9.05.2018

[film] In the Cut (2003)

8月22日水曜日の晩、BFIで見ました。 邦題はそのまま、だって。

上映前にBFIのプログラマーのAnna Bogutskayaさん – ホラー(+Feminism)映画上映集団 - The Final Girlsのひとだった - のイントロがあった。

いろんな意味で”misplaced”な映画で、それまでRom-comの女王だったMeg Ryanにこれまでと全く異なる暗い役を与え(本当はNicole Kidmanがやる予定だったが降りて、でもProducerとして参加している)、監督のJane Campionにとってもサスペンスに近いところは初めてだったし、90年代に流行った猟奇系ホラーサスペンス – “The Silence of the Lambs” (1991)とか”Se7en” (1995) -  から見ても中途半端だし、それでも十分見る価値のある映画だと思う、と。 うん、とてもいい映画だった。たまに覗いてみるAllcinemaに付いてる男共のクズみたいなコメントにはうんざりさせられるけど、映画はすばらしかったと思う。ミステリーとしてはどうってことないのだが、そのmisplaceで座りのよくないところも含めて。

 NYのダウンタウンの方でどんより暮らしている英語教師のFrannie (Meg Ryan)と姉のPauline (Jennifer Jason Leigh)がいて、ある日Frannieが生徒と一緒にプールバーに行ったら、そこのトイレで男女がオーラルセックスしていてその光景が目に焼きついてしまうのだが、そこにいた女性がばらばらにされて殺されたと刑事のMalloy (Mark Ruffalo)とRodriguez (Nick Damici)が現れ、あの日、Frannieが被害者と同じバーにいたことはわかっているなにか心当たりはないか、と詰め寄ってくる。そのうちずるずるMalloyと寝てしまい、彼とはなんとなく付きあっていくことになるのだが、バーでのあの光景で見た気がする小さなタトゥーから実は彼が犯人なのではないか、という疑念がFrannieからは消えず、やがて第2、第3のバラバラが見つかって… 

これの他にFrannieの両親のこと、彼女に付きまとってくる得体の知れない元彼Kevin Baconとか、彼女の荒んだ生活に荒れた部屋、あたしゃ疲れたもうどうでもいい、なかんじが漂ってきて、バラバラにされたのは自分だったかもしれない/次は自分かもしれない、の予感がそれを加速する。 Rom-comとは真逆の後ろ向きベクトルに漲っていて、Jane Campionは”The Piano” (1993)や” The Portrait of a Lady” (1996)のように女性のマゾヒズム - フィジカルなではなくエモーショナルなマゾヒズムを追及したのだとインタビューで語っているが、そういう点では確かに。

というのと、もう一点特筆すべきは、そういう女性がうろうろする危うい闇に満ちた都市 - ストリップ小屋の上にPaulineの部屋があったり - としてのNYの描写で、これより少し前、ほぼ同時期にTVから現れた”Sex and The City”で描かれた饒舌でゴージャスなA面とは違って、これはこれで十分ありなB面のかんじ。少なくとも西海岸にはない暗さがあって。

もういっこ、Frannieが学校で教えるVirginia Woolfの“To the Lighthouse” - 「灯台へ」がじんわりと効いていて、セクシャルな意味も含めていろんな灯台がでてくる灯台映画でもあるの。

あと、地下鉄に貼ってある”Poetry in Motion”、なつかしいな。車内であれを見るとつい追って考えたりタイトルをメモしたりしてた。 日本の詩(和歌)もあったあった。

音楽は“Que Sera Sera (Whatever Will Be Well Be)”とか”Just My Imagination (Running Away With Me)”とか”The Look of Love” (Dusty Springfield)とか、クールでゆったりめのスタンダードが気だるさとかさぶたに柔らかく触れてきて気持ちよい。

あと、まだぎらぎらして得体の知れないかんじのMark Ruffaloも、いかにもあの辺にいそうな。

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