8.31.2012

[film] Ruby Sparks (2012)

直行便にしたもういっこの理由は午前中に現地入りできるので時間ができて、映画見れるだろうしー、というのがあったの。

で、なにがなんでも見たかった1本というのがこれで、でもシアトル周辺では1館だけになっていた。 で、映画館の住所だけ持ってホテルのコンシェルジュのおじさんにここに行きたいんだけど、といったらこれは対岸だねえ、と言われてそれでBellevueなんだ、とわかった(わかっとけ、そんなの)わけだが、とりあえずtaxiで行ってみることにしたら、片道で$30ちょっと。
そこまでやるのね、と着いてから自分でおもった。

映画館はSundance Cinemas Seattleていう、Sundanceがやってるチェーンで、でもメニューはふつうのシネコンと変わらない。 元は町のシネコンだったのを箱ごと買い取ったようで、適度にひなびてて、がらがらで(火曜日の昼間だしね)、よいかんじ。
上映前の画面には全米各地のSundanceチェーンの紹介とロバートレッドフォードさんのコメントとかが出ている他に、繰り返し「CMは流しません」「CMを見たいんだったら自分ちのTVみてな」、ていうのが出てる。 うんうん。

予告も短くてさっさと始まるのもうれしい。 客は自分を入れて4~5人。

"Little Miss Sunshine" (2006)組によるラブコメで、すんばらしくよかった。
10年前のデビュー作で天才現る!と持ちあげられて以降、新作が書けなくなっている小説家のCalvin (Paul Dano)はセラピスト(Elliott Gould!)のアドヴァイスに導かれて、夢に出てくるようになった女の子 - 彼女の名前はRuby Sparks - のことを書き始める。そしたらいくらでも書けてしまうので、自分でも目をまるくしていたら、そんなある日、彼女(Zoe Kazan)が現実に現れて一緒に暮らし始めるの。

最初は、こわいくらいに幸せすぎるのでこんなの妄想の産物だと思っていたのだが、彼女は他人にもちゃんと見えて、存在しているらしい。 でも、彼女の属性は彼がタイプした通りに現れて、フランス語が堪能、とタイプすればフランス語しかしゃべらなくなったりするの。

でも、彼女をBig Surの両親(Annette BeningとAntonio Banderas、へんなかんじ)の家に連れていったり、パーティに連れていったり、仲良くなればなるほど、彼女が自分の知らないところで自分以外の他者と知り合うことに苛立ちはじめる。 さて。

自分の夢の異性を妄想したらそれが現実になる、というテーマはロボットだろうがメイドだろうが、古今東西いくらでもあったし、あるし、そういうのは大抵破綻して、現実にちゃんと目を向けようね(特にそこの男子!)、とかなるのだし、これも基本はその線なのだが、終り方はちょっと違っていて、それはたぶん原作を書いているZoe Kazanさんが持ちこんだものだとおもう。

というのもあるし、自分の理想の彼/彼女を作り出して、そこと自分内外との間の際限のない闘いを経ることなしに真の出会いなんてやってこないのだ、という恋愛のごくふつうのプロセスを描いているようでもある。 どっちにしても恋愛なんてなんと面倒なことかー。

というような大変さにフォーカスするというよりも、突然どこからか現れた彼女に驚き、触れたりキスしたり、そのたびに更にときめいて驚いて目ん玉をひっくり返しつつもずるずると歓びに溺れていくPaul Danoを見てるだけで十分で、更にもちろん、実際のパートナーでもあるPaul DanoとZoe Kazanさんのふたりの組み合わせがすばらしいの。 ふたりがプールの中で金魚みたいにくるくるまわるとこなんて、ほんとに美しいんだよ。

どうでもいいけど、彼の実家のBig Surのおうちって、こないだ見た「いそしぎ」のにそっくりだったような。

8.30.2012

[log] August 28 2012 (2)

Seattle、(というかBellevueだった)に着いています。 
まだ書いてないやつもあるのだが、こっちから書いてみるかー

今回、いつも使っている日系のエアラインだとLAのトランジットにならざるを得なくて、そうすると"Take This Waltz"の彼女みたいにトランジットがこわいの、と言ってみたくなったりして、それなら、と直行便が出ている(7月から始まったばかり、でも始まったと思ったらマリナーズのあのひとは… ぷぷ)もういっこの日系のほうにしてみた。 昔はこっちのほうも使っていたのになー。 

やっぱし機内食はこっちのがよいし、映画もなんかいっぱいあるような気がした。どうなのかしら。
でもフライト時間は9時間ちょっとなので、あんま見れないのがくやしい。
前の日に2時間くらいしか寝ていなかったせいもあって、2本とちょっと、しか見れなかった。

最初に見たのが、"Darling Companion" (2012)  ていうの。
Lawrence Kasdanの9年ぶりくらいの新作。
これがおもしろくてさー。 「日本公開未定」て書いてあったけど、ほんとかよ。

隙間風が吹きはじめた裕福な夫婦の、妻のほうがフリーウェイで犬を拾って(だから名前は、"フリーウェイ")、その犬が縁で次女も結婚することになって、自分たちの別荘で式をするのだが、式のあとで犬が森の向こうに走っていって消えてしまう。で、親戚一同で犬探しをすることになる、これだけの話なの。

これだけなのに、なんであんなに豊かに、面白くできるのか。
フリーウェイで犬を拾う妻にDiane Keaton、その夫の脊椎外科医にKevin Kline、その妹にDianne Wiest、彼女と一緒になろうとしているおっさんにRichard Jenkins、胆石持ちのシェリフにSam Shepard、などなど、キャストが見事にはまっている、というのもあるのだが、家族を一時的にでも結びつけた犬の登場、そいつがその絆の確認の場である結婚式の直後に失踪してしまうことで、持ち直したかに見えたいろんな綻びが再び表に出てくる。 しかもそこは携帯も途切れがちな山奥で。

他に別荘の管理人で、いろんなものが「見える」ジプシー娘とかも絡んで、初老を迎えた人々の、これからの愛や人生の期待の水晶玉 - フリーウェイとなってしまったわんわんをめぐるじたばたがおもしろおかしく描かれる。 わんわんそのものは、べつにぜんぜんかわいくもない、ただの犬なのに。 
で、結末はわかっていても、あーいいなー、ってしみじみする。

それから、"One for the Money" (2012)  ていうのを。
翻訳もシリーズでいっぱい出ているStephanie Plumもの、て読んだことないのだが、Katherine Heiglさんが好きなので、見てみました。 

読んでいないから原作のキャラにどれだけはまっているのか、はわかりようがないのだが、Katherine Heiglものとしては、極めて王道なので、楽しくみることができた。

いろいろ失敗もしたし、もうそんなに若くはないけど、まだまだ自分はだいじょうぶ、いける、と心の奥ではちょっとだけ思ってて、でも寄ってくる男は見事にろくでなしばっかりではめられて、あーもう自分も相手もいいかげんにしろ、とやけくそのなりふり構わずでがんばってみると、結果がついてきて本当の愛が向こうからやってくる - 書いててめちゃくちゃ恥ずかしいのだが、そんなキャラをやらせたらこの人の右に出るものはいなくて、これもそのパターンをなぞっているだけなの。

Jersey Girlでバツいちで、Macy'sの下着売り場を頚になりすっからかんで実家にやってきた彼女におばあちゃん(Debbie Reynolds)がいとこのヴィニーのとこに行けば仕事があるかも、と言われて行ってみたら、保釈金を踏み倒して逃げている奴をしょっぴいたらその10%が報酬、というのをあてがわれ、とりあえず実入りが大きそうなやつ、ということでやることにした最初の仕事は、容疑者を射殺して逃げている警官の捕捉で、しかもそいつは高校時代の自分の元(最初の)カレで、お互いいろいろ言いたいことがあるのだった。 で、うさんくさそうな事件の真相に迫っていくとそれは相当にやばいヤマなのだった。 まんがみたいでおもしろかった。 シリーズ化してもぜんぜんいいわ。

ここまで見たら眠りに落ちて、目覚めてから残りの1時間くらいで『51  世界で一番小さく生まれたパンダ』ていうのを途中まで。 51gの肉の塊があんなにでっかくなるんだから、パンダってすごいねえー、とぼーっとしながら見てた。

地面に降りてから昨日の夜までで、映画3本みました。 仕事がつまんないんだもの。

8.28.2012

[log] August 28 2012

うううあっついよう。

これからシアトルに行ってきます。 ぜんぜん休暇じゃない。
こういう見学系の仕事は嫌なので、教室の隅でちいさくなっていたら引っかかってしまった。

シアトルかー、というわけで行きのNEXでSoundgardenをがんがん鳴らしてみたが、あっついばかりだった。

レコード屋行けるだろうか、というのが目下最大の。
映画はむりだろうなー

ではのちほど。

8.27.2012

[film] Ludwig- Requiem für einen jungfräulichen König (1972)

18日の土曜日に見ました。 
アテネの『ハンス・ユルゲン・ジーバーベルク ドイツ三部作』、ぜんぶ見たかったのだが、結局行けたのはこれだけ。
土日は限られてるし、平日17:00開始なんてぜんぜん無理だし。 もう一回どこかで-(祈)。

英語題は、"Ludwig - Requiem for a Virgin King"。

これらドイツ3部作をドイツ近代史のどこかにマップするなんておそれおおいことはもちろんできないし、映画いっぽんだけの感想にしかならないのですが。

これは王様のお話しで、王家というのは必ず没落する、他方で世の中はそれとは関係なく続いていくもので、要は主権者たる王がいなくなる・潰される、その出来事が民やお付きたちも含めてどういうかたちで転がっていったのかを明らかにすることで、そこにドイツ的ななんかが滲み出てくる(はず)、とか、そんな程度で。

荘厳なセットの光と闇のなかで、迫真の王朝ドラマが繰り広げられる、とかそういうもんではなくて、セットはぺらっとした書き割りで、でもそれなりにゴスでかっこよくて、そいつをバックに、ルードヴィヒがパトロンだったワーグナーのがんがん流れるなか、ころころ運命にもてあそばれていった王子の境遇が語られていく。 

ルードヴィヒは書き割りから浮きあがった存在感をもってそこにいるわけではなく、その端正な顔だちは完全に書き割りの、アートの一部として機能していて、つまりはでっかい紙芝居のように物語が進行していく。 浪曲のべべんべん、がワーグナーになって、ああかわいそうな王子の行く末やいかに~♪、べべん(ちょん)、とかが映画のスクリーン上で展開される。 
そうそう、浪曲ではなくてレクイエム、なのだし。 でも感情移入とか、そういうのができる余地は全くない。

紙芝居の語り手、書き割りひとつひとつのあいだの隙間(そこで省略されたもの、誇張されたもの)、といった要素はあるものの、多用されるクローズアップとか、登場人物の顔の造形や色味とかと共に、堂々とふてぶてしく、型破りな映画の貌をあらわしていて、つまり、紙芝居というよりは、やっぱり映画、それも音楽ががんがん鳴り続ける映画としてすんごくおもしろいとおもった。 
実験映画、のように見て見れないことはないけど、そんなことしなくたって。

(たぶん、なんとなく)ナードで変態でしょうもなかったルードヴィヒの生涯を、例えばアメリカ人のSofia CoppolaがMarie Antoinetteを思い入れたっぷりに描いたのとは全然ちがう形で、70年代のドイツ人が自分ちの墓を暴くかのような大仰な身振り、大真面目さでもって描く、その揺るぎなさ、そこにドイツ人の歴史(的なもの)、過去に対する目線をじっとりと感じることができる。
このじっとり、ねっとりとした目線は、ファスビンダーあたりにもあるような気がするのだが、ファスビンダーは「ドイツ三部作」のような大風呂敷には向かわなかったような。 
でも、どっちも見れば見るほどおもしろいんだよね。

Ingrid Cavenが出てて、あとはエンドクレジットで気がついたのだがDaniel Schmidが出ている。
Daniel Schmidへの影響はあったのだろうなー。

あと、Derek Jarmanへの線、というのはあったのかしら?
(Daniel SchmidとDerek Jarmanはひとつ違いなのね)

[film] 日本解放戦線 三里塚の夏 (1968)

17日金曜日の午後、暑さでへろへろになったまま、這うように六本木から渋谷に移動して見ました。
『小川プロダクション『三里塚の夏』を観る 上映+特別シンポジウム』。
王国における支配層と民衆のありようを改めて考えねばなるまい、と『メリダ…』を見て思ったので慌てて駆けこんだの。 うそだけど。

小川紳介監督の没後20年、映画が撮られてから44年目の夏に。
既に何回か見ているのだが、やっぱし変な映画だと思った。

最初のほうは、ごちゃごちゃしていてなにがなんだかわからない。 誰かが怒鳴っている声も日本語の言葉として入ってこない、カメラ(マン)も含めて、突然混沌とした異様な世界に投げ込れてしまったような困惑感が画面にありありと出てしまう。

上映後のシンポジウムでも語られていたのだが、68年の2月に小川プロが現場に入った当時は闘争を撮る、ということがどういうことか解っていなかった、と。 それが現地で農民の人たちの話を聞き、一緒に暮らしていくにつれて、闘争に参加するという意識の目覚めとともにカメラが「廻りだした」のだという。

というわけで、これは闘争を記録する、という目的とか意志のもとに撮られた映像、というよりは国際空港建設という国家案件の執行を前に、農地を失いつつある農家と権力闘争大好き学生達と機動隊と警察が泥沼の闘いを繰り広げる只中に身を投じてみて、その様を(とりあえず)撮ってみる、そんなもんだったように見える。 (とりあえず)権力側ではない立ち位置でカメラを廻してみよう、と。

はじめは学生組の作戦会議のようなところにカメラを置いて、彼らがなにをやろうとしているのかを追ってみたりするのだが、何度かのぐじゃぐじゃの闘いを経て、カメラははっきりと農民の側に寄っていく。彼らの発する声の毅然とした強さ正しさに導かれ、やがてそれは撮っている自分たちのカメラマンが逮捕されるに及んで、はっきりとした自身の怒りの声として農民たちのそれと同調し、立ち上がってくる。
その声を獲得したとき、カメラは記録を収めるメディアではなく、(複数の)怒りとその成り立ちを明確に伝える - 40年以上後の世界の我々にも伝える - 道具として、フィルムはその声帯として、こっちに飛んでくるのである。 投石や放水とおなじ強さでもって。

こんなふうに、闘争そのものの行方に加えて、撮っている人たちの意識が変わっていくプロセスと、その変化が画面の上に曝されてしまう面白さがあるのね。 撮る側に迫るだけではなく、撮る側と撮られる側の間にあるなにかが見えてくる地点まで自身のカメラをおろしていくこと。
最近だと『なみのおと』にこれと同じような注意深さ・慎ましさを感じた。

それと闘争の合間に映し出されるごく普通の、われわれがよく知っている昔の農村の、夏の風景 - 宮﨑駿がわざとらしく描いてきた - これらが今どうなっているのか、なんでこんなんなっちゃったのか、こうなることはわかっていたのか、等々について、しみじみ考えさせる力をラストの空撮映像は持っている。  出張で空港に向かうたびに思うのだが、とにかく、ぜったい忘れないようにね、ということをこの映像は訴えてくるの。 

このへんが、シンポジウムでも言われていた、「きれいに撮れてはいるけどぜんぜん訴えかけてこない最近のドキュメンタリー」の話にも繋がると思うのだが、この映画は、68年の夏に何が起こったのか、絶対に忘れるんじゃない、となりふり構わず訴える、その強く猛々しい身振りにおいて、パンクなんだわ、とおもった。

8.25.2012

[film] Brave (2012)

前の晩の激情がこたえたので、17日の金曜日は午後半した。 お盆なんだからこれくらいよいじゃろ。
で、六本木に出てみたら暑くて更に死にそうになったので、映画館に緊急退避して、見ました。
前の晩の毒抜きみたいのを求めていたのかもしれぬ。

『メリダとおそろしの森』ですが、この邦題はなあ… おそろしなのは森ではなくて母と父なの。
NYに出てたビルボードにはメリダが弓を構える背後に"Brave"とだけあって、かっこよかったのに、こっちのタイトルだとまんまと去勢されちゃってるかんじ。

おまけ短編2本のうちの1本、"La Luna"がよかった。
そのままDreamWorksのトレードマークになったらおもしろいのに、とか。 あの星屑をかりかり食べればいいのに、とか。

メリダのは、クオリティとかそういうの(どうでもいいけど)でいうと、ぜんぜん見事だしおもしろいしあっという間に終ってしまった。

ただ、森にしても母にしても父にしても、みんなが幸せに暮らす王国にしても、海を渡ってやってくる隣国にしても、熊への変容にしても、鬼火にしても、どれもあまりにふつーの象徴としてばりばりに機能しちゃってて、でも子供にはそんなもんでいいのか。 親殺し、子離れ、というテーマがもうちょっとくっきり出てもよかったかも、とか。 "Brave"なんだからさ。

なので、風と馬の背で揺れるメリダの赤毛とか、引き裂かれたタペストリーの質感、そういうとこだけぼーっと見ていました。 それだけで十分だったの。

あとは、あの3匹の小熊ね。ほんとはサーカス団にさらわれて、それを狙って伝説の大狼と謎の流浪女剣士赤ずきんが死闘を演じる、というのが"Brave2"の筋書きだったはずなのだが、戻っちゃったね…  戻んなくてよかったのに。

[film] 37°2 le Matin (1986)

ぜんぜん書く時間がないので、とってもいらいらする。

16日の木曜日の晩に見ました。 お盆だし、終戦記念日も過ぎたし、そろそろ見ておくか、と。 肝だめしで。 <製作25周年記念 デジタル・リマスター版> 『ベティ・ブルー/愛と激情の日々』、『日本では見ることが困難だった“オリジナル版”』だそうな。 でもボカシたっぷりだから「日本」「オリジナル」、だよね(嫌味)。

公開時にこの作品は見ていなくて、はじめて見た。 当時、結構いろんなひとに「見た?」と聞かれて、それらは「見てどう思ったか言え」というふうに聞こえたので、これは罠かなんかかも、と思って見に行かなかったのだった。 同じように、リュック・ベンソンの映画というのも、実は見たことがない。

『愛と激情の日々』、であるからして、ものすごいでろでろのげろげろを想像していったのだが、そんなでもなかった。
画面はきれいだし、Béatrice Dalleのすきっ歯もチャーミングだし、今だったら変なテイストのソフトポルノと言ってしまえばそのまま通用しないこともない。

でもそれでも、趣味とか嗜好みたいなとこでばっさりしてしまうのはよくないことはわかっていても、この世界に生きるんだったらまだゾンビに噛み殺されるような世界のがましだ、とか思ってしまった。

目ん玉をくりぬいてしまうほどの激情をドライブしているのが「愛」なんだとしたら、自分はそんな「愛」を知らずに生きてきたのだなあ、と思った。 し、別にそれがなんなのよ、なのだった。

80年代の前半には、愛なんてばっかみたいー、というふぬけた視線が確かにあって、それがひとを愛してなにがわるいのよ! 愛は勝つのよ! みたいなうっとおしいモードに変わってきたのがこの頃、80年代後半くらいからだったの、たしか。

当時この映画すごく好き、って言っていた人たちって、その後幸せになったのだろうか? なったんだろうなー。 だってそのほうがぜったい世渡り的には有利だろうしなー。 いいなー(棒読み)。

どうでもいいけど、これ、生活の苦労しなくていいからありえた世界だよね。楽しくペンキ塗りして、友達のとこに居候して、ピアノ屋を任されて、住むとことお金にあんま苦労しないが故にしっかりと「激情」も醸成できたのではないか、とか。 

肝だめしにはなったかもしれないが、ものすごくぐったりして、いろんなこと思いだして、さらにどんよりしたの。

8.21.2012

[film] Un Été Brûlant (2011)

12日、姫君が海を渡った後、うだるような渋谷を渡って坂をのぼって、イメージフォーラムで見ました。 
『灼熱の肌』。 英語題は"A Burning Hot Summer"。 色付きだし、夏の映画だねえ。

ネタバレせずに書くことはできない映画なので書きますけど、主人公の画家のフレデリック(Louis Garrel)は冒頭で車ごと木に激突して自殺しちゃうの。 死んじゃったフレデリックの生前を、友人で俳優のポールが語っていく。 それだけなの。

見どころはみっつくらい。 いや、ぜんぶおもしろいけど。

冒頭ですっぱだかのMonica Bellucciが青いシーツの上に横たわっているとこと、みんなでDirty Pretty Thingsの"Truth Begins"(こんないい曲あるんだ!)に合わせてぐるぐる踊るとこと、主人公のおじいちゃんのMaurice Garrel(これが遺作…)が死の床にある孫に語りかけるとこ。

最初のMonica Bellucciのシーンにはすさまじい重力が渦巻いていて、これはこないだの『愛の残像』の最後のほうでLaura Smetが鏡の向こう側に現れたのと同じ強さでもって、主人公をあちら側に引っ張るの。

みんなで踊るとこは、ガレルのいくつかの映画では定番なのであるが、ほんとに惚れ惚れする。
アメリカ映画のダンスとは明らかに違うんだよねー。
群舞、ってかんじというか、踊ってみたいのはフランスのほうかなあ。

最後のMaurice Garrelのシーンはほんとにすごい。
主人公のフレデリックにとっても祖父の役でコミュニストのレジスタンスだった、という設定で、既に亡くなっているのだが、瀕死のフレデリックの枕元に現れて、快活に彼に語りかける。
戦争で死にそうになったけど、生死の境目なんていいかげんなもんじゃよ、と。 
でもおじいちゃん、ぼくは愛を失ったんだよ、もう死ぬしかないよね? と問うとおじいちゃんは、ああそうじゃな、ていうの。それならしょうがない、と。
役として言っているだけではなくて、この後しばらくしてMaurice Garrelは本当に死んじゃったのだから、間違いなく孫に向けての遺言でもあった、のかもしれない。 
祖父と孫の間に挟まってそれを撮っている父 Philippe Garrelもあわせて、なんなのこの一族…

『愛の残像』は、死んでしまった彼女の側に引っ張られるはなしで、『灼熱の肌』は、生を持っていってしまった彼女に叩き落とされるはなしだった。 どっちにしても待っているのは死。
Garrelにとって、愛は生きるためにあるのではなく、死ぬためにあるものなの。

なぜなら彼の愛する女たちはもうみんな死んじゃってむこう側にいるのだし、でも、彼女たちはフィルムのなかではずっと生きているものだから。だから。
彼の言っていることが間違っているとはどうしても思えない。

ちょうど対になっているような『愛の残像』と『灼熱の肌』であるが、前者の主人公は光を内に取りこむ写真家であり、後者のは色と形を自分でねじくりだす画家であるという、その違いはなんかあるんだろうな。 たぶん。

ふたつの映画のどっちが好きかでたぶんそのひとの恋愛観みたいのもくっきり出るのだろう。 
わたしはやっぱし、Monica Bellucciさんのが(重量として)すごいとおもうので、こっちかも。
とか、Garrelの映画って、こむずかしく見る人が多いように思うのだが、もっと軽く見ておしゃべりしたってよいのではないかしらー。

あと、音楽はJohn Caleさんで、どことなく不安定に、死体のように折り重なっていくピアノがすばらしかった。

[film] The Princess Comes Across (1936)

12日、日曜日の昼間に見ました。 『姫君海を渡る』
もう暑さで死にそうに消耗してて、映画館と本屋とレコード屋しか逃げ場がない。

ヨーロッパからNYに向けて船出しようとしている客船にスウェーデンのお姫さまとその御つきがばたばたと乗りこんでくる。ハリウッドで女優として成功したいのだとか言ってる。好きな男優は「ミッキーモウス」だって。
他にはヨーロッパでそれなりに成功して、NYのRadio Cityで凱旋公演をしようというコンサティーナ奏者とかもいる。 凶悪犯とか密航者とか、変なのもいる。

で、お姫さまの背後に怪しげな影が...と思ったら殺人事件が起こって、同じ船に乗り合わせていた各国の名探偵(ぽい人たち、日本人もいる)などにより捜査線が引かれて、謎解きがはじまるの。 果たして犯人は? 姫の身に危険は? とかそんなかんじよ。

そんなにぴりぴりしたミステリーではなくて、ぼよーんと捕らえどころのないお姫さまとその周囲の胡散臭くてきなくさい人間模様を楽しんでいるだけであっという間、ロマンスだってあるし、気がついたら犯人捕まってた、みたいな楽しい船旅映画なの。

お姫さまのCarole Lombardがとにかく(いつものことなんだが)すんばらしくて、この人の得体のしれない、定住しない- 旅がらすみたいな軽さ・あけっぴろげな明るさってなんなんだろう、て思うのと、相手役のFred MacMurray(役名はKing、なんだよ)との相性もよくて、このふたりはそういえば、"Swing High, Swing Low" (1937) - 『スイング』(『映画史上の名作5』でかかった) - でも共演してて、あれも船から始まる住処の定まらない男女のかるーい恋物語で、彼のほうはトランペット奏者だったねえ、とか。

ほんとに元気になれる映画って、Carole LombardのとErnst Lubitschのを言うのだと思うわ。

8.19.2012

[film] Take This Waltz (2011)

シネマヴェーラで"The Shop Around the Corner"のあと、そのままBunkamuraに横滑りして見ました。 "A Letter to Three Wives"見て、"The Shop Around the Corner"見て、これ見たら恋愛経験値(机上)は相当アップするはずなのだが、周りはどろどろにあっついばかりでどうなるもんでもなし。(では、どうしたいのか)

Michelle WilliamsとSeth Rogenが結婚して5年になる夫婦で、夫はチキン料理(カチャトーレ!)のレシピ研究家で妻は旅行ガイドのライターとかしてて、そこそこ仲良しだし不幸でもないし不満もない、でも彼女のほうはなんか疲れてどんよりしている。 怖くなることを考えるのが怖いのだ、という。

仕事先で知り合った若者と帰りの飛行機で一緒になり、更に家も通りを挟んで斜め反対側であることがわかる。
そんな偶然の出会いにときめいて、人力車の車夫をしながら絵を描いている真面目な若者に彼女がだんだんに惹かれていって、というような簡単なお話し、であるわけがない。

平穏な日々の皮いちまい向こうでがたがたに崩れていく世界とそれをなんとか修復すべく悶々としつつ、川の向こう側に懸命にジャンプしようとする。 80歳になったときに向けて彼が用意していたジョークも30年後の待ち合わせ約束もぜんぶすっとばして、それでも彼女はワルツを、と差し出された手を自分のものにしようとする。 世界が崩れて落ちていくのをどうすることもできない、同じように自分が飛びおりることを止めることもできない。 生き急ぐ、というのでもなく、幸せになりたい、というのとも違う。

安易な共感や救いを求められるような場所に、彼女はいない。
これを解決できるのは彼女だけで、そこには彼女ひとりしかいない。
Sarah Polleyの前作、"Away from Her" (2006)もおなじような声が聞こえてくる作品だった。

"Let Go" と。 

この声の前で、男達は黙るしかない。 Julie Christieの青い瞳、Michelle Williamsの仏頂面を前にして、他になにができるだろうか。

最後、彼女の旅は続いていくことが示されて、それはそのままぐるっと最初のシーンに繋がってくる。 ワルツが一回転する。でもそれは同じことの繰り返し、とは違う。

"Away from Her"は、Neil Youngの映画だったが、今回は言うまでもなくLeonard Cohenの映画。
あとは、Bugglesの"Video Killed the Radio Star"が、しっかりと2回流れる。 この2回めこそが。

しかしなあ、"Take This Waltz"に合わせて画面がぐるうっと回っていく一番大切なシーンでなんでボカシを入れるかなあ。 全員でシャワー浴びるとこはまるだしOKで、抜き差し(推測)するとこはダメだという、その考えかたがまーったくわからない。 わかりたくもない。

Michelle Williamsはしみじみすごいねえ。これの後にMarilyn Monroeやって、この次は"Oz: The Great and Powerful"(監督は Sam Raimi!)でGlindaだよ。
でも、Meryl Streep的な化け芸とはちょっと違うかんじなのよね。

唯一、気にくわないとこがあるとすれば、Seth Rogenがあまりに良いひとすぎることだ。 場合によってはかっこよく見えてしまったりするので居心地がわるい。
"50/50"でもよい友達すぎるのが気になったが、こんなんでいいのか、こいつはそんな奴じゃないんだ、と。 彼に恨みがあるわけでもなんでもないのだが、なんかね、ちがうのよね。(てみんな言っているはず)

画面全体の薄い黄色緑色系のトーンも素敵。 "Away from Her"だと雪の白さがまず浮かぶように、こういう頑固さは、なんかいいなー。

ふたりが一緒に見にいく映画が"Mon Oncle Antoine" (1971)だった。 いいなー。(そんなのばっか)

[film] The Shop Around the Corner (1940)

シネマヴェーラに逃げこむ(しかない)夏の日々は続く。 11日の土曜日の昼間に見ました。

最初に見たのが"Zamba" (1949)っていうやつで、母と子 - 6歳くらいのガキ - がアフリカ上空を飛行機で飛んでいたら突然そいつが故障してパラシュートで降下するのだが、母と子はジャングルで離ればなれになって、子のほうは落っこちたショックで記憶を失ってZampa - ゴリラのでっかいみたいなやつ - に世話になるの。 母のほうは現地で働いている妹の助けとかも借りつつ(でも水浴びとかして優雅に遊んでる)、子供を探しに出て、Zambaにも遭遇して、というお話しなの。
高慢ちきな白人至上主義がこれでもかと滲み出てくるなかなかのあれで、母親もガキも相当やなやつらなので、そんなガキにこき使われて捨てられるZambaがかわいそうでしょうがない。 よかったのは動物がいっぱい出てくることくらい。

さて、個人的には今回の特集の目玉のひとつだった"The Shop Around the Corner"。
最初に見たのは80年代の日比谷映画(たしか)かあの辺でリバイバル上映されたときで、このときの邦題は『桃色の店』だったか『街角』だったか。
すでにルビッチの映画は『生きるべきか死ぬべきか』で知ってて、で、ルビッチおそるべし、を改めて決定づけてくれた1本で、米国に行ったときもVHSで出ていたやつをすぐ買って何度もみた。

ブダペストの町の一角のギフトショップで家族のように働いている店員仲間に新人Klara (Margaret Sullavan)が加わって、番頭格のAlfred(James Stewart)と彼女はお互い犬猿の仲になるのだが、ふたりともそれぞれ自分にとってパーフェクトな文通相手がいて、どっちも彼 - 彼女に比べたらあんたなんか、あんたなんか、 わなわな - ぷん! てなるの。 そっから先はいいよね。

職場の人間関係あれこれとふたりの間のつんつんが、大きな事件や出来事を介することなく、オセロゲームのようにぱたぱたと反転していって最後に真っ白なクリスマスになだれこんでいく、それはほんとにホワイトクリスマスの魔法みたいに見えて、でもこれって魔法じゃないんだよ、って映画はいうの。

ふたりが最初にカフェで接近・交錯するシーンの窓越しのどきどきはらはらなんか、ほんとに素敵なんだよ。 この瑞々しさ、こんなのが防腐剤不要で70年以上前からあったなんてしんじらんない。
ソーシャルメディアうんたらとは関係なしにしといて、とりあえずいい。

キリンみたいにひょろっとチャーミングなJames Stewartがすばらしくよくて、わたしにとってのJames Stewartはここが基準線なので、この後の西部劇とかの彼はあんまこないの。

"You've Got Mail" (1998)もさあ、この映画のリメイクとか言わなければあんなに貶されることもなかったろうに、とか。 

8.18.2012

[film] A Letter to Three Wives (1949)

8日の晩、2本立ての2本目。 『三人の妻への手紙』
これも何回か見ていて、でも何度でも見たいすてきな映画なの。
先月亡くなられたCeleste Holmさん(Addieの声のひと)の追悼でもあるの。

元の原作は5人の妻への手紙で、映画化の段階で4人の妻になって、長過ぎるから、と最終的に3人になったのだと。

NYのアッパーステイト(明確には語られないが、どうみても)で、ハイソで満ち足りた生活を送る妻友3人組が地元の子供会の付き添いでそろって遠出しようとしたとこに、Addieから手紙が届いて「あなた達の夫のひとりと今晩駆け落ちするわ」て言うの。

Addieは美人でおしゃれで頭がよくて気もきいてて、3人にとっても憧れの(かつちょっと妬ましい)存在なのだが、そんな彼女に突然そんなこと言われて「そんなバカな、うちに限って」と思うのだが、朝の夫の挙動とかを思い起こすと、あれ? そういえば… ひょっとしたら… とかみんな思いはじめる。

で、3人はそれぞれ遠出先でぼーっとしながら、そういえばあんなこともこんなこともあったしなー、と回想の渦に巻き込まれていく。

回想されるエピソードでは、一見うまくいっているように見える夫婦関係も実はそんなでもない、とか、夫もAddieのことは大好きみたいだし、でもそんなの制御できないし、とか当たり前のことが妻の側からぶつぶつ出てくるのだが、だからといってどうなるもんでもない。

さて、Addieが最後に連れていっちゃったのは ... 

とにかくー、いちいちの会話がとんでもなく洗練されててかっこよくてドラマみたいで(ドラマだけど)、でもドラマ的な、劇的な展開を巧妙に避けて、登場人物の考えかたとか輪郭を、最後まで姿を現さないAddieの影を通して浮かび上がらせることにのみ注力している。 うまいなー、って。
これ見ちゃうと、世にある結婚・夫婦ドラマの会話のほとんどがジャンクな陳腐な湿疹ものに見えてしょうがなくなるの。

でも、あのラストは、なんかあれじゃわかんないじゃん?  ていつ見ても思うの。
んで、そこもまた粋なんだよねえ。

[film] High Noon (1952)

8日の水曜日の晩、シネマヴェーラでみました。 『真昼の決闘』
米国の定期上映館の西部劇特集なんかではぜったい必ずかかるし、西部劇はどれも同じようなタイトルなのであんま気にしないで見てしまうのだが、そうすると知らないうちに2回とか3回とか見ていることになるやつ。 これも映画はじまってから、あーこれね、だった。

どっかの西部の町のある一日の、午前10時半くらいから正午くらいまでの1時間半を85分で。
この1時間半の間に、主人公は、結婚式あげて退職して村八分にされて新婦も出ていって仲間にもいじめられて孤立して出所してきた悪党を返り討ちで4人殺して、また一緒になって最後に旅立っていく、というジェットコースター映画なの。

ふつうのひとにこんなのが将棋倒しでやってきたらきーってなって発狂するに違いないし、新婦のGrace Kellyもなんで昔の敵が出所してくるからってあんたが相手しなきゃいけないの?ほっとけばいいじゃない、て呆れて出ていっちゃうのだが、Gary Cooperがあまりに堂々と動作もゆったりしてて揺るがないもんだから、つまんなくなってぷーって戻ってくるの。 かっこいいの。

この映画の時点でGary Cooperは50過ぎてて、Grace Kellyは20代前半。
ありえない。まねできない。

"Adieu Gary" (2008) でも、ぼんくらの憧れの象徴のようなかたちで引用されていたねえ。

でも、どうやったらGary Cooperみたいになれるのか、ちっともわからないの。
あの町のあの日射しとか列車とか、壁にかかった時計が刻む時間もぜんぶ込みで、宇宙の果てにぽっかり浮いているとしか思えない、そんなへんな映画でもあるの。

8.17.2012

[film] Friend of the Night (2005)

"...Oz"が終わったのが9:05、大慌てで階段を駆け降りて『濱口竜介レトロスペクティブ』でみました。 短いやつ3本とトーク。

最初の『はじまり』(2005) がはじまるところだった。

13分の短編で、女の子がどどいつみたいの(おもしろい!)をえんえんうなっている長回し。 そこに同級生の男の子が入ってきて少し会話をして離れる。
女の子はそのままトンネルに入って、出てくると時間が変わってて、男の子がこんどは2人きて少しおしゃべりして、男の子Aは突然だーっと走って行っちゃって、男の子Bも同様に(Aを追いかけるように)走って行っちゃって、カメラは残った女の子のきっとした顔を正面からとらえて、そこにざらんーとした電気ギターが被さってくる。 
これが『はじまり』のはじまりで、おおお! かっこいいー! て唸るの。

"Friend of the Night" (2005)   44分。

音楽イベント用に怖い映画を、ということで依頼されて作ったものだと。

怖い話を書こうとして書けない作家の男がいて、その彼女がいて、だれかの披露宴の帰りに昔の女友達がじゃあ怖い話でも、と話をはじめるの。

その怖い話の語りがほとんどで、語りの中味(それなりにこわい)と、それを聞く男と女、その姪の女の子の交錯する視線と表情、黒目と白目、部屋あちこちの半端な暗がり、こういうのがじわじわと耳とか鼻を塞いでいくようで、ぬるいタオルで顔面を覆われていくようで、そこに意味不明の、つんざき型の女の子の絶叫がー。 
血もないし、傷もないし、でもどこがこわいんだかよくわからないところがこわい、というケースの典型。 でもすごくおもしろい。 入れ子になった箱の、ただそこにあるだけの不気味さ、というか。

しかし音楽イベントではライブ前にこれの前半を、ライブ後にこれの後半を上映したのだという。
… うまくイメージできない。

"Nice View Second Edition" (2005/2010)  39分。

『アブラクサスの祭』の加藤直輝による大学のころの実習作品で、与えられたテーマは“戦時下の日常”、でしたと。

横浜のみなとみらい(Nice Viewなみらい)で同棲しているカップル、バンドしたり漫画書いたりデートしたりの平穏でからからした日常に唐突に現れるギロチン、秘密警察、そしてギターノイズ。
あー、『アブラクサス…』の轟音は既にこのころからのなのか、どうりで腰が据わっていたわけだ、と思って、上映後のトークを聞いて、更にそういうことかと。

否応なしに日常に入り込んできて、ひとそれぞれに適応せざるを得ない、そういうリアクションを引き起こすノイズ、そういう形でしか(たぶん)ありえない現代のあれこれ(をいかにして映像に - 云々)。 アサイヤスによるホラーの定義と近いものがあるが、この映画の場合は、戦時がノイズなのか、日常がノイズなのか、とか。

[film] The Wizard of Oz (1939)

7日の火曜日の晩、あまりにぼろぼろのぐさぐさでしょうもなくて、シネマヴェーラに行きました。
暑いし、だるいし、オリンピックは終んない(もう終った。終ってよかった)し、なにひとついいことがない。

『オズの魔法使い』。Judyの歌声にのって虹の彼方に飛ばされちまいたいかんじ。
久々に見た気がしたが、これはこれで相当へんなやつだった。 これ見て元気になれる子がいるとはあんま思えないかも。
 
あのときあんなことさえしなければ、という後悔が転がっていく先とその決着が、あまりにてきとーに、天才バカボン的に「これでいいのだ」で結ばって落着してしまうので、なかなかびっくりする。
なんで案山子にブリキ男にライオンなのか、とか、なんで悪い魔女は水かけたら消えちゃうのとか、頭からっぽなやつに紙一枚渡してPh.Dとか、臆病なやつに勲章あげたら強くなるとか、魔法使いは操りのペテンだったとか、なんの説明もないし、とてつもなくいいかげんで無責任な気がする。

もちろん全ての夢は、夢から醒めるというのはそういう「あれはなんだったんだ?」感と共にあるのであろうが、この映画のそれはなんかひどく強引で、あの夢のなかに留まっていたい、というのと、あんな夢から醒めてよかった、というのを同時に実現させようとしたせいか、どちらにも突き抜けることができないままどんよりしてしまうような。

大人になるというのは、そのどんよりを抱えて生きていくことなのかもしれないが、こういう映画でそういうことをあんま意識したくない。
もちろん、ぜんたいとしてはハッピーエンドで終わるのであるが、ドロシーはほんとうに幸せだったのかしら、とか。

歌うたえばとりあえず幸せ、というのがミュージカルなのであるが、この映画では最初のほうの"Over the Rainbow"が全てで、結局虹の彼方まで届くことはできなかった、というとこも含めて、あんまし弾けていないの。

でも、きらいじゃないけど。 "The Dark Side of the Moon"とのシンクロ版もすてきだし。

IMDBによると、ドロシーの外見を決めたのはGeorge Cukorだったという。すごいなあ、なんか。

この後は『オーケストラの少女』だったのだが、吹き替えということだったのでやめて、2階にばたばたと降りたの。

8.12.2012

[film] なみのおと (2011)

5日の晩、シネマヴェーラで『モーガンズ・クリークの奇跡』のあと、フロアをふたつ駆けおりて、オーディトリウム渋谷の「濱口竜介 レトロスペクティヴ」で見ました。
この特集、見たいのだらけなのだが、21時開始というのがねえ、時間はだいじょうぶでも体力的にきついのよね、この季節は。

Preston Sturgesにぜんぜん負けてない、奇跡のような映画でしたわ。

酒井耕との共同監督作品で、東日本大震災の被災者の証言を集めたドキュメンタリー。142分。
あくまでもメインはインタビュイーの語りであって、被害状況や被災状況の悲惨さは一切画面に出てこない。 唯一、最初に登場するおばあさんが子供の頃に体験した昭和三陸地震の津波を紙芝居で語るところがイントロダクションのようなかたちで機能する。
 
つまり、今回の津波も地域では老人達から聞かされていた話しで、突然襲ってきた全く未知の災害ではなかった。それでも、それが実際に起こると、みんな家族を捨てて「てんでんこ」で逃げるしかないものだった、と。

監督のふたりは車で北から南へ(撮影はその順番ではなかったらしいが)海沿いを走り、全部で8組の被災者達を記録していった。記録作業は各組約3時間程かけて、この映画ではそのうち6組分の語りが編集されている。 この記録作業は仙台を拠点に現在も続けられていて、今回出てこなかった2組の語りも今後別のかたちで世に出る可能性はあると。(続編は『なみのこえ』だという - )

出てきたのは最初に老姉妹ふたり、消防団の3人、大切な親友を失ったおばさん、市会議員のおじさん、津波で家ごと内陸まで流されていった夫婦ふたり、まだ若い姉妹ふたり。
真ん中の2組は個人で、これに対面するのはインタビュアー(監督のひとりひとり)で、それ以外はお互いが向い合って語り合うかたちを取る。 この切り返しがこちらの真正面を貫いてくるのでちょっと不思議な、こう言ってよいのかどうかわからないが - 心地よさをうむ(技術的にどうやったのかはいろんなところに出ているのでそちらを)。

少なくとも映画のなかの語りを聞く限りだと、編集は最小限、というか各組約20分で語られる内容はひとつのブロックとして切り出されて澱みなく流れて、そこに作為は感じられなかった。

彼らの豊かな、力強い語りを通して、(彼らと実際出会って対話したかのように)見たひとひとりひとりがいろんなことを感じ考えるはずで、だから、見て、考えてくださいとしか言いようがないのだが、映画としてはっきりと語りかけてくることがいくつかあるように思ったの。

出てくる誰もが悲惨だったあの日のことを語りつつ、この体験はあなたには想像もつかないしわかってもらえないだろう、或いは、あれがどんなに辛かったか、辛いものか想像してほしい、というようなべたべたした態度を取ろうとはしない。あの日起こったことは自分にとってどういうことだったのか、それを通過して生きている今の自分ができることはなんなのか、を自分で考えて、自分の言葉でなんとか伝えようとしている。 あれは、理解不能な、共有不能な出来事ではないように思うのだがどうか、と。

あたりまえの話しだが、「津波てんでんこ」で逃げのびた彼らの経験はひとりひとり全く異なるものだ。そこに「被災者」というラベルを貼ってその物語を特殊ケース扱いしてしまう危うさを示す。 この映画は、そうではないかたちで残せる記録のありよう、を模索し、それに成功していると思う。

そして、各自が個別の経験を語っているのに、そこに映画作品としての纏まりをもたらすものがあるのだとしたら、それがタイトルの「なみのおと」で。
こういうことが起こってしまう土地に、それでも住もうと思うのか、それは何故か、と問われて自分も家族もずっと「なみのおと」が聞こえる場所で生きてきた。それがない場所で生活することがどういうことかわからないのでここに残る、他にはいかない、というようなことを言う。

圧倒的な「なみのちから」によって生活の大部を失ったにも関わらず、それでも「なみのおと」と共に生きようとする(生きようとしてきた)人々の意志と力、そして知恵。
(大学のときに少しだけ勉強した水俣 - 不知火のことも思いだす)
この声をきちんと聞くことなしに「復興」とか「311以降」なんて軽々しく口にすべきではないの。

という具合に、いくらでもいろんなことを考えてしまうのであるが、それはやはりそれぞれの語りがほんとうに豊かで感動的で、おもしろいからなの。 特に最後から2番目の夫婦のお話と、最後の姉妹のお話、なんてしっかりした、落ち着いた目線なんだろう、とあきれてしまう。(自分にはぜったいできない)

(ひょっとしたらどこかにあるのかも、だけど)911の後にも、こういうドキュメンタリーは撮られるべきだったのではないか、とか。

ロカルノ映画祭での上映後の反応はどうだったのだろうか。
世界中のひとに見てほしいんですけど --

8.11.2012

[film] The Miracle of Morgan's Creek (1944)

4日の土曜日は銚子にお墓掃除&まいりに行って晩はそのまま花火大会だった。
あんず飴は2本。 あんず飴への渇望が年々薄れていくような気がしてかなしい。

で、戻ってきた5日の夕方にシネマヴェーラで見ました。『モーガンズ・クリークの奇跡』

こないだの"The Lady Eve" (1941)に続くこの特集ふたつ目のPreston Sturgesもの。
"The Lady Eve"がひとりの蛇女詐欺師による割とシンプルな(いや、そうでもないか)ぐるぐる巻き込みで展開していくのに対して、こっちは相当ぐじゃぐじゃでなんだか目がまわる。 なんでこんなに目がまわるのかもよくわからないまま、事態がえらいスピードで世界規模で(ヒトラーやムッソリーニも巻きこんで)転がっていく。

Trudy (Betty Hutton)は、小さな町のどこにでもいる元気な娘さんで、戦争に出ていく軍人さん達のパーティーに行って大はしゃぎして天井のライトに頭ぶつけた挙げ句に記憶なくして朝帰りしたら薬指に指輪しててあたしなんか結婚ちゃったかも、たぶん、とかいう。

Trudyの幼馴染みのNorval (Eddie Bracken)は、軍隊にも入れないひ弱で真面目な銀行員さんで、彼女が困っているのを見ていられなくて助けてあげようとするのだが、そのうち彼女が妊娠していることを知って驚愕、そんなのばれたら彼女のパパに殺されるからとにかくなんとかしないと、とかあわあわしてあれこれやればやるほど事態は手がつけられない方に行ってしまう。

で、最後にはもちろん奇跡が訪れてしまうのであきれて笑うしかない。
"The Lady Eve"はアクロバットだったが、こっちは奇跡で、しかもどこを指して奇跡と言っているのかわからないところが奇跡的という--。

まあ、あれだよね、ほんとうの驚異はたった一晩で6つ子の種を命中さして戦争に行っちゃったラツキワツキーのやろうだよね。

Eddie Brackenさんはこのあと、子供がとっても好きになって"Home Alone 2: Lost in New York" (1992)では、おもちゃ屋のおじいさんになるんだよ。

今日みた『桃色の店』もクリスマスだったので、今は強烈に"Christmas in July" (1940)を見たいんですけど。

8.10.2012

[film] ドキュメント灰野敬二 (2012)

31日の火曜日の夜、FRF2012の残り香、最後の頼みの綱だったM.Wardのご招待ライブに外れてしまったので、その傷を癒すべく別の音楽(映画)に向かったのだった。

前の晩は明るく爽やかな青春を描いた『ヤング・ゼネレーション』だったのに、と少しだけ思ったがこれだってそんなふうに見ようと思えば思える。 よ。 

すばらしく面白かった。
ものすごく奇矯な思想をもって変態な生活を送っている孤高の特異ミュージシャンの全貌を暴く、ようなものでは勿論なくて、音楽創作に一生を捧げる - それも極めてまっとうで誠実なかたちで - 彼の言葉と行動、その作品を丁寧にたどっていくものでした。

不失者のライブに初めて触れたのはたぶん94か95年くらいのNew York、Knitting FactoryのHoustonにあった旧小屋のほうで、最初はそれはそれはびっくりした。 煉瓦の塊みたいに固い音のでっかさに。 その後もThe Stoneとかで何度か通って、東京よかNYのほうが見た回数は多いかも。

彼の音楽を聴いていつも感じるのは、鼓膜が破れそうな轟音の嵐が吹きまくるのに妙に静的な、冷たい石に触れたときのような瞬間があるのと、聴いていてぜんぜん飽きない(気がする)のはなんでか、ということで、その理由が彼の語りを聞いて、彼のやりかたを見ているとなんとなくわかってくる。

彼が見かけ以上に饒舌なひとで、その言葉が理路整然としていることは別のドキュメンタリー"AA" (2006) で既にわかっていたのだが、このドキュメンタリーでは彼の生い立ちと複数のパフォーマンスのリハーサル風景を並列で追いながら、ふつうの親に育てられたふつうのよいこが、音楽に出会って音楽こそ自分が生涯かけて求めるものだ、と確信し、40年以上に渡るその捧げもの生活をふつうの会社員のそれのように追って揺るがない。 その揺るぎなさ、平坦さに安心したりする。 少なくともそこに怨とか呪とかアングラ的な閉塞感はない。 まったく。

彼がどれだけ真摯に音楽に没入しているかは、例えば、バンド名である「不失者」の由来を語るところなんかにはっきりと出ていて、ああすごいなー、とかしみじみするのだった。

あとはリハーサル風景のおもしろいこと。 彼はものすごく真面目に真剣に、やろうとしていることを共演者に伝えるのだが、向こうに伝わっているんだかいないんだかの微妙な空気感がはっきりと映ってしまう。 このおっさんなに言ってんだろ、て絶対だれかひとりは思っているはず。 カタカナの独特な - へんてこな記譜もおもしろすぎる。

これから音楽を志すひと、彼の音楽を聴いたことがないひとに是非見てほしい。
音楽を背負う生というのは、ノイズを作りだす、ノイズと共にある生とはこういうものなのだ、ということが平易な言葉、静かな表情と声でもって語られている。
こういう音楽映画、ありそうでないようなー。

彼の小さい頃の記憶で谷津遊園が出てきたのでなかなかうれしかった。
動物園もあったんだよなー。 秋になると菊人形展ていうのがあって、あれは人生で最初のわけわかんないアートだったかも。

[film] Breaking Away (1979)

30日の月曜の夕方、みゆき座の午前10時のなんとか、で見ました。
窓口で、「『ヤング・ゼネレーション』をいちまいください」という。

70年代末だろうと80年代だろうと90年代だろうと、青春ドラマはできる限り見ておきたくて、それってなぜなのか、と。 なにかを肯定したいのか否定したいのか。たぶん。
行ったこともないアメリカの田舎町の若者たちのドラマを見て、それを例えば懐かしいと感じる、例えば喪失感を覚える、それってなんなのか、どういうことなのか、をよく考える。 
これって「映画史上の名作」を見たり、クラシック・ロックの名盤を掘ったりするのとはぜんぜん違うし。
例えば90年代の、"Reality Bites"(1994)で言われていたような"Reality"って、当時はなんだったのか、今あれを我々はどう見るのか、とか。

Indianaの大学がある町、かつては石切場で栄えた町でずっと育ってきた4人の男の子(Dennis Christopher, Dennis Quaid, Daniel Stern, Jackie Earle Haley)の、それぞれのおはなし。
みんなひとりひとり、このあと町を出て就職するか、とか大学行くか、とか、近所の大学で楽しそうに過ごしている学生たちを横目で見ながら、それぞれのどんよりがあって、地元で育った彼らは大学生達からは"Cutters" (石切職人の子達だから)と呼ばれて蔑まれていて、更にもやもやしていく。 この時期に植えつけられたクラス感とか、境界のイメージって、決定的なものだよねえ、とか思いつつ。

自転車とイタリアにかぶれているDave(Dennis Christopher)と彼のパパとママのエピソードがメインで、最後は彼と仲間が"Cutters"チームとして地元の500マイルレースに出て、4人は必死になってがんばってレースに勝つの。 
仲間との幸せな時間があり、挫折があり、修復があり、復活があり、それから。 
季節は夏で、石切場跡の貯水池に飛びこむ。

Dennis Christopher以外もよくて、Dennis Quaidはとんがってぴちぴちだし、Daniel Sternはこの頃からみんなにぼこぼこにされるキャラだし、Jackie Earle Haleyは、まだ子供なのにすでにささくれはじめていて、この顔がやがてFreddyとかRorschachに変容していくのだなあ、とか。

あとはパパ(Paul Dooley!)とママがなんかいいのよね。 ママが涙浮かべてうんうんするところとか。

自転車の走行にクラシック音楽があんなにマッチするもんだとは思わなかった。

あとは、自転車も飛びこみ先の石切場もない子供たち、というのを考えてみたり。
ついでに、ぜんぜん接点はないかもだけど、よりダウナーなうだうだ系としてのJim Jarmuschの最初の2本について考えてみたり。

8.09.2012

[film] The Lady Eve (1941)

やっと追いついたと思ったらまた離れてしまった。 とにかく書く時間がぜんぜんないの。

29日の日曜日にシネマヴェーラで見た2本。
特集『映画史上の名作7』、この夏はもうこれ見て終るだけになってもいい、休み取れなくてもいい。
とか言いながら既に『クリスチナ女王』を逃してしまったばか…

ここでかかるようなクラシックって、ほんとに何を見てもおもしろいのだが、その面白さを、例えばそこらのガキに伝えるのって難しいよねえ。
60年前のレシピで作ったクッキーとかパイとかが、どんだけ地獄のようにおいしいか(ほんっとにおいしいんだよ)、って食べてもらうしかないのだが、食べてもらう機会がぜんぜんない、というのはなあ。 調味料、人工甘味料まみれか絶対安全無農薬カロリーフリーみたいのになじんだ子供の舌にこういうふんわりやわらかい風味がどう馴染むのかとか、わかんないけど、でも食べてみればさー。ぶつぶつ。

Preston Sturgesのどつぼにはまり系のラブコメ。
ヘビを研究しているビール会社の社長のぼんぼんがアマゾンに探検に行った帰りに乗った豪華客船で詐欺師父娘に会って、娘(Barbara Stanwyck)のほうにメロメロ骨抜きにされるのだが、船を降りる直前にその正体を知っておじゃんにするの。 でもあったまきた彼女は懲りずにこんどは英国貴族の姪"Eve"になりすまして彼に近づいて、落っことそうとする。 彼は、似てる… でもたぶんちがう… でも… と目が泳ぎまくった挙句に、結局おちる。 詐欺師の手に、じゃなくて、恋に。
で、ふたりは結婚してハネムーンに出かけるのだが、そこから先、結末のお洒落なでんぐり返りときたら、もうお手上げなの。
ほんとに、アクロバットとしかいいようのない着地っぷり、というか、ヘビの尻尾の先でぐるぐる目を回されてへろへろ、というか。
それか、洒落た落語みたいにおちる、というか。

冒頭の尻尾でマラカスを鳴らすヘビのアニメからごきげんで、終始半口あけて目が虚ろなぼんくらのHenry Fonda(ちょっとだけRufusに似てる)を始め、男はほぼ全員まぬけのブタやろうでずっこけてばかりなので、ぜんぜんかわいそうじゃないの。 それに相手はBarbara Stanwyckさん(まだわかーい)なのだから、騙されたってかまうもんか、なの。 船で最初に出会った頃、彼にぐるぐる巻きついてごろごろする彼女を見たら、あ、ヘビだ、とか思うのだが、とにかくあのねっちりと朗らかでキュートなかんじがたまんなくて、結局ヘビに食べられたところでなにが悪いのか、いや誰も悪くないだろ、って無責任やろうになる。

結局このふたり、滓まで搾りとられた男のほうが捨てられるんだろうなあ。
でもヘビに惚れちゃった因果だよね。


そのまま続けて、『アラゴンの要塞』 - Agustina de Aragon (1950)  を見ました。

1808年のスペイン独立戦争のとき、ナポレオンに攻め入られたスペインのおはなし。
アウグスティーヌ(Agustina Raimunda María Saragossa Domènech または Agustina de Aragón)ていうおねえさん(顔はおばさんぽい)のがんばりが中心なのだが、武勇伝とか烈女伝、というかんじではなく、みんなで耐えて耐えてがんばったスペインえらい、というつくりになっている。

戦闘シーンの敵味方ぐじゃぐじゃぐさぐさした肉弾のかんじがゴヤの絵のように(ていうか、ゴヤのがオリジナルね)悲惨ですばらしく、実際は相当ひどかったんだろうなー、とおもった。
個々の戦いを個別に間近から迫るというよりは、中〜遠距離からくんずほぐれつの様を棒立ちで追っかけるかんじ。 関わりたくない。

城塞の外は敵ばっかし、中ではペスト蔓延、でも、どうせ負けるかもだし、負けたら死ぬだけだから死ぬまでやるべ、という百姓のみなさんの鬼のような開き直りが神風とか大魔神を呼ぶ... ことはもちろんないし、彼女もものすごい活躍をする、というよりは裏切り者の婚約者に背を向けて、死ぬときはみんな一緒です、みたいな地味なふんばりを続けていくばかりで、それがみんなの希望の星になる ... なんて清らかなとこもなくて、どちらかというと(映画の展開としては)ぐだぐだずるずるなのだが、それでもすごく見応えあって、おもしろかったの。

あと、劣化したフィルムの暗くてぼろぼろなとこが戦いの辛くてきな臭いかんじとうまく同調しているようなとこもよかった。