4.12.2017

[film] Donna Haraway: Story Telling for Earthly Survival (2016)

5日の水曜日の夕方、Tate Modernで見ました。ここには映画を上映できるシアターがいっこあって、そこに行くのは初めて。

Tateでの上映は5日と6日の2回のみ、5日にはDonna Haraway本人が登場してQ&Aをするということで、どうせなら5日に見たい、のだったがずっとSold Out印がついてて、しかもこいつは相当しぶとそうだぜ、だったのだが、とりあえず行って、キャンセル待ちに並んで、だめだったら帰ろ、くらいで出かけてみた。

キャンセル待ちの列は割と前のほうだったが難しそうで、開始時間ずれこんでようやく入ることができた。よかった。
会場は圧倒的に女性が多くて、みなさんすごくかっこよくて、五分刈り頭の闘士(サイボーグ!)みたいなひととかいっぱい。

Donna Harawayさんは、『猿と女とサイボーグ』(1991)を書いたひとで、「サイボーグ・フェミニズム」のひとで、いまの自分の4倍くらいは頭がきれたと推察される(...かわいそうに)20年くらい前の自分に決定的な影響を与えた本であり思想であり、自分のフェミニズムやジェンダーに関する理解はほぼここで固定されていて、それはそれでしょうもないのかもしれないし(...かわいそうに)、具体的にだからどうなった、ということを説明できるほど内容をきちんと憶えているわけでもないのだが(...かわいそうに)、この人がどんななのかを見ておきたい、というのは昔から強く思っていた。

映画はベルギーのFabrizio Terranovaさんが撮ったドキュメンタリーで、Donna Harawayさんが自宅とかモントレーベイ水族館とかグリーンバックでいろいろ合成した背景を背に、生い立ちを含めてとりとめなくいろんなことを話していく、それだけ。
メインはタイトルにあるようにストーリーテリングという行為の重要性・可能性を彼女自身の豊かな語り(ほんとにわかりやすく、人を惹きこむような話し方をするの)とか、オーストラリアン・シェパードのCayenne Pepper(かわいー)との主従を超えた関係とか、軟体多触手のたこくらげとか、変な歌(突然Gipsy Kingsが聞こえたり、童歌みたいのとか)とのコラージュで、それ自体が生物界をめぐるグランドストーリーとして機能するように、おもしろおかしくわかりやすく伝えようとする(たぶん一回見ただけじゃわからないのでもう一回みたい)。 かんじとしては Isabella Rosselliniの”Green Porno" (2008)を思い起こさせたりもした。

これこそがポストジェンダー社会の生きものとして自身をサイボーグに再組織化した彼女たちが次にやるべきことなのだと。 もちろん、そこで語られるべき「ストーリー」とはどんなものなのか、それは誰に対して、どんなふうに語られるべきなのか、などいろいろ出てくるけど、それはそこに至るまでの彼女の思索の道を追え、ということなのだろう。 従来の科学観、科学史観を批判的包括的に組み直そうとしたあの試みを。

アイルランド系のカトリックの家庭に生まれ、スポーツ・ライターを父に持ち(ストーリーテリングの名手だったと)、リベラル系の学校に通ってしまうとこんなふうになる、とQ&Aでも自身を説明していたが、であるにしても、われわれのサイボーグへの道は遠い。

誰もが嬉々としてウソのニュースや物語を語って散らして認知して貰いたがる時代、それらに飽食している時代に彼女のストーリーがどういうふうに機能して効くのか、あるいはRoxane Gay("Bad Feminist"読んでないや) は知っているけどDonna Harawayなんて知らないという世代にどんなふうに効くのかわかんないし、先はぜんぜん見えないのかもしれないけど、でもこの映画のようなかたちで積みあがったり継がれたりしていくものはある、ていうのはよいことだと思った。
もう大学では教えていないと言っていたが、もったいないくらいにぱきぱきおもしろく話をするアメリカのひとだった。

『猿と女とサイボーグ』の復刊(絶版にしないでよこんなの)にあわせて日本でも上映してほしいな。

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