昨年、NFCで開催されたポルトガル映画祭2010は、海の向こうにいて参加できなかった。
先週の土曜日、最終上映、ということでアテネでやっていることに突然気がついて、その最終日にManoel de Oliveiraの2本をかろうじて。
Aniki Bóbó (1942)
海辺の街の子供達のおはなし。
「アニキ・ボボ」っていうのは子供達の遊び歌で「アニキ・ベベ ~ アニキ・ボボ ~ 警官 ~ 泥棒 ~♪」とかいうの。
ちょっとまぬけで内気で一途な男の子がいて、かわいい女の子がいて、かわいい女の子は悪ガキが囲ってて、ことあるごとに男の子は悪ガキとぶつかる。男の子は女の子を気をひくために雑貨屋から人形を盗んでプレゼントしたりして、さらに衝突が激しくなって、男の子は孤立しちゃって。
子供達ひとりひとりをちゃんと描けていて、雑貨屋の主人とか警官のような「大人」もちゃんと描けていて、カメラは港町の路地を自在に動きまわりながら、子供達の間に起こったちょっとした、でも大事件の顛末をきちんと纏めあげている。
子供映画、というよか普通の映画としても見事な詩情に溢れているの。
それにしても、夜中の3時に人形をプレゼントするために屋根を伝って彼女のところに向かう男の子のとこなんて、しみじみ感動する。
どこまでロマンチストなのあんた、と思うし、このエモとかイマジネーションのレベルときたらつい最近の”The Strange Case of Angelica" (2010)までまっすぐぶち抜かれているようでした。
Acto de Primavera (1963) 「春の劇」
ポルトガルのどこかの田舎の村の村祭りで、キリストの受難劇が上演される。
上演される劇そのものと、劇の準備をする村人、祭りを訪れた人々、等を境目なしに繋いでいって、でもドキュメンタリーではないの。 村人が語るアメリカの宇宙計画なども参照しつつ、63年、という年、田舎の村の生活を映像に収める、というのはどういうことか、をまず明らかにしようとしている。
途中からは、キリストの受難劇にフォーカスして、そのドラマを衣装や光も含めて精緻に練り上げている。詠みあげるような台詞まわしやそのタイミングで劇であることはわかるが、それがドラマのテンションを削ぐようなことはなく、悲劇のコアがだんだんにあぶりだされていく。
んで、最後にはもちろん復活、のシーンとなるわけだが。
ここに挿入されるのは原爆の雲、戦争の悲惨、等のニュース映像なの。
これが冒頭の村のシーンと繋がって、見るひとは、キリストの受難〜「復活」によって開かれた地獄の門を(なぜ開かれてしまったのが地獄の門だったのかも含め)、その余震と余波のなかに生きている現代を、都市であろうが田舎であろうが - をはっきりと意識することになる。
現代においてドラマを撮る、ということはそういうことなのだ、そういうことでしかありえないのだ、という決意表明でもあるの。
そこを経由しているが故の、例えば2月にみた”Doomed Love” (1978)のとてつもない濃さなのだなあ、と。
彼のフィルモグラフィーを全部追っかける、というのは立派なライフワークになりうるねえ、と思ったのだった。 彼の半分も生きることはできないだろうが。
8.20.2011
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