5.30.2022

[film] 明日は日本晴れ (1948)

5月21日、土曜日の夕方、国立映画アーカイブの企画『発掘された映画たち2022』で見ました。

「あすはにっぽんばれ」と読む。『蜂の巣の子供たち』(1948)に続く清水宏の戦後第2作で、製作の松本常保が設立した独立プロ・えくらん社の第1回作品で、作品の配給は東宝だったのになぜか松竹の倉庫から16mmフィルムが発見され、35mmにブローアップされた、とてもきれいなプリントだった。

上映後の解説 - 当時の記録によると原案はスタインベックの長編『気まぐれバス』 - "The Wayward bus" (1947)だったそうだが、この小説の内容とはぜんぜん別物らしい。

京都の山あいの山道をバスが進んでいく。運転手は清次(水島道太郎)で車掌はサチ(三谷幸子)、車内はすし詰め、という程ではないが立っている客が結構いて、タバコを吸おうとして注意されたり無賃乗車の「浮浪児」が追い出されたり、みんなそれぞれにストレスを抱えた道中になっていて、バスの調子もよくなくて何度か停まって運転手が下に潜って、こりゃ簡単に直るようなもんではないぞ、とか言っていると完全に動かなくなっちゃって、どうするんだよ? ってとりあえず坂の中ほどの空き地のようなところまで乗客全員で押して持っていく。

ここからどうするか、は電話もないので通りがかった車とかに連絡してもらうしかない、いつになるかはわからない、というので急ぐ何人かは歩いていったりする - 車掌はちゃんと運賃を返す - のだが、そこまでいそいでいない or どうでもええ、の乗客たちはぶつぶつ言いながらそこに残る。

盲(だけど乗客の人数をあてたり不思議な能力をもつ)の按摩(日守新一)とか、「おし」で「つんぼ」の老人とか、片足のかつぎ屋とか、サングラスをしてちょっとモダンなワカ(国友和歌子)とか、戦争で亡くなった部下の遺族をまわっている元上官とか、誰もが戦争によって傷ついたり、なにかの事情を抱え込んでいたり、そんな人たちが居合わせて顔を見合わせて話したりして、またそれぞれの旅に戻っていく。

サチは清次のことがちょっと好きなので、この状態がずっと続けばいいと思っていたり、でも清次とワカの間には昔なにかあったらしいことがわかったり、誠実そうな元上官だけど、足を失ったのはあんたのせいだから、って詰め寄ったり、ほんの数時間の故障があって、たまたまそこに居合わせて立ち止まっただけでそれぞれの人にいろんなことが起こったりわかったり、その後の日々はその前と違ったものになったのかどうかしら。

最初の方で追い払われた浮浪児が最後にちゃんとまた戻ってくるとか、いいの。

舞台劇にしてもおもしろくなったかも。清水宏のこの次の『娘十八嘘つき時代』(1949) もめちゃくちゃおもしろそうなのでどこかで発見されますように。


風の中の子供 (1937)

5月6日の昼、神保町シアターの特集『子役の天才!戦前・戦後の日本映画を支えた名子役たち』で見ました。
監督は清水宏、朝日新聞に連載された坪田譲治の同名小説の映画化。

父親(河村黎吉)と母親(吉川満子)、兄の善太(葉山正雄)と三平(爆弾小僧)の兄弟の4人家族がいて、善太は成績優秀のよいこで、三平はそうではないガキで川で遊んだり子供たちを束ねてわーわー暴れたりしたりしているのだが、父が工場の私文書偽造容疑で連れていかれてしまうと家族はがたがたになって、三平はおぢさん(坂本武)とおばさん(岡村文子)のところにひとり預けられる。

三平は帰りたいよう、って川下りをしたり町に来ていた曲馬団についていったり行方不明になって、ひと騒動持ちあがるのだが、その騒動というのは、ただの我儘とか無軌道な野生児のそれ、というよりも故障して止まってしまった家族を結果的に元に戻してしまう。もちろん彼はそれを願ったかもしれないけど、狙ったものではない、ただ勢いで駆け抜けたらなんか渦とか風が起こってそうなった、そんな描き方。子供っていうのはそんなことをしでかす可能性のある動物 – 走って動いていくやつなんだよ、みたいな。

何度か繰り返される通りの奥の方に走って消えていく子供たちのイメージがすばらしい。
清水宏の子供の世界って、矢野顕子の『ごはんができたよ』(1980) で歌われている世界だと思っていて、それをこの40年前に歌うように作っていた清水宏ってすごいの。

もう5月もおわりだって..
 

5.28.2022

[film] 秋立ちぬ (1960)

5月19日の晩、神保町シアターの特集『子役の天才!戦前・戦後の日本映画を支えた名子役たち』で見ました。
原案は笠原良三、これを翻案して製作して監督したのは成瀬巳喜男。彼の少年時代のことが反映されているらしい。

小学6年生の秀男(大沢健三郎)が母の茂子(乙羽信子)に連れられて田舎から東京の銀座で叔父が営む八百屋のおうちにやってくる。父が戦死して行くところがなくて、母は着くなり近所の旅館「三島」に働きに出て、はじめは寂しくて泣いて、車の多い道路も渡れなくて、近所の子供たちと一緒に遊んでも馴染めなくて、友達はかぶと虫と気前よく仲良くしてくれるのはいとこの昭太郎(夏木陽介)くらいで、バイクでかぶと虫を探しに川の方に連れていってくれる。

そのうち母が働きに出ている旅館の一人娘で小学4年生の順子(一木双葉)と仲良くなって、デパートの屋上に行ったり、晴海の先の海まで遠出して遅くなってもなんだか楽しいのだが、旅館にいる茂子の評判があまりよくないので順子の母(藤間紫)は余りよい顔をしない。

母にも会いたくてたまらない秀男が町で茂子を見かけて駆け寄っても、彼女は真珠商の富岡(加東大介)と一緒でよそよそしくて、順子がかわいそうな秀男をうちの子にしたい、とかけあっても別に暮らすお父さん(河津清三郎)が許してくれませんよ、とか、それぞれの家にはそれぞれの事情があるようで、そのうち茂子は駆け落ちしていなくなった、と聞かされる。

やがて失踪したかぶと虫のかわりが見つかったので、それを順子に見せにいったら旅館「三島」はがらんともぬけの殻になっていて、しょうがないのでデパートの屋上にいく – そんな夏の終わりから秋がー。

よいこでいることだの通過儀礼だの、そんなのわかんないしどうでもいいし、なんでほしいものは手に入らないし、そばにいてほしい人はいてくれないのか、誰に文句を言ったらいいのか、って気が付いたら自分はひとりで、すぐそこにあったものや人たちが途端に遠くに - 屋上から眺める遠くの海のようにぼんやりしたものになっていた..  

このひんやりしょんぼりした、自分ではどうすることもできない感覚 – その感覚がひとりしかいない自分のこととして沁みてやってくる、わかるのが秋、なのかしら。


なつかしの顔 (1941)

5月21日、土曜日の午後、国立映画アーカイブの企画『NFAJコレクション 2022春』っていうので見ました。34分、併映は『熱情の翼』(1940) – こっちもとてもおもしろかった。

小学生の弘二(小高たかし)の家では戦争に出ている兄がいなくて、母(馬場都留子)と兄嫁(花井蘭子)と赤ん坊がいるだけ、冒頭にプロペラにくっついたゴムを巻いて飛ばす竹ひごと紙でできた飛行機 - 子供のころ作った、けどちゃんと飛んだことなかった – で子供たちが遊んでいて、木の上にひっかかってしまったそれを弘二が木に登って取ろうとしたら落っこちて怪我をして、しばらくは家でおとなしく寝ているように言われる。

少し遠くにある町にニュース映画が来ていて、そこに戦地にいっているお宅の兄ちゃんが一瞬映っているよあれは間違いないよ、って言われて、それなら見にいかなきゃ、になるのだが弘二が寝ているのでみんな揃って行くわけにはいかなくて、まずは母が行くことになる。バス代を節約するのに馬に乗せてもらったりして、弘二のプロペラ機をおみやげに買ってやろうと思うのだが値段を聞いて諦めて、上映が始まるのだが、見ているといろいろこみ上げてきて、目をこすっているうちに見逃してしまったらしい。

でも家に帰って聞かれると、うん、出ていたよ - 元気そうだったよ - とか嘘を言って、見てくるといいよ、ってなすりつけるように適当に言って、じゃあと今度は兄嫁が出かけるのだが、彼女は弘二のプロペラ機を買ってあげたらお金がなくなり、それになんかこわくて見ることができないので終わるまで劇場の外にいて、時間になると家に帰って、うん映っていたわ、って嘘をつくの。

弘二はお兄ちゃんいたんだ、見たかったなあ、って言う。この辺、言葉での説明とか一切ないのに、涙を拭う仕草とか、映画館の外で待っている時の表情とかでそれぞれの思いがすごくよく伝わってくるのでたまんない。息子や夫が戦地で戦っている姿なんて見たくない、けど会いたい、どんな顔しているのか見たいし心配だし、って。そんな彼女たちの嘘。それはどんなにか辛く、張り裂けるようなものだったことか。

やがてそのニュース映画を村でも借りて上映することにしたから、ってみんな揃って見に行くところで終わるのだが、ああやってみんなで歩いていった時の情景とか(描かれないけど)帰り道のこととかずっと後まで残っているんだろうなー。

みんな、画面で彼のなつかしい顔を見てどんな顔をしたのだろう? 彼がそのまま還らぬひとになって、『秋立ちぬ』に繋がってしまったのだとしたら悲しすぎる。


Cathal Coughlanも、Andy Fletcherも、Alan Whiteも、Ray Liottaも、みんななんで…

5.26.2022

[film] They Drive by Night (1940)

5月19日の昼、Criterion ChannelのIda Lupino(役者)特集で見ました。
『夜を走る』を見た後だったので、程度。邦題は『夜までドライブ』。

監督はRaoul Walsh、原作はA. I. Bezzeridesの38年の小説- “Long Haul”で映画化された後にタイトルを映画と同じに変えたそう。 関係ないけど、Nicholas Rayのデビュー作は”They Live by Night” (1949)。

Joe (George Raft)とPaul (Humphrey Bogart)のFabrini兄弟はふたり交替で運転しながら深夜のトラック便で青果とかを運ぶのをやっていて、いつかは自分たちで独立しよう、って夢見ているのだが日々の仕事はしんどくて故障は起こすし仲間も居眠りで事故を起こして焼死したりしているし、結婚しているPaulの妻はもうこんな仕事は辞めて家にいて、ってずっと言っている。

立ち寄った市場の集積所でかつての仕事仲間の、今は自営のトラック会社を経営しているEd (Alan Hale)と再会して、彼からは一緒にやらないかって誘われて、借金を返すお金を貸してくれたりする。のだが、その夜のドライブで居眠りをしたPaulは事故を起こして、彼は右腕を失ってトラックも大破してしまうの。

こうしてやむなくJoeはEdの会社に雇われることになって、かつてJoeのことを好きだった Edの妻のLana (Ida Lupino)はその立場を利用してやや強引に彼に近寄っていく。でも仕事の途中で知り合ったCassie (Ann Sheridan)と仲良くなっていたJoeは相手にしなくて、イラついたLanaはパーティの後で酔い潰れてへなへなのEdと彼入りの車をガレージに入れる時、衝動的にシャッターを閉めて - 赤外線で自動で閉まるやつにしていた – 彼を一酸化炭素中毒で殺して、事故死ということにして、会社の立場とか恩とかを束にしてJoeに近寄っていくのだが..

George RaftとHumphrey Bogartが兄弟であれこれ言い合いながら薄汚れたトラック野郎を演じているのがおもしろいし、George Raftに正面から絡んでいくIda Lupino(このとき22歳、Raftは39歳)の突っぱりっぷりも素敵。ここでの彼女は憎まれ悪役として堂々としているのだが、ずっと想っていたJoeにふられてしかたなく酔っ払いの傲慢なEdと一緒にならざるを得なくてあんなにも拗れちゃったかわいそうな女、っていうのが透けて見える – それくらに余裕があって見事だった。

そういうのとは別に運転手仲間でどこのドライブインに行っても無邪気にピンボールをやり続けているIrish (Roscoe Karns)とかもよくて – あんなふうになりたいなー、って。


Moontide (1942)

5月12日、木曜日の晩、これもCriterion ChannelのIda Lupino特集で見ました。

監督は当初Fritz Langで彼が離れた後にArchie Mayo。邦題は『夜霧の港』。 原作はWillard Robertsonの小説”Moon Tide” (1940) - 小説のエンディングは結構ちがうって。Jean Gabinのアメリカ進出を狙ったものだったらしい。ダリが酔っぱらってらりらりするシーンで協力しているって。

港湾労働者でどこかから流れてきたBobo (Jean Gabin)がいて、酒場でかつての仲間らしいTiny (Thomas Mitchell )とかPop Kelly (Arthur Aylesworth)とやりあったり飲め飲めー ってはしごしたりして、気がついたら記憶なしで海辺の漁師小屋に転がってて、漁師のTakeo (Victor Sen Yung)があんた憶えてないだろ、ここにいていいよ、っていうのでしばらく勝手に住ませてもらうことにして、そしたらある晩、浜辺から海の沖の方にふらふら浸かって進んでいく女性が目に入ったので救いあげる。彼女はAnna (Ida Lupino)と名乗って始めは自棄でぼーっとしていて冷たいのだが少しづつBoboと打ち解けていく。 この話の横で彼が酔っ払った晩に締め殺されて発見されたPop Kellyを殺したのは自分なのではないか - 憶えてないけど – というBoboの周りで彼の過去も含めて何かを知っているらしいTinyとか、彼とAnnaを助けたりするNutsy (Claude Rains)とか、事件の行方とふたりの仲はどうなる? っていうノワールとrom-comが混ざったようなやつなの。

どこかから流れてきた酔っぱらいの男と、どこかに流れようとしていた孤独な娘が近づいていって、周りのよい人たちがみんなで支えようとする - いろいろあるけど最後はよかった、になるのでよかった。

欧州の野獣のような匂いがきそうでみっしりした体躯のBoboの横で海から救いあげたAnnaがぽわぽわの髪の毛でふぬけた棒のようになっているところとか、彼女がBoboに目玉焼きを作ってあげて彼がおいしそうに食べるところとか、真ん中のふたりがすばらしく絵になる - Ida Lupinoって横にどんなクズや変態の男がきても絵になる - 絵にしてしまうのって、やはり彼女がずば抜けたなにかを持っているからではないか。


滅入ることが多いねえ。なんで人を殺すのだろうか。

5.25.2022

[film] 夜を走る (2021)

5月17日、火曜日の晩、テアトル新宿で見ました。
いろんな人たちが最近の日本映画のなかでは.. のような誉め方をしていたので、程度。

脚本・監督は佐向大。過去の作品等は見ていない。企画には大杉漣の名前があり、彼の初プロデュース作になるはずだったという。
冒頭、ガソリンスタンドでの洗車されるのを車の中から見てそこを抜けて車が走り出す。車の中ではどこかの国のぜんぜん知らない町の天気予報? のようなものが流れている。運転しているのはマスクをしている秋本(足立智充)で、自分の勤める屑鉄工場に入っていくと上司の本郷(高橋 努)に営業の成績についてほぼパワハラの嫌味を浴びてぼこぼこにされて、でもこたえなくて適当に流している。

秋本の同僚の谷口(玉置玲央)には妻(菜葉菜)と小さな娘がいて、ふたりの夫婦仲は冷えきっていて、夫にも妻にもそれぞれに浮気相手がいて、それを互いにうっすら知っている。

工場に営業にやってきた若い女性(玉井らん)を本郷がいつものように鼻の下を伸ばして相手をして、またあの人は… って谷口と秋本があきれてグチって飲んだ帰り、本郷につきあわされた後にひとりでいた彼女を誘って、その帰り…

その女性が車のなかで死体で見つかって、はじめはその「処理」を出入りの中国の人に依頼したら危なそうな別の男(松重 豊)が現れて法外な値段を請求してきて、更に警察が動きだしたりする流れ – 犯罪の後始末に関わるサスペンスっぽい流れと、秋本が迷いこむようにして入ることになった変な教祖(宇野祥平)に率いられたスピリチュアルだか自己啓発だかのやばそうなサークルでの活動のこととか、どれもうんざりするくらい郊外の隅っこにありそうなかんじに溢れている – それをどこにでもあるありきたりの景色に変えてしまう目くらましの時間とか情景が例えば「夜」なのではないか。

誰もが仕事や家庭で抱えているもううんざりで吐きそうなやってらんない状態、だれもが飲みに行ったり我慢してやり過ごしたりするあれこれのことをざーっと並べて、それをぶっ壊すとか焼け野原にするとか逃げだそうとか、そういう方には行かない。秋本は最初の方はずっとマスクをしてどんなことも受け身でそれでよいみたいだし、谷口も不満やグチは散々言うし、むかつきまくりのようだが、そこまでに留めてその夜を過ごせばよいだけ、と。

流れが少し変わったのは秋本がフィリピンパブ(?)のホステスのジーナ(山本ロザ)をサークルに連れてきたら彼女がなによこれ冗談じゃない、ってブチ切れて蹴っ飛ばして帰って、それをきっかけに彼が破門されてから - どこにも帰属できなかった自分をビンタの後に受け容れてくれた集団から弾きだされたとき、彼のなかでも何かが弾けてしまう(と誰もが思う)。

でも、それでも表面はそんなに変わりはしなくて、秋本はほんとうに弾けてしまったのだろうか? 別の夜に彷徨いこんだだけなのではないか、って。 たまたま同じ啓発サークルにいてフィリピンパブのガードをしていた男から拳銃を貰って..  そして、谷口のところには警察(川瀬陽太)が話しを聞きにきて..  

ここには過去のノワール - 夜のお話 - で描かれたような宿命も運命も一切ない、そんな物語から切り離されたところにあるぽつんとした夜をどうやって生きるのか、生き延びるのか。そしてその先には.. (なーんにもないのだ)ということをEurekaのような引き延ばしの果てに言う。これが死なんでおいて、生きるということなのだ、例えば。 .. どうする? って。

最後にもういちど洗車があって、ドライブスルーのようなところでの典型的な家族の休日の風景で終わる。どこかを目指したり辿り着こうとする旅、ではなく、ドライブスルーのように、スルーして渡っていくいろんなサービスのつなぎ目をつないでいくような生のありよう。 誰もが”Eureka”の利重剛とか沢井と同じ目をしている。

見た感触としては、やはりR.W.ファスビンダーのそれの後に近いかも。すべてが芝居がかって虚飾に満ちていて、でもそこにある吐き気や嫌悪だけがほんもので、全体としてはどこまでも救われない、救いようのない世界がただそこにある – 奇跡も余命も、スプリングスティーン的な夜の疾走もなんもなしに、ただ救われないままに。こんな世界の蠢きをこんなふうにこまこま拾いあげてでっかい絵巻にしたのはすごいかも。

あと、カメラがなんかすごい。車の中と外。スピルバーグみたいに動く。

5.23.2022

[theatre] The Book of Dust: La Belle Sauvage (2022) - National Theatre Live

5月15日、日曜日の午後、Tohoシネマズ日本橋で見ました。

Philip Pullmanによる児童文学-ファンタジー小説の3部作 – “His Dark Materials” (1995-2000) – 『ライラの冒険』、この3部作の前日譚を描いたふたつめの3部作- “The Book of Dust”の最初の作品が“La Belle Sauvage” (2017) で、物語の設定としては“His Dark Materials”の第一作” Northern Lights”の12年前に置かれている。ややこしそうだけど、読んだことなくてもだいじょうぶ、自分もそうだけど、それでもじゅうぶんおもしろかった。

脚色はBryony Lavery、演出はNicholas Hytner - 彼はNational Theatreで“His Dark Materials”の3部作も2部からなる6時間の舞台版にして2003年から2004年にかけて上演している。ここも、前の舞台を見ていなくてもまったくもんだいないから。

舞台全体のかんじは木版画とか切り絵の世界 - 水辺では反射する光がゆらゆらと美しく、影と光が共存しながらも干渉しあって世界の狭間とか涯てのありようを刻々と変えていく、それらを大規模なセットを構築することなく(おそらく、基本は)プロジェクション中心で切り出してしまう。おそらく劇場でライブで見たら映画の3Dよりも深く包みこまれてしまいそうな、夢の中としかいいようのない舞台があって、これだけでも十分見る価値があるかんじ。

あと、登場する人間は誰もがひとりひとりダイモン(Dæmons)ていう固有の守護動物みたいのを携えていて、それはカワセミだったりキツネザルだったりアナグマだったりヘビだったりハイエナだったり、子供で自我が定まっていない頃はダイモンも可変で、大人になるとダイモンは固定されて、そのキャラクターや挙動は本人を反映する像となっていつもその人の傍らにいて鳴いたり騒いだり怯えたりして、ダイモンが死ぬとその本人も死ぬ(逆も同様)。なので舞台上には役者自身に加えて常にダイモンをパペットのようにダイナミックに操作する黒子の人がずっとついている。 はて、自分のダイモンは.. って少し考えて首を振ってみたり。

英国のオックスフォードの田舎の水辺にあるパブ旅館Trout Innで、シングルマザーの母と働く11歳のMalcolm (Samuel Creasey)がいて、 そこの従業員で15歳の少し大人びていてややぶっきらぼうなAlice (Ella Dacres)もいて、ある日Malcolmは修道院でLyraという赤ん坊 - この子が次の3部作の主人公になる大物 – を預かるのだが、この赤ん坊とそこにあったメッセージを巡って匿っていた修道院とか実の母だという少し悪そうなMarisa Coulter (Ayesha Dharker)とか、彼女の背後にいるMagisterium - マジステリウムっていうややカルトっぽい教会組織とか、その下部にいて更にやばそうな少年たちの組織 - St. Alexanderとか、ディストピア風の警察組織とか、その反対側の対抗組織の修道院とか、学者たちとか、レジスタンスとか、Lyraの父親だというLord Asrielとか善玉と悪玉がくっきり浮かびあがっていって、LyraやMalcolmたちを導くalethiometers - 真理計っていうデバイスとか、Malcolmたちを運ぶカヌー - この名前が”La Belle Sauvage”なの - とか、人の意識や宇宙を構成している物質 - ”dust”とか、そのありようや成り立ちが記載された書とか、ものすごく沢山の異世界を形づくるあれこれが一挙になだれ込んできて止まらないのだが、無理なく飲みこめてしまう。 すぐれた子供の本てそういうものだし、舞台装置がもってくる光と影もそこにとっても貢献している。

物語は間違いなく未来のなにかの鍵を握っているらしい赤ん坊Lyraを巡って、悪の結社と善き人々が追って追われて騙し騙されて、Lyraは連れ去られたり取り戻されたり、その合間に洪水が来たり散り散りになったり大変な目に見舞われながらも、自分達が守るべきもの - その価値、のようなものに目覚めていくお話で、はじめはつんけんしていた二人もだんだん仲良くなっていくのだが、果たしてLyraの運命やいかにー。(ででん)

新たな人物が登場してもダイモンのおかげでどんな人かすぐにわかったり、洪水とか不吉なことの予兆もすぐにわかったり、細部に立ち入らなくても舞台の上のうねりとその向かう先が照らされているようで、今のなんだった? とか立ち止まらずに一気に見れてしまう。

我々の意識とか精神はどこから来て、なにで出来ていて、それを良い方とか悪い方に導いたり貶めたりするのは何なのか? それってどこかのだれかの意思なのか、それとも水が溢れたりするのと同じ自然のなにかなのか、既にどこかで書かれたり決まったりしたものとしてあるのか、そんなひとつひとつはシンプルな問いや答えが撚り合わさってできあがっていく歴史とか学問とかって、世界にとってなんなのか、なんになるのか? のようなことを示したり探したりしようとしているのだと思った。

こういうの、答えなんてないのだから好きなように探していこう、って思えるようになるのはずっと後になってからだったなー。もっと若い頃に見れたらよかったのになー、って。

5.22.2022

[film] シン・ウルトラマン (2022)

5月14日の晩、二子玉川の109シネマズのiMAXで見ました。 “Eureka”のあとに見るんじゃなかったわ..

ふつうにつまんなかったので書くのもよそうかと思って、でもなんか吐きだしておいた方がよいかもとも思って。以下、簡単な感想。

わたしはそこらのふつうの子供と同じように「ウルトラマン」も「ウルトラセブン」も昭和のTVで再放送も含めて何回も見て、そこで宇宙とか宇宙人とか怪獣のこととか「正義の味方」の「味方」とか「正義」とか「地球人」とか、「ゴジラ」シリーズや恐竜が巨大生物とか放射能について教えてくれたのと同じように別の本を読んで学んだり、自分で考えたりすることになった。なんで地底からいきなり現れたり、日本にだけ現れたり、突然でっかくなったり、たまに日本語を喋ったりするのか。 これらはすべて、万が一本当にそういうこと - 大抵は自分がウルトラマンとかウルトラセブンになることを想定する - が起こった時の予習のようなものとして、結構真剣に考えたり - これは当時の退屈な子供がふつうにやっていたこと。

これらのテーマを自分と同じように、30分の個々のストーリーや登場する怪獣やエピソードに沿って深く愛して考えて語り合ったりする人々がいることを知ったのは随分あとになってからで、でもそっちの方はまあいいか、だった。そういう人たちと関わってなんになるのだろう、って思ったし、もっと他に見るべきものはあるにちがいないし、って。

この映画はオリジナルの「ウルトラマン」を小さい頃に見てそれをとても愛して、そこにあったエッセンスやエレメントを自分たちの手で真剣に現代に蘇らせようと思った大人たちが、それを見て育ったかつての子供とか今の子供たちに向けて再解釈や再定義を施して、それを披露しようと - オマージュってやつ - するものだと思っていた。あそこまでオリジナルでのあれこれを律儀に持ってきて積みあげてくるとは思わなかったが。

もうすでに日本に禍威獣(うぅ、なんかはずかしい)は現れていて、光の国から地球にやってきたウルトラマン(仮称)が禍威獣特設対策室専従班(禍特対)のメンバーで子供を守ろうとした神永(斎藤工)とぶつかって彼を殺しちゃったので彼になりすます。 いきなり現れて禍威獣をやっつけちゃったあいつを調べるために公安から出向してきた分析官の浅見(長澤まさみ)は神永をバディと呼んで(うぅ、とてもはずかしい)調査を始めて。

地球内ではウルトラマンは敵なのか味方なのか、という議論が政治・外交を睨んで跨いで活発で、宇宙からすでに入ってきていた外星人(複数)は人類をこのまま生かしておくべきか滅ぼしたほうがよいのか値踏みとか検討を始めていて、まあなくてもいいよねこの人類、になったときに半分神永としても生きて人類を見ていたウルトラマンは滅ぼすべきではない、って立場に立って、そういうことを言うメフィラス星人やザラブ星人を蹴散らしたらさいごに光の国からゾフィーがやってきて「そんなに人間が好きになったのか」って、でもやっぱしお前もう帰れって最強のゼットンを置いていくの。

「シン・ゴジラ」でも顕著だったけど、ここで描かれる「人類」ってほぼ政治家とか官僚とか軍隊とか、が中心なのよね。彼らがきりっとした声と顔で命令くだしたり「くっそお」「なぜだ?」「まさか?」とか言ったり歯ぎしりしたりする、これが映画のなかで見られる人類側のアクションのほぼすべてで、日頃からそういう連中にうんざりしている側としては、①あんなのに代表されたくないし、②命運を勝手に決められたくないし、③結果として消されたり焼けだされたり避難したりしたくなんかないし。だから映画のなかで「そんなに人間が好きになったのか」って言われても、なんで? どこが? しか出てこないし、滅ぼすしかない、って言われても、うん、こんなんじゃしょうがないな、どうぞー、って思わざるを得ない。

とにかく、神永=ウルトラマンがなんでそんなに - 自分の命と引き換えてでも人類を生かすべきだと思ったのか、この部分が薄くてちっともわかんないので、謎しかない。ありえそうなストーリーとして、浅見への愛とか禍特対メンバーとの繋がりとか、救うことができた子供と家族の愛とか、そういうのがきちんと描かれているのであればまだわかるけど、そこが欠落しているので、空っぽすぎて外星人なに考えてるの? しかない。よくわかんないから消しちゃえ、ならまだわかるけど、よくわかんないけど残そう、はダメな人が未読の本を床に積むのとおなじでダメよね。 百歩譲って相手はとにかく外星人ですから、なんて言うのならなら「正義」なんてちゃんちゃらおかしいし。 MCUのヒーローたちを見てほしい、みんな歪な変態ばっかだけど彼らをヒーローたらしめているのは家族や恋人や隣人への愛とか友情とかだけ、なんだから。

ゴジラが核兵器を生みだしてしまった人類に生きる価値はあるのか、を問うていたのだとすると、ウルトラマンは広い宇宙において地球はどういうもので、なぜ怪獣とかの脅威から守られなければいけないのか、を問うていたのだと思っていた。それがあるのかないのか最後までわかんない「バディ」的な関係で補強されるわけがないし、『野生の思考』を読んだくらいで理解されるとも思えない。尻ばっかり撮ったり匂い嗅いだりしてないで正面から抱きしめてみろってんだ。

セクハラ描写については、あんなの猫が見たってそうで、それが政治家や官僚や軍人を犬のように追っかけるカメラの線上に置かれているので彼らの中では一応整合しているのだろう。ぜんぶ「フィクション」の「ファンタジー」なんだよね、くだらねえ。 昔”Pacific Rim” (2013)が公開された頃、雑誌でこの映画を作っている2人が女性の撮り方についてもっとこうすべき、とか偉そうに語っていて呆れたもんだが、そんな智慧と「作者の思い」がこんなかたちで現れるのかー、って。呑み屋のエロ話レベルの低劣さ。さーすが『空想特撮映画』。

ウルトラマンが人類を学習するのに『野生の思考』のページをめくるシーンがあったり、浅見の机の上にはローレンツとかシュタイナーの本があるのだが、いきなりあれらを読めば人類なんて理解できるもの? 最低アリストテレスとかから入るべきじゃないの? 読むなら原典をあたるべきじゃないの? 日本人、だったら「菊と刀」とか「甘えの構造」とかじゃないの? とか。書店でフェアすれば?

怪獣でも禍威獣でもなんでもいいからあれらがもっと傍若無人に暴れ回るやつだと思っていた。都会でビル壊したり原発に迫ったりしてほしかった。 ゼットンですらあんな神話記号みたいのにされてしまうなんて。あと禍特対の秘密兵器とか、せめてかっこいい乗り物とかはないの? (予算がないので軍事費を、とか返してきそう)

とにかく「シン」なんとかでマーケティングしてくるのはもう一切信用しない。 そのうちぜったい「シン・ケンポウ」とかやりだすぞ。

メフィラス星人(山本耕史)が神永と居酒屋で対話するとこ、メフィラスが実は地球人の男の子を飼っていて、君の班長(西島秀俊)ともとても懇意にさせて貰っているのだよ、とか言ったら少しは世界が広がったのに。

この内容なら音楽は「たま」とかヒカシューの方がマッチしたのではないか。

Marvelのウルトラマンに期待しよう。

5.21.2022

[film] Eureka (2000)

5月14日、土曜日の午後、テアトル新宿で見ました。デジタル・リマスター完全版 - 3時間37分。

はじめはセピアトーンモノクロームの画面が繊細ですばらしく - モノクロームで撮影したものをカラー・ポジにプリントしているそうで、途中でほんの少しだけ青が射す瞬間があったり、最後にラルティーグのような淡いカラーに至る - その繊細な画面の肌理に織り込まれているかのようにずっと響きながら音の壁をつくる蝉の声があって、いつまでも見ていられる。5時間続いてもへーき。

最初に公開された当時はアメリカ行きの準備で見る時間が取れなくて、NYでもロンドンでも見る機会は何度かあったのにこれまで見る機会を逃していた。第53回カンヌ国際映画祭で国際批評家連盟賞他、いろんなところでいろんな賞を。

1992年のうだるような夏、福岡の田舎で、まるで絵に描いたような白い服の母親(真行寺君枝)が手を振る白い洋風の家 - から出てきた中学生の兄- 直樹(宮崎将)と小学生の妹 - 梢(宮崎あおい)が通学の路線バスに乗って、その運転手が沢井(役所広司)で、バスは途中から乗ってきた会社員風の男(利重剛)に気が付けば乗っ取られて、沢井と兄妹以外は、犯人も含めて6人が射殺され、沢井は運転手をやめて土方になり、兄妹は言葉などを失って自宅に引き籠る。

そこから2年が過ぎて、沢井の妻(国生さゆり)は彼から逃げるように出ていって、兄妹の母もいなくなり父も事故で亡くなり、たった2人でゴミの中で暮らす兄妹を見た沢井は彼らの家に移ってきて一緒に暮らし始めて、そこに兄弟の従妹だという秋彦(斉藤陽一郎)が加わり、やがて4人は沢井の運転するバスに乗って旅にでる – なんでそんなことをするのか、なにを求めているのか、理由はもちろん示されない。

“Helpless”で描かれた1989年の夏から登場人物も含めて繋がっている世界で、あの映画で「なんで生きてるんだ?」-「なんで死んでるんだ?」- パーン - って乱暴に怒りを込めた拳銃とフライパンでもってぶちまけられた生と死の境い目とかそういうのに関わる問いを目の前の惨劇と共にダイレクトにひっかぶった子供たちは、「なんで殺してはいけないのか?」 - なんで生きなければいけないのか? の表裏 – という別のかたちの問いに囚われたまま宙を彷徨っていて、またしてもその答えがなんなのか、どこにあるのかなんて誰にもわかりやしない。有名な台詞 - 「生きろとはいわん、死なんでくれ」はこの謎に対する答えでは勿論なくて、説得力ゼロのただのお願いでしかないし、それを請う沢井はずっと咳をしてて死にかけていたりする。 誰かが死んだり傷だらけになったりしないと見えてこないような、そんなふうに何かが圧してくる世界なんて過酷すぎるし、こんな世界に誰がしたのか。

“Helpless”も浅野忠信がユリ(辻香緒里)をバイクに乗せてどこかに連れていく話で、主人公(たち)は父親を失ったり右腕を失ったり傷を負っていたが、ここでも同じようにひたすら道路を走っていくだけ、でもこれも”Helpless”も年長者が無垢な子供を導くような話では勿論ない。ユリも梢も主人公たちもこちらには一切心を開かず言葉も発しないまま、それぞれの見方でまっすぐ何かを見ようとしている。

バスジャック事件で犯人を射殺した警察の松重豊が地元で起こった通り魔殺人の容疑者として沢井を尋問する際にいう - お前はあの犯人と同じ目をしている - というあの目は“Helpless”の浅野忠信にも光石研にもあって、そんな彼らの目が見ているものと梢が見ようとしているものの間にある段差とか。

あるいは今回もうざい「一般人」としての振舞いをしまくって殴られて放り出される秋彦が常に携えていたポラロイドが即席で切り取る「現実」とか。

前半30分くらいのあっという間に始まってあっという間に収束する銃撃戦のサスペンスから後半のがたごとしたロードムーヴィーへと抜けていく構成も、そこに物語上の必然はなくて、かといってHelpless - Recklessなドライブでもない。ロードムーヴィーが何かを探し求めて走っていく姿をその「何か」も含めてまるごととらえようと探索する映画であるとすると、それが梢のちいさな声、Jim O'Rourkeのやさしい歌、そしてあの海辺で、”eureka..”って見出されてこちらに到達するまでにそれだけの距離と時間が必要だった、というだけのこと。

そして、そうやって見出されたなにかがなんなのか、勿論明示されないままカメラは宙に浮かんで風に乗って去っていく。

こうして約20年が過ぎて、911があって311があって憎悪による襲撃や殺害がどこでもふつうに起こるようになって、死は決してここで語られた寓話のように語られるものではなくなってきたと思うし、同じような残された者たちの幾千ものお話しが語られてきた気がするのに、この映画ほどこちらの痛点を探りあてて、刺しにくるような強さで迫ってくるものはない気がする。 90年代に希求された実存や孤独にまつわる「リアル」を巡るあれこれとはぜんぜん別の次元で - それってほぼ全部生き残った連中のひとり語りだし - この画面には「向こう側」から吹いてくるもの、この画面と梢たちが凝視して見出そうとしたものが奇跡のように調和しようと、そこにあるの。

例えば、”Jeanne Dielman, 23, quai du commerce, 1080 Bruxelles” (1975)の、彼女の生をじっと見つめる3時間22分もあれば、この映画のような3時間37分もある。自分にとって映画を見るっていうのは後者の方のような経験のことをいうのだと改めて。

5.19.2022

[film] Audrey (2020)

5月14日、土曜日の昼、ル・シネマで見ました。邦題は『オードリー・ヘップバーン』。
Audrey Hepburnの評伝ドキュメンタリー。 そんなに無理して見なくても、な作品だと思ったのだが、Alessandra Ferriさまが出ているというので見る。

1929年に生まれて両親は離別、英国に疎開したあと父親は親ナチとなって失踪し、バレリーナを志したが疎開のブランクでそのキャリアを諦めざるを得ず、“Secret People” (1952) -『初恋』で少し注目されて、“Roman Holiday” (1953)の王女役でオスカーを獲って大ブレークしてハリウッドの伝説となる。

戦時下、時勢も家族関係もなにもかも不安定で父親の庇護を求めていた少女時代、偶像となってからのMel Ferrerとの結婚と離婚、Andrea Dottiとの結婚と離婚、Unicefの活動に没頭した晩年と、息子や孫娘からのコメント、ファッション関係者やAvedonの息子(Michael Avedon)など - も含めて全体としてはこれまでよく語られてきた(気がする)世界が彼女に求める以上に、どこまでも愛を求め続けた(でも充分に満たされることのなかった)スターアイコン、という絵姿が描かれているように思った。

わたしは映画女優としてのAudrey Hepburnはその壊れやすそうで危なっかしいところも含めてすばらしいと思うし作品は見るべきところがいっぱいあると思っているので、映画よりは「波瀾万丈」の「人生」のようなところにフォーカスしているこのドキュメンタリーはちょっと残念だったかも。

抜粋されている映画作品(他にもあったかも)は先の2作の他に“Sabrina” (1954)、“Funny Face” (1957)、”Love in the Afternoon” (1957)、“Breakfast at Tiffany's” (1961)、“My Fair Lady” (1964)、晩年のだと監督のPeter Bogdanovichが“They All Laughed” (1981)での彼女を、共演者のRichard Dreyfussが“Always” (1989)での彼女を語り、出演作全般については評論家の Molly Haskellが語っているのみ。(”Two for the Road” (1967)-『いつも二人で』なんてちっとも)

たぶん描こうとしたのは始めにバレリーナを目指した少女、バレリーナのようにあろうとした彼女で、映画の仕事も含めてだれか(他者)がどこかで何かしら振り付けようとした像に自分の身体の所作を合わせようとして目一杯がんばった彼女の苦闘とどこまで行ってもそれが満たされなかった実情と苦悩、のようなイメージだろうか。

映画の中で挿入されるバレエシーンは、3人のダンサー - Keira Mooreが子供時代の彼女を、Francesca Haywardが60年代の彼女を、Alessandra Ferriが90年代の彼女を演じていて、ダンスパートの振り付けはWayne McGregorで、そうすると思い起こされるのが彼がRoyal Balletで振り付けた”Woolf Works” (2015) - これはVirginia Woolfの3つの作品にインスパイアされた3幕作品なのだが、ここでもAlessandra FerriとFrancesca Haywardは踊っていた。見ることのできたその舞台もすばらしかったのだが、Max Richterによる音楽も見事で、3幕目の”Tuesday”ではGillian AndersonがWoolfの遺書を読みあげたりするの。

映画のなかの3人のダンサーは最後に手を取り合ってハグをするのだが、本当にそうだったのだろうか? この”Woolf Works”で描かれた3つそれぞれの過去と時間を折りたたんでひとつに撚り合わせるような流れをAudreyは望んでいたのだろうか? そういう物語を欲しがって群がってしまうのは我々の方で、よいことなのかしら? わたしはUnicefでの活動を通して、彼女は真剣に子供たちを救おうとしているように見えたの。

スターとして祭りあげられた彼女の場合は相当に不当に強く振り付けられた「ダンス」を強いられた部分もあったのではないか。 ここのしきたりとか外からの圧についてあまり掘らずに彼女の側に現れた出来事をざっと並べて彼女の内面の苦悩のように、かわいそうでした、で終わらせてしまったところがなー。Marilyn Monroeの評伝もそういう傾向がある気がして、スターはそういうものだから、にして納得したがるような風潮はもうやめないとー。

あまり関係ないけど、2017年の秋にChristie's Londonで見た展示 - ”Audrey Hepburn: The personal collection”を思いだした。この映画のなかに出てくる服のいくつかもたしか展示されていて、どれもこれもわあ本物だあー、しか出てこなかった。

これも関係ないけど、Francesca HaywardもAlessandra Ferriも、立っているシルエットだけでそれぞれが誰なのかわかってしまう。それがバレリーナというもの。
 

5.18.2022

[film] Rhubarb (1951)

5月8日の午後、シネマヴェーラの特集『アメリカ映画史上の女性先駆者たち』で見ました。
この特集で見た最後の1本。女性映画というより最強の猫映画だった..

H. Allen Smithのベストセラーになった同名小説(1946)をDorothy Davenportが脚色してArthur Lubinが監督したもの。

主演猫のOrangey - 映画のなかでは目の色までYellowだと言われている - は獣たちのオスカーであるPATSY Awardsをこれと”Breakfast at Tiffany's” (1961)で受賞している。「ルバーブ」って、ジャムとかになるおいしく赤いあれじゃなくて、野球とかの乱闘を指す、というのは知らなかった。猫がジャムを作る or 舐める話だとか、ルバーブみたいに赤い猫の話なのかって思っていた。

冒頭、凶悪な顔だちの猫がシャーッて威嚇して犬を追いかけて、それだけで痺れる - そんな人向け。

万年ダメ球団The Brooklyn Loonsのオーナーの大富豪 - Thaddeus J. Banner (Gene Lockhart)がいて、ゴルフ場の草叢に住みついていつもゴルフボールを横取りするので顰蹙をかってて、どんな犬が来ても追い返してしまう猛野良猫のすさまじい闘争心に惚れて、部下で球団の広報をやっているEric (Ray Milland)に猫を捕獲して屋敷に連れてくるように命じる。Ericは散々な目にあいながら大金を投じた捕獲作戦を決行してなんとか猫を持ち帰り、 Thaddeusは猫を「ルバーブ」と名付けて幸せに暮らしていくのだが、亡くなるときに「ふふふ」って膨大な遺産全額をルバーブに遺しちゃったものだから大騒ぎになる。

ただの世話係からルバーブの膨大な遺産も含めた後見人になったEricは球団マネージャーの娘のPolly (Jan Sterling)との結婚が延びちゃうし、さらに彼女が猫アレルギーであることがわかったりの踏んだり蹴ったりで、自分たちのオーナーが猫であることを知った球団選手たちがふざけんな、って拗ねて、でもやがてルバーブにタッチしてゲームに出ると勝利のご利益があることがわかったので球団の守護神にしたり、遺産を持っていかれて気に食わないThaddeusの娘のMyra (Elsie Holmes)が訴訟 – 本当のルバーブは実は死んでて今いるのは別の茶黄猫にちがいないとか – を起こしたり、いろんなことがばたばたと勃発して、そういうのに真面目に応対していくRay Millandは偉いなあ、って。

こうしてルバーブのご加護のもと順調に勝ちあがっていくBrooklyn Loonsは、ついにNY Yankeesと頂上対決のときを迎えるのだが、賭博のノミ屋の元締めであるNYのギャングが損したくないからルバーブを誘拐しちゃって、いろいろと絶体絶命になるの。

あとはルバーブに会いにいっつも球場に(飼い主に連れられて)やってきて彼をじっと見つめる女の子猫のこととか、ギャングのアジトを抜けだしてマンハッタンの8th Aveからブルックリンまで渡っていくルバーブを狂ったように追いかけるメディア - 手伝ってやれよ - とか、最後まで猫を中心にまわっていくお金、組織、恋愛、スポーツ、賭博、裁判、病気、と猫を境目にきれいに分かれていく善玉と悪玉とか、どこまでも猫がまんなかにいる世界のありようがすばらしい。 しかもその中心にいる奴ときたら図太い睨み顔に鋭い爪と牙をもつ「乱闘」って名前の猫なんだから。

これらの騒動の渦中にある戯画化された猫の扱いとそれに振り回されて(一部)滅茶苦茶にされる人々の挙動をおおよそそのまま「女性」 - ファム・ファタールとかに絡まってくるあれこれに置き換えたときに見えてくるものっていろいろある気がして、もちろんDorothy Davenportはそこまでを狙ったわけではないだろうが、そんな見方もできる。それくらいによくできた、懐の深い猫活劇映画で、ルバーブがのしのし歩いているのを見るだけでよくてさ ← ただの猫バカ。

今回の特集『アメリカ映画史上の女性先駆者たち』は、ここまでで、過去に見たのも含めてだいたい見たかったのは見れたのでよかった。もちろん、まだ見ていないのもものすごくいっぱいあるのであれこれ見ていきたい。「女性映画監督」も「女性映画」も「女優」も関係なくよいものを市場で手に取るように見れればいいね、なのかもしれないが、残念なことに世界はまだぜんぜんそこまで行っていないからー。

5.17.2022

[film] 回路 (2001)

5月7日の午後、連休がいってしまう悲しみに打ちひしがれつつ、国立映画アーカイブの特集『発掘された映画たち2022』で見ました。

[銀残し・再タイミング版]とあって、技術的なことはさっぱりなのだが、要は初号のオリジナル版が出そうとしていた(ホラー)フィルムの質感を現像からやり直して再現しようとして – ここには継承されるべき技術があるのだ見ろ - ということらしい。

脚本・監督は黒沢清、同年のカンヌ国際映画祭のある視点部門に出品されて国際映画批評家連盟賞を受賞している。自分はアメリカに渡った年だったので見ていない。ホラーはどっちみち見れないのだが、これについては今ならだいじょうぶな気がした。なぜなら。

英語題は”Pulse”で、このあと海外では”Pulse” (2006)として何本かシリーズ化されている。

冒頭、役所広司が(バスではなく)航行中の船の上で船長らしきことをしている。これだけでものすごく禍々しい、助かる見込みのなさそうな事態になっていることが推察される(のはなんでか?)。

ミチ(麻生久美子)の働く観葉植物を売る会社で突然出社しなくなった同僚がアパートで壁に黒い影を残して自殺しているのが見つかって、彼の残したフロッピーディスクを経由しているのか職場の人たちの姿が消えたり死んだりしていくのと、同じような現象にぶつかった大学生の亮介(加藤晴彦)が同じ大学のPCインストラクターの春江(小雪)と一緒にその謎を追ってみようとするのだがー。

やばそうな家とかドアがあったらそこにアクセスしてはいけない → でも入っちゃう → 入ったら必ず死ぬことがわかる → ぜったい近寄っちゃだめだ → 外側に滲んで湧いてくる → 結局みんなやられる。

これの20年後、コロナで散々隔離だバブルだってやってもみんなやられてしまって大変な目にあう、その避けられない循環の原型を見るようで、その懲りない逃れられない仕様をここでは「回路」って言っている。でもそれって、なんだかんだ言っても結局ヒトは死ぬ - そのときにどうやって死ぬかだ、っていう昔からのホラーのテーマがあって、そのクラシックな「回路」のありようをインターネットという「向こう側」の世界との間で考えてみる。

冒頭にモデムのぴーひゃら音が響いて、あれって何? とかモデムって、フロッピーって何?という若い人も多いのだろうが、当時のインターネットの向こうには別世界があると考えられていて、それっていまみたいな「メタ」でも「ソーシャル」でもなんでもない、ただの魔窟のような涯ての印象があった(没入すると廃人になって出てくるところは同じ - ヴェンダースの『夢の涯てまでも』(1994)に出てくるあれ、ね)

ケーブルは必須だしきちんと接続してきちんとなにかを表示させるには映画にも出てきたようにConventional MemoryがどうのとかProxyがどうのとかの関所や勘所があったし、表示されたってノイズまみれのガクガクで、それが本当に「それ」なのかなんて誰にもわからない - 今だと割とはっきりとフェイクややばいのは見ればわかるし、どこの何とかって特定し易くなっている気がする。それが「ソーシャル」ってもん。

なのでここでの死はへその緒を切られた永遠の孤絶状態を指すのだし、だからひとりなんて耐えられないのだし、みんな「助けて」って言いながら取りこまれて埋められていく。この辺の底の抜けた病理的なネットのありようって今の若い人たちに伝わるのかしら? とか。伝わらないとあんま怖くないのではないか、とか。いや、今でもこんなふうに人は死んでいるのだ、って示されるとちょっとこわいけど。

この辺の「ひとりにしないでくれ」の切迫感は少し前に見た”M/Other” (1999)にもあったし、この頃に確かにあったと思うのだが、あれってなんだったのか? ってたまに思う。歌でもなんでも気もちわるいのいっぱいあったよね。映画はこの「回路」に巻きこまれていく恐怖を描きつつも、どうやったら逃げられるのか、関わらずに済ますにはどうしたらー の方へと向かう逃走の線を描いていく。べつにひとりでいいし。

海の上には「行けるところまで行こう」という役所広司がいて、陸の上の人々がこの病に打ち勝てるようになるには『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』(2005) の浅野忠信と中原昌也の降臨を待たなければならないのだった。(北九州のどこかで、役所広司は宮崎あおいを浅野忠信に託したのだと思う)

でも、湿っぽい部屋の隅にケーブルがぐしゃっと絡まりそのまま硬っているのとか、打ち棄てられたPCのファンの周りが黒ずんでいるのとか、いつ見ても気持ちわるくて、その辺はホラーに向いているなあ、とか。でももっとこわいのは旧いデータセンター(ITバブルの頃に建てられて廃墟になっているやつ)の暗がりとかだよ。なんか動いていたりするの..

終わって、フィルムについての技術的な解説は聞きたかったけどもっと聴きたいやつがあったので代官山にPhewと湯浅湾のライブに向かい、ドアを開けたらPhewの電子音が見てきた映画の世界からそのまま噴きあがるように襲ってきて痺れたのだった。


昨日で英国から戻ってきて1年経っていて、まだ箱がいっぱい積んであるので、これはやばい♪(朗らかに)。

5.16.2022

[film] 生きてゐた幽靈 (1948)

5月6日、金曜日の晩、国立映画アーカイブの『発掘された映画たち2022』で見ました。

長谷川一夫が山田五十鈴と設立した劇団・新演伎座が48年に株式会社化されて、これとマキノ正博主宰のC.A.C.(映画藝術家協同)が提携した、どちらの会社にとっても最初の作品で、製作と公開は48年、この時のタイトルは『幽霊暁に死す』で上映時間も97分、今回上映された版は51年に東映がタイトルを変えて公開した版で上映時間は88分 – なので「改題短縮版」とある。

『幽霊暁に死す』はかつて(たぶん、たしか)シネマヴェーラとかで見たことがあって、でも今度のはぴかぴかのニュープリントですごくきれいでうっとりした。どこがどう短縮されたのかはわからない。

元のタイトルから生と死が鏡のようにひっくり返ったこのタイトルもなんだか小馬鹿にしてて変よね。元のだと幽霊は死んでいるから死なないものだし、今度のだと幽霊は生きてゐないものだし。

冒頭、尖塔のある教会で小平太(長谷川一夫)と美智子(轟夕起子)がふたりだけで結婚式をあげている。ここで教会の扉がドラマチックにばーんと開いて風がざわざわと入ってきて、明らかにホラーっぽいのだが新婚の彼らは朗らかで気にしていなくて、終わったあとのハネムーンについても、熱海に行きたいんだけど、お金がないので日帰りでごめん、てなって、それが更に潰れても美智子は一緒にいられればいいの、ってにこにこしてて素敵ったらない。

それから小平太の勤める学校の職員会議で横暴な校長の罷免動議が出されて、逆ギレした校長はふざけんな首謀者は起立せよ、って迫って、こんなときに誰も立ちあがらなくて、生徒たちも窓の外に鈴なりで注視しているなか、小平太は仕方なくひとり立ちあがって、ここでも突風がぞわわーって入ってくる。でもこれで小平太は職を失う。

どうしようもなくなったので亡父の弟の平次郎(斎藤達雄)のところに行くのだが、親族の反応は変 - 彼が父親に似すぎているせいか – で冷たくて、父親が亡くなるまで住んでいた山荘 - 柳蔭荘で管理人をすることを勧められて、他にすることも行けるとこもないので仕方なくそれを受け、現地に出かけると父親の幼馴染(田端義夫)とか巡査(坂本武)に案内されるのだが界隈では幽霊屋敷と呼ばれて誰も近寄らないぼろぼろのやつで、でもふたりで住むことができるおうちだからと掃除をしながら暮らし始めると、昔の画家の恰好をした父親の平太郎(長谷川一夫 – 二役)が現れて、亡くなった歳の状態で止まっているので小平太とそっくりすぎて自分の夫と間違ったりしてて、そのうち幽霊であることがわかってもそんなに驚いたり騒いだりしない。なんかものすごくよい娘さんすぎる。

こうして2人と1霊の暮らしが始まってみんな朗らかで幸せなのだが、なんで幸せなのに恨めしいの? と平太郎に聞くと、平次郎のせいで成仏できない、と恨めしそうなので、平次郎ほか親族一同 - 沢村貞子、月丘千秋、飯田蝶子、徳川夢声 .. ってなかなかすごい人たちなのにほぼいるだけ - に集まってもらうことにして、一同がやってくると、平太郎が遺産の管理をお願いしていた田端義夫の父親の花菱アチャコが登場して平次郎との対決になって、当然平太郎もそこにいる。

幽霊ものなのに穏やか(怪談ではないの)で人が死んだり苦しんだりすることはないし(すでに死んでるから)怖くないし、“Ghost” (1990)みたいに悪いやつを追い詰めてやっつけるわけでもないし、最初の方と同じように窓や風をうまく使ったり沢村貞子を夢遊病にするくらいなのだが、効果としては十分で、どちらかというと山奥の廃屋でずっとひとりで幽霊していた平太郎の孤独とか哀しさ - 長谷川一夫の浮かべる透明でほんのり柔らかい笑顔 - の方が残って、アチャコが読みあげる遺言状の「親類一同が仲良く暮らして欲しい」とかにじーんとなってしまう。その温度のなかに彼は確かに生きていることがわかって、切ないったら。

とにかく長谷川一夫の淡い輝きが特殊効果もなんもないのにすばらしくて、父子が - 同じひとなのに - 向かい合ってウインクするだけでなんかの魔法がとんでくるようで、大スターってこういうものなのかすごい、しかない。


この日はこの作品の前に『今日われ恋愛す 第一部 愛慾篇/第二部 鬪爭篇』 (1949)も見て、おもしろかったのだが、ちょっと欠損が激しすぎて残念だった。いつかもう少しきちんとしたのが発掘されて、それを見ることができたらまた。
 

5.15.2022

[film] Je tu il elle (1974)

5月5日の夕方、ヒューマントラストシネマ渋谷のChantal Akerman特集で見ました。

邦題は「私、あなた、彼、彼女』。これもおお昔の日仏の特集で見ている。
これの序章のような試作のような短編 “La chambre” (1972)という素晴らしい作品をロックダウン中に見て、これもできれば大画面で見て比べてみたかったかも。

モノクロで、床にマットレスが敷いてあるだけの部屋を固定で映し出す画面の枠のなか、「私」- 最初にここでこうしているのがおそらく「私」 - はひたすら「君」に向かって雑に - 想ったり考えたりしながら書いているようには見えない - 手紙を書いて、それを読んで並べて眺めて、砂糖袋からスプーンで砂糖をすくって舐めて転がって、を動物園の動物のように繰り返す。定点に固定されたカメラは動かずにぶつぶつと書いて & 舐めてを繰り返す彼女の姿を映す。

デビュー作の”Saute ma ville” (1968) -『街をぶっ飛ばせ』で自分ごとぶっ飛ばそうとしていた世界の総体をもう少し注意深く分解して行き着いた「部屋」という場所と世界の境い目、そこに留まって巣篭もりしてしまう「私」という奴とそいつがとりあえず鏡のように置いて睨みあう二人称の「君」という厄介者のありようって、例えばこんなにも自堕落でどうしようもなくて砂糖がなくなるまで舐めるのをやめない。← とてもよくわかる。

彼女は特に不幸そうにも幸せそうにも何かを求めているようにも見えなくて、他にすることもなさそうなのでただ淡々とそれを繰り返して砂糖がなくなったところでお腹がへったかも、と外にでる。

ハイウェイ沿いで手をあげてトラックに拾って貰い - 運転手とどんな交渉をしたのかは不明 - 眠くなったら後ろで寝ていいよ、って優しく言われた「彼」に拾われ猫のように懐いていって、一緒に飯場やパブに入ってご飯食べたり、彼がやってというので手で擦ってやってあげてから彼の家族とかの身の上話を聞いてあげたりする。そんな「彼」。『囚われの女』のArianeの原型のようになにもしない女。

それから「彼女」のアパートのドアを叩いて、「彼女」ははじめそっけなく「用事がすんだら帰ってね」とか言うのだが、気がつけばふたりで全裸になって絡みあっている。まったく果てのなさそうな、湿度粘度ゼロでひたすら互いの皮膚をまさぐって擦れ合わせて、でも納得いかないのか見えないのか擦ることで熱を探りあてようとしているかのようにひりひりした愛撫が延々と続く。

例えば、最初のパートは概観される日々の暮らしとか生活で、その次のパートが「仕事」としてやってくるようななにかで、最後のパートは「愛」のように語られたり括られたりするようななにかで、人生なんて凡そこんなもんじゃないのか、っていうぶっきらぼうで投げやりな目線を感じることができる。我々の生なんて、これらの間をぐるぐる回ってるだけだろ、っていうお手あげなかんじ、を外から静かに眺める。

では、ここに登場しない「私たち」とか「彼ら」はどこからどこにどんなふうに? という意識が出てくるのはもう少し後の方、”Les rendez-vous d'Anna” (1978) - 『アンナとの出会い』とか、ドキュメンタリーの頃になるのだろうか。 でもそれらが歓びや期待をもって語られることってほぼない気がする。

あと、彼女の「部屋」映画の流れだと、”La paresse” (1986)” - “Portrait d'une paresseuse” - “Portrait of a Lazy Woman”ていうのがあって、部屋でごろごろしているだけなのだがすばらしくよいの。

あと、映像として映し出されるChantalその人のなんとも言えない魅力もあるかも。そこで思い起こすのは同様に頻繁に自分の映画に登場するAgnès Vardaで、彼女はどこに行ってもムーミン谷の登場人物のような佇まいで世界を(よくもわるくも)ムーミンの世界に変えてしまうのに対して、Chantalはどんな土地でも場所でも一度猫のように座ると猫陣を張ってそこを彼女の「部屋」に変えてしまう、これもなんかの魔法なのかも。


ロメールの特集まで始まってしまったあの映画館、いっそのことアンスティチュ・フランセ東京が買い取っちゃえばいいのに。みんな - いまやってるのがしょうもないのばかりだから - ああいうのに飢えてるんだから。 でもビルの8階っていうのがなー。半地下にないとなー。
 

5.13.2022

[film] Marx può aspettare (2021)

5月3日の晩、ユーロライブの「イタリア映画祭 2022」から見ました。映画祭、他にも見たいのいっぱいあったのだが… (いつものこと)。

邦題は『マルクスは待ってくれる』。英語題は”Marx Can Wait”。ルビッチの『天国は待ってくれる』をふつうに思い浮かべるが、こちらはやや重めのドキュメンタリーで、でもまったくぜんぜん関係ないかというとそうでもない気もした。

マルコ・ベロッキオが自分の家族について自省的に綴ったドキュメンタリーで、2016年の冬、故郷のエミリア=ロマーニャ州ピアチェンツァにベロッキオ家の面々が集まってきて、残念なことがふたつある – ひとつはみんなのパパがいないこと、もうひとつはマルコの双子の弟のカミーロがいないことだ、という。

68年のクリスマス、29歳だったカミーロの自殺は自分にとって、家族にとってどういうことだったのかを、存命する5人の兄と姉たち、カミーロの恋人の妹、司祭や精神科医との対話も含めて振り返っていく。ベロッキオの映画を貫いてある政治と個、個をとりまく家族や集団組織のありよう、そこから受ける傷とかそこにある錆とか、どこかなにかが機能していかないドラマの起源を見ることができるようだったし、実際に彼の過去の作品の断片も頻繁に挿入される。タイトルになったカミーロが言った「マルクスは待ってくれる」も”Gli occhi, la bocca” (1982) - “The Eyes, the Mouth”に引用されている(さらにこのタイトルはカミーロがマルコに言った最後の言葉だそう)。

ベロッキオ家は中流階級の堅実な家庭で、父は弁護士、母は敬虔な女性で、長兄が精神的に不安定だったせいもあり、双子の兄弟は割と自由に楽しい子供時代を過ごして、カミーロの容姿はマルコよりよかったのでいつも人気者で、でも大きくなると父親は彼に測量技師の仕事を与えた。この進路はカミーロの希望とは特に関係ないものだったのでこの辺から彼の不安と彷徨いが始まり、映画の世界で注目を集めていくマルコとも距離が広がっていった、と。

でも家族はこの辺、カミーロの生来の明るさもあるし、まさかあの子が.. って特に気にかけてはいなくて、唯一、彼の恋人だけが彼にのしかかっていた暗いなにかを感じていたことが明かされたりする。65年の『ポケットの中の握り拳』でイタリア映画界の寵児となったマルコがカミーロに政治や社会への関与について語った際にも「マルクスは待ってくれる」 - そういうのはもう少し後に考えたって遅くない – って彼は返した、と。

家族にとってものすごく辛い出来事だっただろうし、未だに傷は癒えていないのかもしれないのだが、首を吊ったカミーロを発見した時のエピソードなどにはなんともいえないユーモアもあったり、映画のようにその情景が浮かんでくる。同様にあの時にこうしていれば、という後悔や懺悔もそんなに滲んではいなくて – 最後、マルコが司祭の人に教えや救いについて問うとあなたはわたしが言おうとしたことを既に全部言ってしまっている、と – やはりマルクスは待ってくれなかったのかも .. 程度で、でも頻繁に映しだされるカミーロの肖像、カミーロと家族の像は確かにこちらに向かってなにかを語りかけてくるような。そしてその眼差しの強さ確かさ、というかその眼差しのありようは、これらを画面にぶっ刺すように刻んでくるベロッキオの映画そのもののように見えた – もちろん、これもベロッキオの映画なのだけど。

でもやはり、頻繁に挿入されていく彼の映画の断片を見ていると、あれもこれもぜんぶ見たくなる。

なんか、延々映画を作り続けた(続けている)マルコに、ルビッチの”Heaven Can Wait” (1943)で死ぬまで女性のケツを追いかけるのを止めなかったヘンリー・ヴァン・クリーヴが被ってくるの。境目にいるHis Excellency(閻魔さま)は彼を天国に送るか地獄に墜とすか- そんなのわかりきっているのだが。いやそんなことより、彼にはまだいっぱい映画を作って貰わないとー。 カミーロは待ってくれるにちがいないから。


なんど数えても週末がふつかしかないことにおののいている。こんなひどい気圧なのに..

5.11.2022

[film] The Dumb Girl of Portici (1916)

5月3日の午後、シネマヴェーラの特集『アメリカ映画史上の女性先駆者たち』から見ました。

邦題は『ポルチシの唖娘』。ああNYのVeselkaのボルシチが食べたいよう、ってずっと思っていた(今も思っている)ので「ボルシチの...」だと思いこんでいた。バカすぎて救いようがない。

フランソワ・オーベールの1828年のオペラ『ポルティチの娘』- ”La muette de Portici”を元にPhillips SmalleyとLois Weberが監督した作品。主演のかわいそうな娘を演じているAnna Pavlovaが唯一映画出演した作品、と聞いたら見ないわけにはいかないの。

上映されたのはおそらく、2015年にBFI(わーい)の35mmとNew York Public Library(わーい)の16mmからリストアされた版。当時としては空前の予算規模 - $300,000 -で製作されたものだそう。

17世紀、スペインの支配下のナポリで海辺の漁師たちは重税で苦しんでて、そんなのお構いなしに貴族は豪勢に暮らしていて、しっかり者で村を支える漁師Masaniello (Rupert Julian)の妹のFenella (Anna Pavlova)は唖だけど踊ったりしながら明るく幸せに暮らしていて、そんな踊る姿を海辺に遊びに来ていた総督の息子Alphonso (Douglas Gerrard)が見初めて、ふたりは恋に落ちてしまうだが、婚約が決まっている兄Alphonsoのそんなさまを見た弟のConde (Jack Holt)がこれはあかんやろ、てFenellaを城の牢獄送りにして、そこから王族と民衆の溝が深まって、更にひどいことにAlphonsoの婚礼の日に重税を追加したもんだからふざけんな、ってみんなの堪忍袋の緒が切れて、Masanielloをリーダーに決起した民衆がお城に突撃して門を破って..

慎ましく朗らかな漁民たちの暮らしとバカでいけいけな王族の暮らしの対比とそこを貫いたFenellaの無垢な恋が両側に波紋を呼んで、それがどす黒い邪悪な波となって民衆 - Fenellaの他にもかわいそうな女性が - に襲いかかり、その怒りの連鎖がじわじわと決起に向けて膨れあがっていく前半の悲劇的でオペラティックな描写と、お城への突撃が怒涛の大津波へと変貌していくスペクタクルの後半と。

後半はでっかいセット - 宮殿はハリウッドにあったお屋敷だって - で撮ったのだと思うが一揆の勢いはぐしゃぐしゃにすごくて、串刺しの生首は立っているわ人々は束になって死んでいるわ怒涛の描写がすさまじく、前半にAnna Pavlovaのダンスでうっとりしたのが霞んでしまう、その段差がすごい。

戦乱の世に翻弄された無垢な少女の悲恋、というのがそもそものオペラのテーマだと思うのだが、映画だとここまでエクストリームに行ける/やれるのだ、って製作者たちは見せたかったのかしら、とか。でもとにかく、見応えは十分だった。


Christopher Strong (1933)

5月7日、土曜日の昼にシネマヴェーラの同じ特集で見ました。邦題は『人生の高度計』。

監督はDorothy Arzner、原作はGilbert Frankauの同名小説、これをZoë Akinsが脚色した、Katharine Hepburnの映画出演2作目。

パーティの余興のスカベンジャーハントで、女性は結婚5年以上で浮気したことがない男性を、男性は恋におちたことがない女性を探してくること、ていうお題で引っ張られてきた国会議員のSir Christopher Strong (Colin Clive)と飛行士のCynthia Darrington (Katharine Hepburn)がぶつかって、はじめはどっちも自信たっぷりにつーんとしていたのにじりじりと恋に焼かれて、彼の娘のMonica (Helen Chandler)と妻のElaine (Billie Burke)のまさかあの人が.. ってなっていくさまをクールに描いていく。

男の方は典型的な英国の高慢ちき紳士やろうでどこが魅力的なのかちっともわからないのだが、Katharine Hepburnは車に乗っていても飛行機に乗っていても仮装パーティでぎんぎんの蛾に扮してもめちゃくちゃかっこよすぎて誰も文句いえずに見惚れるばかり。

彼女はひとりで世界一周の飛行レースに出てあっさり優勝して英雄になって、それが恋を加熱させて、Cynthiaは彼の子供を妊娠するのだが、そのことを彼に告げるのを踏みきれないまま、ひとりで飛行高度の記録に臨んで更新してあっさり墜落しちゃうの。“Courage can conquer even love”って。 Cynthiaの反対側にはずっと付きあっていたバツいちの男性と一緒になるんだって結婚して妊娠してみんなから祝福されたMonicaがいて、ふたりを単純に比べることはできないと思うものの、でもそんな世界もある、と。 そしてもし飛行士が男性の方だったら、果たしてどんな描き方になっただろうか? とか。

スカベンジャーハントからの出会いが恋に− というと、なんといっても”My Man Godfrey” (1937) - 『襤褸と宝石』があって、Carole Lombardのrom-comとして楽しくて、この作品もコメディにしようと思えばできたかもなのに、原作がそうだからなのかそっちにはいかない。Katharine Hepburnならこんなの余裕でコメディにもできただろうに、「なめんな」って正面から大見得きって貫いて一瞬でまっさかさまに。 人生の高度計 - 下の句は - てっぺん抜けてもすぐおちた。 ひょっとしてコメディのつもりなのかしら?

あと、なぜタイトルが男側の名前になっているのか、よくわかんない。

5.10.2022

[film] Merry-Go-Round (1981)

5月2日の晩、ヒューマントラストシネマ渋谷のJacques Rivette特集で見ました。これは見たことないやつだった。160分。
どうでもいいけど、”Merry Go Round”というとThe Replacementsの曲がぐるぐる回り出す病。

撮影はWilliam Lubtchansky。ネルヴァルの『火の娘たち』から構想された四部作が”Duelle (Une quarantaine)” (1976)と”Noroît” (1976)で頓挫し、78年に撮られたもののRivette自身も倒れたりして、81年に漸く形になった作品。

冒頭からバスクラリネット(John Surman)とコントラバス (Barre Phillips)のデュオの音がぶっとい蛇のようにうねうねぬたくる - 彼らの演奏風景はしばしばバイクのエンジンをふかすかのように挿入される - 中、ミステリーなのか犯罪なのか冒険なのかサイコなのか、とっ散らかったお話しが転がっていく。

音楽については”Duelle”でも”Noroit”でも展開されるドラマの横 - 内側でライブで演奏される構図があったが、ここでの演奏風景はドラマの場面とは切り離されて - 本編撮影後に別で撮られて挿入されたものらしい - でも一番やかましくぶっきらぼうに鳴り響いて気持ちよい。

パリのElizabeth (Danièle Gégauff)からの手紙を貰った妹のLéo (Maria Schneider → 途中から彼女が降りてHermine Karagheuzに替わる)がローマから、(Ex-?)彼のBen (Joe Dallesandro)がNYから飛んできて、同じホテルの隣同士になって睨みあう。

ふたりでElizabethに会いに行っても彼女はいなくて、情報を細々と撚りあわせていくと、富豪で飛行機事故で亡くなったはずの彼女たちの父は実は生きていて、彼の遺した保険金だの遺産だのがスイスの貸金庫にごっそりあるらしいのだが、鍵とかその暗証番号を握っているのがElizabethとLéoで、Elizabethは会えたと思ったらJean-François Stévenin(空手使い)などによりどこかに連れ去られて、LéoとBenが協力したり疑ったりごろごろ食事したりしながら謎とか番号に近づいていく - 数字の”3”がヒントだとかー。

やがて彼女たちの父親の愛人だったShirley (Sylvie Matton)が実はBenの姉でもあって、裏の真ん中でなにか企んで動いているらしいとか、Shirleyの雇った怪しげな霊媒師 - Julius (Maurice Garrel)が出てきたりとか、父は本当に生きているのかやっぱり死んでいるのか、遺産なんてあるのかないのかあるんだったら何処に? などを巡って愛しあうべきか殺しあうべきかやっぱり逃げたほうがいいのか、のような駆け引きが延々続いていって止まらない。

この頃のRivetteお得意の地下の陰謀とサバイバルのゲームがもろ70年代のOld Waveふうファッションでもって走り込み/追跡/逃亡劇として展開されて、妄想なのか現実なのか、森のなかを逃げ回るBenを鎧甲冑に白馬の騎士が追いかけたり、ドーベルマンの群れが追いかけたり、砂漠に追いこまれたLéoに大蛇が絡みついてきたり、いろいろ大変な試練にごたごたが何度も繰り返され、これらの変てこ一連隊が同じような家とか場所の周囲をぐるぐる回り続ける - これがMerry-Go-Round。 もちろん簡単に真相 - Merry-Go-Roundを回している/真ん中にいるなにか - は明かされなくて、ようやくそれらしい男がでてきたと思ったらめちゃくちゃ胡散臭いMaurice Garrel(素敵)だったり。

こうして散りばめたいろんな要素を更に散文調に蹴散らしながらふたりの女性がパリの街を彷徨っていくのがこの後の『北の橋』 (1982) とかで、これはパリの街を”Merry-Go-Round”ならぬ双六にして巡っていくのだが、この地点からははっきりとなにかを吹っ切ったパンクの香り - デニムから革ジャンへ - がしたり、そういう点でも過渡期なのかもしれない。 それでも十分におもしろかった。

他の作品のようにあまり特定の町や土地 - パリとか島とか - には縛られていない、ふつうの家やホテルの屋内と外とか森とか海とか砂丘とかの中と外 - 屋内ではだいたいごろごろして外に出るとバイクや車で走って追いかけっこ、というのの繰り返しもあって、そのなかではサーディン缶(トマト)でディナーするところがたまんなくて食べたくなる - あれとバゲットだけでいい。 あとは唐突にでてくる子猫の凶暴なかわいさときたら。

5.09.2022

[film] Doctor Strange in the Multiverse of Madness (2022)

5月4日、水曜日の晩、109シネマの二子玉川で見ました。
これを初日にみたのが唯一GWぽいイベントだったかも。IMAXの3Dで、3Dメガネ付きのは久々。あれだとメガネ必要なのはわかったけど、えらく目が回って頭痛で大変になる人もいそう(帰って寝るだけだったのでだいじょうぶだった)。

MCUの28番目の映画で、監督は前作のScott Derricksonから途中でSam Raimiに替わり、ストーリー設定としてはDisney+でやっていた”What If...?”シリーズと”WandaVision” (2021)のをある程度踏まえていて、でも”WandaVision”の製作とは並行して進んでいたので、Wandaが最後にいる場所とか、ん? てなるところもあるかも。 以下、ネタバレはたぶんしている。

ストレンジがマルチバースのマッドネスを、ということなので要はなんでもありの妖怪大戦争になるだろう、というのが予告を見た感想で、実際見たかんじもそんなもんで、この作品に関しては筋や設定の整合の具合よりもユニヴァースも狂い咲けばここまで行く(行っちまえ)、というのを示すことができればよいのだと思うことにする。見世物小屋の狂気を覗ければいい、と。

Dr. Stephen Strange (Benedict Cumberbatch)が宇宙だか次元だかを行き来して魔物と戦いながら秘伝の魔法の書に辿り着こうとして、その手前で殺られて – という夢から汗びっしょりで目覚めるというのが続いていて、その日はかつて恋人だったChristine (Rachel McAdams)の結婚式で、おれはなんでこんなやくざに.. って手を見つめているとでっかい目玉のげじげじ蛸がいきなり襲ってきて、そいつは先程の悪夢にでてきた少女を追っているらしく、なんとかそれをやっつけると少女はAmerica Chavez (Xochitl Gomez)と名乗って、あの悪夢は本物であんたは死んでいるのだほれこれが死体、とか見せてくれる。

Americaは自分でどうやるのかはわからないが、バースを渡っていくことができる/できてしまうのでその秘密パワーを狙っていろんなのがやってくるのだ、と。そんな事態をどうにかできるのは魔女しかいないな、とStrangeはWanda (Elizabeth Olsen)を訪ねるのだが、実は仕掛けているのはAmericaのパワーをほしくてたまらないWandaのオルタナのScarlet Witchで、StrangeとWong (Benedict Wong)とAmericaはカーマ・タージ(山の上)で彼女を迎え撃つのだが既に別の次元を連鎖でぶち壊す「インカージョン」ていうのが起こっているので、要はぐじゃぐじゃでなにが痛いのか辛いのかもよくわかんなくてどうしようもない。なにが起きてもはぁ… って見ていることしかできないのだが作る側は辻褄合わせたり説明したりするのが面倒くさくて大変だったろうなあ、とか。

この過程で「イルミナティ」っていう別バースの地球にいて戦うAvengersだかミュータントだかの戦隊が出てきたり、ゾンビ仕様のStrangeが出てきたりして、どっちが善玉か悪玉かくらいはわかるものの、見るひとが見ればそれがどうした? でしかないのかも。そんな際どくめんどい戦いは「マルチバース」だから、しかもそれが狂っておかしくなってるから、で大抵の説明がついて、そんなの経験したこともあんま想像したこともないのでうんうん、てなるしかないの。(システム障害です、って説明されてもよくわかんなくてうんうん、てなるのに近い)

例えばWandaがふたりの子供たちと過ごす幸せな日々、Dr. StrangeがChristineと過ごすありえたかもしれない愛の平穏、が一方にあり、他方には文字や本で解読したり千手観音だの曼荼羅だので解毒したりしないとどうしようもない混沌とMadnessがある。この両者はいまの我々の社会にもふつうにそれぞれあってお釈迦様の目線で見ればそこそこ「調和」しているのだが、ここで恐れられているのは、その均衡をぶったぎるパワーを持つものが暴走してコントロールできない状態になっていること、それが複数のバースにまたがって起こるので手がつけれれなくなる可能性がある、と。

映画としてはホラーの仕掛け – 魔女がもたらした呪いと禍 → なにが出てくるのか、誰がやられるのかわからない - を導入したびっくり箱で、そこはSam Raimiなので3Dも含めて申し分ない – あんまし恐くないとこは賛否あるだろうけど。

気になるのはX-Menの最初の”X-Men” (2000)も直近の”Dark Phoenix” (2019)もこれも、つまるところ自分をコントロールできなくなった(と自分で言う)女性がもたらす災厄、を男性の「ヒーロー」がなんとかする話だってこと。これって魔女狩りの時代からずっとこんなままだし、今回のはもろ”Witch”とその反対側に静かで聡明なChristine、さらにまだ子供のAmericaを対置させて沈静化を図ろうとしているように見える。

こんなのでいいのかなー、って。WandaこそThanosをやっつける手前までいったほんとに強くてかっこいい人だし、”WandaVision”は痛ましい傷を懸命にリカバーしようとするかわいそうなお話しだったのになんでまた? っていう文句ははっきりと言いたい。誰に言えばいいのかわかんないけど。これってディズニーだから、っていうのもあるの? 「アナ雪」なんかも同系の去勢話だよね。

あとはここからどこに向かうのかな、って。インカージョンが起こってしまった以上、いくらでも別バースからの新たな敵や獣が玉突き往来自在になってしまったわけで、エンドロールで現れた人も含めてこりゃきりないわ – どこまでつきあうかな、って。 だってこうなっちゃうと「ヒーロー」も善悪もマルチで無限に相対化されていくしかないよね。 そんなマルチバースのありようとSNSについて、どっかに書いたものあるかしら。

あと、別のバースで生きている自分はきっと幸せかも(と星空を見上げる)、っていう発想は支配されている家畜のそれだしそれこそが(意識されてない抜けられない)地獄だと思うし、もろディズニーのやり口なんだわ、って。

でもいまNYのLincoln Centerでやっている特集 - ”The Hong Sangsoo Multiverse”みたいのは、ありだとおもう。

あと、Danny Elfmanの音楽は久々に力が入っていたかも。


Paul HeatonもDave Gahanも60歳かー。 そうだよねえ…  

5.08.2022

[film] Atlantique (2019)

5月1日の晩、イメージフォーラムの特集上映『マティ・ディオップ特集 越境する夢』で見ました。
この特集で見れたのはこの1本だけだった。クレール・ドゥニの監督作品2本は売切れていたし。21時開始のって、まだなんか抵抗感があったり。

本作の元になった?短編 - “Atlantiques” (2009)は一昨年にMUBIで見ていて、でもその時はあまりぴんと来なくて、今回の長編デビュー作を見て驚嘆する。2019年のカンヌでグランプリを受賞しているフランス・ベルギー・セネガル映画。Netflixで見れるとはいえ、こんなおもしろいのがこんな形でしか映画館で見ることができないなんてー。 以下、ふつうにネタバレはしている。

冒頭の大西洋の描写がすばらしくて、よい海と波とそれを照らしだすよい光が出てくる映画はそれだけで、自分にとっては当たりなの。撮影は同年に”Portrait of a Lady on Fire” - これも海が素敵だった - を撮っているClaire Mathon。

ダカールの大西洋沿岸の町にDuneに出てくるような禍々しいタワーがにょっきり一本立っていて(ほんとうはないよね?)、それか、その周辺の建築現場かで、数ヶ月分に及ぶ給料の未払いを巡って労働者たちが次々と声をあげて文句をいうのが冒頭。

その労働者たちのなかから若者のSouleiman (Ibrahima Traoré)がひとり町に出てAda (Mame Bineta Sane)と会ってデートしてキスをして彼はもっと、って求めるのだがAdaは昼間だしダメ、って拒む。

その晩に改めて会う約束をするのだが彼は現れなくて、そのうちAdaは成金大金持ちのOmar (Babacar Sylla)との婚礼があるのでそれどころではなくなる。婚礼の準備は友人たちも両親も浮かれて大騒ぎなのだが、Adaだけ浮かない顔でどこかに消えてしまったSouleimanのことを想っている。

やがてSouleimanは労働者仲間と一緒にスペインへの出稼ぎへと向かう船に乗って海に出ていったよ、と言われてがっかりしょんぼりとウェディングをするのだが、その晩のパーティで新郎新婦のベッドが焼かれる騒ぎが起こり、そこでSouleimanの姿をみた、という声が聞こえてきたのでAdaはまさか… って。

こんな状態で新婚生活に入ってしまったAdaはどんより腑抜け状態で、町の噂を聞いて疑いをもったOmarはAdaが処女かどうかの検査をさせたりするのだが浮気の痕跡もなにも出てこないのでお手上げで彼女を放りだす。(彼がただのぼんくらでよかった)

もうひとり、ボヤ事件の捜査にあたった刑事Issa (Amadou Mbow)はやはりどこかにSouleimanが潜んでいるのでは、と捜査を進めていくのだが突然具合がわるくなって.. 更に同じ頃にAdaの友人のFanta (Aminata Kane)も夜になると具合がわるくなり、その際に女性たちが集団で移動していく様が目撃されて..

労働事情によって海を渡らなけれはいけなかった労働者たちの悲惨な悲劇に、叶わなかった若者ふたりの悲恋や残された家族たちのことを絡めて、クラシックな昔話ホラーからモダンな労使/搾取/難民問題にまで踏み込んで - 映画の型としてはジョン・カーペンターからアピチャッポンまで夜の闇や白目を混ぜこんで、でもベースは師であるドゥニの肌肉に砂や潮が擦れてめくれあがって露わになっていく生や魂そのもの - 器としての身体のようなところまで目指しているような。 思いっきりぐさぐさしたスプラッターの方に踏みこむことも、ロマンチックな不滅の恋を描くこともできたはずなのだが、ここは潮の満ち干き引きのようなバランスを取ったのか、まずはとにかく海を撮ろうと思ったのか。

彼女たちが集うクラブ(?)の夜闇に瞬くライティングが蛍のように儚く美しくて。

ひとつあるとしたら、あんなふうにして海から戻ってきた魂たちは今回の彼らだけじゃなくて、これまでもずっといて、悲劇として続いて溜まってきたきたはずなので、そうやってふき溜まったり凝り固まったりしている場所や人々の型のようになってしまった何かがある/いるはずで、その姿をどこかで、どんなかたちでもよいので見せてほしかったかも。これはまず今を生きている若者や女たちのドラマで、それはわかるけど、でも死者たちだって共にいた。 ずっと「それ」を捕まえようと定点カメラを置いているのが、例えばペドロ・コスタではないか。


なんもしなかったけど、連休が終わってしまうのでもう今年はしんだおわったくらいのかんじで泣いている。なにもかもぜんぶやだ。

5.07.2022

[film] Helpless (1996)

5月1日、日曜日の午後、国立映画アーカイブの特集『1990年代日本映画』から2本続けて見ました。

Helpless (1996)

もちろん青山真治の追悼として見る用意なんてしていない - 「1990年代日本映画」を、というのは少しあるので、そっちの方に転嫁しよう。彼の作品についてはまだ見ていないもの読んでないものもいっぱいあるのに追悼もくそもないわ。

監督・脚本・音楽は青山真治、製作は仙頭武則、撮影は田村正毅、主演に浅野忠信と光石研、これだけで最強のバンドだと思うし、そういうバンドのディスコグラフィーを追うように見て聴いていくのもよいの。

バイクで暑くなり始めた頃の寂れた町を走っていく健次(浅野忠信)と電車で仮出所してきた右腕のない安男(光石研)- 幼馴染のふたりが再会して、安男は健次に障害のある妹ユリ(辻香緒里)と荷物を託して、「オヤジ」を尋ねていくのだが誰に聞いてももう死んだ、というのでふざけんな、ってそう言う奴らみんなを撃ち殺していく。

健次はナポリタンを食べて精神病院にいる父親を見舞って、喫茶店に入り、トンネルの奥から現れた同窓だった秋彦(斉藤陽一郎)とも再会して、こいつはやがて喫茶店にも入ってくる。

そのうち健次の父親が病室で首を吊ったことがわかり、うだうだと絡んでくる喫茶店の経営者夫婦をフライパンで撲殺してユリを連れて出ていく。

ふたりの若者のある夏の日の時間と時間を追った行動 - 殺し - に彼らの父親が死んだ/死んでいたということを当て嵌めて語るのは簡単なのだが、そんなテーマに落とすわけないただの偶然とか、じつは「異邦人」のように夏の道路の空っぽな状態を示すだけのやつ、なども浮かんだり、健次が着ている”Nevermind”のTシャツが示すように、これは96年に描いた89年の出来事であるとか、それ以上に、ギターを中心とした細やかな音楽が鳴りだす瞬間の、とてつもない生々しく広がるなにかとか、長編デビュー作だけが持ちうる属性 - でっかく広げた地図とそこだけを見て、聴け、ってところが山のようにあって目を離すことができない。

“Helpless”は”Reckless”でもある、と聞いてその感覚でいくらでもだらだら流していくことができて、ぜんたいとしては「ぐだぐだ寄ってくんじゃねーよ、うぜえんだよ - ぱーん(フライパン)」ていう、フランパン・パンク、でよいの。


M/OTHER (1999)

監督は諏訪敦彦、くらいしか存じておらず。
恋人のアキ(渡辺真起子)と一緒に暮らす哲郎(三浦友和)の前妻が交通事故を起こして長期の検査入院をすることになり、彼らの子供 - 8歳の男の子俊介(高橋隆大)を預かることにしたけどいいか? とアキに訊く。 きかれても他に行き場がないんじゃしょうがない、けどもっと事前に相談してくれても.. とアキは返して3人の同居生活がはじまる。

アキはもちろん子育てなんかしたことないし、俊介だって母親以外の大人の女性がずっと家にいるのは初めてのことだし、でも哲郎は話せばなんとか/時間が経てばどうにか、の手口でなんとでもなると思っていて、前半は両者のいろんな戸惑いや衝突と、それが朝になればどうにかなっていく様とその繰り返しを描いていく。

で、互いがだんだん慣れて仲良くなっていけばいくほど、それぞれに - 特にアキにとってこの状態は/関係はなんなのかを考えるようになって、アキの友人はもうこのまま結婚しちゃえば、とか、でももうじき俊介は母親のとこに還るし - そうしたらまた元に戻るさ、と哲郎は言うのだが、もう決して元の状態に戻れないことがわかるアキは、一人暮らし用のアパートを探し始める。

画面はずっと視野狭窄とか欠損を起こしているかのように狭くなにかに囲われていることがわかる状態で - “Helpless”とは対照的 - どこかしらが欠けているようで - でもなにが映っているかはわかるし会話も追えるし、そういう状態で最後にはっきりと映りこんでいなかったものが姿をあらわす。

この状態を続けるのはもう無理だから出ていくしかない、となった時に哲郎がアキにのしかかって行くんじゃない、ひとりにするんじゃない、ってひたすら力で圧していく - 暴力はふるわないがのしかかって動けなくする - 場面がホラーのように、ホラー以上に狂っていてものすごく怖かった。これ、この狂気であり呪いなのよ、この国を覆っているいちばん厄介なあれは。

“Men”と”Other”の間に切り込みを入れてその傷を塞いで見えなくしたところに現れる”MOther” - 万能薬のように都合のよい、万能を期待されてしまう母のありよう。のしかかって力でなんとかしようとする三浦友和の頭にフライパンを..  ってここでもフライパンが浮かんでしまうのだった。 あとナポリタンも。


今日(5/7)は国立映画アーカイブで『回路』 (2001)[銀残し・再タイミング版]ていうのを見て、感想はそのうち書くけど、これも「ひとりにしないでほしい」っていうあれの続きで、終わって解説を聞かずに代官山に走りこみライブハウスの扉を開けたら既に始まっていたPhewの音が『回路』から吹いて聴こえてきたそれとつながっているようで震えた。 これに続く湯浅湾もまたすごくてー。

5.06.2022

[film] Never Fear (1950)

4月30日の土曜日、『囚われの女』の後にシネマヴェーラの『アメリカ映画史上の女性先駆者たち』から2本見ました。

Never Fear (1950)

邦題は『恐れずに』。ノンクレジットだった『望まれざる者』- “Not Wanted” (1949)の後で、始めてIda Lupinoの名前が監督としてクレジットされた作品。 脚本と製作は当時結婚していたIda LupinoとCollier Youngの共同で、主演のふたりは『望まれざる者』でも競演していたSally ForrestとKeefe Brasselle、さらにSally Forrestは『強く、速く、美しい』(1951)でもテニス選手として主演していて、タイトルのシンプルな言い切りも含めて固まっていて - 「強く、早く、美しい」かんじに満ちていないだろうか。

Carol (Sally Forrest) とGuy (Keefe Brasselle)のふたりはダンサーとして組んでずっと練習してきてラウンジでの初日に上手くいって先の契約も取れたので、前途は明るいし浜辺でふたりの夢を語って結婚を.. ってなったところでCarolが突然熱をだして倒れて、運ばれた病院ではポリオと診断されて、そこからサンタ・モニカのKabat-Kaiser Rehabilitation Center - 当時実際にあって先端のリハビリテーションをやっていたそう - に運ばれて、そこからのリハビリの試練の毎日が始まる。

当初は絶望で自棄になって、Guyから何を言われても首を振って彼を遠ざけようとして、センターの医師やトレーナー、いろんな患者たちから励まされてどうにかリハビリをするようになり、始めたら元は負けず嫌いだったりするので克服していって、やがて..

いつものようにきれいごととか既定のルールとか(場合によっては)偏見のようなところから入らずに、主人公が直面した困難や隘路を最初から解きほぐして、そこから、だからこうなるしこうあるべきなのだ、ということを主人公に語らせたりやらせたりして、そこにはなんの飛躍も無理もなく、一度は疎遠になったGuyと最後には元に戻っていくの。 Ida Lupino自身が幼い頃にポリオに罹ったという経験も反映されているのか、ポリオは治せない病気ではないのだ、だからあなたも家族も,, ってはっきりと語っているよう。

ぜんぜん行けてないCriterion Channelでは俳優としてのIda Lupino特集も始まったので、できれば見たい。けど時間がー。


Honor Among Lovers (1931)

邦題は『彼女の名誉』。監督はDorothy Arzner。

ウォール街で偉くて強いトレーダーのJerry (Fredric March)は万能秘書のJulia (Claudette Colbert)にずっと仕事からなにから支えられてきて、もう君なしでは生きていけないから結婚しよう、と寄っていくのだが彼女にはもうPhilip (Monroe Owsley) という、同じくトレーダー(Jerryよりは格下)の彼がいて、Jerryからの口説きがうざくなってきたこともありPhilipにもう結婚しようよ、って逃げるように結婚してしまうのだが、Jerryはその後も同伴の出張をねじこもうとしたり意地悪でなかなか諦めてくれなくて、でも結婚から一年過ぎてシルクの相場が暴落してPhilipが大損こいたら全てが一変する。 PhilipがJerryの資産とかを無断で相場にぶちこんで大火事おこしていたことが明らかになり、Philipがぴーぴー泣くのでしょうがない、ってJuliaがJerryに泣きついたら彼は親切にPhilipが刑務所に行かなくて済むように小切手を切ってくれて、それを知ったボロクズPhilipはてめー不貞を働きやがったな? ってひとり勝手にキレてJerryのとこに殴り込みに行って、酔っていたので銃をぶっ放してJerryは重傷を負い、はじめはJuliaが疑われてしまうのだが…(バカな男性(おとこせい)が全面に出てくる、全体としてはなんかひでーお話。おもしろいけど)

善玉と悪玉、というか優秀な女性に依存してどちらも割としょうもなく都合よく生きてきたダメ男たちが株の暴落をきっかけにその本性を露わにして、Juliaは困って呆れて相手を変えるのだが、一方は自滅して一方はしめしめ、って受け容れてくれて、しかしそれってほんとうにだいじょうぶなのかどっちにしても腐っててやばいんじゃないのか、って、最後のオチをみると思ってしまう。あなたの強さ賢さ - Honor - があればひとりでも十分やっていけるでしょうに、って、教訓を込めた小噺みたいなものかしら。トレーダーとつきあうのはやめよう、とか。

あと、Jerryの友人役のMonty (Charlie Ruggles)の彼女としてGinger Rogersが、Juliaの反対側にいるような女性として出てくるの。これはこれでなあ..


連休がいってしまう先が見えてきたので、もうちっとも楽しくなくなってきたよう。

5.05.2022

[film] The Captive (2000)

4月30日、土曜日の朝、ヒューマントラストシネマ渋谷の『シャンタル・アケルマン映画祭』で見ました。『囚われの女』。

今回上映される5本はどれもいちおう見たことはあって、特に彼女のは20-21年のロックダウン期間中に見(直し)たのもあるので、今回見るのはその際に見ていなかったやつ and/or また見たいやつ、になる。
偶然だろうけど丁度いま、NYのMuseum of Moving Image - あーあーまた行きたいよう - でも彼女の小特集がかかっている。同じく5本で、2本は渋谷のと被っているけど、母の日特集 (?)。
“Your Loving Mother: Five by Chantal Akerman”

渋谷で上映されている5本については、絶対に見といたほうがよいエッセンシャルな「部屋から世界へ」というテーマで選ばれたのかしら。でも勿論これだけではないので、第二弾、第三弾がありますように。

さて『囚われの女』。まだ日仏だったころの日仏で見た。たしか。
監督はChantal Akerman、製作はPaulo Branco、撮影はSabine Lancelin、原作はプルーストの『失われた時を求めて』だけど、時代設定は現代だし、登場人物の名前も一部変えられて人数も絞られて、小説の方は”La Prisonnière”だし、主題となる「囚われ」のありようは小説の方が語り手の視野を通して遥かに濃く強く張り巡らされているのだが、映画の方だと「囚われ」の見えない鎖を映像としてどのように描くのか、がポイントになるのかしら。

冒頭、Simon (Stanislas Merhar)がひとりで古い8mmフィルムを映写して、そこに映っている水辺のAriane (Sylvie Testud)とAndrée (Olivia Bonamy)の像を、そこでのArianeの口の動きを追って、そこに自分の言葉を重ねて、なにかを確信したかのように見える。 そして今回の映画祭の予告の最初にあったヒールを履いたArianeが広場を横切って車に乗り込む映像。Chantal Akermanの映画はいつもこんなふうに、これだけなのに(窓辺とかを)横切っていくシーンがかっこいいの。

そこから先は主人公Simonのところに同居しているArianeの寝起きからどこに向かうのかわからない外出、唄のレッスン、お風呂まで密着してじっと見つめたり断片的に会話したりして日々追いかけたり考えたりしながら静かにつきまとうSimonの姿が描かれる。 彼は外では(内でも)ずっとスーツ姿でジェントルで、Arianeに乱暴することもないし性的に束縛したり、軟禁状態に置くような危ない素振りも見せない。彼女がどこに行こうがなにをしようがなにを言おうがの自由はある。いくらでもある。

彼らがもっとも生々しく接近するのが不透明なガラス越しの入浴シーンと、ベッドに横たわって動かないArianeの傍にSimonが添い寝というより不自然に寄り添うところで、おそらく彼は彼女にキスもしていないようだ。飼育、というより放牧状態のようなところに置いて、懸命になにかを推し量ろうとしているかのよう。ではなにを?

基本のドライブは会話というよりガラスのようなSimonの目と同じく空っぽなガラスの目をしたArianeの多分に思い込み - こうあってほしいというよりこうに違いない - が転がしていく思惑と眼差しの交錯がふたりの失望や落胆をスプリンクラーのように規則的に撒き散らしながら空回りと空焚きを繰り返して、もう一緒に住むのはやめよう、とSimonが決断するまで。

彼が決めたことには従わなくてはいけないらしく、ふたりは車でArianeの叔母の家に向かう。その道行きでの会話も含めたゆらゆらした感覚の、砂や砂糖でできたなにかが崩れていくようなこわさ。あとはアパートやギャラリーの木の床を歩いていくときの靴と床が鳴らす音の強さ。そこに海のようにざぶざぶ被さってくるラフマニノフ。

Arianeはおそらく自分が囚われの状態にあることを自覚しているし、SimoneはArianeからAndréeへの眼差しが指し示す「愛」と呼ばれそうなあの状態に取り憑かれている。ArianeがAndréeに向けるものとSimoneに向けるもの、更にSimoneがArianeに向けるものは同じなのか違うのか。ぜったいに答えなんて出るわけのない永遠の中間地帯にあって、この状態が壊れてしまうのがおそろしい、というよりもその状態から抜けること、背を向けることがこわい。 このあとに『逃げ去る女』が作られたとしたらー。そして、その更に先に「時」が見出されてしまうのだとしたらー。

存在の危うさとか儚さとは違う次元の、(おそらく愛に起因しているのかもしれない)意識や感覚が引き起こして止まらない - 止めどなく内側で生起していくなにかに囚われ、そこに淫して廃人のようになって彷徨うふたり(どちらかというとSimone)。ポール・デルヴォーの絵の世界のような。

例えば、スマホで24時間挙動行動の追尾ができるようになっている今、このテーマってどうなっていくのだろう。すでに廃人を通り越してゾンビみたいになっている人 - あまり美しくない - でいっぱい、とか?

とにかく、よいわるいの手前、腐る肉の一歩手前でぎりぎりに保っているクールネスとか美しさがあるの。
 

5.04.2022

[film] Hard, Fast and Beautiful! (1951)

4月29日にシネマヴェーラの『アメリカ映画史上の女性先駆者たち』から見た4本の続き。後半の2本を。

Ida Lupinoの監督4作め、”Outrage”の次に撮られた作品。
邦題は『強く、速く、美しい』。 原作は1930年のJohn R. Tunisによる小説”American Girl”で、実在した女性テニスプレイヤー Helen Willsをモデルにしたものだそう。

カリフォルニアのサンタモニカに暮らすFlorence Farley(Sally Forrest)は母Millie (Claire Trevor)の強い思いのもと、テニスプレイヤーとしての練習を続けていて、練習中に再会した町の有力者の甥のGordon McKay (Robert Clarke)と対戦して負かしちゃったので、そこから偉い人達を伝ってより大きな大会に出られるようになって、彼女の強さがもたらしてくれる彼らとのコネクションも含めて母の野望は叶えられていくのだが、Florenceとしてはツアーで留守がちになることで病身の父を置き去りにしてしまうのとソーシャルに高慢ちきになっていく母が嫌になっていくのと、なんといってもGordonと無理せずのんびり暮らしたいというのがあって、最後にウィンブルドンに勝ったあとに母親をふっ切ることにして、ふっ切るの。

スポーツの勝負の世界でのしあがること、それによって得られる社会的なステイタスとか成功が必ずしも選手個人の幸せに繋がるものではないこと、例えそれが近しい親からの要請であってもそれに縛られる義理も道理もないのだ、ってはっきりと語って、そこにはなんの無理もないし、少し前の”I, Tonya” (2017)でも最近の”King Richard” (2021) - これは見てないし違うのかもだけど - でもずっとテーマとしてあったような。

映画の力点は母親からの逃れ難い抑圧と積もっていく苦難をじっくり見せるというより最後にそこから解放される彼女の清々しさを鮮やかに切り取る方にあって、”Outrage”もそうだったけどその先を、将来を見せようとするところが素敵ったらないの。

あとテニスのラリーの撮り方とかちっとも古さを感じさせないの。いろいろ試行錯誤したのかも。


Too Wise Wives (1921)

脚本はLois WeberとMarion Orth、監督はLois Weberによるサイレント。 邦題は『賢すぎる妻たち』。

David Graham (Louis Calhern)と妻のMarie (Claire Windsor)の夫婦がいて、Marieは夫のためを思ってできる限り完璧に彼に尽くそうとするタイプで、夫は可能な限りその真摯な要請に応えるべきで、吸うのはパイプではなくて葉巻にしてほしいし、ニットのスリッパを編んだのでそれを履いてほしいし、朝はフライドチキンがいい、と一度彼が言ったのでずっと同じものを出し続けたりしている。彼はこんな自分を愛してくれるはず.. なのだがMarieが会議中の職場にも電話を掛けてきたりするので夫はどうしたものか、になりはじめている。

John Daily (Phillips Smalley)と妻のSara (Mona Lisa)の夫婦はこれと対照的で、Saraは夫がそうしたければそうすれば、って彼のやりたいように泳がせていて、そうすることで彼の信頼を得ている。朝食があんま気に入らなくて食べたくなければ食べなくても別にいい - ランチにとっといて、とか。そのやり方でうまく男を操って自分のものにして地位を築いたSaraは過去にMarieの夫と付き合っていたことがある。

で、そんなMarieとSaraが婦人クラブで会って終わってから一緒に買い物をして、SaraはMarieの子供みたいな純な振る舞いを見てDavidはどうしているかしら? って彼に手紙を書いて再会して昔のことも含めて話したりしたい、って送ると、オフィスに送ったその封筒はDavidの家に届けられてSaraが受け取ってしまう。差出人と封筒にふりかけられた香水からどういう手紙か察知したSaraだが手紙を開けるところまではいかない。

そしてそんなような罠や企みをたっぷり仕込んで週末に2組の夫婦がJohnの家で会うことになって…

結末から言えばタイトル通り”Too Wise Wives”が自らの危機 - 別れるというより嫌われるほうの危機? - を回避しましためでたしめでたし、になるのだろうが、そこまでの妻たちの、更には夫たちの考え方とか行動はなんだかおもしろい、というか因数分解したらそうなるしかないのだろう、だけどねえ - 結婚して他人と暮らすってこんなにもけったいでおかしな.. とか。

舞台劇にしても十分おもしろくなったと思うけど、ふたつの家の中、職場、婦人クラブの会場、ショーウィンドウ、駅、いろんな場所に彼女たちを置いてみることで多層で見えてくる結婚の風景があって、それはずっと後になってベルイマンとかが重厚に切り取ってみせた風景より(やばいところも含めて)シンプルでおもしろいわ、って思った。

5.03.2022

[film] Craig's Wife (1936)

4月29日、金曜日の昼 、シネマヴェーラの『アメリカ映画史上の女性先駆者たち』で、この日は4本続けて見ました。4本連続はやっぱしきつかったかも。

1925年にピュリッツァー賞を獲ったGeorge Kelly(Grace Kellyの叔父)の同名劇が原作で、映画化はこれの前に28年にサイレント(監督William C. DeMille)のがあり、これの後の50年にはJoan Crawford主演、監督Vincent Shermanで”Harriet Craig”としてリメイクされている。”Harriet Craig”は2018年にBFIのJoan Crawford特集で見て、すごくおもしろかったの。 あといちおう『クレーヴの奥方』(1678) とはなんの関係もないの。

冒頭、NYのライにあるHarriet Craig (Rosalind Russell)のお屋敷でメイドのMrs. Harold (Jane Darwell)が居間に飾ってある陶器の位置をミリ単位で調整してぴりぴりしていたり、もうひとりのメイドMazie(Nydia Westman)とのやりとりからいかにHarrietが嫌われて恐がられているかがわかる。

Harrietは病に臥せっている実姉の看病でアルバニーの方に姪と一緒に出掛けていて、その間夫のWalter (Wendell Corey)は友人の家にポーカーをしに出掛けて、でもその友人はそっけない妻の行動とか自分から遠ざかっていく友人たち - この晩も来てくれない - のことで不安定になっていて、そこから24時間の間にHarrietの「家」でなにが起こったか。

Walterが訪ねた友人宅では夫妻が死んでいるのが見つかって警察からWalterのところに問合せが来て(それをHarrietが握りつぶしていたことが後でわかる)、姪を連れて屋敷に戻ったHarrietのところには姉が亡くなったという報が届き、同居していた叔母は出ていくことを決めて、最後まで残っていたメイドは叔母についていくことにして、Walterも彼女の陶器を叩き割って、吸い殻を撒き散らして出ていって、最後にはHarrietひとりが残される。あんなにパーフェクトな家づくりに尽力して貢献した(と彼女は思っていた)のに。

彼女が完璧な家と屋敷を維持しようとすればするほど彼女は嫌われて孤立していってしまう。彼女にとってはそうすること、それを徹底的にやることが夫にも至上の愛と幸せをもたらすはずだったのに、誰にもわかってもらえない、という彼女からすれば理不尽かつ絶望的な「家」をめぐる断絶を女性である監督のDorothy Arznerは冷たく突き放すようなトーンで描いている。50年の”Harriet Craig”の方はそうなった要因を彼女の幼少期の事情においたり、少しはやさしいかんじだったのだが。 

これを女性 - Harriet Craigの女性的な独裁のように描くとなんかやーなかんじになってしまうけど、別にここでの彼女と同じように家や家庭のすべてをコントロールしようとする男性なんてざらにふつうにいるんじゃないのか? そっちはどうなの? いいの? そいつらからの連鎖でこうなっている可能性ってあるんじゃないの? などなどを言わんとしているのではないか、と思ったり。


The Road to Ruin (1934)

作・監督はDorothy Davenport。 28年に作られた同名のサイレント作品 - 原作はWillis Kent、監督はNorton S. Parker - をおなじHelen Foster主演でリメイクして音声をつけたもの。邦題は『破滅への道』。

高校の友達同士のAnn (Helen Foster)とEve (Nell O'Day)がいて、Eveは酒もタバコも男友達と遊ぶのも先を行ってて、AnnはEveに誘われるままに同級生の男友達Tommy (Glen Boles)とデートして野外でセックスして泣いたり、そんな彼女を今度は年上の遊び人のRalph (Paul Page)が乱痴気パーティにさそって、負けたら脱ぐゲームとか変なお酒呑まされたりとな、されるがままに堕ちていって警察に補導されて指導を受けて、そのうち妊娠していることがわかるのだがRalphは結婚なんてとんでもない、って中絶医を紹介してきて、手術したらその際の不衛生だったのがたたってAnnは寝たきりになって、お母さんごめんね、って亡くなってしまうの。

絵に描いたように真面目だった娘が素直に転げ落ちて亡くなってしまう残酷なかわいそうなドラマで、そこには破滅へと向かう際の葛藤や格闘があるわけではなく、無垢で従順な娘が言われるままに傾いて横になって気がついたら動けなくなって手遅れだった - それ故にこういうのはそこらのふつうの娘にもいくらでも起こりうるのだ、という救いのなさ(親は後になってあの時にもっと言っておけば、って泣くだけ)。

で、この構図は驚くべきことに世紀を跨いでいまだにそんなに変わってなくて、暴れたり抵抗したりしなければほぼ自動で合意したとみなされてしまう文化をはじめ、ずっと腐りきったままだという近現代のど腐れっぷりに改めてびっくりしよう。

5.02.2022

[film] Marry Me (2022)

4月28日、木曜日の晩、109シネマズの二子玉川で見ました。
もうね、なんとか廻戦だのマルチバースだの、ほんとどうでもいいの、こういうので - こういうのがいいの、って待っていたひとは多いのではないか。 Bobby Crosbyによる2012年のグラフィック・ノベルを原作に、Kat Coiro(女性)が監督している。

Kat Valdez (Jennifer Lopez)は現代のスーパースターで、音楽をリリースするだけでなく、プロモーションでも広告宣伝でもプライベートでもずっとカメラマンが横にいて起こったことを即座にSNSにアップ(するかストックするか)して、世間と24時間繋がっていることでスターであることを維持していて、とにかくクオリティとかセールス以上に飽きられたり呆れられたりしたら終わり、ということをとっても意識した活動をしている。

彼女の最新のヒットは歳下の婚約者であるBastian (Maluma)とのデュエット曲”Marry Me”で、ツアーのファイナルではふたりでこれを歌って、ストリーミングも含めて2000万人が見守るなかで幸せ光線ぶんぶんのBastianとのライブ&リアル結婚式を挙げるはずだった。 が、40kgの鎧のようなウェディングドレスを羽織って準備を整えたKatの周囲が突然ざわざわして、見れば自分の付き人とBastianの浮気動画が溢れかえっている。

Katには冗談じゃないけど冷静でいられるわけもなく、でも過去離婚を3回して修羅場上等の彼女が咄嗟にとった行動は友人(Sarah Silverman)と娘Lou (Chloe Coleman)に誘われて半ば嫌々ショーに来てたまたま曲のタイトルである”MARRY ME”って書かれたパネルを持ってぼーっと突っ立っていたシングルファーザーのCharlie Gilbert (Owen Wilson) - ばつイチ - を指差して「おいそこの - ”Yes”だよ」ってステージにあげて、そのまま夫婦になることを誓ってキスしてしまうことだった。

小学校の数学の先生であるCharlieはもちろん本気ではないし彼女も本気だとは思っていないだろうと思っていて、ただあの場で”No”を返したら彼女が惨めすぎてかわいそうだったのと、このまま暫く我慢して過ごして彼女のリアリティ・ショーに付き合っておけば(どうせみんなからも彼女からも忘れられるし)学校の数学の講座に寄付をしてあげるって言われたからで、つまりはじめは誰もが彼女のショーの続きを見ている/やっているつもりだった。

ここから先はいいよね。”Notting Hill” (1999)よろしくめくるめくスーパーセレブのKatの世界に迷い込んだCharlieと、とてつもなく地味に生きてきたふつーの数学教師の世界を斜め上から見ることになるKatがどんなふうに相手を見つめ、打ち解けて離れ難くなっていくのか、どうやってそれぞれの生活に折り合いをつけたり適応したりしていくのか。それで、それがふたりの愛に、”Marry Me”の境地に到達することになるのかー。

そしてもちろん、敵キャラBastianは彼女は結局自分のところに戻ってくるし、自分にはそれができるのだと信じて疑わない。他方でやさしいCharlieは彼女が竜宮城に還っていくのはしょうがないか、って思っちゃっているし。

なのでrom-comの定石としてもう一巻の終わりあーあ、ってなってもだいじょうぶ。 でもあそこで子供のマスコン(イベント)を使うのはちょっとつまんなかったかも。万人の幸せをくすぐるオチのパターンとキャラの組み合わせは当世のアルゴリズムを駆使して慎重に狙うべき(危なくない)とこを狙ったのかも知れんが、もっと正面からべったべたに行っても受け入れられたられのではないか。なんといってもJ.Loさまなのだし。

そう、これは問答無用のJennifer Lopezさまの映画で、既に”Out of Sight” (1998)や”Hustlers” (2019)でじゅうぶんにやられていることもあり(”Maid in Manhattan” (2002)てのもあったな.. )、だからせめて最後にBastianのやろうをぼこぼこにしてさしあげて、100年早いわ勝手口からおとつい来やがれ、くらいの啖呵は切ってほしかったかも。

同様にOwen Wilsonだって、ほんとは変態のくせになんかふつうによい人すぎだったかも。本来であれば主人公の横でぼんくらをやる温度感の人なのに、彼がセンターにいるので、引っ掻き回して最後にやらかして口笛ふいてくれる正義のぽんこつや道化役がいない、というものもなー。 Ben Affleckでもそこらに置いておけばよかったのに。

ブルドッグのTank、かわいかった。Owen Wilsonはなんで犬が似合うのだろうねえ?

続編は復讐に燃えるBastianの一味がLouを誘拐して、Katが闇のHustlers軍団を呼び寄せて救出に向かうのと、Charlieは旧友のDavid Starsky (Ben Stiller)に声をかけて大変なことになるの。

5.01.2022

[film] Les Olympiades, Paris 13e (2021)

4月27日、水曜日の晩、ヒューマントラストシネマ有楽町で見ました。『パリ 13区』、英語題は”Paris, 13th District”。
原作は『サマーブロンド』などのアメリカ人 - Adrian Tomineのグラフィック・ノベル - 彼の複数の作品からキャラクターやエピソードを持ってきていて、監督はJacques Audiard、脚本にはCéline Sciamma(他、監督を含む3名が)。

関係ないけど、いまやってるMati Diop特集でかかったClaire Denisの『パリ、18 区、夜』- “J'ai pas sommeil” (1994) - 売切れでちっとも見れず- みたいに区名が数字ってなんかクールでいいな。これが「大田区」とか「杉並区」とか「世田谷区」とかだったりすると浮かんでくるものがなんか.. (この数字で作られたイメージも人によってはあるのだろうけど)原題の”Les Olympiades”は70年代にこの地区に建てられた高層ビル群のことだそう。

パリ13区でコールセンターの仕事をしているÉmilie (Lucie Zhang)はルームメイトになるべく電話して寄ってきた高校教師のCamille (Lucie Zhang) とそのままセックスをして、悪くなかったので自分のアパートの部屋を貸してルームメイトとして一緒に暮らし始めるのだが愛の生活が続いたのは2週間くらい - ÉmilieはよかったのにCamilleはそうでもなくて - で、彼が同僚の女性を連れこんだりするし、Émilie は電話の接客で酷いこと(「ポチ」とか)を言ってクビになり、Camille にも出ていかれてしまう。

30代でボルドーから大学に入り直して勉強しにきたNora (Noémie Merlant)は、学内のパーティで金髪のウィッグをつけて楽しく踊っていたらネットのセックスチャットで有名なAmber Sweet (Jehnny Beth)と間違えられて陰で笑われたり卑猥なチャットが大量に送り付けられたりの酷いことになったので大学は諦めて地元でやっていた不動産屋で働き始めると、そこに上位試験のために教師を休職したCamilleが入ってくる。

一時は精神的に追い詰められて危なかったNoraは、落ち着いてきたのでAmberの有料のチャットにコールして彼女がどんな人か見てやれと思って、互いに眉をひそめたりしつつも話しをしていくと最初の戸惑いからだんだん打ち解けて仲良くなっていくのと、毎日仕事で会っているCamilleとの間にも恋が。

恋も仕事も失業状態だったÉmilieはチャイナタウンの中華料理店でウェイトレスのバイトを始めて、マッチングサイトで手当たり次第に一時の出会いを繰り返したりしつつCamilleとも会って、そこからNoraとも会って…

運命の相手を探すというより自分が気持ちよければじゅうぶん、というかんじで踊るように - 実際踊る - さくさく男をとっかえていくÉmilie、ボルドーに置いてきた彼のことは知らんが傷を癒やすべくCamilleとリハビリするようにつきあって、同じようにヴァーチャルのAmberにも惹かれていくNora、とにかく時間と機会さえあれば誰とでも、みたいなCamille、それぞれに性や愛が食事や会話のようにふつうにあって、それぞれの孤独とか都市生活がどう、とかとはあまり関係がない、そんな若者たち。

セックス/恋愛以外だとÉmilieは、施設にいる認知症の祖母の相手をしてあげるように母親から言われてて、でもなんとなくスルーしてたらある晩に祖母はひとりで亡くなってしまったり、Camilleには吃音のある16歳の妹がいて、でもスタンダップコメディをやりたいというので初めは馬鹿にしていた彼女のケアをしてあげるようになったり、涙や笑いが出てくる日々も、それぞれにいろいろあるよ念のため、って。

そんな中で、有料チャットの、ヴァーチャルな探り合いから始まったNoraとAmber - 本名はLouise - の探り合いのような会話から近づいていってWebカメラを介して添い寝したりする場面の質感は他のエピソードとはやや異なっていて、ここはやはりCéline Sciammaが手がけたパートなのだろう。最後にふたりが直に対面するシーンのはらはらと崩れていくような安堵感ときたら。

ロメールの『モード家の一夜』(1969) - これも2人の女と1人の男の話だった - の舞台を高層ビルのまんなかに持ってきて、ネットを介した即物的なセックスまみれにして、それでも本当の、運命の出会いはあるのかなどと問う - それやっぱり問うか?  っていうようなお話。かも。

Jacques Audiardは、最近のBruno Dumontとかもそうかもだけど、もう痛いやつとかぶん殴るようなやつは撮らないのかしら? そういうのはJulia Ducournauとかに譲るのかしら?

モノクロの画面は美しいのだが、例えばガレルのザラ紙に刷ったようなモノクロとは随分違って、高級感に溢れた色落とししたモノクロのようで、あと最初にAmberが登場するところはけばいカラーだし。ここに被さってくるRone - Erwan Castexの少し昔のdrum'n'bassのスケールをもった音楽がはまっていてかっこよい。

俳優は女性たちがみんなすばらしいのだが、やはりJehnny Bethに釘付けになる。Noraみたいにされるがままになりたい。
 

こんな陽気のくせにもう5月だなんて認めないから。あと半月くらいは。