28日土曜日の夕方、神保町から日比谷に移動して見ました。
そういえば、アラン・レネも”The Theory of Everything"のひとだったかも、とか思いつつ。
邦題「博士と彼女のセオリー」は、少女漫画ぽい解りやすさを狙ったのかもしれないけど、やっぱりしょうもない矮小化だと思う。
愛の誕生も子供の誕生もALS発症も障害者生活もあらゆる疲労も閃きも浮気も別れも赦しもよれよれ続いて生きていくこともそこで流れていった時間もそれらがまわしていった家族や学校のサークルも、そういうのをぜんぶぜんぶひっくるめての”The Theory of Everything"だというのに。
大学で出会ったStephen Hawking (Eddie Redmayne)とJane (Felicity Jones)が恋におちて、彼は天才で、でも難病がでて余命2年て言われて、でも結婚して、子供を作って、でも病気は進行して、でもお勉強も進行して、膨れあがる宇宙のように時間すらも飲みこんで黙ってろ、ていうの。
博士が生涯をかけて追っかけているグランドセオリーのスケールに負けないでっかさで、彼と彼女の愛と運命がでっかく描かれて、なんかすがすがしいの。 余命2年? 車椅子? それがなんなのよ。あたしたちが追っかけているのはそんなもんじゃないんだからね、と。
そんな怒濤の献身介護の物語かというとそうでもなくて、ふたりはずっと一緒にいるわけでもなくて、じゃあそこで泥沼の修羅場がやってくるかというとそうでもなくて、相当いろんなこと、やなことうんざりなこともあったに違いないのに、なんかさらりとしている。 原作がJane - 当事者だから、ということよりも、そこに事実を受け容れた上で「セオリー」を探す・撚りあげるひとの目があったから、と見るのが正しいのかも。
時間の始まりはどこから、どんなふうに始まったのか、を脳みそいっこで追いつづける博士の旅が向かうところは二人の頭上で花火が炸裂したあの晩、だったのか。 恋愛のただなかに身を投じることとグランドセオリーを探求することは似ている。あらゆる矛盾や不合理をはねのけるのではなく取り込もうとする野望。 Stephen Hawkingというひとは、一生をそれに、それだけに捧げている。 この映画はその凄絶さ、というよりそういう一生を送ることのできる幸せ - だって君がいてくれたからさ - のほうに寄ってうまくいっているの。
これでオスカーを獲ってしまったEddie Redmayneさんが上手なのは当然として、でもすばらしいのはFelicity Jonesさんのほうだ、と思うの。 あのすてきだった”Like Crazy” (2011)も結局日本では公開されなかったよねえ。
そういえばStephen Hawkingさんの本物て、90年代にサンチャゴの空港で見たことがあったなあ。
4.04.2015
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