4.11.2017

[film] The Salesman (2016)

3日の月曜日の晩、BloomsburyのCurzonで見ました。 そろそろ終わっちゃいそうだったし。

劇団をやっているRana (Taraneh Alidoosti)とEmad (Shahab Hosseini) の夫婦のアパートが隣の土地の工事のせいでヒビが入ってがたがたになってしまったので急遽テンポラリのアパートを同じ劇団のひとに紹介して貰って慌しく引っ越してみると、前の住人(女性)が一部屋ぶんに自分の荷物を残したまま去っていて、その量もいっぱいあるし、ちょっと気持ちわるいのだがそのままにして暮らしはじめる。

そうしたらEmadの出かけた隙に少しだけ開いていた扉から誰かが侵入してシャワーを浴びていたRanaを暴行する。Ranaは頭に怪我をして、その傷がいろんなところ - ふたりの関係、劇団での仕事、Emadがやっている教師の仕事、などなど - に亀裂を生んで広げていく。 この状態をなんとかすべくEmadは残されていた車のキーとかを手掛かりに犯人を捜し始めて。

ドラマの中心は犯人捜しでも犯人に対する復讐でも或はこういうことが起こってしまうことに対する考察でもなく、事件によってぱっくり開いてしまった夫婦間の溝とその目線(互いの顔に対する、そして溝に対する)の交錯をじりじり追っかけるところにあって、更にその舞台はアパート - 階段、階段の踊り場、いろんな扉、窓、クローゼット、屋上 - 事件が起こったアパートとその後で引っ越そうとしているアパートの両方 - どちらも仮住まい - で起こる。 もうひとつの仮想の、バックグラウンドの舞台としてあるのが、彼らの劇団が上演しているアーサー・ミラーの「セールスマンの死」の劇世界で、これも演劇の完成とか演出がどう、という話ではなく、戯曲のテーマであるがんばって働きながらも砂に埋もれていく、幽霊のように生きざるを得ない生の話があって、それが終盤での犯人との過酷なやりとりに繋がっていく。 アパートの空間も演劇セットの空間も、彼らが本当に落ち着いて安心して住んで生きることができる場所ではない、ということが露わになって両者は重なっていって、そのうえで、じゃあどうするのか、になって、とにかくきつい。

そんなの見たくないわ、というきつさではなくて、それらが具体的なアパートの扉とか階段とかお茶の間とか、毎日目にする/しているところで、風で扉が開いてしまうように、いとも簡単に起こってしまう、その恐ろしさなの。 犯人を追って路地裏とかやばい建物の奥に押し入っていって見えてくるのではなく、それはふつうに、日々を過ごすアパートの中で、その横で隣で、いとも簡単に起こる・起こっている - そのおっかないこと、はらはらすること。 それだけじゃなくて、そこから更にそういう世界に生きる・生きざるを得ないことの意味や関係の重み、のようなところにまで踏みこんで、問いを投げてくるの。 これはイランのお話なんかではなくて間違いなく我々の話でもあって、ずっと緊張の嵐のなか椅子に縛りつけられているしかなかった。 

(これと同じようなことを「愛」の名のもと、すっとぼけたトーンでやっているのがホン・サンスだとおもう)

それにしてもこれを、トランプ政権(&アカデミー)への抗議として野外で無料上映(しかも一般公開前に)してしまうロンドン市長、えらいと思う。

いまの日本だとこういうのはきちんと鍵をかけなかったのが悪い、越してくる前に過去の住人を確認しなかったのが悪い、みたいにされてしまうのだろう。これはこれで絶望的にひどい。(どれくらいひどいか説明しないとわからない人が多い、というのがじゅうぶん絶望的)

アパートがほぼ決まった後で見てよかった。 また決められなくなるところだった。

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