5.05.2022

[film] The Captive (2000)

4月30日、土曜日の朝、ヒューマントラストシネマ渋谷の『シャンタル・アケルマン映画祭』で見ました。『囚われの女』。

今回上映される5本はどれもいちおう見たことはあって、特に彼女のは20-21年のロックダウン期間中に見(直し)たのもあるので、今回見るのはその際に見ていなかったやつ and/or また見たいやつ、になる。
偶然だろうけど丁度いま、NYのMuseum of Moving Image - あーあーまた行きたいよう - でも彼女の小特集がかかっている。同じく5本で、2本は渋谷のと被っているけど、母の日特集 (?)。
“Your Loving Mother: Five by Chantal Akerman”

渋谷で上映されている5本については、絶対に見といたほうがよいエッセンシャルな「部屋から世界へ」というテーマで選ばれたのかしら。でも勿論これだけではないので、第二弾、第三弾がありますように。

さて『囚われの女』。まだ日仏だったころの日仏で見た。たしか。
監督はChantal Akerman、製作はPaulo Branco、撮影はSabine Lancelin、原作はプルーストの『失われた時を求めて』だけど、時代設定は現代だし、登場人物の名前も一部変えられて人数も絞られて、小説の方は”La Prisonnière”だし、主題となる「囚われ」のありようは小説の方が語り手の視野を通して遥かに濃く強く張り巡らされているのだが、映画の方だと「囚われ」の見えない鎖を映像としてどのように描くのか、がポイントになるのかしら。

冒頭、Simon (Stanislas Merhar)がひとりで古い8mmフィルムを映写して、そこに映っている水辺のAriane (Sylvie Testud)とAndrée (Olivia Bonamy)の像を、そこでのArianeの口の動きを追って、そこに自分の言葉を重ねて、なにかを確信したかのように見える。 そして今回の映画祭の予告の最初にあったヒールを履いたArianeが広場を横切って車に乗り込む映像。Chantal Akermanの映画はいつもこんなふうに、これだけなのに(窓辺とかを)横切っていくシーンがかっこいいの。

そこから先は主人公Simonのところに同居しているArianeの寝起きからどこに向かうのかわからない外出、唄のレッスン、お風呂まで密着してじっと見つめたり断片的に会話したりして日々追いかけたり考えたりしながら静かにつきまとうSimonの姿が描かれる。 彼は外では(内でも)ずっとスーツ姿でジェントルで、Arianeに乱暴することもないし性的に束縛したり、軟禁状態に置くような危ない素振りも見せない。彼女がどこに行こうがなにをしようがなにを言おうがの自由はある。いくらでもある。

彼らがもっとも生々しく接近するのが不透明なガラス越しの入浴シーンと、ベッドに横たわって動かないArianeの傍にSimonが添い寝というより不自然に寄り添うところで、おそらく彼は彼女にキスもしていないようだ。飼育、というより放牧状態のようなところに置いて、懸命になにかを推し量ろうとしているかのよう。ではなにを?

基本のドライブは会話というよりガラスのようなSimonの目と同じく空っぽなガラスの目をしたArianeの多分に思い込み - こうあってほしいというよりこうに違いない - が転がしていく思惑と眼差しの交錯がふたりの失望や落胆をスプリンクラーのように規則的に撒き散らしながら空回りと空焚きを繰り返して、もう一緒に住むのはやめよう、とSimonが決断するまで。

彼が決めたことには従わなくてはいけないらしく、ふたりは車でArianeの叔母の家に向かう。その道行きでの会話も含めたゆらゆらした感覚の、砂や砂糖でできたなにかが崩れていくようなこわさ。あとはアパートやギャラリーの木の床を歩いていくときの靴と床が鳴らす音の強さ。そこに海のようにざぶざぶ被さってくるラフマニノフ。

Arianeはおそらく自分が囚われの状態にあることを自覚しているし、SimoneはArianeからAndréeへの眼差しが指し示す「愛」と呼ばれそうなあの状態に取り憑かれている。ArianeがAndréeに向けるものとSimoneに向けるもの、更にSimoneがArianeに向けるものは同じなのか違うのか。ぜったいに答えなんて出るわけのない永遠の中間地帯にあって、この状態が壊れてしまうのがおそろしい、というよりもその状態から抜けること、背を向けることがこわい。 このあとに『逃げ去る女』が作られたとしたらー。そして、その更に先に「時」が見出されてしまうのだとしたらー。

存在の危うさとか儚さとは違う次元の、(おそらく愛に起因しているのかもしれない)意識や感覚が引き起こして止まらない - 止めどなく内側で生起していくなにかに囚われ、そこに淫して廃人のようになって彷徨うふたり(どちらかというとSimone)。ポール・デルヴォーの絵の世界のような。

例えば、スマホで24時間挙動行動の追尾ができるようになっている今、このテーマってどうなっていくのだろう。すでに廃人を通り越してゾンビみたいになっている人 - あまり美しくない - でいっぱい、とか?

とにかく、よいわるいの手前、腐る肉の一歩手前でぎりぎりに保っているクールネスとか美しさがあるの。
 

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