

上映後にMarieと一緒に取材活動をしていた写真家のPaul Conroyさんと彼女の評伝本 – “In Extremis: The Life and Death of the War Correspondent Marie Colvin”をリリースしたLindsey Hilsumさん - 彼女自身もジャーナリストである -  によるQ&Aがあった。

映画ではJamie Dornan – “Fifty Shades ..”の彼ね – が演じていたので、こんばんわ映画よりも筋肉がなくなっているPaulです、とお茶目に挨拶をして、映画の最後 – 彼だけ生き残ったときに足に受けた怪我のこと(ぐしゃぐじゃ)とかから。

映画と実際の – 特に戦場での - 相違については、Marie以外はキャラクター的に束ねたり置き換えたりしたところが多少はあるものの、概ねあんなかんじで、特に前線で錯綜・混乱して動きようがなくなるところはまさにあんなふうだったと。おそらくあれよか酷いに決まってるけど。

Q&Aで印象深かったのは、若者がジャーナリストとして命の危険を冒してまで戦地に赴くことについてどう思うか? という質問に対して、ふたりとも言葉を選びながらも、世界の惨状を正しく伝えたいという若者の意思と勇気は尊重されなければならない、ああいう危険地帯で一番必要とされるのはまず医者で、その次にジャーナリストなのだ、その地域がどれほど酷く、人々が苦しみと危機に晒されているかを正確に伝えられる者がいなければ、世の中は真っ暗のままでいつまでも救われることがないままになる、それっておかしいよね、と。本当にそうだと思う。だから日本政府が査証を発行しなかったと聞くと、独りよがりもいい加減にしろよ、自国民の外への目を塞いでおいて自分たちは美しい国だとか、頭おかしいんじゃねえのか幼稚なナルシスト(そっかパパたちに倣って侵略戦争したいんだもんね、あいつら)、って。結局メディアが劣化したから萎縮したのか萎縮したから劣化したのか、それとの表裏なんだよね。
Marieが頻繁に感じていた吐き気もそういう連中に対してのものだったのではないか。
(あ、あの意味不明な自己責任うんたらも違うから。こんなの全員で責任とるに決まってるんだから)

あと、これもふたり揃って言っていたのだが、Marieのユーモアのセンスってすばらしかったって。そうだろうなー。

Marieを演じたRosamund Pikeの内側から湧きあがるようなしなやかさと目の強さがすごくて、あと最後に同様に強い女性ヴォーカルが聴こえてきて、これ誰? と思ったらAnnie Lennoxさんだった。祝復活。

2.26.2019

[film] The Mule (2018)

17日、日曜日の夕方にピカデリーのシネコンで見ました。

誰もがご存知のClint Eastwoodの新作なのだが、英国ではびっくりするくらい人気がなく、レビューも平均でもうここくらいでしかやっていなかった(2週間続いたかしら?)。 ひとつ前の”The 15:17 to Paris” (2018)も同様に気づいたら公開されてて気づいたら終わっていて、なのでまだ見ていないの。

なんでなのか、なんとなくわかるのだが、英国で話題にならない・人気がないことよりもなぜフランスとか日本ではあんなに褒め讃えられるのか、そっちの方がおもしろい分析になる気がする。
The New York Timesの記事を元にした実在した90歳の麻薬の運び屋のおじいさんのおはなし。

12月に見たDavid Loweryの”The Old Man and the Gun”もThe New Yorkerの記事を元にした実在した銀行強盗おじいさんのおはなしだった。おもしろいな。 ただこちらはEastwood自身が監督して主演している。実際に(運び屋を)やっていたら面白かったのに。

自身の花屋稼業に入れ込むあまり妻(Dianne Wiest)には出て行かれ、娘(Alison Eastwood)の結婚式もすっぽかして絶縁され、そのうち花屋も傾いて引っ越さなければいけなくなったところで、小銭を稼ぎたいのであればここに来てみな、て声を掛けられて、ガソリンスタンドの横の車庫に行ってみるとちょっと怖そうな人たちがいて、黙って荷物を運んでその場所に行ったら駐車して鍵をそのままにして、暫くしたら戻れと。 指示通りにやってみると封筒に入った札束を貰えて、言われたことを守って安全運転でいくのには自信があったので回数を重ねるようになる。

あまりに巧くやってくれるので組織もだいじょうぶなのかこいつ? って疑い始めて監視が入ったりするのだが問題ないどころか老人のペースにやられたりして、そのうち組織の上(Andy Garcia)にも認められてメキシコで歓待されたりする。

他方で警察のほうもBradley Cooper + Michael Peña(その上はLaurence Fishburne)という豪華なメンツでやっきになって探しまくるのだが、飄々としたこの老人にはなかなか行き当たらない。
犯罪実録モノ、の緊迫感とシリアスさは余りなく、特に最初のうちは荷物の中身も知らないすっとぼけたトーン - 特に彼が運転しながらかける昔のポップス(あれなに?知らないのばっか)の陽気さ朗らかさに監視する連中も引き摺られていったり - が楽しくて、更に後半に行くにつれて今度は彼が病床の妻に引っぱられるかのように家族の物語になっていくのだが、どちらにしても誰にも頼らずひとり自分だけで生きてきた孤独な老人の(良くも悪くも)揺るがない強さが引き起こす悲喜劇になっている。

でも同じ犯罪に手を染める(死と隣り合わせの)老人もの、であれば” The Old Man and the Gun”の方が楽しくてよかったかも。あちらは最初から確信犯なのだが、今作のClint Eastwood & Dianne Wiest以上にRobert Redford & Sissy Spacekのふたりの方が圧倒的にすばらしくてねえ。

ひと- 特に仕事やミッションに打ち込むひと - が必然的に、根源的に抱え込んでしまう罪や罰、その傷の深さや傷痕のありようを描くところにEastwoodの映画の普遍性はあると思うのだが、その普遍性のよって立つところってアメリカ人の生活や歴史に深く根差しているので、そこがイギリス人にはだからなにさ? に見えてしまうのかしら、とか思ったり。

あと、Pulled Pork Sandwichをとても食べたくなってしまうのでちゅうい。

“Green Book”がオスカーの作品賞を獲って、それはおめでたいことですけど、この映画もあるルールに従って車を運転していく雇われ運転手と乗客のドラマ、ではあるねえ。 結末はずいぶん違うけどさ。

2.22.2019

[film] The Passenger (1975)

16日の土曜日のごご、BFIのMichelangelo Antonioni特集で見ました。

今回の特集の目玉の4Kリストア作品で、他のところでもリバイバルされていて、いつでも見れそう、と思っていたら終わっていて泣いたやつが、数日間だけもどってきてくれたので見る。
邦題は『さすらいの二人』..

David Locke (Jack Nicholson)はTVのジャーナリストで植民地支配後のアフリカを追って取材をしているのだが、砂漠で車が動かなくなり、くたくたになってホテルに戻ってくると、隣の部屋の英国人David Robertson(Charles Mulvehill)がベッドに転がって冷たくなっているのを発見する。
ふうむ、ってしばし考えて、死体を自分の部屋に運んで着せ替えして、パスポートの写真を張り替えて、Robertsonになりすまして、ホテルのフロントにあの部屋の男がしんでるよ、って伝えると、結果うまいことに、David Lockeは死んだひと、として処理される。

ロンドンではDavid Lockeの妻が愛人のBBCのプロデューサーと夫の死を受けとめるものの、なんか引っかかって、彼の最期を知る人としてのRobertson (Locke)の行方を追い始める。
アフリカの内戦用の武器の横流しをやっていたRobertsonになりすましたLockeは、彼の遺した手帳とかメモの指示にあった空港のロッカーに行ってみると、そこにはブローカーが待機していてそこにしまってあった書類を受け取って満足して、引き換えに札束と次回の受け渡しのことを告げて去っていく。

こうしてLocke、Robetsonそれぞれの過去のしがらみにつきまとわれ2つのグループから追われて、転々とし始めたところでガウディの建物にいた女学生(Maria Schneider)と出会い、ふたりで車に乗って旅をしていくの - 「あなたは何から逃げようとしているの?」て問われたりしながら。 彼らは結局ぜんぶふっきることができるのか?

これまでのAntonioni作品と比べるとストーリーもキャラクターもわかりやすく、簡単に入っていけるのだが、その内側で問われていることはいつもの通りそんなに簡単ではない。解がない、というよりも解があったとしても、そんなものが通用する世界ではないでしょ、どうすんのよ、って。

内戦状態が続いて、人が蟻のように殺されていくアフリカの砂漠で、どちらがどう死んでもおかしくない状態で残されたひとりの男が、いろんなことから逃げようとIDをすり替えたものの、結果として両方のID属性の一部を引き摺った(押しつけられた)状態でヨーロッパの街中を車で移動していくことになる。たぶん今の冷静な目で見てみれば、仮名も使わずRobertsonで通していたりいろいろ浅はかだなあ、と思うところはあるのだが、見るべきなのはそこではなくて、そこまでして生きようと捕まえる or 逃走するその生への意志(IDなんてしるか)で、Maria SchneiderとJack Nicholsonがオープンカーで走っていくとこがたまんなくよいの。あの爽快さ、すばらしさときたら。

こうしてどこまでも逃げ続けたDavidはやがてアメリカに渡ってJackと名を変えて作家となり、“The Shining“ (1980)であんなことになっちゃうの… 砂漠を生き延びたのに…

Zabriskie Point (1970)

13日の水曜日の晩、BFIのMichelangelo Antonioni特集で見ました。邦題は後で知ったがこれがかの『砂丘』なのね。

冒頭、学生たちが議論していて、誰かと誰かが車で走っていくところまでは憶えているのだが、そこから落ちてて(疲れてたらしい。たぶん)、Pink Floydが流れているねえ、って目を開けたら(最初は自分がどこにいるのかもわからない状態)、突然目の前で「爆発」が始まったので椅子から転げ落ちるくらいびっくりした。 というとこも含めて、とっても新鮮だった。 またちゃんと見なきゃ。

しかし、『赤い砂漠』(1964)でカラーになって環境問題を取りあげ、『欲望』(1966)でイギリスに渡ってイギリス的な「見る」ことを取りあげ、『砂丘』(1970)でアメリカに渡ってアメリカ的な不寛容を取りあげ(なんとなく、ね)、間に中国のドキュメンタリーを挟んで(未見)、"The Passenger" - 『さすらいの二人』(1975)でアフリカとヨーロッパに渡って越境について取りあげる。

これってとても筋が通った“The Passenger“としてのMichelangelo、と言えるのではないかしらん。

[film] Bergman: A Year in a Life (2018)

5日、火曜日の晩、BFIで見ました。原題は“Bergman - ett år, ett liv”。

Jane Magnussonによるドキュメンタリー - “Trespassing Bergman“ (2013) – 邦題『グッバイ!ベルイマン』の続編、というか同様のテーマを扱っていて、昨年世界中で開催されたベルイマンの生誕100周年のあれこれに合わせて制作されたもの。
スウェーデンではこれの4時間版が4回に渡ってTV放映されたのだそう。

世界中の大監督たちが揃ってベルイマンすごい!だいすき!ばっかり言っていた(気がした)前作よりもう少しベルイマン自身と彼の映画にフォーカスして、彼のキャリア全体を俯瞰していくのだが、そのなかでも1957年 – 後に代表作として認知される“The Seventh Seal“と“Wild Strawberries“を作り、並行して1本のTV作品、4本の演劇作品に関わり、彼はこのとき38歳で3人の女性との間に6人の子供をもうけていて、始終胃痛に悩まされていた(そりゃそうでしょうよ)彼は、この年にいったい何を見出したのか。

登場するのは彼の現場周辺にいた人々が殆どなのだが、有名なところだとLiv Ullmann, Elliott Gould, Barbra Streisand, Lars von Trier(前のにも出てたよね)、などなど。彼のすごいとこばかりあげて讃えていくのではなく、脱税疑惑で国を離れなければいけなかったことなど、ネガティブなとこも淡々と出している。

57年に彼が見つけたのはこれこれこういうのだった、とかこの年から彼がこんなふうに変わったとか、作品論・方法論の双方から明確ななにかが提示されるわけでは勿論なく、なんとなくこんなふうにすごいペースで仕事をするコツとか、この後に延々追っていくことになる知りようのない死とか神とか悪魔の存在や所業を描きだす =  画面上に映し出す - やり口を見つけたとか、そういうことではないのかしら。

57年以前にだって、“Summer with Monika“ (1953)とか “A Lesson in Love” (1954) とか “Smiles of a Summer Night” (1955)といったすばらしい作品は作っているのだし、これらと比べて“The Seventh Seal“ - 『第七の封印』がそんな突出してすごいとは思えなかった(あくまで個人の感想です)し。

たぶん、その手法って映画監督として映画表現を探究していく中で出てきた、というより演出家として演劇のプロダクションに関わるなかで出てきたのではないか、って、“All About Eve“の舞台を前日に見たばかりだったせいもあって、ぼんやり思ってみたりもする。

ただこの年の『第七の封印』でベルイマンは「世界の」ベルイマンになったこと、所謂「画面に釘づけ」にしてしまうなんかの秘伝のようなものを見つけたぽいことは確かなようだし、どれ見てもそれなりにおもしろいので見たほうがいい(← これはまちがいなく確か)。 けど、『第七の封印』だけ見て、ああいうの苦手でさあ..  って(..いそう)やめないで、時代をまたいで最低5本くらいは見てみてほしい。

これは同じ日 - 2007年7月30日に亡くなったアントニオーニについても同じで、彼の『欲望』だけ見て、あーっていうだけで止めちゃうのはほんとうに勿体ないから。

彼らの映画って(括って総括してはいけないことは勿論だが敢えて)、愛に向かいあう人間、死に向かいあう人間、神に向かいあう人間、それらの背景に立ち現れてくる風景や建物や歴史との交接を20世紀の終わり半分の間、ヨーロッパの北と南で真摯に考え続けた結果だと思うので、時間があれば見たほうがよいし、それで返ってくるものは必ずあると思う。よ。

ま、とにかく今週は、6月のBikini Killのチケットが取れたのでそれでよしとしたい。

2.21.2019

[theatre] All About Eve

4日、月曜日の晩、Noël Coward Theatreで見ました。

1946年、Mary OrrがCosmopolitan誌に発表した短編 - “The Wisdom of Eve”をJoseph L Mankiewiczが脚本化して監督した映画の古典 – “All About Eve” (1950)をベースに演出 - Ivo van Hove, 主演Gillian Anderson & Lily James、音楽PJ Harvey、で舞台化、ときたら見ないわけにはいかないので、オープンして2日後のチケットを取った。 休憩なしの約120分。

元の映画版は随分昔に見たのだが、ほとんど頭に残っていない。← ほんとしょうもない。

ブロードウェイ女優のMargo Channing (Gillian Anderson)がいて、彼女のファンだというEve (Lily James)が訪ねてきてあなたのような女優になりたい、と言ってそのまま横について、だんだんにのしあがっていく、その果てのない衝突だか葛藤の(演劇とは関係のない)ドラマに劇作家とかその妻とかが絡む、それだけといえばそれだけのー。

映画版にあった(気がする)老若それぞれの女優の意地とか野心が織りなす重厚なドラマ、というのは、まああるよね、くらいの地点に後退、というか背景としてあるだけで、まず女優がいて、女優というのは舞台で演技をする女性のことで、彼女の生きる場所はフロントステージとバックステージとがあって、彼女は生きているので歳を重ねたり、それによって後から来た者に交替したりされたり、ということがあって、そういう生々しいのはだいたいバックステージで起こる、よね。 といった具合に分解して再構成して、そうやって生成されてくるドラマ、これもまた演劇である、と。

2017年の秋にbarbicanで見た、彼の演出による2本立て - ”After the Rehearsal” - バックステージでの葛藤とか言い争い と”Persona” -  舞台で動けなくなり喋れなくなった女優と看護婦のふたりの女性の睨みあい絡みあい、というベルイマンの映画を舞台化したものを思い起こすこともできるし、あるいは同年の春にやはりbarbicanで見たヴィスコンティの映画『郵便配達は二度ベルを鳴らす』(1942) をJude Law主演で舞台化した”Obsession” - これはどこからか現れた若い男が、歳取った夫から彼の若い妻を横取りする話だったけど - に似ていないこともない。

ただ似ている似ていないというのは大したことではなくて、同じ性別のがふたりともういっこの性別のがひとりの3人いてその間で会話が交わされ諍いが起こり、そしてそれを「舞台」のようなかたちで切り出す - それは、それを見る我々の世界を含めた入れ子構造になる - ことができれば、演劇というのは成立する、というか、そういう要素で構成されているのがIvo van Hoveの演劇、といえないこともない、のかもしれない。
それはやはり叫びと囁きと交歓を画面の端から端まで使って、緻密に丹念に拾いあげ、「それだけ」のドラマとして構成されるベルイマンの映画にとても近いかんじがあるのだが、でもそれだけではなくて、演劇はライブである、というのもある。

この舞台では中央に舞台のメイクアップをする鏡台が置かれてその鏡を覗きこむ女優の顔がライブで上部のスクリーンに大写しされ、ドレッシングルームの奥にまでカメラが入り込んで、それもまた前面上部のスクリーンに投影される。老いた女優のすっぴんの顔が大写しになり、毛穴も含めてすべてが晒され、バックステージというものがなくなる。
(スクリーンによる細部の誇張は”Obsession”にもあったが、あの場合はふたりのラブシーンをでかでかと映しだしていた)

女優ふたりは、Gillian Andersonの貫禄(なんかすごかった)とLily Jamesの狡猾さが火花を散らす見事なものだった。
でも、あえて言うなら、”All About Eve”という映画のクラシックをこのミニマルな様式にぶつけてバラしてみることの意義って… という声は出てくるのかもしれない。 それが狙いでもあるのだろうが。

あと、PJ Harveyの音は、Web上でdemoが公開されている”The Sandman”を最後にLily Jamesがひとりピアノで唄うの。 こないだの”Mamma Mia!”と比べるとちょっとはらはらなのだが、それはそれで。

2.20.2019

[film] Vice (2018)

12日、火曜日の晩、CurzonのSOHOで見ました。
Adam McKay渾身の実録くそったれ政界ドラマ。痺れるくらいにおもしろい。おもしろくないわけがない。

わたしはBush-Cheney政権の頃にNYにいたので、このふたりが東海岸でどれほど嫌われ疎まれ、憎まれてきたのかようくわかる。ライブに行けばこいつらへの強烈なDisやこき下ろしが入り、映画上映でトークが付けば、必ず政権批判のスピーチがあり(ジャームッシュなんて20分くらい延々アジってた)、こういう時期を通ってきたので今の日本の、政治的ななんかを言うのが憚られる(あんなひどいのに)というのが信じられないし気持ちわるいし、今のTrumpはこの頃のよか軽く10倍くらい酷いので、現地ではすごいんだろうなー(見たい聞きたい)というのがあって、これを見ているとそういういろんな声がわんわん増幅されて響いてくる。

こないだの”Green Book”のPeter FarrellyにしてもこのAdam McKayにしても、コメディを作ってきた連中がなんでこういうシリアスなドラマに向かうのかって、ここに出てくるアメリカのたんこぶとかイボみたいな奴らをなんとか、どうにかしないと笑いもくそもないからよ、ていうのと、こういうクズみたいな連中が社会の上の方にのさばっていっぱい儲けてのうのうとしているって、最高のジョークじゃねえかやってらんねえぜおい、ていうのの両方あるのかしら。

2001年、911の日のワシントンで、Bushが不在なので代行でものすごいことを(淡々と無表情で)やってしまうCheney – そう、こいつはそういう奴よ、という冒頭から60年代のワイオミングに飛んで、喧嘩と酒ばかりでどうしようもないDick Cheney (Christian Bale)を妻のLynne (Amy Adams)がものすごい剣幕でしばき倒して、それで反省した彼はD.C.でDonald Rumsfeld (Steve Carell)のお付きになって政治の世界で頭角を現していく - 政権の推移で浮き沈みを繰り返しつつも – その様を追っていく。

特定の政策策定や実行のためにものすごい政治的手腕やキレを見せるような場面はなくて、彼が関心を向けるのはUnitary executive theoryとか、要は自身に権力を集中させるために必要な風向きとか地図とか人脈とかそっちの方で、それさえ手にしてしまえば後は、どんな政策であってもどうとでもできる、戦争だって起こすことができるのだから、と。

そこにしか関心のなかった彼にとって、ぼんくらGeorge W. Bush (Sam Rockwell)のVice - 「副」であり「悪」でもある – というポジションは願ってもないあれだったの。あーめん。

もちろん、最初からずっと確信犯でやってきたわけではなくて、自身の健康の問題があり、娘とか家族のこともあり、クリントンの時代でフェードアウトしておけばじゅうぶん幸せだったのに..  最後の方で明らかになる語り手の正体も含めて、妖怪のように”Vice”を食らいながら生き延びていく姿は相当に気持ちわるいのだが、これこそがアメリカの政治のコア、そのありようなのだとか言われるとううむそうかも、って言わざるを得ない。

この辺の、もうこうだったらああだったかもしれないのに、というラインはドキュメンタリーで描くのは難しいし、かといってAnchorman - Ron Burgundyに喋らせるのも違うし、今回のような寡黙でシリアスなドラマにするのが一番だったのかもしれない。 Will Ferrell(今作ではプロデュース)にBushをやらせないくらいにはシリアスな。

あーそれにしても、(一番最後に出てくるけど)こいつらがでっちあげでイラク戦争を仕掛けさえしなければ…  というのはもう言ってもしょうがないことで、でもああいうことが二度と起こらないようにするにはどうしたら、というのはいくらでも言っておいたほうがよいことなの。 いまのアメリカといまのにっぽんは特に。 後者のなんてあんなスカスカの低レベルなのになんでみんな黙っていられるんだろ → TVでも新聞でも。

むかし、何度かD.C.に行ってある仕組みを作っていた政権に近いところの人たちと何度か会ったことがあるのだが、あそこにいる人たちってみんなつるっと小綺麗で妙なかんじで、それを思い出した。 まさに”They Live” (1988) のあれなんだよね。

俳優さんたちはどれも絶妙に巧くて - CheneyにしてもDonald Rumsfeldにしても - あれこれ思い出してむかついてぐうう、ってなった。 ぐったりしているときに見たらしんどいかも。 でも必見、ぜったい。

2.19.2019

[film] Stella Dallas (1937)

10日、日曜日の夕方に見た3本めのStarring Barbara Stanwyck。
淀川長治さんの名解説(Webでも読める)でも有名な作品よね。

マサチューセッツの炭鉱労働者の娘のStella (Barbara Stanwyck)は、炭鉱の重役のStephen Dallas (John Boles)の気を惹こうとしてて、彼の父が破産して自殺、婚約者Helenもそのせいで別の人と結婚してしょんぼりのところを捕まえて結婚して、彼女はStella Dallasになる。

やがて娘のLaurel (Anne Shirley)が生まれて、Stellaは娘のことしか頭にないくらい子育てに没頭して良くも悪くもべったりになっていくのだが、昔からの鷹揚な飲んだくれとずっと付き合っていたり、彼女の恰好はだんだんに大阪のおばちゃんみたい(ごめんなさい、あくまで印象だけで言っています)になっていって(なんでだろうね?)、Stephenは目を合わせてくれなくなり、彼のNY転勤を機に離れて暮らすようになる。

NYのStephenは今は未亡人になって3人の息子がいるHelenと再会してなんかよいかんじになり、そこにLaurelを呼んだら彼女も世界が広がって楽しそうにしているので、Stellaはだんだんに孤立していって、Lauraはやがてその土地の名家のぼんと結婚することになったのだが、婚約パーティにStellaが招かれていっても浮きまくって恥ずかしいことばかりなので、あたしがいるとLaurelのためにもよくないわ、って離れることにするの。  で、やがて結婚式の日がきて…

ものすごく辛い痛みや生死を分かつような別れがあるわけではなくて、昔からどこにでもありそうなベタな浪花の(ごめんなさい、あくまで印象だけで言っています)母娘物語、みたいなかんじで、これのきっついのはみんないい人で誰一人悪人が出てこない、っていうことなのかもしれない。たぶんStellaがちゃんと言えばいつでもLauraに会うことはできるしLauraも喜んで迎えてくれるのだろうけど、でもそういうことじゃなくて、もうふたりで過ごしたあの時間は二度と来ないんだな、っていう誰にでも思い当たりそうなしょんぼりした感傷と、あなたの幸せを世界で一番願っているのはこのママなんだから! ってラストシーンに向けてなりふり構わずエモ全開でぶちまけてくるBarbara Stanwyckのすさまじいこと。 幸せになってよう、って誰もがハンカチ握りしめて投げ銭しちゃうよね。

献身的な母と離れていく娘モノ、ていうとトーンはぜんぜん違うけどJoan Crawfordの“Mildred Pierce” (1945)てのもあって、ほんと母娘いろいろだねえ、って。(他人事)

これの原作となった小説は20年代のベストセラーで、なんでかというとアメリカで離婚や片親の問題がクローズアップされてきたという背景があって、Samuel Goldwynが最初のサイレントのを作った時、その映画化権は当時としては破格の$15,000だったのだそう。で、Goldwynがこれのリメイクをする際、Barbara Stanwyckはチョイスに入っていなかった - 母親を演じられるとは思わなかったって - とか、撮影に入ってもいろいろあったとか、配布されたノートにはいろいろあっておもしろ。


この日、BFIに行く前にV&Aで始まった”Christian Dior: Designer of Dreams”を見てきた。

チケット購入不要のメンバーでも軽く30分並ぶ盛況で(日曜の昼間だからか)、基本は2017年にパリ装飾美術館で開かれた“Christian Dior, couturier du rêve”のを持ってきて、V&Aの新しいギャラリースペースにぎっちり押し込んだかんじ(ややきつめ)。プラスでDiorはイギリス贔屓でした、ていうコーナーが新たにくっついたくらい。  装飾美術館のほうが威風堂々としていたかも。

あとカタログは構成、製本、紙質、ページ数(100p以上多い)ぜんぶパリの方の圧勝だと思いましたわ。

RIP Karl Lagarfeld ...  猫も沢山の本たちも悲しんでいることでしょう。

[film] Night Nurse (1931) + Baby Face (1933)

10日の日曜日は、BFIのBarbara Stanwyck特集で3本見た。 この回は初期の中編ふたつを束ねたもの。
やはりどっちもとんでもな(以下略)。

邦題は『夜の看護婦』で、たしかに間違ってないけど、なんか淫靡になってしまうのは ..自分がわるいのよね。
監督William A. Wellmanの出演作の最初の。

Lora (Barbara Stanwyck)は看護婦見習いになりたくて病院に来たのだが高校を出ていないからって追い払われる手前で、手助けしてあげた偉い人の口利きで採用されて、いろんな部局での研修を経て住み込みの看護婦としてお金持ちのおうちに入るのだが、そこのふたりの娘はすっかり見捨てられて衰弱していて、母親は毎日パーティの酒浸りで、やくざな出入りの運転手(Clark Gable)がぜんぶ仕切ってホームドクターとも口裏合わせしてて、子供たちの惨状をみかねたLoraが激怒して立ちあがり、見習い期間中に助けてあげたやくざのお兄さんと一緒になってとっちめて、ちゃんとした医者を連れてきてミルク風呂に入れて自分の血を輸血して子供を救うの。

最初は軽くてやわいかんじの娘っこに見えたLoraがぐでぐでに酔っぱらって子供の面倒をみない母親に対してブチ切れるシーンの剣幕形相がまじですさまじくて、誰もが背筋を伸ばして、最後は拍手が起こっていた。

Clark Gableのねちっこいワルなかんじも見るひとが見たらたまんないのではないかしら。この役、最初はJames Cagneyがやる予定だったんだって。

Baby Face (1933)


邦題は『紅唇罪あり』..
ペンシルベニアの父親がやってる安酒場で小さい頃から酔っ払い客の相手をさせられてきたLily (Barbara Stanwyck)がいて、そんな彼女にニーチェの『権力への意志』を説いて、都会に出てでっかくなるのじゃ、っていうおっさんがいて、父親は酒場の突発事故で死んじゃったので列車に乗って - 列車代は注意しにきたお兄さんを落として - NYに出て勝負することにする。

NYに着いてからも窓口付近にいる男をぜんぶ色責めで落として – やられる連中の中にはスーツ姿のJohn Wayneまでいる - 文書部から貸付担当からビルの下の方から順番にのしあがっていって、会計まで来て、そこのボスのNedは副社長の娘と婚約していたのだが、たまらずにLilyと寝ちゃったので娘はパパのとこに泣いて言いつけにいって、パパはけしからんな、てLilyを呼びつけるのだがそこで同じように彼女にやられて、なめんなふざけんなってやってきたNedは義父を殺して自殺する。

そういうスキャンダルから会社を建てなおすべくやってきた創業者の孫Courtland (George Brent)は彼女に金を持たせて追い出そうとするがかわいそうだったのでパリ店に異動させて(いいなー)、そしたら彼女はパリで成功してきらきらになっていたので惚れちゃって結婚したら、今度は会社が傾いたという知らせが...

最初から最後までぜんぶこのトーン - 色で落として出世して金と地位を手に入れてなにが悪いのさ? で貫かれていて、ちっとも悪くないしかっこいいよね、としか言いようがないの。ハラスメントみたいなことをしているわけではなくて、むしろ理不尽なそういうのから生き延びるための対抗措置としてやっただけなのにあれこれ言われる筋合いないわ、って。

外側の振るまいだけだとFemme fataleとか魔性の女、って怖々呼ばれてしまうのかもしれないけど、そうじゃないの、彼女はニーチェをやろうとしただけなの、かっこいいよね。(最後だけ人間に戻っちゃうんだけど)

上映が終わったあとで、検閲で削除されたシーンのいくつかが上映されたのだが、どこがいけなかったのか、ほぼわかんないくらい微妙な線なの。そんなもんよね。

2.18.2019

[film] Burning (2018)

11日、月曜日の晩にCurzonのBloomsburyで見ました。

村上春樹ものを見るのは”Tony Takitani” (2004)以来(NYのAngelikaだった)で、原作の『螢・納屋を焼く・その他の短編』(1984) は出た頃に読んだ - あの頃は出るとふつうに読んでた - けど、筋は見事に忘れている。 納屋を焼くところが出てこなかった、とこを除けば。

日本では「劇場版」と付いていて、NHKが放映したTV版もあるらしいがそっちはもちろん見ていない。

現代の韓国の街中で、Jong-su (Ah-in Yoo)が同じ村にいたHae-mi (Jong-seo Jun)と会って(整形したからわからなかったでしょ、という)、彼は作家になりたいこととか彼女はアフリカに旅にでるとかいろんな話をして、旅で不在になる間に飼い猫のBoilに餌をやってほしい、って頼まれて彼女のアパートに行ってセックスして、でも彼女がいない間、アパートに行ってもBoilはなかなか現れてくれないの(で自慰して帰るだけ)。 

やがてアフリカから戻ってきた彼女は現地で知り合ったというBen (Steven Yeun)と一緒で、Benはとても洗練されててなにやって稼いでいるのかわからないけど洒落たアパートでしょっちゅうパーティとかやっていて、Jong-suはHae-miはBenに取られちゃうんだろうなー、とか思いつつどうすることもできなくて、やがてBenは納屋、というかビニールハウスを焼く計画をJong-suに打ち明けたりするのだが、これも一体どうしろと、みたいなはなしで。

もういっこ、Jong-suが頻繁に実家に行かなければならない理由は、彼の父親が暴力沙汰を起こして収監されて裁判している(間に家畜の世話とかしないといけない)からで、法廷で父の突発的な暴力衝動のことを聞いても、これもどうしろっていうの、というしかない世界で。

Jong-suはフォークナーのような作品を書きたいとか、”The Great Gatsby”への言及があり、TVではTrumpの愚行蛮行のさまがずっと流れていて、アメリカ的な豊かさとそれがもたらすぼんやりとした格差が基調音としてあるような。

それはかつて村上春樹が描いた80年代的なアパシーとか無力感(そんなもんさ)の背後で進行したり浸食したりしていく不穏ななにかと似ているようでやはり違っていて、あそこで焼かれようとしていた納屋とは焼き方も納屋のありようも違っているように思われる。

Jong-suが頻繁に人の家の棚や引き出しを開けて見つけたり見つけようとしたりしている何か - この映画での納屋は明らかに何かがしまいこまれたり囲い込まれたりした空間で場所で、これに対して原作の納屋はもう少し観念的で漠とした想念が向かって漂う場所 - たんなる穴のような - でしかなかった気がする(ま、ちゃんと読み返さないとわかんないか)。

ラストの決着のつけ方 - ああなるんだろうな、ということがだんだん見えてくる、というのはこの映画の場合はよいことで、主人公が最後にああいうことをするのもわかるのだが、ここで着目すべきとこは、結末がどうとか原作との相違とかよりも、何が何の喩えになっているかとかよりも、”Burning”という状態に向かって画面上の光や温度、体温がゆっくりと変化し上昇していく、そのちょっと不可解な様がスリリングに描かれているところがよいのではないか。

その描き方が近代アジアの風景のなかにあることで、欧米の人たちが – 例えば “The Handmaiden” (2016)と同じように? - 絶賛したのもなんとなくわかる。 アジアのなかのにっぽん人からすると、70年代のATGにあんなような鬱屈したのって、いっぱいあった気がした、けど。 ただその描き方はこっちの方がどこまでもドライで視線が交わらなくててんでばらばらで得体がしれなくて、その掠れたとこが素敵だと思った。

[film] Golden Boy (1939)

9日、土曜日の夕方、BFIのBarbara Stanwyck特集で見ました。
NYのGroup TheatreのためにClifford Odetsが書いた脚本をベースにRouben Mamoulianが監督した作品。
めちゃくちゃおもしろいよう。(こればっか)

NYでボクシングジムをやっているTom (Adolphe Menjou)とその愛人で仕事上のパートナーでもあるLorna (Barbara Stanwyck)がいて、TomはLornaと一緒になるための離婚費用をつくるのにでっかい試合を打ちたいと思っていたところに売り込みにきた威勢のよい若者Joe Bonaparte (William Holden .. ぴちぴち) を見てこいつだ! ってなるのだがJoeはおうちではパパBonaparteの庇護のもとバイオリンの英才教育を受けてきたすごいバイオリニストでもあって、さらにLornaに惚れて、面と向かって愛してる、って言われたLornaもえっ… て揺らいでしまう。

Joeのおうちには姉がいて酔っ払いで気立てのいい義兄がいて、パパがこまこま仕切っていてなにかあると家族で演奏会になって楽しく歌い出す、そういうおうちで育ったJoeがなんで自信たっぷりに殴り合いのボクシングに向かったのか謎だしパパも嘆き悲しんで、ディナーに招かれたLornaもその雰囲気にやられて、バイオリンを続けたほうがみんな幸せになるのにな、になっていく。

そのうち地元の大物ギャングのSiggie (Sam Levene)が昇り竜のJoeに目をつけて、Madison Square Gardenでの大興行を持ってくるの。 Joeの将来をかけた大勝負はどっちに(バイオリンは続けられるのか)、そして彼はボクシング(やくざ)を取るのかバイオリン(パパ)を取るのか、LornaはTomとJoeのどっちに転ぶのか、Rom comというよりスクリューボール・ホームドラマみたいなかんじなのだが、緩急が激しくて、でも無理なく盛りあがっていくので目が離せない。

下町で育った若いバイオリニストが年上の女性と恋に落ちるお話しというと、昨年のJoan Crawford特集でみた”Humoresque” (1946)があって、あれはメロドラマでこれとは正反対の結末を迎えるのだが、暖かい家庭に育った壊れやすい繊細な青年を包みこんで護ろうとする女性がやがて戸惑いつつも恋にはまって、という構図は似ていて、こういう系の映画って他にもいっぱいあるのかしら。

こういう年上の女性に向かう恋愛ものって母性みたいなところに向かいがちなのかも知れないけど、Lornaがママみたいに世話を焼く(いつもネクタイを直してあげたり)のはTomのほうだったりするのがおもしろい。 年齢関係なく割と対等に置いているのがすてきで。


14-15日と仕事でストックホルムに行っていた。 ストックホルム初めて。
1722年にできた世界最古のレストラン、ていうところでディナーを戴いたのだが、そこに招いてくれた会社の偉いひと(自分よりぜんぜん若いけど)が、文学部なんだ、ということでなんでかジョイスとかプルーストの話を始めて、そこからなんでかデスメタルの話になって、90年代の始め、15歳くらいのときにバンドをやっててデモを手当たり次第送っていたら突然フランスから契約書が来てさ、とか言うのでなんていうバンド? て聞いたら、”EPITAPH”って。名前くらいは知っていたのでへええ、ていうとテーブルにいた他のおっさんたちもなになになに? となり、彼はメタルとデスメタルとブラックメタルの違いをみんなに説明することになったりしていた。 彼に知り合いがやっているレコード屋を紹介されたので翌日行って、何枚か買って帰って(手ぶらで帰れないよね。まったく想定外)。プログレとサイケとヘヴィー系とニューウェーブ少しのみ、Vintage Violence - ( - John Cale) ていう素敵な名前のお店だった。お店がある石畳の通り、古本屋とか雑貨とかぬいぐるみとか素敵なのだらけで、時間がいっぱいあったらやばかったかも。

ストックホルム、寒かったけど素敵だった。おうちに戻ってThe Cardigansの再発されたヴァイナル聴いた。  (アバは持ってなかった)

2.14.2019

[film] Blowup (1966)

3日、日曜日の晩、BFIのAntonioni特集で見ました。
上映前にRon役で出演しているPeter Bowlesさんによるイントロがあった。『欲望』。
これ、見たことなかった。日本だと某評論家のおかげでYardbirdsが出て来てJeff Beckがギターをぶっ壊す映画としか紹介・認知されてこなかった気がする。ほんともったいなかったわ。

原作はフリオ・コルタサルなのね。

イントロのPeter Bowlesさんの話 - Antonioniが英国で映画を撮る、というのは当時のロンドンの若い役者たちにとっては大騒ぎの大事件で誰もが – Terence Stampとか - 出演したがって、結局シェイクスピア役者として頭角を現していたDavid Hemmingsが主役になり、自分も役を貰えたのでよかったのだが、自分が登場して喋るシーンが最初に貰った台本と直前のそれでざっくり削られていて、そこで削られたスピーチの内容が映画全体にとってぜったい重要な内容だと思ったので、Antonioniに直訴した、と。当時のAntonioniは絶対君主だったので直接話すことも大変だったようなのだが、とにかく時間を貰えて、あなたがあの部分を削除したのは間違っていると言うと、監督はPeter、君の言っていることは全く正しい、でもな、あのスピーチを入れてしまうと映画の全てがきれいに整合してわかっちゃうのだよ、と言われたので返しようがなかった、と。 他には尋常ではない色(トイレの壁紙とか)への拘りとか。

Swinging Londonでざわざわしているロンドンで売れっ子の写真家のThomas (David Hemmings) - モデルはDavid Baileyだって – がいて、モテモテだし忙しい日々ででもふらっと車で外にでて骨董屋行ったり公園に行ったり、公園でぱたぱた写真を撮っていると若い女性と初老の男性が会っていて、スタジオに戻って現像して引き伸ばしてみると一見わからないけど銃とか死体のようなものが写っているので、これはやばいかも、になる。

そのうちあのとき公園にいたという女性(Vanessa Redgrave)が現れてフィルムを渡せ、というのだが彼もすんなり渡すわけはなくて、その後で公園にいったらやはり死体はあって、ても後で行ったらそんなものはなくて、すべてはそんなふうに、彼が目でみたもの、カメラが写したもの、それがブローアップされたもの、そのイメージが喚起してくるなにか、そのイメージについて語られるなにか、イメージを捕捉したり確かめたりしようとする動き - “Stroll on” - の間で揺れて、捕まえようとするとするりと逃げて、どこまでいってもそのもの、事象に到達することはできないように思えて、それってどういうことなのだろうか、と。

有名なYardbirdsのシーンもJeff Beckがぶち壊したギターのネックは、道端に置かれてしまえばただの木の破片でしかない、そういうゴミや瓦礫と紙一重のなかで瞬間を切り取って、それがお金や名声に変わって、みんなそれでわーきゃー言っている。 というその脇を革命を夢見る若者たちのデモが通り過ぎていく。

あの時代のロンドン、ということで起こりえたお話なのか、あるいは異国で、初めて全編英語で、スタッフも違うところで、改めて自分が撮るという行為とか、なにを撮ろうとしているのか、などについて考えてみた、ということはあるのか。そんな単純ではないか。

どうでもよいことだけど、David Hemmingsて、たまに若いときのMark E. Smith に見えることがあってね。

[film] Ladies of Leisure (1930)

7日の晩、BFI Southbankで見ました。2月から始まった特集”Starring Barbara Stanwyck”からで、出だしで見逃した分も含めてがんばって追っているのだが、それでも見れないのが出てきていてくやしい。だってどれ見てもすごくおもしろいんだもの。

Jerry (Ralph Graves)は鉄道会社をやっている富豪のとこのぼんぼんで、でも画家になりたくて、そんな彼が明け方にパーティ帰りでふらふら歩いてた娘Kay (Barbara Stanwyck)を拾って、軽い気持ちで彼女を絵のモデルとして雇って、最初は乱痴気パーティガールのKayをおもしろがっているだけだったのが朝まで過ごしたりしているうちにだんだんに近寄っていって、結婚しようか、になるのだが彼の家はそんなあばずれ許しません、てなって、彼はそんなのいいからアリゾナに行ってふたりで暮そう、って言ってくれるのだが、旅立ちの手前でKayは彼の遊び仲間に連絡してハバナ行きの船の乗ってしまうの。同居していた彼女の友達が大騒ぎして彼にそれを伝えて…

ストーリーはこんなものなのだが、彼の遊び人友達(♂)、彼女の豪快友達(♀)、厳格すぎる彼の父、理解は示すものの結局突き放して泣きを入れてくる彼の母、などなど、人物設定と配置はパーフェクトなrom comのそれで、そんなことよりもBarbara Stanwyckさまのエモがぜんぶ透けてみえるのに強がりを重ねて、それが終盤に向かうにつれて表面張力ぱんぱんになり、それが一筋の涙で決壊して周囲をエモの大渦に巻き込んでしまう凄まじさはなんなのか。古い表現だけど画面に釘づけって、こういうことなのね、って。

Frank CapraによるBarbara Stanwyckとの第一作で、プロデューサーのHarry Cohnが彼女をKay役としてCapraに推薦したのだが彼はあまり乗り気じゃなくて、面接しても彼が失礼な態度だったので彼女は泣いて怒って、でもまあテストで撮った彼女を見てみ、って言われたのでそのフィルムを見たらびっくりして即採用になった、って。それが十分に納得できるとてつもない演技。すでにBarbara Stanwyckはぜんぶある。いる。

あと、Barbara Stanwyckの役柄的にはこれのリベンジ – 豪華客船で、金持ちぼんをぼこぼこにする – をそのうち”The Lady Eve” (1941)でやることになるのね。

The Bitter Tea of General Yen (1933)


2日の晩、日本から戻ってきて3時間後くらいにBFIで見ました。
Barbara Stanwyck特集、これもFrank Capraの監督作で、邦題は『風雲のチャイナ』(.. 何故カタカナ?)

20年代、内戦でぐしゃぐしゃの上海に赴任してきたアメリカ大使と彼と結婚間近のMegan (Barbara Stanwyck)がいて、歓迎パーティの途中なのに難民を助けに外に出て行った彼を追う彼女だったが途中でごたごたに巻き込まれて気がつくとGeneral Yen (Nils Asther)のお屋敷にいる。

服も寝室も与えられて賓客の扱いのようなのだがMeganにとってはすべてが異次元異文化のこと - 邸内で大量の銃殺刑やったりしてるし – で、General Yenから食事の誘いを受けても無理に決まってるでしょ早く元のところに帰して、しかなく、でも腹を括って着飾ってお食事して、そうしたらようやく互いに解けてくるのだが、でもやっぱり。

NYのRadio City Music Hallでの最初の映画上映作品で予算もたっぷり使った歴史大作だったのだが、評判は散々で興行も大コケして、更に主演のNils Astherをツリ目にしてGeneral Yenを演じさせたりしたことはRacial観点からも問題視されて、でもそれでも、MeganがGeneral Yenと側室のMah-Li (Toshia Mori)に対して露わにしていく内面のせめぎ合いと、彼女への秘めた愛ゆえにそれを受けたGeneral YenのBitter Teaの苦悶の描写は繊細で見事なメロドラマになっていると思うし、邸宅のセットとか美術も素敵ったらなかったし。

2.13.2019

[art] Parisところどころ

8日の金曜日、会社を休んでパリに行った。

これまでパリ行きはだいたい1泊か2泊で、小さめのがらがらを引いていったわけだが、時間的には電車で約2時間半の、千葉の外れとか神奈川の奥に行くようなもんだし日帰りできるんじゃね? と思っていたのをやってみる。普段ロンドンの街中をうろついているときの肩掛け鞄だけ下げて。 昨年の暮れに行ったときに悪天候でじゅうぶん動けなかったののリベンジ、もある。

6:54発のに乗って10:17にパリ北駅着。これなら美術館が丁度開いたくらいだし。以下、見ていった順番で。

Collections Privees. Un Voyage des Impressionnistes aux Fauves @ Musée Marmottan Monet

「印象派から野獣派までの旅 – 個人コレクションを通して」   .. でいいのかな。
個人蔵の作品って、こないだのフィリップス・コレクションのようなでっかいのを除けば傾向も含めててんでばらばらなのだろうけど、あんま見る機会があるものでもないしなんかあったらおもしろいな、って行ってみたらなかなかおもしろかった。 カイユボットの素敵なのが結構あって、モネもルノワールもドガもゴッホもゴーギャンも。 ルノワールのバナナを描いた静物、とか。スーラのデッサン(殴り描きのような)とか。 野獣派はそんなに数がない気がしたけどマティスの描いた浜辺 – ぜんぜんやる気なしっぽい – とか。ヴュイヤールも。ロダンの裏側に並んだカミーユ・クローデルも。
あと、ここに来ると必ず寄るベルト・モリゾのコーナーももちろん寄った。

Musée Jacquemart-André

こないだまでカラバッジョの展示をやっていたのにもう終わっていて常設のみ、しかも一部改修工事中だったけど。 貴族のお屋敷だったところなので展示というより建物込みで。レンブラントが貸出中だったのはざんねんー。

Sigmund Freud. Du regard à l’écoute   @Musée d'Art et d'Histoire du judaïsme

今回の旅のメイン。 英語にすると“From look to listen“。展示の説明書きはほぼ仏語、フロイトもむかしふつーに読んだ程度なのだが、ものすごくおもしろかった。19世紀末にパリに来てヒステリーの治療現場に立ち会って影響を受け、自然科学の「見る」態度から患者の言葉をどこまでも「聞く」ことを通して精神分析の手法を確立し、こころや無意識の構造 – なかでも「セクシュアリティ」という縛り= 力の存在を明らかにしていく、というフロイトが辿ったその道程と、同時期にヨーロッパを中心に展開されていった本来見えないもの(超現実)を見ようと、表に引っ張りだそうとするアートの動きはどんなふうに連関していったのか。そのリンクって明確にあるわけではないし、でもまったく関係ないわけでもない、少なくとも世界の起源を暴き、見据えようとするその意思と意識において共振するなにかがあったのではないか。

というわけで展示は彼の専攻の文献とか実際の治療で使った器具とか記録とかがひとつの流れを作りつつ、彼の成果をアートの起源(ローマ時代の彫刻とか)まで遡って、これってこういうことだったのよ、っていうのと、彼の成果に点火されるようにして起動されたシュルレアリスム以降・周辺のアート(エロてんこもり)の流れを追っていく。 だからといってあれここれもフロイトでしょすごいでしょ、にはなっていなくて、その緩さがまた楽しい。

精神分析という学問の、安易にトンデモ世界観に結びつき易い危うさは十分認識した上で、でもそれがアートの方に向かうと途端におもしろくなる、というのは改めてすごいなー、って。

Breton, Dali, Giorgio de Chirico, René Magritte, Ernst, Grandville, Odilon Redon, Max Klinger, Alfred Kubin,  André MassonにCourbetの『世界の起源』があって、Duchampの『泉』があって、KlimitにSchiele、Robert LongoにMark Rothko(赤いの)まである。ぜんぶがフロイト起源とは思わないけど、パレードでいくらでも出てきそう。

そういえばロンドンのフロイト博物館、まだ行ってないや。

Musée de la Chasse et de la Nature

フロイト展をやっていたユダヤ歴史美術館の近くにあった狩猟自然博物館。
武術・スポーツとしての狩猟は好きではないのだが、狩猟文化がなかったら、ということはたまに考えるし、英国の食事文化にも当然そういうベースはあるし、ということでいろんな剥製を見る。銃器のコレクションは見ない。

あとは、これまでパリの書店を攻めていなかったので、この近辺の書店を少しだけ。 時間なかったのであまり回らなかったけど、まだいろいろ行ってないとこあるけど、おそろしいねえ。

Fernand Khnopff (1858-1921)  The master of enigma  @Petit Palais

Grand Palaisでやっていたミロの回顧展を逃したのは痛かったねえ、と言いつつ隣のに。

ベルギー象徴派の画家、くらいの知識しかなかったのだが、”The master of enigma”とある通り、きれいだけどよくわかんない空っぽさに溢れていておもしろい。きれいであることにいったいどういう意味を持たせようとしていたのか、なにを求めていたのか、『スフィンクスの愛撫』とかを見るとわかんなくなるの。 変な画家。
関連作品としてロセッティとか、なぜか杉本博司の写真まで展示されていた。

Jean Jacques Lequeu (1757-1826)  Builder of Fantasy  @Petit Palais

これも変な画家? かなあ。 フランス革命期の建築家、変な顔の肖像を描いたひと、くらいの知識しかなかったのだが、見たら異様におもしろくて。
ほとんどが建築や庭園のデザイン図面とエッチングなのだが、リアルな変顔の人とか猫とか、建物もディテールをよく見るとしれっと奇想してたり、びっくりしたのが建築図面の硬く微細な線で機械のように描きこまれた男女の性器の絵(両性具備のひとのも)で、すっとぼけたかんじも含めてなにかしらこれ? だった。 顔と建物と性器の絵、生涯で残したのがほぼこれだけ? だとしたらかっこいいなー。

食べ物は時間がないから、ちゃんと食べなくていいや、だったがここのところちゃんとしたものを食べていなかった気がしたのでお昼だけ、La Bourse et la Vieに行ってSteak-fritesをいただいた。
NYのLe CoucouのDaniel Roseがやっているビストロで、2回目。 マリネしたとろとろのリーキにヘーゼルナッツを合わせるとか、さすがだねえ。

Petit PalaisのあとはLa Grande Epicerieに行って缶詰とかヨーグルトとか仕込んで、おわり。

なんも買って帰らないはずだったのに、帰りの電車に乗る頃にはカタログ2冊とPascale Ogierのでっかい本とIsabelle Huppertと猫(科の獣)が表紙のVanity Fairとかを抱えてよろよろしていた。おかしい。

帰りの電車は20:00過ぎ発で、ちょうど滞在10時間、到着してからの移動は地下鉄とバスだけで、じゅうぶんに動けることがわかった。 のでまた来たいな。

それにしても、この街に1週間とか滞在したらどうなっちゃうのかしら..  とか思ったり。

2.12.2019

[dance] TRIO ConcertDance

1月22日、火曜日の晩、Royal Opera Houseのなかに新しくできたLinbury Theatreで見ました(これがこけら落とし公演だそう)。 Royal Opera Houseは(どういう構造の建物なのか全貌が未だに掴めていないのだが)一昨年くらいからずっととんかん改修工事みたいのをしていて、Diningのところくらいかと思っていたら中にこんなのを造っていたらしい。

小規模な公演をやる用のホールで、席は3階まであるもののステージまでの距離がとても近くてどこからでも見やすくて、内装はなんか落ち着く木のかんじで、こういうとこで新しいのとか実験的なやつとかいっぱいやってほしい。これの料金はたしか£45だった。

https://www.roh.org.uk/news/the-royal-opera-houses-new-linbury-theatre-is-now-open

わたしの90年代のABTの頃から続くAlessandra Ferriへの愛はここに何度か書いてきたが、2017年の2月、Londonに着いたばかりの頃に見にいったWayne McGregorの”Woolf Works”に彼女が出ているのを知ったときの嬉しい驚きはいまだに忘れられない – しかもダロウェィ夫人の役で..

で、これは彼女としてはあれ以来のダンス公演で、タイトルの”TRIO”は、ダンスのパートナーのHerman Correjoとピアノ伴奏のBruce Levingstonからなる3名で、最小構成 – DJと男女の2MCのラップ – みたいなもん、と思えばよいのかしら。

ステージ上にはターンテーブルならぬグランドピアノがあって、ふたりが数曲踊った後にピアノソロ演奏が挟まっていくような構成。 曲はLigeti, J.S.Bach, Scarlatti, Nils Frahm,Satie, Chopin, Glass(5曲), Mozart など古典から新しいのまで混合で、ダンスのほうもコレオグラファーは6人 - Demis Volpi, Herman Correjo(自作自演)- Wayne McGregor, Fang-Yi Sheu, Russell Maliphant, Angelin Preljocaj – 個々の作品からひとつのテーマやストーリーを抽出したり掘り下げたり、というよりは柔らかく幅広めにダンスのバリエーションを模索していくかんじ。

ピアノは終盤のGlassのEtude no 5と6から最後までの疾走感と、Wayne McGregor - Nils Frahmのピースが見事だった。あとラスト、Angelin Preljocaj – Mozartの“Le Parc” - 白い寝間着の寝起き状態でキスした状態のままぐるぐる遊園地みたいに回っていくやつ、いいなーって思ったけど実際にあれやったらまる一日立ちあがれなくなるねえ。

ダンスのふたりの相性はとてもよくて、Ferriからすればやや若いHerman Correjo – ABTのPrincipalでJulio Boccaに見出されたという – がテクニカルなとこも含めてリードするかと思ったら全くそんなことはなく、デュオとして何の無理もなくひとつの動き、フォルム(静止した像がきれい)を作っていて、そこに元気いっぱいのピアノが切りこんできて崩したり煽ったり、そんなかんじ。

終演後の3人がステージの前に寄ってきて、そこではFerriの踊る歓びとしか言いようのない表情が素敵でああ見てよかった、と。ダンサーがダンスを終えた後の表情って、よいに決まっているのだが、この晩の彼女のそれは特にすばらしくて、ここに来るまでにも相当考えたのだろうな、って。

クラシックの前線から退いてモダンの方に移った人たち、あるいは老いを/老いと共に踊る人達のダンスを見るのが好きで、これまでもMerce CunninghamからMikhail BaryshnikovからSylvie Guillemから、Nederlands Dans TheaterのNDT III(ってもうないのね..)まで、いろいろ見てきて彼らのダンスって、なんで踊るのか、踊るとはどういうことかを常に身体に問いながら動いていくようなところが魅力なのだが、この晩のFerriのそれは、まだそこに至る手前の、それでも踊りたいから踊るんだから! と、それを表現するための術を見つけたよ!の歓喜がまずあって、それが動きの隅々にまで満ちていたの。 また踊ってくれることでしょう。

2.11.2019

[film] Green Book (2018)

6日の水曜日の晩、Picturehouse Centralで見ました。オスカー前に見ておきたいのがあるのにぜんぜん追いつかないや。
”Glass”だって見れてないし。

60年代初、NYのナイトクラブで用心棒をしているTony(Viggo Mortensen)は、クラブが改修のために一時クローズして暇になるときに、カーネギーホールの上階に暮らす黒人のピアニストDon Shirley (Mahershala Ali)から中西部から南部 - Deep South - を巡っていくライブツアーの運転手をやらないか、というオファーを受ける。期間は6週間で、クリスマスイブに戻ってくる。日頃、特に意識もせず漫然と(というかたちで)差別意識を抱いてしまっているTonyは最初はやだよ、って断るのだが、結局期間限定だしお金も稼ぎたいしいいか、と水色のリモの運転手としてDonと大陸横断道中をすることになる。 Green Bookっていうのはレコード会社から渡された黒人旅行者が安全に旅するためのモーテルやレストランが記してあるガイド冊子のこと。  あ、実話ベースのお話しね。

道中の最初の方は雇主であるDonと、そんな彼のことを理解できないししようとも思わないTonyの間のすれ違いとか小競り合いが面白くて、それがやがてツアー先で、ライブの間は称賛・喝采されるのに、それが終わって一旦路上に出ればどこまでも蔑視や暴力に晒されてぼこぼこになってしまうDonを護ったり面倒を見たりに変わっていって、最後は互いにとってもよい親友同士になるまで。

喧嘩っ早くて威勢と調子のいいイタリア系のTonyと無口で全てを見通しているかのように尊大でつーんとしたDonの波長が合うわけないし、NYで定期的にライブやっていればいくらでも稼ぐことができるDonがなんでわざわざ差別にまみれたあっちの方まで赴くのか、とかいろいろあるのだが、とにかくふたりはそれぞれに折れないしめげないし、それがだんだん矢でも鉄砲でも、のかんじになっていくところが楽しい。

昨年見たドキュメンタリー映画に”The King” (2017)っていう、かつてエスビス・プレスリーが所有していた車に乗りこんでエルビスの辿った旅を、彼の見ていた風景を追う、っていうのがあったけど、これは車中から外を見るだけではなく、外から中を覗きこまれて途端に変な顔されておまえ降りろ、って言われたりして、しかもそこに明確な理由があるわけではない、という地獄。

Green Bookがなければ危険な旅、それどころかTonyみたいに腕っぷしの強い白人が傍にいないと危険であることをDonは十分にわかっていて、それでも何故彼は旅に出なければいけなかったのか? ということ。

これと同様に、これまで巷の差別意識を敢えて表に晒すようなしょうもないコメディを連発してきたPeter Farrellyがなぜこんなふうなヒューマンドラマを作ってきたのか。(Adam McKayのもそうなのかしら)

ついでに、”If Beale Street Could Talk”にしても、ドキュメンタリーの”RBG”にしても、ここにきて少し時代を遡ったところから差別の根っこを浮き彫りにするような作品がいっぱい出てきているのはどういうことなのか。

とにかくとても笑って昔のことさ、って言えるような状況ではなくなってきた、という今を、今のうちになんとかしないと(笑いのドラマを作ることすらできん)、というのが背景にあるような気がしてならないので、今の問題意識、危機意識でもって見てほしい。ドラマとしてもとってもよいから。

あと、彼らのように旅にでないとだめだよねえ、って。いまのにっぽんの「差別」を「趣向」とかに転嫁する/できる発想ってなんなの? 想像力ゼロなの? って思うけど、たぶん国内のニュースとTVとネットしか見ていないと、あの国では簡単にそうなっちゃうんだろうな、ってこないだ帰ったときにもしみじみ感じた。 気分悪くなるので10分くらいで切っていたけど、にっぽんの閉じたかんじ、相当ひどい。 って中にいたらわかんないからー。

それにしても、Viggo Mortensenが拳を振りあげるとそれだけで“Eastern Promises” (2007)になっちゃっておっかなくて震える。このひとの生の暴力性みたいのも健在で、すごいねえ。

Tonyがおうちに戻った時にテーブルに並べられるイタリアのご飯、パスタにハマグリに.. これってほんとうにおいしいんだよね。 これがあるからTonyは家に戻ったのだし、そしてDonは..  (クリスマス映画でもあるの)

2.08.2019

[film] If Beale Street Could Talk (2018)

3日、日曜日の午前にCurzonのBloomsburyで見ました。メンバー向けのPreview。
原作はJames Baldwinの同名小説で、監督・脚本は”Moonlight” (2016)のBarry Jenkins。

舞台は70年代初のNYで、時系列はばらばらで流れていくのだがTishのナレーションに導かれてそんなに違和感なく繋がっていく。 大きなポイントは3つくらいあって、幼馴染として育ったTish (KiKi Layne)とFonny (Stephan James)が互いに意識するようになって恋人になるまでと、妊娠したTishがそれを獄中のFonnyと両親に告げてうわーってなるとこと、なんでFonnyが牢屋に入れられて、そこから出ることができないのかっていう苦闘に苦悶に、ていうのと。

Beale Streetはメンフィスにある通りの名前で、冒頭の字幕でJames Baldwinの文章が説明してくれるのだが、ブルーズとかいろんな歌に – Joni Mitchellにも - 歌われてきた - 日本の演歌だとなんとか海峡とかなんとか横丁とか何丁目とか - 大量のエモとか涙がぼうぼうと流れては消えていく、その象徴的な地点であり経路でありその名前である、ということでよいのかしら。

TishもFonnyもごく普通に一緒に育って恋をして幸せだったのに、なのにFonnyはやらしい警官の言いがかりをまる被りしてレイプ犯に仕立てられて牢屋に送られ、家族はみな彼の無実を信じて疑わないのだが、Tishが妊娠したことをきっかけに動きはじめる。Tishの家族は心の底から喜んで、Fonnyの母は結婚してないのにぜったい許さん、となり、Tishの母Sharon (Regina King)は、Fonnyの冤罪を晴らすべくレイプ被害者の女性に会いにプエルトリコに飛んで、父親ふたりはそれらの費用を作るために闇仕事を始めて。

表面だけみれば降りかかった困難になんとか立ち向かおうとする家族と、ぜったい負けずに握った手を離さず愛を貫こうとするカップルのメロドラマ、だと思うのだが、そういうのが古典的に浮かびあがらせようとしてきたハンカチぎゅうの悲痛さはあまりない。というか作者が描きたかったのは刑務所の面会所のガラス越し電話線を伝ってBeale Streetの方にとめどなく流れこんでいって途切れることのないふたりのお喋り(talk)だったのではないかしら。

“Moonlight”が主人公が通過していくそれぞれの年頃を通して、全体にちくちくと生き辛い痛みのトンネルを抜けながらだんだん透明になって最後に月明かりに包まれていく、あの大きなうねりに身を委ねる感覚 - 決して楽ではないしないに越したことはないのになんで – はここにもある気がした。そういうのがあったからこそのここまで、なんて言うべきではない。なにがあろうと起ころうと何十年かかったってひとつの思いは貫かれてどこまでも行くのだって。

なんとなくJohn Cassavetes の”Love Streams” (1984)、あれは裕福な白人の支配者階級の腐れた魂が自分で勝手に壊れて傷だらけになっていって、それでも愛は流れていくのよ、とかのたまっていた変なやつだったけど、あのコメディを歴史の垢も含めて被害者側に反転させたもの、ていう気がしないでもない。

差別(意識)が連鎖して伝搬して社会を分断してその端っこに置かれた人たちはどんどん隔離されたり追いやられたりで、それでもなお溢れかえってきてその手を放そうとしない思いというのはあるのだ、と。その決意はどこまでも瑞々しくて力強くて負けないんだから、ていうのを耳元でずっと囁いている。

言うまでもないことだけど、そういう描き方をしているものなので、70年代のNYのお話し、で片付けておわり、のようなものではなくて、これは今の、現代のお話しだし、そうとしか思えないし。 そういうふうに見るんだよ、差別をただの嗜好だとか思っている、レイプしても罰せられないでのうのうとしている人たちでいっぱいで腐ったにっぽんのー。

“Moonlight”もそうだったけど俳優さんの顔がすばらしくよいの。そのまま肖像画になりそうな強い輪郭があって、彼らが互いを見つめる目とその切り返しだけでじゅうぶん映画になってしまうかんじ。 70年代の若者の顔であるようで今を生きる若者のそれなのだと思った。

あと、”Moonlight”でもそうだったNicholas Britellさんの音楽がすばらし。

[film] Hale County This Morning, This Evening (2018)

1月24日の木曜日の晩、ICAで見ました。

76分のドキュメンタリーで、なぜかオスカーにノミネートされていて、ICAのおにいさんもイントロで「なんでこんなことになったのかわかんないけど.. まあ見てみてね」とやや困惑していた。

アメリカのアラバマ州のHale Countyが舞台、ということでWisemanの”Monrovia, Indiana” (2018) みたいの – その土地の特異・非特異性を丹念に微細に追ってポートレートを描く - をイメージしていたらぜんぜん違うやつだった。

ナレーションはなくて、たまに字幕がぽつぽつ出るだけ、冒頭に“What is the orbit of our dreaming?” と出て、その「夢の軌道」のイメージ通りに最後までぐるーっと周回していく。

Hale Countyという土地、その土地の名所旧跡とか特産品とかが出てくるわけではない。その場所の今朝という時間、あるいは今宵という時間。そのなかで暮す何人かの人々や家族の日常が映しだされる。最後まで白人はひとりもフレームに入ってこない、何人かの登場人物は名前つきで紹介されるが、彼らを中心にドキュメントされるような出来事、事故、事件が起こるわけでも、貧困や苦難に直面したどん底生活の様子が浮かびあがるわけでもない。 道路、学校、教会、キッチン、朝、晩、晴れた日、雨の日、笑っている顔もあればむっつりの顔、歌っている顔もある。子供はどこまでも延々意味なく走り回り、若者は自分が王であるかのように我が物顔で動き回り、老人は蝸牛でゆっくりと動いていく。自分もいつかどこかで見てきた気がする光景が何層にも渡って重ねられていって、自分はこの場所を知っているのか知らないのか知っていたとしてどうなるのか、のような問いが反響していく。 もちろん行ったことはないし見たこともない。のだが、そういうかんじにさせてしまうなにか、とは何なのか?  というところまで考えざるを得ないようなところまで、カメラが頭の裏側に入ってくる。気がする。

即物的なものの反対側にある詩的ななにか – つい見入ったりうっとりしてしまうようななにか、を狙っているかんじもしない。映りこんでしまった何かが勝手になんかを喋りだしずるずると糸や枝を伝って増えたり埋めたりしているような、見たら湧いてくるからどうすることもできない、近いところにあるものなのか遠くのそれなのか、気付いたら引っかかっている蜘蛛の糸のような。

もういっこ、“How do we not frame someone?”という字幕も出てきて、これはカメラに映りこんでくるものこないものをどうやって選り分けたりすることができるのか、と自問しながらカメラを回していって、そこと冒頭の(夢の)軌道が交わる場所はどこかにあるのか、現れるのか、と。そしてこれは神(々)とか、少なくともこの世のものではないモノの目線からくるものだよね、とか思う。

映画が終わったとこで、クレジットにcreative adviserとして Apichatpong Weerasethakulの名前が出てきたので、あーって。
これ、ブンミおじさんの目線だよね。 彼のアジアを撮った短編のいくつかにとても近い感触の。 彼、どんなアドバイスしたのだろうか。

そしてこういうのが現れるのはアジアの森とかHale Countyの道端とかなのね。

日本で公開されるとしたら、イメージフォーラムのフェスティバル(だっけ?)とか、かしら。

2.07.2019

[film] The Innocents (1961)

1月9日、水曜日の晩、BFIで見ました。クラシックをでっかい画面で見よう、シリーズで、1月のテーマはゴス・ホラーみたいなやつ(だったのかな?)。邦題は『回転』。

原作はHenry Jamesの小説『ねじの回転』。William Archibaldによる舞台用の脚本をTruman Capoteが全面的に書き直してタイトルも”The Innocents”にした、と。

小説の出だし - 暖炉を囲んで怖い話を語り出す、というところはなくて、Miss Giddens (Deborah Kerr)が家庭教師として赴く先の後見人のThe Uncle (Michael Redgrave)と面接しているとこが冒頭で、おじさんはもう忙しいし、あの子らの面倒は見たくないので宜しく、いちいち自分に連絡してこなくてよろしい、と全権を彼女に丸投げして、彼女は情熱あるしがんばります、と現地のお屋敷に赴く。

現地にはMiles (Martin Stephens)とFlora (Pamela Franklin)のふたりの子供たちがいて、メイドのMrs. Grose (Megs Jenkins)がずっと面倒を見ていて、Milesは(ぜんぜんそうは見えないのに)他の子達によくない影響を与えるという理由で学校を追いだされてきて、前任の家庭教師だったMiss Jesselは亡くなっていて、Peter Quint (Peter Wyngarde)ていう使用人もその前後に亡くなっていて、そういう中、Miss Giddensは屋敷の天辺に変な男がいるのを見たり、子供たちが子供たちではない誰かと遊んでいるのを見たり、いろいろ変な現象を見たり遭遇したりするようになって、やがて。

なんでそんな奇怪なことばかり起こるのか、過去の事件や事故に起因するのか屋敷に纏わるなんかなのか?という謎を解いていく話ではなくて、Miss Giddensの目に入ってくる禍々しいなにかと、それらからなんとしても子供たちを守らなければという強い使命感がせめぎ合ってつーんとした叫びが反響するなか、そのネジだかバネだかを巻いたり引いたりしていたのは、じつは子供たち(ふたりいるから2ひねり)だった、という – そしてその回転の総体とかありようを”The Innocents”と呼ぶのはそんな変なことではないの。

そういう仕掛けがどう、ということよりもコントラスト強めのモノクロがDeborah Kerrの凍りついた表情によく映えるのと、庭園や建物の隅、遠くのほうの視野の端っこ、識閾ぎりぎりの辺りで怪しい動きを見せる影と(無)表情とかが痺れるくらいよくて、怖いといえば怖いけど、これはつい何度も凝視して逃れられなくなるあれだわ、って。

The Others (2001)

1月23日の水曜日の晩、BFIの上と同じシリーズで見ました。”The Innocents”上映前のトークで、これを見たら”The Others”も見たほうがいいよ、って言われたのと、”Destroyer” (2018)の公開記念だかでNicole Kidman主演映画のランキングが出ていて(たしかThe Guardian紙に)、これが一位だったし。

1945年、Channel Islandsの古いお屋敷にGrace (Nicole Kidman)と娘と息子が暮らしていて、そこに3人の使用人 – ひとりは経験たっぷりそうなお婆さんで、ひとりの若娘は口がきけず、もうひとりは男性 – が訪ねてくる。3人は何故かこの屋敷のことを知っているふうだったが、それよりもふたりの子供たちに直接陽の光を当ててはいけないこと、などをてきぱきと指示する。

そのうちいろんな音とか影が子供たちのところに来たり現れたりするようになったり、部屋で古い写真(含. 沢山のmourning portrait)を見つけたり、戦地から戻ってこないので諦めていた夫が現れて、でもずっとごろごろしていたり、全体としてはお化け屋敷としか思えない怪異現象のサラウンド乱れ打ちになっていって、やがて。

これもネジの回転ものなのだが、回転の半径がでっかいというかメリーゴーランドだったというか、分厚いというかそれ故にそれに気づくまでに結構かかったかも。 実はどうってことない話なのだが。

白人女性のクールビューティが闇のなかで怖がって震えたり絶叫したりするのを見て喜ぶのの起源てHitchcockあたりなのかしら。 もう既に誰かが書いていたりしそうだけど、これはこれで病理的ななんかで、おもしろければよいのか、っていうとそうじゃない気もするねえ。

そういえば、Jordan Peeleの新作 - “Us”の予告がおっかなすぎる。

2.06.2019

[film] Instant Family (2018)

日本からの帰りの飛行機でみた映画とか。

行きの飛行機では、”The House with a Clock in Its Walls” (2018) -『ルイスと不思議の時計』ていうのを見ていて、家の仕掛けとかKyle MacLachlanの正体がわかってきたあたりで画面もコントローラーも動かなくなって、何度リセットして貰ってもだめで、ふて寝して終わった。帰りの便で見ればいいか、と思っていたら月が替わってもう見れなくなっていた。 がっくし。
というわけでこれ見た。 こっちでももうじき公開される。

Pete (Mark Wahlberg)とEllie (Rose Byrne)が夫婦で、別に子供ほしいわけでもほしくないわけでもなしでずっときて、周りのカップルの子供つくる、とか今度養子もらうんだ、とか言う話を聞いてつい里親募集のサイトを見てみたら泣いちゃって、養子を受けいれるための8週間のトレーニング、というのに参加して、実際の子供たちに会ったりした上で、3人の姉弟妹 – 15歳のLizzy (Isabela Moner), Juan, Litaをもらうことにする。 ここまでの経緯とかソーシャルワーカー、他の里親希望者とのやりとりもおもしろいのだが、子供たちが来てからのどたばたが楽しい。

もう大人に近くて生意気で、これまでの里親のことも自分の置かれた境遇とか新たな里親の動機とかぜんぶわかっているLizzyに、なにやってもだめだめですぐにべそべそ泣いちゃうJuanに、分別もなにもないLitaの3人をおとなしくさせて自分達を「親」と認めさせるのは生半可ではなくて、結局自分達の自己満足のために引き取ったんだろ、てLizzyには見透かされてて、そんなわけあるかよ、ってあがけばあがくほど裏目にでて疲弊して、やっぱりひとの親なんてムリだわ、になっていく。でもなんとか馴染んでよいかんじになってきたかも、と思ったら今度は彼らの実母が刑務所から出てきて更生したから引き取りたい、って言ってきて、Lizzyはそちらの方に傾いて。

展開も容易に想像できる、なんの無理も背伸びもしていないホームドラマなのだが、Mark WahlbergとRose Byrneのいかにもいそうな夫婦のかんじとか、どたばたを通してなんとなく「親子」になっていく5人の表情がなかなかよくて、最後にちょっとだけ出てくるJoan Cusackのおばちゃんも素敵で、幸いというべきか不幸というべきかどうでもいいけど、これまで家族というのにあんま憧れたこととかあまりなかった自分にもこういう家族ならいいかも、とか思えてしまったので、よいかも。

John Hughesが生きていたらそのうちこんなドラマを作ったのではないかしら、とか。

音楽はいろいろ流れるのだが唐突にきたbauhausの”Third Uncle”がなかなか。

Uncle Drew (2018)

きほんスポーツはやらないし見ないし、なのだがNYにいたのでYankeesとKnicks のは別で、90年代の真ん中あたり、Pat Riley が率いてPatrick Ewingがいてファイナルまで行った頃(があったんだよ坊や)の Knicksのゲームはずっと見ていて、そのときに敵方で一番あったまきていたのがMichael JordanとReggie Millerで、この作品にはそのReggie Millerがでてくる。

草バスケの頂点を目指すトーナメント - Rucker Classicで優勝を目指していたマネージャーのDaxがライバルにチームのエースも彼女も奪われてぼーっとしていたところで、かつてそこの伝説と呼ばれたUncle Drew (Kyrie Irving)と出会って、彼はまだぜんぜん動けそうだったのでチームに来てくれないか、というのだが、おじさんは条件がある、かつてのチームメンバーあと4人を集められるのであれば、と言うので車で全米を旅して説教師になっていたり目が見えなくなったり車椅子になっていたり空手屋になっていたりする仲間を集めてなんとか試合には出るところまでいくのだが…  ていう割とこてこて展開のスポーツ・コメディ(ヒップホップ以前)で、悪くなかったかも。 他の連中はChris WebberとかReggie MillerとかShaquille O'NealとかNate Robinsonとかで、みんな特殊メイクしているのだが別にしなくても、ってかんじがしたのと、あんまバカで突飛な展開にいかなかったのはしょうがないか。

どうせなら昔のライバルたちもみんな出す、とかタイムマシーン設定にしちゃうとか、いろいろ想像してみるのは楽しい。野球でもホッケーでもできるよね。

そういえば “Space Jam 2”はどうした?

2.05.2019

[art] Tokyoそのた

東京で見たアート関係のをよっつ。

国立トレチャコフ美術館所蔵 ロマンティック・ロシア

羽田に着いた日の午後にbunkamuraで見ました。最終日だったせいかぱんぱんで、中に入ってそのまま出たくなるくらいの混みよう。こんなの時間制にした方がみーんな幸せになるのに。

モスクワにはもう4回くらい行っているのに美術館はまだ行けていなくて、そういうのもあるから見ておきたかった。全体に端正で綺麗な絵が多くて、これだけ見ていると「ロマンティック」としか言いようがないのだが、昨年から一昨年にかけてロシア革命100年関連で開かれた企画展とか、いまこっちのQueen’s Galleryでやっている”Russia”みたいにふたつの国の関係を見つめ直すような展示が求められている気がしてならない。 ロシアと日本の間があんなふうになっている今だからこそ、ね。
べつに「ロマンティック」したっていいのよ、でもそれだけじゃだめなんじゃないかしら。

岡上淑子 フォトコラージュ 沈黙の奇蹟

31日の午後、人間ドックと眼科検診の合間に目黒まで行って、見た。リニューアルしてからの庭園美術館は初めて。

コラージュという形式のおもしろいとこは、それを見ながら常にコラージュとはなに? アートってなに? というところに立ち返って考えるように要請されることで、それは面白い作品であればあるほどそうで、その点でここに展示されている作品はどれもそういうのだった。

彼女が日本のモダンアートの立ちあがり期に創作を始めたこと、その地点に武満徹や瀧口修造やエルンストがいたこと、なによりも女性であったこと、そしてそういったもろもろの帰結として行きついた「変容」というテーマがもたらす痛みや居心地の悪さ、が展示場である貴族のお屋敷の意匠と絶妙な整合/不整合、靴ずれ股ずれを起こしているようで、そのコラージュ感もなかなか面白かった。

「海のレダ」(1952)、のエバーグリーンな疾走感ときたら。

フィリップス・コレクション展

31日の夕方、眼科のあとに三菱一号館美術館で見ました。
こういう私設のコレクション展示って、そのひとが絵をどう見てどう買ってコレクションしてどの壁にどういう順番でどう配置していったか、というところが肝で、でもその場所を離れてしまうとただの寄せ集めにならざるを得ず(もちろん写真とかで様子はわかるけどさ)、「全員巨匠!」みたいに乱暴なことを言って集客しないといけなくなるに決まっているので、なんかなー、なのだが、一枚でも見れるものがあればいいや、くらいのかんじで行った。

ココシュカが2点 - 肖像画と風景画 - がうわー、っていうすごさで、クレーも2点(だっけ?)- 昨年末にミラノのMudecで見たクレーの展示 – “Alle origini dell’arte”に繋がるテーマでこれもよかった。あとカンディンスキーも。こうしてみるとコレクションの中心線からやや外れたほうに目が行ってて、まあそういうもんよね。

ヒグチユウコ 展 CIRCUS


1日の午前に世田谷文学館で見ました。ヒグチユウコさんのはサイン本だって持ってるし紅茶の箱だって持っているし他にもいろいろどこかに埋もれているはずで、ふつうに好きなの。

CIRCUSというのもあるけど一見は見世物小屋ふうで、その壁に浮かびあがる獣たちのシルエット(の丸みにでこぼこ)と、その幻灯機が浮かびあがらせる肌や皮、毛並の肌理や触感のぞくぞくするかんじがわらわらと群れをなしてやってきて、見てはいけないのに食べられちゃうかもしれないのに、つい見てしまって、たまに目が合ったりする瞬間のうしろめた感がたまらない。 フランケンシュタイン200年で英国に巡回してくれたらぜったい受けるのにな。

ガチャガチャがあって、気がついたら両替してて、3千円くらいまで行って同じのが重なったところではっと我にかえって止めた。 あれ、あぶないねえ。


あと本で、岡崎 乾二郎の『抽象の力 (近代芸術の解析)』を買ってきてぱらぱらしたら、わわわわわっていうおもしろさで止まらなくなって、なのに置いてきちゃった…

2.04.2019

[film] Demain et tous les autres jours (2017)

1日の金曜日の昼、新宿で見ました。 『マチルド、翼を広げ』。

シネマカリテも久々で、小さい方のシアターだったがいつも座っていたところが空いていたのでそこに座り、Dean & Delucaで買ってきたDonut Plantのバニラのを頬張ってごきげんになる。ロンドンにもおいしいドーナツ屋はあるのだが、大陸間の粉文化の違いだろうか、Donut Plantのを頬張った瞬間に口いっぱいに充満するもわっとしたあれがロンドンのにはこないのよね。

英語題は”Tomorrow and Thereafter”だが、英国ではリリースされていない。日本で公開されるフランス映画と英国で公開されるフランス映画って、明らかに傾向も含めて違っていて、この辺、おもしろいねえ。 昨年日本に行ったときに見た『ライオンは今夜死ぬ』も英国ではやっていないし。

パリに暮らす9歳の女の子マチルド (Luce Rodriguez)がいて、あまり友達が出来ていないみたいだから、とママ(Noémie Lvovsky - 監督も兼ねる)が学校に呼びだされるのだが、ママと先生の受け応えは明らかに変で、そのうち彼女は心を病んでいること、パパ(Mathieu Amalric)とは別れてマチルドと二人で暮らしていることがわかってくる。

マチルド、だいじょうぶかしら、とはらはらしているとそのうちママが家に飛びこんできた、というフクロウを連れてきて、部屋で相手をしているとそいつがフランス語で話しかけてくる。 ママこいつ喋るよ! って騒いでも、彼(男性らしい)の声が聞こえるのはマチルドだけらしい。

学校でヒトの骨格標本を見たマチルドはフクロウの助言に従って、骨になっている彼(♂)を学校から盗みだして森に穴を掘ってきちんと埋葬してあげる - その際、掘った穴に自分も横たわってみる、とか、ひいひいひいおばあちゃんと池のなかに囚われて動けなくなっている娘の話とか、マチルドのちょっと変わった世界とその傾向が描かれるのだが、フクロウの件も含めてストーリーのなかで突飛なかんじはしない。

そのうち、学校の発表会でマチルドが歌ってもママが入ってきて変なことになるし、ママのおかしな挙動が彼女を圧迫し、彼女の精神がママのいる向こう側に囚われの身となっていることはフクロウも指摘するのだが、それでも健気にクリスマスの準備をして待っていると母親はどこか遠くにいって連絡もしてこなくて、ブチ切れたマチルドは部屋に火をつけて(フクロウが大火事から救ってくれる)、その後もママは手書きの契約書で引越しをしようとして警察沙汰になり、パパも出てきてママは暫く施設に入ることになる。

単に病んだ母親とその看護を通して成長する娘、よくなっていくふたりの関係、のような単純な話にはなっていなくて、互いが互いを縛って束縛していること、そこから逃れられないこと、それでも愛さないわけにはいかないし、愛しているのだということ、だからこそこんなにこじれてしまっていることを十分にわかっている。パパが前に出てこないのも(母子の会話に出てくるけど)互いに悲しむだけになってしまうからだと。そしてそれはふたりが親子である以上ずっと続いていく、終わらない日々(原題にあるように)で、そういう痛ましい状況のなか、彼女は物語をつくり、死者と向きあい、フクロウと会話する。そしてママの側にもそういうことは絶えず起こっているに違いない。それってどうやって解決するのか、時間が経てばなんとかなるのか、明確な答えは示されないし、ケセラセラにもならないのだが、でもきっと。

こじれてよじれて一筋縄ではいかない家族のありようをドラマとして描く、というとこでArnaud Desplechinの映画を思いだして - Mathieu Amalricも出ている”Rois et reine” (2004) - 『キングス&クイーン』とか、でも今作は監督自身の母との経験がベースであるというところで、よりそれらが折り重なって重くて辛いところもいっぱい出てくる。 生きづらいってこういう -

でもというかだからというかラストの瑞々しさは素敵にしみてきて、なんでだかよくわからないのだが、それは起こる。
これって、わからなくてもよいなにか、としておいてよい気がした。

とにかくフクロウがよくて、あれ、犬猫でもふつうの鳥でもなくて、あのサイズのフクロウだからできることかもねえ、って。
そしてもちろん、なんでフクロウなのか、と。

2.03.2019

[film] ひかりの歌 (2017)

ロンドンには2日の午後に戻ってきて、アパートに着いてから10分以上かけて(かかるのよ)荷物を上に引っ張りあげて、窓開けて荷物広げて置くところに置いて洗濯屋に行ってスーパーに買い物行って、夕方にBFIに向かって”The Bitter Tea of General Yen” (1932)を見て、帰りはぼーっとしすぎて地下鉄を乗り過ごしたりしたけど元気です。

日本のはすぐに忘れてしまいそうな気がするので先に書いておく。

30日、水曜日の晩、ユーロスペースで見ました。ユーロスペースも、渋谷のあの界隈もぜんぶ久しぶり。 だったけどばたばたで走りこみで。 事前に席予約しといてよかった。

日本映画は昨年のLFFで『寝ても覚めても』を見たのだがそれ以外にも見たいのはいっぱいあって、『わたしたちの家』も『ゾンからのメッセージ』も『きみの鳥はうたえる』も、もうじき恵比寿でかかる草野なつかの『王国(あるいはその家について)』 も。
ロンドンでは『万引き家族』と『カメラを止めるな!』はずーっと上映したりしているのだが、なんかぜんぜん見る気しないのに。

杉田協士監督の作品を見るのははじめて。
映画化を前提に「光」をテーマに公募した短歌コンテストで選ばれた4首をタイトルにもつ4章からできていて、153分あるけどあっというま。

旅に出ようとしてる雪子(笠島智)がいて、高校で美術の臨時教諭をしている詩織(北村美岬)がいて、閉店が決まっているガソリンスタンドでバイトしているランナーの今日子(伊東茄那)がいて、ずっと行方不明だった夫が突然戻ってきた幸子(並木愛枝)がいて、それぞれに片思っている好きなひとがいて、彼女たちひとりひとりのことを思っているひともいるのだが、彼女たちの思いはその先に簡単には届かず叶わず、でもだからどう、というわけではなく、星の瞬きのように(いくつかの章は、プラネタリウムの投影が終わったところから始まる)灯ったり星座のかたちを作ったり曇ったり流れて消えたりしている。

それぞれの章には選ばれた短歌(作者はばらばら)がそのままタイトルのようにあって、短歌が喚起する情景を思い浮かべることもできるもののそんなに強く縛っているわけではなく、各章も個々の世界が個別にあるわけではなくて、それぞれの登場人物は別の章にもちょっとだけ出てきたりする。そしてそれぞれの思いの矢は基本そんなに刺さったり暴れたりしなくて、でもだからといってものすごい危機とか余命いくつかとか奇跡とかに見舞われるわけでもなくて、rom comの手前数メートルのところでべそかいて、次章を予告するかのようにして終わる。
最後の章だけは失われていたものが忽然と現れてそこから始まるなにか、という少しだけ違うトーンになっていて、プラネタリウムの天蓋をひとりぼっちで見る光が、透明ビニール傘を通してふたりで見る光に変わる、というちょっと粋な転換が図られて終わる。

女性4人が中心のお話で、フェリーの旅が出てきたりもするので『ハッピーアワー』(2015)を思い出したりしたが、やはりこっちは小説(ロマン)というより短歌 - 歌なんだろうな。 登場人物たちはみんないろんな歌 - 下ネタからブルーズまで - を自分の声で、どこでも自由に自在に歌うし。 息をするようにふうっと出してぽつりと終わって。でもその親密さ、肌の近さがいつまでも残る。スタンダードサイズの画面もおそらくそういうことなのかも。

シンプルな紋切り、みたいなとこで言うとロメールの「格言」シリーズに近いかも知れないけど、「格言」にある蓄積・凝縮された智慧のようなものはなくて、こうあったらいいのにな、というその瞬間の思いが描く微かな光の軌跡を拾いあげようとしている。

それにしてもみんな突然歌いだすし、みんな面と向かって「好きです。」って簡単に言っちゃうし、いいなー。
そしてテーブルを囲んで食事するシーンがどれもおいしそうで。歌とご飯と恋さえあれば(あと本ね)、ひとはだいたい生きていける。そして最後のがたぶんいちばん難しいのだろうが、これらの相関を光のなかで/と共に撮ろう、という意思に溢れているとこはすばらしいと思った。

今週いっぱいは上映しているようなので、見たほうがいいよ。海を越えて見にいく価値あるよ。

ちなみに各章のタイトル4首は、以下。

反対になった電池が光らない理由だなんて思えなかった

(勝手に下の句をつけてみる)  だってホタルイカは逆さになっても光るのにさ

自販機の光にふらふら歩み寄り ごめんなさいってつぶやいていた


(勝手に下の句をつけてみる)  これじゃ夏の虫だよね と気づいて羽のあたりをさすってみる

始発待つ光のなかでピーナツは未来の車みたいなかたち

(勝手に下の句をつけてみる)  そのピーナツのかほりは光合成して酸素をはきだす

100円の傘を通してこの街の看板すべてぼんやり光る

(勝手に下の句をつけてみる)  ダブルデッカーバスに潰されるぼくらが見る光もきっとこんな

2.02.2019

[log] February 02 2019

なんとか帰り(帰るかんじね)の羽田空港まできました。

お天気的にはどこの国にもこの冬いちばん(アメリカ中西部いいなー)の、が来ていたようで、東京も木曜の晩だけざらざらした雨が来て寒かったけど、でもほぼなんかあったかく馴染むふつーの日本の冬だったかも。なんどか喉が引っ掻いたかんじになって、これは花粉来たかも、と身構えたがなんとかもちこたえた。

体調はこないだの日曜日の朝に着いてからここまで、ばたばたしたのと眠くてぼーっとするのの間の反復横跳びが続いて、その間のギャップは時差ボケとおんなしでどうなるもんでもないからもうどうでもいいや、の時間が流れ、全体としてもそんなかんじの、久々だしあれもこれもやんなきゃいかなきゃかわなきゃ、の慌てたふうではなかった、と思う。

今回は2年目の2回目帰国で、1回目の昨年と比べるとやはり相当に呆けて忘れてて、そこに加齢の目詰まりも加わり、どうしようもなくあたふたしてて満員電車には乗れないわエスカレーターは間違えるわ人混みでにらめっこごめんなさい状態になるわ渋谷駅周辺は右も左もわけわからず、それでもなおふんどうでもいいもん、で貫いてしまったので傍目には相当しょうもない老人になっていた気がする。

それでもさあ、自分の国に来るたびに感じるこのストレスってなんなのか、って思うよね。自分の国だからこそよ.. っていうヒトはいうのだろうが、相当へんだよ。 昨晩も荷物詰めながらサッカー見てたけど、実況とか、あんなの呑み屋でおやじががーがー言ってるのと変わんないじゃん - あんなふうに誰も彼もが一心不乱にがんばれにっぽん! で、はい戦争ー、になっちゃうのね。 あーきもちわるー。

今回は展覧会4、映画2、で、行きたいと思っていたのはなんとか行けたのでよかったかも。
今回もレコ屋、ライブともに行けず、本屋は紀伊国屋もツタヤも行くもんか、で、でも欲しかった本はだいたい買えたかなーあーでもあれも忘れたこれも忘れたよう、が数日間は続くもよう。 六本木のあそこがなくなったのは痛くて、みんな夜中にどこで本買ってるのかしらん?

あとコンビニ、前は夜中にいろんなコンビニを散策するの、もっと楽しかった気がするのだが、なんかあんまそういう気にならなかったのはなんでなのかなあ、って。

日本に来る前のと来てからのあれこれは追ってだらだら書いていきます。
もう2月で、なんかあれこれ地味に詰まってきそうなので既に身構えているのだが、今年はあと11ヶ月だし。

そうそう、日本に来るときの便は機内TVとコントローラーのどっちか or 両方が壊れててほぼなんも見れなくてふて寝状態だった。 帰りはなんか見れますように。

ではまた。