4.03.2026

[log] Paris - Mar 20 2026

3月20日から21日の間、パリに行ったのでその簡単な備忘を。

パリはとても好きな場所で、今回の2年3ヶ月の滞在中に、さっき数えたら10回行っている。でもほぼ日帰り or 1泊で、そんな短い滞在だから何度も行くことになって、そんな短い滞在だからどんどん好きになってたまらなくなっているのだと思うが、こればっかりはどうしようもない。 帰国してからも雑誌Figaroのパリ特集とか買ってるし。

今回も、時期が時期(引越し荷物出し3日前)なので日帰りでいいや、だったのだが、20日からChristophe Honoré演出による”Bovary Madame”の舞台があるのを知り、チケットを探したら取れてしまったので、1泊しないわけにはいかなくなった。

朝6時くらいの電車 – Eurostarで行くのも北駅に着いてから地下鉄に潜るのも、お手のものでまるで通勤のよう。


Nan Goldin - This Will Not End Well

Grand Palaisで見ました。 その隣の展示”Matisse: 1941 –1954”は未だやっていなかった。
写真ではなく、ビデオ作品の展示で、場内にテントのような部屋が仕切ってあって、それを回っていく、のだが全部見ている時間はないので、”Stendhal Syndrome”(2024)と代表作”The Ballad of Sexual Dependency” (1981-2022)の一部くらい。”Stendhal Syndrome”はオウィディウスの『変身物語』のモティーフをルーブル美術館の所蔵品を中心に重ねつつ、スタンダール・シンドロームを引き起こすに決まっている美の根源に迫っていく。彫刻作品等を切り取る目線、光の具合が絶妙で、Nan Goldinてこんな… って。
”The Ballad of Sexual Dependency”の方はNan Goldinの王道で、夜の光とその下での体の線とか、なんであんなに切なく映えるのだろうか、と。


Visages d'artistes - De Gustave Courbet à Annette Messager

隣のPetit Palaisで見ました。クールベから現代のアネット・メサジェまで、アーティストの顔、貌は、その捉え方はどんなふうに変わっていったのか、を追っていく企画展示。アトリエでの、社交場での、プライベートでの、女性であることによる… など狭いようで十分に広いテーマなので、ちょっと散漫になっていたかも。モダン以降に絞った方がおもしろくなったのではないか、など。


Maison Gainsbourg

パリ行きを企画するたびに、後になって思いだしたり、Sold Outで入れなかったりで宿題になっていた館へ。

Serge Gainsbourgが1969年から亡くなるまで暮らした家と通りの向かいのミュージアム。まずミュージアムの入り口でヘッドセットを貰ってから家の方に向かい、約30分、Charlotteの声に導かれて彼の暮らした痕跡を見て、その後でミュージアムに移動して、彼の業績を辿って、最後にバーがあって、ブティックがあって。

彼とCharlotteが子供の頃に暮らしたお家の中は、黒め暗めのインテリアやいろんな散らかりようも含めてそうなんだろうなー、としか言いようのないモノたちで溢れていて、Gainsbourgだなあ、しかない。住んでいた頃はタバコですごい匂いだったりしたのかしら。

Serge Gainsbourgを聴いていたのは大学生の頃で、来日公演にも行ったし最初にCDボックスセットを買ったのも彼のだったし、そこからなんとなく離れてしまったのはなんでだろうか、などを振り返りつつ考えてしまった。


Clair-obscur

Bourse de Commerceで見ました。ここが持っているPinault Collectionの中から、“Clair-obscur” - 明暗対比というテーマで、光と闇の、その対置とか境目とか変化のありようを捕まえようとしたアーティストたちとその作品群を集めている。

レンブラントやカラヴァッジョが用いた描写の技法としてのchiaroscuro、というよりも、光と闇の成り立ちそのものを見つめるというか、会場にはジョルジョ・アガンベンの『現代/同時代性とは何か』 - “What is the Contemporary?” (2009) からの引用 – 「現代/同時代人とは、自らの時代を見つめる際に、光ではなく影に目を向ける者のことである 云々」が貼られていて、Frank Bowling, Alberto Giacometti, Pierre Huyghe, Bill Viola, Bruce Nauman, Carol Rama, Wolfgang Tillmansなど、懐かしいのも含めて、でもテーマそのものはやや古いような新しいようなー。


Fondation Cartier pour l'art contemporain

移転したカルティエ財団の現代アートのデパート。移転後に初めて行った。こんなのでっかいがらくたまみれなのがルーブルの向かいにある、ってだけでなんか痛快かも。

17:00からパフォーマンスがある、ということで、混んでて座れなくて上からだけど、説明がフランス語なのでさっぱりだったけど、なんとなく見た。

Le Musée Vivant de la Mode, performance quotidienne par Olivier Saillard & invites 

Olivier Saillard本人(たぶん)がマイクをもって解説しながら(←仏語でもちろんわからないので以下憶測→)ミュージアムで展示される服と身につけられて機能する服の違いについて、モデルたちの実演を交えながら、服を着る、羽織る、纏うなど、そこにおける服や布、その形、それを身に着ける際の動作、などについて微分で見ていく。動きも服もシンプルなものばかりだが、こういうのと切り離されたところで発展(少なくとも経済的な)を遂げてきたモードとかクチュールのありようについて。 これ、西洋だとまだ連続性があったり見えたりでおもしろいかもだけど、東洋のもんぺとか割烹着みたいなものから追ってみたら(or 追えない)おもしろくなるのではないか、とか。


[theatre] Bovary Madame

20日の20:00からThéâtre de la Villeで見ました。
フランス語の劇だし、英語字幕なんてつくとは思えないのだが、なんたって「ボヴァリー夫人」だし、演出はChristophe Honoréなので、なんとかなるのではないか(←まったく根拠不明)、と。詳細は追えなかったので、以下、簡単な感想だけ。

ステージはすり鉢状の客席(バルコニーなし)から見下ろす形で、初日だったせいか取れたのは一番後ろの天辺に近いところだった。 上演は2時間半で休憩なし – この長さで休憩なしは珍しい。映画だと思えばよいのか。

原作はGustave Flaubertの”Madame Bovary” (1857)、プログラム冊子はなく”Bovary Madame”のタイトルでChristophe Honoréが作者名となっているスクリプトは売っていたので、翻案もHonoréなのだろう。Emma役は、François Ozon作品によく出ているLudivine Sagnier。

中央には丸い砂場があって、左側には段になった客席のようなのがあり、右側の奥にはピアノがあり、主人公達の内面を掘り下げていく心理劇というよりは玉突きアンサンブルで、常にわいわい人がいて、プロジェクションも使ってサーカスやバーレスクの要素もあって、音楽は村人たちによる楽団の演奏もあればダンサブルなJustin Timberlake もある。 Honoréの映画にもあるミュージカルの要素や指向 - 突然歌いださないわけにはいかない - はストレートに、よいかたちで出ている。

そんななか、EmmaもCharles Bovaryもエキセントリックな加害者だったり被害者だったりで突出して対峙する、ようなことはなく、Emmaは極めてまっとうに自由を希求するひとりの女性としてまっすぐこちらを向いていて、たぶん死なないの。


ここでいったん切ります。

4.02.2026

[theatre] Summerfolk

3月16日、月曜日の晩、National TheatreのOlivier Theatreで見ました。

滞在最後の月となった3月は、演劇を14本見ていた。旅をしているか演劇を見ているか、だった気がする(仕事は..?)

すぐそこで人が動いて交錯して会話をして泣いたり笑ったり抱きあったり殺したり、設定はどうあれ何かが生起している、それで空気が動いてこちらに靡いて場合によっては感動してしまったりする。それはNational Theatre Liveでも映画でも確認できるものるのかもしれないが、いまそこにあって巻き戻しのきかない何かに囚われてしまう、という感覚。(20年前はたしか音楽のライブについて同じようなことを)

原作はMaxim Gorkyの同名戯曲(1904)で、初演も同年。 これをNina RaineとMoses Raineの兄妹(彼らってパステルナークの大姪甥なんだって)が翻案し、演出はRobert Hastie。約3時間で休憩一回。

1898年、まだ駆け出しだったゴーリキーはチェーホフにファンレターを送って、チェーホフは彼に戯曲を書くように勧めて、ゴーリキーは『桜の園』へのオマージュとしてこれを書いた、と。チェーホフが亡くなった1904年を舞台に、チェーホフの世界の住人としか思えないようなひとくせふたくせもある「田舎」のひとたちが動きまわっていく、ある季節。

Olivier Thatreの広いステージを目一杯に使って、大きな柱が巨木のように立っていて、奥のほうには暗い森が広がっている大きな別荘のような邸宅(の骨組)があって、客席からはその全容を見渡せるかんじ。この周りを森の地元民のような銃を抱えた不穏な連中が通り過ぎたり、使用人たちがいたり、そこに泊まりにきた貴族たちとその友人たちが賑やかに、というアンサンブルドラマで、とても全員の顔と名前は憶えていけないが、衣装(かわいくて素敵)と言葉の粗さやトーンで、誰がどんなふうとかエピソードの推移はわかって、その区分けの内側とか複数のつなぎ目でいろんなことが起こったり語られたりしていく。

休憩を挟んだ後半は、小川(本当に水が張ってある)が流れる気持ちよさそうな夏の風景 - まるでマネの『草上の昼食』の景色のなか、貴族たちは変わらずご機嫌で飲んで騒いで叶わぬことがわかっている愛を囁いたり嘆いたり、『真夏の夜の夢』が上演されたり、チェーホフの『かもめ』や『桜の園』のように、消えてしまう、失われるであろうことがわかっている何かを、繋ぎとめることなんてできるわけないので、ひたすら儚いそれらの周りでじたばたしてとほほ、ってなるばかり。当時の紛争やきな臭い話題や雰囲気も漂ってくるが、そういうのは見たくないし、見ない。そんなことより、詩を! 愛を! と訴える。

このような緩い態度が最後に悲劇を… にはならないものの、そういう雰囲気を散らしながら、彼らの夏は、Summerfolkはどこかに去っていって、今がよければそれでいいのか、これが最後の夏になってしまうのではないか。なんてことも誰も気にしない。

未来なんて誰も予測できないのだからきな臭いのからは離れて目を逸らして、今を楽しんじゃってよいのだ、は前世紀末にそういう時期があったからわかるし、今もあれとは違うトーン(戦前)で、正にそんなふうになっているのだと思うが、彼らをそういう態度に向かわせるものはなんなのか、を考えさせる - そこに向かわせるようなセットや衣装やアンサンブルのデザインがすばらしい。彼らの過ぎていった夏が、こんがらがったままいつまでも残る。

みんなどこに行っちゃったんだろうね?

4.01.2026

[film] Project Hail Mary (2026)

もう日本に戻って、仕事も始まっているのだが、しばらくの間は籠の鳥で、体力的にも動きようがないしあらゆるやるきが失せている。しばらくは向こうで見たものでまだ書いていないのがいっぱいあるので、それらを書きながらじめじめめそめそしていきたい。

3月19日、金曜日の夕方、BFI IMAXで見ました。
公開初日ということで早めにこの日のチケットを取っていたのだが、実際には1週間くらい前からどこでもプレビューをやっていて、なんだよそれ?になった。

IMAX 70mmによる上映で、北米以外のヨーロッパで見られるのはここだけ、と。 本編開始前に監督Phil LordとChris Millerによる短い挨拶が流れて、IMAXの70mmってほんとにすごいんだよう、って映画の内容にはほぼ触れずに中学生みたいにふたりで盛りあがるので、少しだけ不安になった。

原作はAndy Weirによる同名SF小説(2021)、脚色はDrew Goddard。音楽はDaniel Pemberton。原作は日本の家に置いてあることは知っていて、けど読んでいない。この作品についてはまず原作から読むべし、みたいなのがあるらしいのだが、そうだったのかどうかは自信がない。

Grace (Ryan Gosling)が宇宙船のなかで目覚めると、他の乗組員は死んでいて、自分も髪と髭ぼうぼうで、でも自分がなんでそこでそんなことをしているのかさっぱり憶えていなくて混乱して死にそうになる。彼が宇宙船のなかを彷徨いながら、自分がなんでこんなことになっているのか、徐々に浮かんでくる過去の断片を繋いでこのミッションのおおもとを探っていくのと、それと並行して航行中に出会ったエイリアンとの交流と、彼とそいつと地球はどうなっちゃうのか、などを行ったり来たりしつつ追っていく。

いろんなテーマがありそうで、人によっていろんな捉え方ができると思うが、同じ原作者で、Matt Damon主演で映画化された”The Martian”と同じように宇宙をたったひとりでサバイヴしていくドラマ、と見た。

どう見ても他から勝手に不条理に押しつけられた運命を受け容れて、できることをがんばって、それをやりとげる - それをどん底からの復活とか危機一髪の大逆転とか、歯をくいしばる仰々しいドラマにしないで淡く柔らかい笑顔でたまに泣いたり空を仰いだりしつつも、どうにか最悪を回避してしまう男がいて、それがRyan Gosling、というのがよくて、ほぼそれだけなのかも。岩蜘蛛みたいなエイリアンは何考えているのかわからないし、「プロジェクトいちかばちか」のプロジェクトを率いるEva (Sandra Hüller)もほぼ感情を表にださないし、そんなノンエモの砂漠でとにかくがんばる男の話。

SF(映画)としてどうなのかはよくわかんなくて、主人公がああいうことになった経緯とか解決に至る道筋に科学的な、SF-空想科学っぽい理屈がまぶしてあれば、だったのだがそれらしいのはなくて、どっちみち死ぬんだからって、特攻隊のように昏睡状態のまま宇宙船に乗せられるし、理屈なんて別になくてもよくて、エイリアンとの意思疎通もすごくいい加減で、すべてはそういうものなのだ/どうにかなっちゃったのだ、で進んで、そこに彼の笑顔が見事にはまって調和して、みんな幸せになるので、それでよいのかも、とか。

音楽は全体にしんみり湿った70年代のようで、たまたま映りこんでしまったかのようなSandra Hüllerがカラオケで歌う”Sign of the Times”になんだかじーんとなった。