11.12.2018

[film] Play It As It Lays (1972)

Barbicanで3日の土曜日、丸一日開催されたNew Suns: A Feminist Literary Festival、ていうイベントで見ました。

“New Suns”っていうのはOctavia Butlerの”There is nothing new under the sun, but there are new suns”から来ていて、この日Barbicanの施設内では映画上映、講演、ワークショップ、ブックフェア、等々が開かれていた。映画はこれの他に、アーシュラ・K・ル=グウィンのドキュメンタリー - ”Worlds of Ursula K Le Guin” (2018)もあったのだが、これは売り切れてて、見れたのはこの1本だけ。

原作はJoan Didionの同名小説(未読)、脚本はJoan Didionと夫のJohn Gregory Dunne、監督は(JoanはSam Peckinpahに監督してほしかったようだが)Frank Perry、プロデュースは監督と義兄のDominick Dunne – この製作陣は前の年に作られた”The Panic in Needle Park” (1971)とほぼ同じ。 日本での公開はされていない模様。 あったり前の35mm上映。

LAに暮らすMaria (Tuesday Weld)が、どこかの療養所と思われる施設のきれいな庭園の通路を往ったり来たりしながらぶつぶつと過去を回想していく内容で、ネヴァダからモデルとして出て、女優になってお色気アクションみたいなTVシリーズをやっていたものの、プロデューサーのCarter Lang (Adam Roarke)との間は結婚生活も含めて破綻していて、娘のKateも障害を抱えて施設に入っていて、いろいろ面倒みて話しを聞いてくれる友人のB.Z. (Anthony Perkins)はゲイで、彼女がまっ黄色のシボレーで道路をブッ飛ばしても何しても結局捕まったりでろくなことがなくて、とにかく全体として不幸でどうしようもなくて、だから施設にいるのだと思うのだが、で、だからどうしろと?  って、彼女はこちらに問いかけてくる。

まず思い浮かべたのはJohn Cassavetesの”A Woman Under the Influence” (1974)  -『こわれゆく女』- で、あれもそうだったけど、彼女たちからすれば混沌としたメンズの荒野を極めてロジカルに、誰にも頼らず頼まず前に行こうとしているだけの話しで、Cassavetesよりは散文的で緩いものの、力強いことは確かで、かっこいいの。 ただ、”A Woman Under the Influence”にあんな邦題を付けてしまうようなメンタリティも含めて、これを受け取る男共のしょうもない反応(and 無反応)のどん詰まりはじゅうぶんに予測できて、最後にB.Z.が服毒自殺してしまうのもそういうのがあったからではないだろうか、とか。

そしてもういっこ思い浮かべたのは、見たばかりだったこれ。

The Other Side of the Wind (2018)

3日、土曜日の昼にCurzonのBloomsburyで見ました。こちらではNetflixだけでなく1週間くらい劇場でも上映されていた。

Orson Welles については9月の頭に同じ場所でドキュメンタリー”The Eyes of Orson Welles” (2018)を見ていて、それはWellesの三女がNYのチェルシーのどこかの倉庫に眠っていた彼の遺品が入った箱を開けてみて、そこから出てきたメモやドローイングを元にWellesが映画を通してやろうとしていたことをShakespeareやKafkaへの言及も含めて追っていく、というもので、どちらかというとドキュメンタリーを作成した監督のWellesへの思いに溢れかえったやつだったのだが、なんにせよ、まだWellesは生きているのだ、のかんじはとってもした。
(チェルシーにWellesの資料が保存されている件については、昔どこかで聞いたことがあって、それがどこだったか思い出せない)

“The Other Side of the Wind” - 70歳を迎える著名な映画監督Jake Hannaford (John Huston)の未完の、ところどころ欠落して(いつまで経っても終わらない)作品を巡って周辺のいろんな関係者が、よりによって監督のお誕生日に合わせてわーわー言うのと、その映画にも登場するミューズ - Oja Kodar – が映画の中からなのか外からなのかいろんな妖気を送ってくるのと。

こまこま筋やロジックを追うのがばかばかしくなるくらい多彩なイメージが次から次にやってきて時系列を無視した支離滅裂な追っかけっこを繰り広げる。 これらがほんとにWellesの晩年の頭のなかにあったのだとしたら、先の”The Eyes of Orson Welles”で出てきた映画の魂を求めて彷徨う求道的なのとはよい意味で違う、映画についての映画なのでおもしろいのと、どっちにしてもすごいのはWellesのことなんて殆ど知らない、今回の復元の意味やありがたみをちっともわからない連中にもなんだこれ.. って見入らせてしまうとらえどころのなさ、だと思った。

印象としては70年代のAltmanの群像劇の、どこまでも即物的に行こうとするところをふわふわ骨折脱臼させてわけわかんなくしたような、そんなかんじで、あそこで無言のミステリアスな位置に置かれていたOja Kodarに言葉と行動を与えてリアルワールドに解き放ったのが”Play It As It Lays”のMariaなのかも。

どうしてあれもこれも70年代のアメリカだったのか。”The Last Movie” (1971)で映画が終わった辺りから始まっている気がするあれこれ、風の向こう側にあるのはなにで、こちら側にあるのはなんなのか、それらをそう置いているのはなんなのか、等については引き続き考えていきたい。

New Sunsの会場ではフェミニズム関連のブックフェアもやっていて、PenguinからLondon Review of Booksからぜんぜん知らないマイナーなZineみたいのまで10店くらい出店していた。
古本を売ってたコーナーでMuriel SparkとDerek Stanfordの選/編によるMary Shellyの書簡集 - “My Best Mary”を買った。いつになったら読めるのやら。

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