10.26.2010

[film] Hereafter (2010)

日曜日は、結構、じゅうぶんへろへろだったので映画1本だけにした。

Clint Eastwoodの新作、NYFFのClosing作品でもあった"Hereafter"。

(ネタばれになっている部分がある気がするのでそういうのが嫌なひとは読まないでね)
 
Eastwoodのこれまでの作品において、「死」は常に不可視の、しかし不可避の壁のようなものとしてあったと思う。 であるが故に、彼の映画の登場人物は、死を当然のものとして、或いは死を屁とも思わないような態度でもって毅然とした、或いは周囲を震撼させるような行動に出て、死ぬか、或いは生きるか、してきた。

死は常にぶちあたる壁として、終点として、到達点として、道しるべとしてそこにあって、主人公の行動と行方をドライブしていた。 自分の死に様を決めるのは自分だ、他人じゃない、という行動原理でもって主人公の世界はまわっていた。

でも今作にはそういうのはなくて、死後の世界というのは既にあって、ひとは死ぬとそこにいって 、その間で生者と死者の仲立ちをするサイキックがいる、と。

あーそっちに行っちゃったか、と思ったひと、コトはそんなに単純ではないのです。
Eastwoodはこの映画で、そういう世界の確かさや正しさについて、これっぽっちも言及しておらず、それは彼の過去の作品の主人公が生きたり死んだりしてきたダイナミックな「映画の」世界のありようと等価のなにか - 足場みたいなもの、でしかない。

で、そういう世界-生と死が紙一重のこちら側とむこう側、ではなくて、ゆるやかに繋がっているような世界で、登場人物達はどんな行動にでるか、というとひたすら悩んだり、後ろ向きになったり、よくわかんなくなって料理教室に通ってみたり、つまりは普段の我々とそんなに変わらない場所に -ボクシングしたり、戦争中だったり、ワールドカップに出てたりはしない- ところにいる。

そんなに冴えなくて、でもそんなもんか、しょうがないか、みたいな地点に。
例えば、Matt Damon演じるサイキックは、自分の能力をGiftではなくCurseだと言う。
でも、あらゆる特殊能力なんてそんなもんなのだし。 やれやれ。(村上春樹風)

土台/足場となる世界とそこで生きる人達の伏目がちの目線、このふたつの違いがこの作品を彼の過去の作品とは随分違うもの-印象としては軽い(ひとによっては弱い、というかもしれない)ものにしている。
この軽さは"Gran Torino"のあたりから用意されたもののような気もするが、もうちょっと見てみないとわからないかも。

映画では3つの世界が並行して描かれていて、ひとつはMatt Damonの住むサンフランシスコ、もうひとつはアジアで津波にあって臨死体験をしたジャーナリストの住むパリ、もうひとつは双子の兄を事故で失った少年が住むロンドン。

地理的に遠く隔たった場所に住む、しかしなんらかのかたちですぐそこにある死に接していたり晒されていたりする3人が物語の展開と共にどう交錯していくのか、は観てもらうしかないのであるが、なんか、キェシロフスキの映画みたいなかんじもした。 ヨーロッパの映画にありそうな無意味にマクロなふろしき。

これをつまんないと言うひとは、たぶんこの辺の構造の弱さとか先に書いた登場人物たちの動きのぬるさを指摘する、のかもしれない。 でもねえ、そんなのはー。

終盤のほうの、少年とMatt Damonの切り返しのところはほんとに泣けて、この場面だけでじゅうぶん。
余計なものをすべて削ぎ落とし、しかし会話運びも、目線も、ピアノの響きまでもが見事に同期して調和した素晴らしい瞬間が、ここにはあります。

Matt Damonの、戸惑ってばかり、下を向いてばかりだった演技がここから終盤にかけて見事な輝きを見せる。 こんなによい俳優さんだったか、というくらい地味にすてき。

あとさー、大島弓子の世界だよねえ、これ。
荒唐無稽なのに予定調和なとことか、想いが勝手に暴走してカオスを呼ぶとことか、あとは主人公達の線描できそうなシンプルでマンガな顔立ちとかも含めて。


頼むから、お願いだから変な邦題は付けないでほしい。(「幸」の字をつけたりしたらぶんなぐってやる)

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